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2024.10.20

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所見学 その2~「アウシュヴィッツ第一強制収容所」を見学する

映画『シンドラーのリスト』の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m 急に寒くなりましたね。私の住んでいる地域では、この週末は風が強かったです。さて、明日はおよそ三カ月振りに一日だけ出勤します。(苦笑)しばらくテレワーク続きでずいぶんリラックスし過ぎていたので、慌てて白髪染めに精を出してみたり、オフィスカジュアルの服を引っ張り出して準備したりしています。出勤する日は、ガンモがお弁当を作ってくれるので、それも楽しみです。それでは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所見学 その1~現地ツアーに参加し、「アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ」を訪問する。の続きをお届けしたいと思います。

 「アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ」を訪問したあと、私たちは再びバスに乗り込み、「アウシュヴィッツ第一強制収容所」へと向かった。ここは、最初にバスを降りて、ツアーガイドとはぐれてしまった場所である。私たちの優待入場券は16時15分から入場可能となっていたが、地元の博物館や「アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ」の見学を終えた頃には、既に17時頃になっていた。すなわち、ついに私たちも入場できるということだ。

 入口では手荷物検査が行われた。空港の手荷物チェックのように、パスポートを提示してから、トレーに手荷物を入れて検査してもらう。持ち込み可能な手荷物は、サイズが厳密に決まっているわけではなく、スーツケースや特別大きなリュックサックでない限り、持ち込み可能となっているようだ。ただし、鋭利なものは持ち込むことができない。たまたま私たちの前に入場しようとした人が、小さなアーミーナイフを持っていたため、持ち込みできないと注意を受けていた。

 中に入ってみると、屋外の敷地内に続いて行く長い通路があった。そこでは、アウシュヴィッツ強制収容所で命を落としたユダヤ人の方たちの名前がゆっくりと読み上げられていた。

 敷地内は、やはり「アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ」のようにのどかな場所だった。ただ、それは単に立地条件がのどかであったというだけで、建物を含む全体の雰囲気はのどかなものではなかった。ユダヤ人の方たちを監視するための監視塔や、建物の前に添えられたいくつもの花束、更には、ユダヤ人の方たちが逃亡するのを防ぐために高圧電流が流されていたという鉄線なども視界に入って来た。収容されていたユダヤ人の方たちの中には、強制収容所での生活があまりにも辛すぎて、自ら鉄線に触れて命を落とす人たちもいたらしい。

 私たちは、ツアーガイドからツアーバスに戻る時間を指定されていたため、構内図を確認して訪問先を定め、効率よく回ることにした。まず最初に目にしたのは、「働けば、自由になれる」と書かれた、かの有名なアーチである。本当は、働いても自由になれるはずなどなかった。このアーチは、ここに収容されていたユダヤ人の方が作成されたそうで、ささやかな抵抗を示すために、Bの文字を逆さまにして作ったと言われている。

 そして私たちは、ユダヤ人の方たちが大量に虐殺されたというガス室へと向かった。ガス室のすぐ近くに絞首台もあった。ユダヤ人の方たちは、そこがシャワー室だと騙されてガス室に誘導されたという。しかし、上から降りて来たのは温かいお湯ではなく、毒ガスだった。

 コンクリートで覆われたガス室の中には、複数の焼却炉もあった。ガス室で亡くなられたユダヤ人の方たちの遺体を、同じくユダヤ人の方たちが焼却炉で焼いていたそうだ。言葉を失う空間だった。

 ガス室の出口付近には、「あなたがいるこの建物は、大量のユダヤ人が虐殺された場所です。ここでは静かにしてください。彼らの苦しみを思い出し、記憶に敬意を払ってください」と書かれていた。

 実は、私はガス室を見学しているとき、頭が重くなった。そんなガス室を動画に納め、動画を編集しているときも頭が重くなった。こうして記事を書いている今も、やはり頭が重い。やはり大量のユダヤ人の方たちが虐殺されたガス室には、ただならぬ負のパワーが蓄積されているのかもしれない。あるいは、私自身も毒ガスを浴びているかのような疑似体験をしているのかもしれない。

 言葉を失ったままガス室をあとにした私たちは、いくつかの展示物を見学した。まずはガス室で使われた毒ガスを入れていた大量の缶。そしてユダヤ人の方たちが使っていた大量の眼鏡。ユダヤ人の方たちが使っていた大量の義足。ユダヤ人の方たちが使っていた大量の食器。ユダヤ人の方たちが使っていた大量の靴。ユダヤ人の方たちが使っていた大量の鞄。鞄には住所と名前が書かれており、見ていて本当に胸が痛んだ。きっとそれらの鞄を持って、家族と一緒に家に帰りたかったに違いない。しかし、それは叶わなかった。他に、ユダヤ人の女性たちの長い髪も展示されていた。

 日本からはるばるポーランドまでやって来て、これまで知らなかったたくさんのことをここで知ることができた。このような悲惨な出来事があった場所を温存し、公開しているのは、ここを訪れる人たちが戦争の悲惨さを知り、同じような過ちを繰り返さないで欲しいという願いが込められているのだそうだ。それならば、ここを訪れた私たちは、ここで見たことなどを他の人たちに共有する義務があるように思える。

 Camblyのレッスンでも、ここで見て来たことをいろいろ共有してみた。やはりイギリス人の講師たちからしてみれば、私たち日本人よりも、ユダヤ人の迫害の歴史は身近なものだった。ある講師は、元夫の親せきがアウシュビッツで殺害されていると言っていた。「そう言えば、日本は戦争のときにドイツと組んでいたわよね」と言う講師もいた。私は、第二次世界大戦のとき、日本とドイツが同盟国だったことをすっかり忘れてしまっていた。確かにそうだった。講師には何も言えなかった。

 ある講師に、
「ユダヤ人の方たちは、虐殺を行ったドイツ人をもう許しているでしょうか。日本は戦争中にアメリカ軍から原爆を落とされ、長崎と広島が大きなダメージを受けました。しかし、今ではそんなアメリカを許していると思います」
と言うと、その講師は、
「先祖が迫害されて殺されたりした場合、そのことは先祖の辛い記憶として留まり、子孫にも受け継がれるの。でもね、子孫を癒してあげると、先祖も同時に癒されるのよ」
私はそれを聞いて涙が出そうになった。過去に起こった悲惨な出来事に対する、救いとなる発言だった。そう、その話をしてくれた講師こそが、私の記事の中で度々登場するスピリチュアルな講師だった。

 スピリチュアルな講師は更に続けた。
「ガザ地区の人たちが攻撃されたり、いろいろなところで戦争がまだ残っているけれど、イギリスやアメリカは戦争をしている国を支援している。それは間接的に戦争に参加していることになるので、本当は支援することに対してNoと言わなければならない」
実は私も同じことを考えていた。戦争を続けて行くために、アメリカに支援を請うゼレンスキー大統領のやり方にも疑問を感じるようになって来たのだ。ウクライナとロシアの戦争で、アメリカがウクライナをサポートしているが、ウクライナを支援することで、アメリカも間接的に戦争に加担していることになるということだ。誰かがどこかでNoと宣言して、戦争を終結させなければならないのではないだろうか。

 アウシュビッツ強制収容所の敷地内を歩いていたとき、ここで亡くなられた方たちが、80年前でなく、せめて70年前に生きていた人たちであれば、亡くならずに済んだのにと思った。その時代を生きていたばかりに、迫害の犠牲者となってしまった。Camblyのスピリチュアルな講師が言うように、亡くなられたユダヤ人の方たちの子孫が癒されることで、彼らの先祖も同時に癒されることを願ってやまない。そのためにも、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所は存在し続ける意味があるような気がしている。

※今回も、私が撮影した動画をご紹介させていただきます。よろしければご覧ください。


※このブログへのコメントは、ガンまる日記掲示板で承ります。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m ガス室をはじめ、展示されている毒ガスを入れていた缶、眼鏡、義足、食器、靴、鞄を直視するのはあまりにも辛すぎました。ユダヤ人の方たちの子孫の方たちが癒されることで、同時に先祖の方たちも癒されることを願ってやみません。

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