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2024年10月

2024.10.27

クラクフからワルシャワまで4時間の電車移動、簡易エレベータ、Airbnb滞在

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所見学 その2~「アウシュヴィッツ第一強制収容所」を見学するの記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m 朝晩は少し寒いくらいになりましたね。以前、ソーラーパネルを使って充電したバッテリを、テントの中で使う照明やスマホの充電のために活用しているという話をしました。夏の間は、ソーラーパネルの発電量も多く、すぐに充電できたのですが、最近は発電量が減っており、充電するのに時間がかかるようになってしまいました。ここのところ、何となくすっきりしない天候が続いているので、そのせいもあるかもしれません。また、太陽が照射する角度が確実に変わって来ており、日光が当たる領域が夏から変化しているようです。確実に、季節が移り変わっていることを実感するこの頃です。


 クラクフ駅前のAirbnbに二泊した私たちは、いよいよチェックアウトする朝を迎えた。Airbnbは、比較的こぢんまりした部屋だったが、必要なものがすべて揃っていて、とても快適に過ごすことができた。とりわけ、洗濯機を使って洗濯することができたので本当に助かった。クラクフは、「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」見学の拠点にするのに最適な場所でもあった。

 海外では初めてのAirbnbを利用することになったわけだが、ホストとはアプリで気軽にやりとりできるので安心だった。私たちの場合、チェックインからチェックアウトまで、ホストと顔を合わせることは一度もなかった。Airbnbは、ホテルよりも気楽に利用できる上に、価格も安いので大変魅力的である。ただ、先の記事にも記載したように、ヨーロッパで使われているドアの鍵は日本のドアの鍵とは異なるため(回す回数が多い)、部屋の開け閉めのトラブルが発生することも多く、中にはホストに泣きつく利用者もいるようだ。

 私たちはホストと接することがなかったので、Airbnbの鍵は、アプリを通じてホストから教わった暗証番号を使い、部屋の前に設置された鍵ボックスを操作して、その中に返却した。チェックインするときも、同じ暗証番号を操作して、この鍵ボックスから鍵を取り出したのだった。

 ただ、私たちが利用したAirbnbは、エレベータが故障中だったため、重いスーツケースを階段を使って運ぶ必要があった。部屋は2階だったのだが、それはヨーロッパ式の2階であり、日本で言うところの3階に相当する(ヨーロッパではグランドフロア/日本の1階に相当、1F/日本の2階に相当、2F/日本の3階に相当・・・・・・となる)。そのため、重いスーツケースを階段で運ぶのが想像以上に大変だった。

 それでも何とか重いスーツケースを運び出し、電車を利用するために、クラクフ中央駅へと向かった。これから私たちは、およそ4時間かけて、ポーランドの首都であるワルシャワまで移動するのである。

 私たちが利用するのは一等車だったのだが、電車の到着を待っていた待合所は、一等車とは反対の場所にあることがわかった。そのため、私たちは電車が到着してからプラットホームを大移動することになってしまった。チェコでもそうだったが、ポーランドでも自転車と一緒に乗車することができるため、プラットホームには自転車を押しながら歩いている人たちが何人かいた。

 ようやく一等車の車両に到着し、これまた階段のある入口だったので、苦戦しながら重いスーツケースを持ち上げて、車内に運び込んだ。乗り込んですぐのところにスーツケースを収納するスペースがあったのだが、既に他の乗客の方たちが置いたスーツケースでほとんどいっぱいの状態だった。何とか私たちのスーツケースも無理矢理置かせてもらい、席につこうとしたが、私たちが予約した席に先客がいたので、私たちの席であることを説明して、席を譲ってもらった。予約した席に他の人が座っているというのは、ヨーロッパでも良くあることだ。

 車内にはWi-Fiの設備も電源もあったので、移動中の4時間を有効活用するために、私はテーブルの上でPCを使い始めた。ところが、意図せず眠り込んでしまった。ガンモに起こされて気がつくと、電車はほぼワルシャワ付近まで来ていた。私は慌てて降りる準備を整え、電車を降りたのだった。

 ワルシャワでの私たちの滞在先もAirbnbだった。まずはチェックインするために、これから二泊する予定のAirbnbに向かった。私たちが予約していたAirbnbは、国鉄のワルシャワ中央駅付近ではなく、国鉄のワルシャワ中央駅から少し歩いたところにある地下鉄の駅から、更に歩いて5分くらいのところにあった。国鉄のワルシャワ中央駅から地下鉄の駅までは、スーツケースがなければ徒歩およそ10分くらいで着くのではないかと思う。私たちはスーツケースを転がしながら歩いていたため、できるだけ段差のない場所を選択する必要があった。

 そろそろ地上に上がりたいと思っていたのだが、見渡す限り、階段を昇る手段しか残されていないように見えた。しかし、私たちはちょっと変わった簡易エレベータを見つけた。ちょっと変わったというのは、エレベータが箱になっていないという意味である。私たちが通常、利用しているエレベータは、四角い筒の中を箱で移動するタイプのエレベータだろうと思う。しかし、ワルシャワで私たちが利用した簡易エレベータは、四角い筒の中を板の上に乗ってゆっくり移動するタイプのエレベータだった。つまり、上下するだけの板の上に乗って移動するというイメージだ。そのため、動きはとてもゆっくりだった。簡易エレベータを動かすには、備え付けのボタンを押し続けなければならなかった。スーツケースも一緒に運ぶ必要があったため、安全性を考えて、一人ずつ利用することにした。ありがたいことに、簡易エレベータはきちんと動いてくれて、ガンモも私も無事に地上に上がることができたのだった。

 さて、地下鉄の駅周辺で、家族と思われる3~4人の人たちが、建物の外にぶら下がっている何かを確認していた。見ると、複数の鍵ボックスだった。おそらくそこのビルにはAirbnbがあり、Airbnbのホストが利用客のために建物の外に鍵ボックスをぶら下げていたのだろうと思う。

 私たちが利用するAirbnbは、建物の中に入ってすぐのエントランス部分に鍵ボックスがずらっと並んでいた。ホストから教わっていた暗証番号を使って鍵ボックスを操作し、無事に宿泊する部屋の鍵をゲットすることができた。

 部屋に入ってみると、ベッドルームとリビングルーム、そしてダイニングルームがあった。やや使いこまれた感はあったが、二日間だけ過ごすには充分だった。ただ、エアコンも扇風機もなかったので、昼間の室内はやや暑かった。クラクフのAirbnbには大きな扇風機があったのでまだ良かった。少し前まで、ヨーロッパでは熱波に悩まされることも少なかったので、考えてみれば当たり前のことである。クラクフのAirbnbでは、夜に窓を開けて寝ると少し寒いくらいだった。そのため、ここでも窓を開けて寝れば問題ないと考えていたのだが・・・・・・。

 繁華街にあるAirbnbだからか、夜になると、下の通りにある飲食店から漏れて来る音楽やら飲食店の利用客の声やらが大きく響いて来た。これはたまらないと思ったが、窓を閉めてしまうと暑いので、どうしても閉めるわけには行かなかった。これは困ったと思ったが、疲れていたからか、いつの間にか眠りに就くことができた。騒音も肉体の疲れには影響を与えなかったということだ。

 こうして、ワルシャワで過ごす一日目が過ぎて行ったのだった。

※今回も、私が撮影した動画をご紹介させていただきます。よろしければご覧ください。

※このブログへのコメントは、ガンまる日記掲示板で承ります。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m この日はこのAirbnbからCamblyのレッスンを受けました。旅行中でしたが、契約している回数分のレッスンをこなさないと、無駄になってしまうためです。アメリカ在住のイギリス人講師と話をしたのですが、AirbnbのWi-Fiが弱かったためか、レッスンの途中でWi-Fiが途切れてしまい、レッスンがいったん終了してしまいました。あとからつなぎなおして事なきを終えましたが、Wi-Fiの強さなどはあらかじめわからないので、旅先でのレッスンはいつも気を使いますね。(苦笑)

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2024.10.20

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所見学 その2~「アウシュヴィッツ第一強制収容所」を見学する

映画『シンドラーのリスト』の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m 急に寒くなりましたね。私の住んでいる地域では、この週末は風が強かったです。さて、明日はおよそ三カ月振りに一日だけ出勤します。(苦笑)しばらくテレワーク続きでずいぶんリラックスし過ぎていたので、慌てて白髪染めに精を出してみたり、オフィスカジュアルの服を引っ張り出して準備したりしています。出勤する日は、ガンモがお弁当を作ってくれるので、それも楽しみです。それでは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所見学 その1~現地ツアーに参加し、「アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ」を訪問する。の続きをお届けしたいと思います。

 「アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ」を訪問したあと、私たちは再びバスに乗り込み、「アウシュヴィッツ第一強制収容所」へと向かった。ここは、最初にバスを降りて、ツアーガイドとはぐれてしまった場所である。私たちの優待入場券は16時15分から入場可能となっていたが、地元の博物館や「アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ」の見学を終えた頃には、既に17時頃になっていた。すなわち、ついに私たちも入場できるということだ。

 入口では手荷物検査が行われた。空港の手荷物チェックのように、パスポートを提示してから、トレーに手荷物を入れて検査してもらう。持ち込み可能な手荷物は、サイズが厳密に決まっているわけではなく、スーツケースや特別大きなリュックサックでない限り、持ち込み可能となっているようだ。ただし、鋭利なものは持ち込むことができない。たまたま私たちの前に入場しようとした人が、小さなアーミーナイフを持っていたため、持ち込みできないと注意を受けていた。

 中に入ってみると、屋外の敷地内に続いて行く長い通路があった。そこでは、アウシュヴィッツ強制収容所で命を落としたユダヤ人の方たちの名前がゆっくりと読み上げられていた。

 敷地内は、やはり「アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ」のようにのどかな場所だった。ただ、それは単に立地条件がのどかであったというだけで、建物を含む全体の雰囲気はのどかなものではなかった。ユダヤ人の方たちを監視するための監視塔や、建物の前に添えられたいくつもの花束、更には、ユダヤ人の方たちが逃亡するのを防ぐために高圧電流が流されていたという鉄線なども視界に入って来た。収容されていたユダヤ人の方たちの中には、強制収容所での生活があまりにも辛すぎて、自ら鉄線に触れて命を落とす人たちもいたらしい。

 私たちは、ツアーガイドからツアーバスに戻る時間を指定されていたため、構内図を確認して訪問先を定め、効率よく回ることにした。まず最初に目にしたのは、「働けば、自由になれる」と書かれた、かの有名なアーチである。本当は、働いても自由になれるはずなどなかった。このアーチは、ここに収容されていたユダヤ人の方が作成されたそうで、ささやかな抵抗を示すために、Bの文字を逆さまにして作ったと言われている。

 そして私たちは、ユダヤ人の方たちが大量に虐殺されたというガス室へと向かった。ガス室のすぐ近くに絞首台もあった。ユダヤ人の方たちは、そこがシャワー室だと騙されてガス室に誘導されたという。しかし、上から降りて来たのは温かいお湯ではなく、毒ガスだった。

 コンクリートで覆われたガス室の中には、複数の焼却炉もあった。ガス室で亡くなられたユダヤ人の方たちの遺体を、同じくユダヤ人の方たちが焼却炉で焼いていたそうだ。言葉を失う空間だった。

 ガス室の出口付近には、「あなたがいるこの建物は、大量のユダヤ人が虐殺された場所です。ここでは静かにしてください。彼らの苦しみを思い出し、記憶に敬意を払ってください」と書かれていた。

 実は、私はガス室を見学しているとき、頭が重くなった。そんなガス室を動画に納め、動画を編集しているときも頭が重くなった。こうして記事を書いている今も、やはり頭が重い。やはり大量のユダヤ人の方たちが虐殺されたガス室には、ただならぬ負のパワーが蓄積されているのかもしれない。あるいは、私自身も毒ガスを浴びているかのような疑似体験をしているのかもしれない。

 言葉を失ったままガス室をあとにした私たちは、いくつかの展示物を見学した。まずはガス室で使われた毒ガスを入れていた大量の缶。そしてユダヤ人の方たちが使っていた大量の眼鏡。ユダヤ人の方たちが使っていた大量の義足。ユダヤ人の方たちが使っていた大量の食器。ユダヤ人の方たちが使っていた大量の靴。ユダヤ人の方たちが使っていた大量の鞄。鞄には住所と名前が書かれており、見ていて本当に胸が痛んだ。きっとそれらの鞄を持って、家族と一緒に家に帰りたかったに違いない。しかし、それは叶わなかった。他に、ユダヤ人の女性たちの長い髪も展示されていた。

 日本からはるばるポーランドまでやって来て、これまで知らなかったたくさんのことをここで知ることができた。このような悲惨な出来事があった場所を温存し、公開しているのは、ここを訪れる人たちが戦争の悲惨さを知り、同じような過ちを繰り返さないで欲しいという願いが込められているのだそうだ。それならば、ここを訪れた私たちは、ここで見たことなどを他の人たちに共有する義務があるように思える。

 Camblyのレッスンでも、ここで見て来たことをいろいろ共有してみた。やはりイギリス人の講師たちからしてみれば、私たち日本人よりも、ユダヤ人の迫害の歴史は身近なものだった。ある講師は、元夫の親せきがアウシュビッツで殺害されていると言っていた。「そう言えば、日本は戦争のときにドイツと組んでいたわよね」と言う講師もいた。私は、第二次世界大戦のとき、日本とドイツが同盟国だったことをすっかり忘れてしまっていた。確かにそうだった。講師には何も言えなかった。

 ある講師に、
「ユダヤ人の方たちは、虐殺を行ったドイツ人をもう許しているでしょうか。日本は戦争中にアメリカ軍から原爆を落とされ、長崎と広島が大きなダメージを受けました。しかし、今ではそんなアメリカを許していると思います」
と言うと、その講師は、
「先祖が迫害されて殺されたりした場合、そのことは先祖の辛い記憶として留まり、子孫にも受け継がれるの。でもね、子孫を癒してあげると、先祖も同時に癒されるのよ」
私はそれを聞いて涙が出そうになった。過去に起こった悲惨な出来事に対する、救いとなる発言だった。そう、その話をしてくれた講師こそが、私の記事の中で度々登場するスピリチュアルな講師だった。

 スピリチュアルな講師は更に続けた。
「ガザ地区の人たちが攻撃されたり、いろいろなところで戦争がまだ残っているけれど、イギリスやアメリカは戦争をしている国を支援している。それは間接的に戦争に参加していることになるので、本当は支援することに対してNoと言わなければならない」
実は私も同じことを考えていた。戦争を続けて行くために、アメリカに支援を請うゼレンスキー大統領のやり方にも疑問を感じるようになって来たのだ。ウクライナとロシアの戦争で、アメリカがウクライナをサポートしているが、ウクライナを支援することで、アメリカも間接的に戦争に加担していることになるということだ。誰かがどこかでNoと宣言して、戦争を終結させなければならないのではないだろうか。

 アウシュビッツ強制収容所の敷地内を歩いていたとき、ここで亡くなられた方たちが、80年前でなく、せめて70年前に生きていた人たちであれば、亡くならずに済んだのにと思った。その時代を生きていたばかりに、迫害の犠牲者となってしまった。Camblyのスピリチュアルな講師が言うように、亡くなられたユダヤ人の方たちの子孫が癒されることで、彼らの先祖も同時に癒されることを願ってやまない。そのためにも、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所は存在し続ける意味があるような気がしている。

※今回も、私が撮影した動画をご紹介させていただきます。よろしければご覧ください。


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※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m ガス室をはじめ、展示されている毒ガスを入れていた缶、眼鏡、義足、食器、靴、鞄を直視するのはあまりにも辛すぎました。ユダヤ人の方たちの子孫の方たちが癒されることで、同時に先祖の方たちも癒されることを願ってやみません。

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2024.10.14

映画『シンドラーのリスト』

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所見学 その1~現地ツアーに参加し、「アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ」を訪問する。の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m 皆さん、天候に恵まれた三連休を楽しまれましたでしょうか。ようやく涼しくなったので、私たちは車中泊プラス温泉旅館に一泊するために、石川県に来ています(私は15日に有給を取得します)。間接的な方法になりますが、少しでも石川県を応援できたらと思ってやって来ました。しかし、本当に災害がひどかった地域には足を運んでいません。津波が起こったであろう海を見つめて、今後、自然災害で能登の人たちが苦しまないように願いました。どうかこれ以上、能登の人たちを自然災害で苦しめないで欲しい、そして、能登の人たちが再び希望を持って生きられるように願いました。富山のコーラスグループが、輪島の人たちを励ますために歌を披露しているニュースをテレビで見ました。歌を聴いて涙を流している人たちもいて、こんな応援方法もあるのだなと感じました。私もささやかではありますが、応援して行きたいと思いました。さて、ここのところ、週に一回のペースで動画の更新も行っていましたが、現在、旅先で動画の更新ができないため、今回は映画のレビューをお届けしたいと思います。


Schindlerslist

 夏休み前に、アウシュビッツ強制収容所を見学する計画を立てていることをCamblyの講師に話すと、
「映画『シンドラーのリスト』はもう見た?」
と聞かれた。実は、私はこの有名な作品をまだ見ていなかったので、
「いえ、まだ見ていません」
と正直に答えた。世界的に有名なこの作品をこれまで鑑賞していなかったのは、ひとえに、私がヨーロッパ映画好きだからなのかもしれない。Camblyの講師は、この映画を既に何度も観ているらしく、
「何度見ても泣ける映画なのよね」
と言っていた。そこで私も、アウシュビッツ強制収容所を訪問する前に鑑賞しておこうと思い立ったのだ。(ここから先は、ネタバレを含む内容になるため、本作をまだ鑑賞されていない方は注意されたし)

 本作を鑑賞し始めてしばらく経ったとき、あまりにも残酷なシーンに耐えられなくなり、この映画を最後まで鑑賞し切るのは厳しいとさえ感じた。それでも、何とか踏ん張って最後まで鑑賞を続けた。長い作品だったが、振り返ってみると、長さがまったく気にならないほど素晴らしい作品だったと思う。

 ナチスドイツは、最終的に600万人以上ものユダヤ人を殺害したそうだ。これは本当にむごい話で、私にはまったく理解できないことだった。どうしてナチスドイツがこれほどまでユダヤ人を迫害することに固執していたのか調べてみた。もともとヨーロッパには、反ユダヤ人思想が存在していたという(もしかすると、ユダヤ人が商売上手だったことや、独特の雰囲気を持っていることなどが関係していたのかもしれない・・・・・・)。ナチスドイツは1929年の世界恐慌の影響で自分たちの国が貧しくなった原因がユダヤ人のせいだと思い込み、彼らを迫害しようと考えたようだった。それに加え、宗教の違いなども背景にあったようだ。

 私は、本作を鑑賞するまでは、作品自体の評価の高さから、もともとシンドラーという人は非の打ちどころのない善人なのだと思い込んでいた。しかし、彼は完全な善人というわけではなく、実際には女好きで、ホーロー工場を始めるときも、最初は単に労働者に支払う単価が安かったからユダヤ人を利用したいくらいの気持ちで雇っただけではないかと思えた。

 とは言え、彼は人間として、ナチスドイツのやり方に、次第に心を痛めるようになって行ったのではないだろうか。最終的に、彼は私財を投げうってまでユダヤ人たちを助けようとする。ホーロー工場を経営して、一生かけても使い切れないほどのお金を手に入れていたにもかかわらず、一人でも多くのユダヤ人を解放しようとしてお金を使い果たし、とうとう彼の蓄えは底をついてしまった。

 終戦により、ユダヤ人たちは自由になったが、それとは裏腹に、シンドラーは戦犯として追われる身となった。ユダヤ人たちは、彼へのお礼として、自分たちの金歯を溶かしてシンドラーに指輪を贈る。シンドラーは、自分の車を売れば、ナチスドイツのバッジを売れば、一人でも多くのユダヤ人を救えたのにと嘆きながら工場をあとにする。そんなシンドラーは、ユダヤ人を利用しようとしていた彼とはすっかり別人になっていた。

 映画のシーンがモノクロからカラーに切り替わったとき、これは現代を映し出しているのだとわかった。そこには、実際にシンドラーに助け出されたユダヤ人たちやその子孫の方たちが次々にシンドラーのお墓を訪れるシーンが映し出されていた。彼らがシンドラーのお墓参りができるのは、彼らがシンドラーによって助けられ、ナチスドイツによる虐殺を逃れたからに他ならない。

 シンドラーの交渉力は素晴らしかった。そして、ビジネスマンとしての交渉力が、次第に人間としての交渉力に変化して行った。それでも、ナチスドイツの冷徹な将校ゲート少尉とも仲良くなれるのだから、彼は大したものだ。ただ、シンドラーが人間的な一面を見せ始めたのは、ゲート少尉が、ユダヤ人たちに対して、あまりにも残酷なふるまいをしたからなのかもしれない。ゲート少尉の目に余るほどの残酷なふるまいが、シンドラーの人間性をはっきりと目覚めさせたと言えるのではないだろうか。

 シンドラーは、チェコ生まれのドイツ人らしい。本作を鑑賞して、私はシンドラーのようなドイツ人がもっとたくさんいても良かったのではないかと思った。しかし、実際にはそうでなかったことが残念でならない。旧・オスカー・シンドラーのホーロー工場跡を見学したとき、実際にシンドラーに助けられた方たちの写真が飾られているのを見た。今、思えば、殺されそうになっている人たちを助けるのは人間として当たり前のことであるように思えるのだが、当時の状況としては難しかったのかもしれないとも思う。シンドラーのように金銭的に恵まれていないと、これだけ多くのユダヤ人たちを助けることはできなかっただろうし、また、ナチスドイツにある程度近い人間でないと、やはりできないことだったとも思うからだ。

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※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m 大きな流れの中で、その流れに逆らってまで自分の意志を貫くのは、なかなか大変なことだと思います。もし私自身がシンドラーと同じ時代に同じような立場にいたとしたら、果たして彼と同じことができたのだろうかと思うと、あまり自信がありません。そう考えると、彼がおよそ1200人ものユダヤ人たちを助けたことは、歴史的にも人間的にも素晴らしいことなのだと思います。

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2024.10.07

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所見学 その1~現地ツアーに参加し、「アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ」を訪問する。

旧・オスカー・シンドラーのホーロー工場跡と、海外では初めてのAirbnbの記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m ようやく涼しくなって来たなと思ったら、急に寒くなったり、今度は暑くなったりと、なかなか気温差が激しいこの頃ですね。先日の週末は衣替えをしました。ようやく夏物をしまえるかなと思ったのですが、まだ暑い日があるかもしれないので、夏服も少し残しています。しばらくは気温差に気を付けながら、やがて来るであろう、本格的な秋を迎えたいものですね。

 クラクフで迎えた二日目の朝、私たちは出発の準備を整えて、前日のうちに下見をしておいたクラクフ中央駅前の集合場所へと向かった。この日は、「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」を見学するために、現地ツアーに参加することになっていたのだ。

 八時二十分に集合場所に出向き、しばらく待っていると、ツアーバスがやって来た。同じツアーに参加するであろう人たちも既に集まっていた。バスの入口で女性スタッフが点呼を取り始めたので、私たちも名前が呼ばれるのを待った。名前を呼ばれた人たちは次々とバスに乗り込んで行ったのだが、私たちの名前がなかなか呼ばれなかったので、少し不安になっていた。確か、前日の夕方に、ガンモのスマートフォンに集合時間が少し早まったと連絡があったので、おそらく大丈夫だとは思うのだが・・・・・・。そうこうしているうちに、バスを待っていた人たちが全員、バスに乗車してしまった。まさか、何か手違いでもあったのだろうかと不安になっていると、ようやく最後にガンモの名前が呼ばれた。私たちは安堵しながら、バスに乗り込んだ。

 ツアーに参加していたのは、およそ40名ほどの欧米人だったと思う。アジア人は私たちだけだった。これまで聞いたことのない言語もあちらこちらから聞こえて来た。

 バスが出発してからおよそ1時間半で、「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」の駐車場に到着した。「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」は複数の建物に分かれており、それぞれの建物を見学するには、バスで移動する必要がある。最初に私たちが到着したのは、「アウシュヴィッツ第一強制収容所」があるところで、ここの発券窓口で優先入場券を発行してもらい、まずはここからバスで10分ほどのところにある「アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ」を見学してから、再び「アウシュヴィッツ第一強制収容所」に戻って来るという見学コースだった。

 優先入場券というのは、入場券を発行してもらう窓口に、ツアーガイドに同伴してもらい、パスポートを見せて入手できる入場券で、あらかじめオンラインなどを経由して、私たちが参加したようなツアー会社を通じて購入する必要がある。ツアーガイドを介さない場合、すなわち、個人で「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」を見学したい場合は、入場券を発行してもらうために、長蛇の列に並ばなければならない。前日に訪れた旧・オスカー・シンドラーのホーロー工場跡の博物館もそうだったが、ツアーガイドが同伴してくれることで入場が優先されるというシステムになっているのである。

 ちなみに、最初に「アウシュヴィッツ第一強制収容所」を見学しないのは、16時を過ぎると「アウシュヴィッツ第一強制収容所」の見学が無料になるためらしい。そのため、最初に「アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ」を見学して、「アウシュヴィッツ第一強制収容所」の見学料が無料になる頃合いを見計らって、「アウシュヴィッツ第一強制収容所」に戻って見学するというツアーだったのである。ただ、ツアーガイドはどちらの強制収容所の中は同行せず、母国語で書かれたガイドブックが貸与されるだけだ。言い換えると、私たちが参加した現地ツアーは、バスでの送迎とバスの中での説明がついて、更に希望する人にだけランチが配布されるという、比較的自由なツアーだったのである。これで一人6000円なので、往復で合計3時間以上もバスに乗ることを考えると、ランチもついていてお得かもしれないと思う。

 さて、バスが「アウシュヴィッツ第一強制収容所」に到着したあと、バスを降りたとき、あろうことか、私たちはツアーガイドからはぐれてしまった。ツアーガイドも含めて、ツアーに参加されている方たちがどこに消えてしまったのか、あまりにも人が多過ぎてわからない。はてさて、どうしたものか。同じバスに乗っていた人たちの顔も覚えていないし、現地ツアーなので、同じバッジを胸につけるようなこともしていない。ツアーガイドの顔さえあやふやだった。果たしてどのようにして合流すればいいのか。しかも、まだ優先入場券を受け取っていない状態だったので、このままでは何もできない。このまま見学できずに帰るなんて、洒落にもならない。見ると、チケットの発券窓口まで長蛇の列ができている。まさかこの長蛇の列の最後尾に並ばなければならないのだろうか? 私たちはあたふたしながら、あっちへ行ったりこっちへ行ったりした。幸い、同じようにはぐれた人たちがいたので、協力し合いながら、まずは長蛇の列に並ぼうとした。しかし、こんな長い列に並んでいたら、一体いつ入場できるかわからない。私たちと同じように、はぐれた人たちもぶつぶつ言っていた。あとでわかったことだが、私たちが並ぼうとしていた長蛇の列は、ツアーガイドを介入せずに、個人でやって来て入場しようとしている人たちだったらしい。優先入場券ではないので、長く待って入場券を購入することになってしまうようだ。

 ツアーガイドを探してあたふたしているうちに、一緒にはぐれた人たちの数が少しずつ減って行った。それでも、一組のグループだけが残っていたので、心強かった。実は、ツアー会社に電話を掛けてみたのだが、「バスに戻って、チケットを受け取ってください」と言われてしまった。そこでバスに戻ってみると、運転手さんが電話で長話をしていた。運転手さんの電話が終わるのを待って、ツアーガイドとはぐれてしまったことを話したが、「わからない」と言われてしまった。そのことを、同じようにはぐれた一組のグループに話したところ、やはりツアー会社に電話をかけて同じことを言われたと言っていた。「バスでチケットを受け取る」と言っても、受け取ろうとしているチケットが優先入場券を意味しているのであれば、それはツアーガイドに同行してもらって、チケットの発券窓口で発券してもらうものであるはずなのだが・・・・・・。

 そうこうしているうちに、はぐれたグループのお父さんがツアーガイドと電話で話すことに成功したようだ。おそらく、前日の夜に集合時間が変わったことを知らせてくれた電話番号から辿ったのではないかと思われる。ああ、私たちもそうすれば良かった。ありがたいことに、はぐれたグループのお父さんは、私たちも一緒にはぐれていることをツアーガイドに伝えてくれた。そのお父さんのおかげで、チケット発券窓口の近くで、めでたくツアーガイドと再会することができて、何とか優先入場券をゲットすることができたのだった。日本語で書かれたガイドブックも貸与してもらった。はぐれたグループの方たちには、感謝しても感謝し切れない。

 「アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ」に移動するまで時間があったので、あちらこちらを散策したりしていた。しかし、優先入場券を持っていても、まだ「アウシュヴィッツ第一強制収容所」には入場できないので、実際のところ、時間を持て余してしまった。(実は、ゲットした優先入場券を使って「アウシュヴィッツ第一強制収容所」に入場しようとしたのだが、「このチケットは16時15分から有効です」とスタッフに言われてしまい、入場できなかった。)

 早めにバスに戻り、バスの出発を待った。私たちはランチを注文していたので何も食べなかったのだが、一部の人たちは腹ごしらえをしていたようだ。そうこうしているうちに、バスが出発した。ただ、バスは「アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ」には直行せずに、地元の追憶博物館に私たちを連れて行ってくれた。そこは小さな博物館で、外に公園のようなものがあったので、博物館を見学したあと、散策してみた。

 小さな博物館に立ち寄ったあとは、ユダヤ人の方たちが運ばれたという貨車が置かれている場所に向かった。本来ならば、貨車は「アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ」の線路の中にあるらしいのだが、その貨車がちょうど改装中だったため、他の貨車を展示しているところに案内してくれたようだ。もともと家畜用の貨車には窓がなく、トイレの代わりに隅っこにバケツが置かれているだけだったそうだ。ヨーロッパのあちらこちらから集められたユダヤ人の方たちは、一つの貨車に80人から100人も詰め込まれ、二週間ほども旅をして、ここにたどり着いたという。過酷な状況の中で、ここに着くまでに命を落としてしまう人も多かったとか・・・・・・。私たちは展示されている貨車を近くで見るためにバスを降りた。見ているだけでも痛ましい乗り物だった。

 貨車を見学しているときに、誰かが注文したランチのことをツアーガイドに話し、ツアーガイドから注文したランチを受け取っていたので、私たちもそれに便乗した。実のところ、私たちはずっとお腹が空いていたのだが、誰も言い出さないので我慢していたのだった。驚いたのは、私たちが注文していたそのランチが、無造作にバスの冷蔵機能のない荷物室に入れられていたことだった。日本で同じことをしたら、きっと食べられなかったことだろう。ヨーロッパも日本よりは涼しいとは言え、おそらくこの日も最高気温は32度くらいだったと思う。そして、その後、ランチタイムが設けられたとように思う。バスがどこかお店の近くに停車し、トイレに行く人たちや食料を調達する人たちが降りて行った。

 そして私たちは、いよいよ「アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ」へと向かった。映画などでこれまで何度も目にして来た「死の門」を目の前にしたとき、私はここで亡くなられたユダヤ人の方たちが気の毒で仕方がないという気持ちがこみあげて来た。それは嗚咽にも似た感情で、私は「死の門」を目の前にして、泣きながら動画を撮影していた。世界中から多くの人たちが訪れることで、やがてこの場所が浄化されて行くことを心から願いながら・・・・・・。

 私も「死の門」をくぐり、「アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ」の中へと入った。敷地内はとても広く、「こんなのどかな場所であのような恐ろしいことが行われていたなんて信じたくない」と思えるくらい、静かな場所だった。しかし、ここで多くのユダヤ人の方たちが命を落としているという黒い歴史は変えられないのだ。

 まるであぜ道でも歩くかのように、私たちは「アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ」の敷地内を歩いた。ここは、建物の中を見学するというよりは、歩いて見て回ることの多い場所だった。バスでの集合時間まで一時間あったので、私たちは歩けるだけ歩いたのだった。

※今回も、私が撮影した動画をご紹介させていただきます。よろしければご覧ください。


※このブログへのコメントは、ガンまる日記掲示板で承ります。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m 「死の門」を目の前にしたときにこみあげて来た感情は忘れません。ここに何度足を運んだら、ここが完全に浄化されるのだろうと考えていました。ただただ心の中で祈りを捧げながら歩いていました。

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