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2016.08.24

映画『きっと、星のせいじゃない。』

砂利道を抜けて、お花畑のある美瑛に迷い込むの記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m 日中は涼しかったようですが、夜になってから何故か蒸し暑くなりました。秋が来そうでまだ来ない状況がしばらく続くのでしょうか。それならば、もう少し夏を楽しんでおきましょうか。


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 本作を鑑賞したのは八月十四日のことで、またまた北海道からの帰りの船の中である。帰りは行きとは違い、苫小牧から敦賀までのフェリーを利用した。やはり字幕版ではなく、吹き替え版だった。しかも、本作もまた、劇場公開中に見逃してしまった作品だったので、このような形で鑑賞することができて良かったと思う。

 甲状腺がんから肺への転移がある末期がんのために、日常生活では酸素ボンベを手放すことができないという十六歳のヘイゼルが、がん患者の集会で骨肉腫を克服した青年ガスと出会い、恋に落ちる物語である。

 まず、二人の恋の始まり方がいい。初めて会ったときからお互いにとても気になって、相手をじっと見詰める時間が長い。しかも、がん患者の集会に出掛けても、あまり意味はないと思い込んでいたヘイゼルの価値観を一気に覆す形で恋が訪れる。

 本作には、自分の感情を素直に表現できるガスのようなタイプと、周りを気遣うあまり、自分の感情を押し殺してしまうヘイゼルのようなタイプが登場する。

 末期がん患者が恋をすることについて、ヘイゼルは自分自身のことを手榴弾に例えて表現しいる。すなわち、誰かと親しい関係を築けば、いつかは親しくなった人たちを巻き込んで傷つけてしまうことを懸念しているのだ。本当はガスのことが大好きなはずなのに、ガスを傷つけまいとして、反対に遠ざけようとしてしまうのだ。そんなヘイゼルに対し、ガスはとても素直な気持ちで接しようとする。そう、まるで正反対の二人が美しい形で引き合っているのだ。

 ひょんなことから、二人はアムステルダムに住む大好きな作家に会いに行くガン簿を抱く。彼らを取り巻く人々の想いも重なって、ようやくアムステルダム旅行が実現でるのだが、憧れの作家との対面は、ヘイゼルがこれまで頭の中で思い描いていた状況とはまったく異なるものだった。

 のちに、その作家の取った態度の意味がはっきりとわかる。おそらくだが、その作家もまた、感情を押し殺すタイプの人間だったに違いない。彼の身に起こってしまった現状があまりにも辛すぎて、自分という殻の中に逃げ込んでしまうしかなかったのだろう。

 命ある者は、いつかは生をまっとうすることになる。しかし、余命を意識するような要因がなければ、私たちは自分に余命があることすら忘れて、毎日を無駄遣いしてしまう。しかし、余命がわずかであることがわかってしまった途端、閉じられていた目は開かれる。だから、余命があることを意識してい生きている人たちのほうが、意識が活性化されている。余命を意識せずに生きている人たちは、その活性化された意識に追い付けないだろう。

 結末は、意外なものだった。特筆すべきは、余命がわずかであることを意識しながら生きている人たちの中にも、「虚数」という無限が存在しているということだ。そして、二人が愛し合った事実は、いつまでも消えることはない。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m ヘイゼルの生き方は、どこか冷めているように見えるかもしれませんが、むしろその反対だったのだとわかりました。やはり余命を意識しながら生きているかどうかで、意識の向け方がまったく違っているのを感じました。

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