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2015.10.19

振り返り(42)

ホットヨガ(四六七回目)の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m ゆうべ、無事に長野から帰宅しました。日曜日の夜だったからか、高速道路は交通量が多かったですね。それでも、ストレスになるような渋滞もなく、比較的順調に帰宅することができました。カングーで出掛けると、ガンモが一人で運転することになるので、ガンモはかなり疲れていたようです。それでも頑張って運転してくれました。さて、長野から帰ったゆうべ、母が亡くなった夢を見ました。私の母は肺がんで亡くなっているのですが、夢の中の母は、私が予約した高速バスに乗っているときに交通事故に遭い、亡くなりました。目が覚めてから、母が亡くなっているのは現実の世界でも既に起こってしまっていることなのに、やはり取り返しのつかない悲しみを感じました。

 母が亡くなってから、この「振り返り」の記事を書き始めたわけだが、今回は、しばらく書けなかった内容について触れてみたいと思う。

 母は、抗がん剤を投与していただくために、大きな病院に通っていた。私がその病院の医師から話を聞いたのは、母の最初の入院の少し前のことで、それ以降は、いつも父が母の通院に付き添ってくれていた。

 母は、最初にがんが見付かったときから既に肺がんのステージIVで、胃のリンパ節への転移のほか、脳転移もあった。大きな病院で受けた治療は、分子標的薬と呼ばれるイレッサの投薬と点滴による抗がん剤の投薬だった。

 イレッサは母にとても良く効き、そのことが論文として発表されたことは以前も書かせていただいた通りである。おそらくだが、これまでは、扁平上皮がんの肺がん患者には、イレッサがあまり効いていなかったのではないかと思う。母は扁平上皮がんでも非喫煙者だったので、イレッサが良く効いてくれたのかもしれないと素人ながらに思っている。

 母を担当してくださった医師は、最初は若い先生だったようだが、のちにその病院でも部下がたくさんいる敏腕医師に担当が変わった。母は、その敏腕医師とウマが合い、診察の度にバカ話をして楽しく診察を受けていたようだ。しかし、それは一年ほどでいきなり幕を閉じた。

 母が亡くなる四ヶ月ほど前のことである。母は、
「頭が痛い」
とこぼすようになった。それに加え、動作がのろくなったり、自分で靴を履くことができなくなってしまったり、語り口調がおかしくなったりした。

 私は、もしかすると、転移性脳腫瘍が大きく成長してしまっているのではないかと心配していた。それまでは、不思議なことに、分子標的薬や抗がん剤が良く効いていたのに合わせて、転移性脳腫瘍も小さくなっていた。しかし、この頃は、新しい抗がん剤に切り替わって四ヶ月ほど経った頃だった。新しい抗がん剤に切り替わった頃に、頭部のMRIも取っておくべきだったのだ。

 私は、そのことが気に掛かっていたのに、診察に付き添っていなかったために、MRIを取っておいたほうがいいのではないかと提案することができなかった。父と母は敏腕医師を信頼し切っていたし、信頼し切っている敏腕医師の治療方法に口出しをするようなことは控えたかったのだ。しかし、結果的には、それが致命的な状況を引き起こした。

 母の様子がおかしいのは、やはり転移性脳腫瘍のせいだと感じたものの、次の診察までまだ日にちがあった。しかし、できるだけ早めに診察を受けたほうがいいと思い、父に頼んで大きな病院に電話を掛けてもらい、診察の予定を早めてもらった。

 そして、すぐに診察を受けたところ、やはり転移性脳腫瘍が大きくなり、浮腫までできていることがわかった。母は、放射線治療を受けるために入院となった。しかし、驚いたことに、その時点で母の担当医が、これまでの敏腕医師から新米医師に変わってしまったのだ。私はそのとき、何が起こったのか、まったく理解できなかった。というのも、そのときまでは、転移性脳腫瘍をガンマナイフかサイバーナイフでやっつければいいと思っていたからだ。

 しかし、母の転移性脳腫瘍は、脳の中枢にもできてしまっており、ガンマナイフもサイバーナイフもできない状態にあった。そのため、敏腕医師は母の担当から外れ、代わりに新米医師が担当してくださったのだとわかった。つまり、母はこれ以上の治療ができないと判断されてしまったのだ。

 その後、私は二回ほど、新米医師と話をした。そのうち一回は、父と一緒だった。その話の中で、母はこの病院がとても気に入っていて、敏腕医師のことも信頼していたので、最期までここで治療を受けさせてもらえないかというようなことを父が言ったと思う。しかし、新米医師からは、
「ここは治療をする病院です」
と言われてしまった。決して冷たい言い方ではなく、他に治療の必要な患者さんを受け入れたいという言い方だったと思う。かつては母も、「治療の必要な患者」の中に入っていたというのに・・・・・・。

 私は、大きな病院の敏腕医師が母を診てくださっているのだからと、変に遠慮して治療に口出ししなかったが、命に関わることなのだから、もっと口出しすれば良かったと、今では後悔している。それと同時に、今、もしもこのブログを読んでくださっている方たちの中で、抗がん剤や分子標的薬などの投薬を受けている方たちが身近にいらっしゃるという方たちに、お医者さんに遠慮せずに、どんどん治療に口出しして、納得の行く治療を受けて欲しいと心から願う。それと、がんが進行して来ると、容態が急変することもあるので、そのことにも充分注意して欲しいと思う。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m 抗がん剤が切り替わる頃は、特に要注意かもしれません。母がお世話になっていた大きな病院では、前の抗がん剤が身体から抜け切るのを待ってから、次の抗がん剤を投与してくださっていたので、前の抗がん剤が効かなくなってから次の抗がん剤が効き始めるまでに少し時間が経ってしまいました。その間に、転移性脳腫瘍が活発になってしまったのではないかと思っています。転移性脳腫瘍も、脳幹にできなければ、ガンマナイフやサイバーナイフで何度でも取り除けると思います。しかし、母の場合は脳幹にできてしまったので、残された治療法は、一生に一度だけの全能照射のみになってしまったのでした。

人気blogランキングには、もともとブログの書籍化を夢見て参加させていただきました。まだまだほど遠いですが、私の夢を応援してくださると、大変うれしく思います。
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