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2014.08.31

母の一周忌

人との距離についての記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m たくさんの方たちから応援クリックを賜り、心より御礼申し上げます。おかげ様で、昨日、母の一周忌の法要を無事に終えることができました。今日は、そのことについて書いてみたいと思います。

 母の一周忌の法要は、十一時からお坊さまが来てくださる予定だったのだが、二日前の夜にお坊さまから連絡があり、十四時からの開始に変更になった。葬儀の予定が入ってしまったからだそうだ。そのため、父は、一周忌の法要に足を運んでくださる方たちと、法要のあとの会食を行うお店に電話を掛けてくれていた。十一時からの法要であれば、会食の時間がちょうど昼食に当たっていたはずなのだが、十四時からの法要となると、かなり中途半端な時間の会食になってしまった。

 涼しかったので、法要の間は扇風機を回す程度で大丈夫だろうと思っていたのだが、父がエアコンを入れたほうがいいだろうと言ったので、エアコンを稼動させることにした。結果的には、それで大正解だったと思う。というのも、人が集まると、人の持つ体温で暑くなるからだ。

 お経をあげるために来てくださったお坊さまは、いつもの若いお坊さまのお父さまだったようだ。法要後の法話を楽しみにしていたのだが、手元の読み物を読み上げるだけで、声も小さく、何となく残念に思ってしまった。紙芝居付きの法話を楽しみにしていたのに、それは叶わなかった。人間に個性があるのと同じように、お坊さまにも個性があるのだとわかった。

 法要後の会食は、予約していたお店から送迎バスを出していただけることになっていたのだが、法要が予定よりも早く終わってしまったので、早めに迎えに来ていただいた。それから、送迎バスに乗り込んで、みんなで会食の場所まで移動した。有り難かったのは、送迎バスを待っている間も、参列してくださった方たちが和気藹々と話をしてくださっていたことである。四十九日の法要までは、毎週のように週命日ごとに顔を合わせ、その後、四十九日の法要、そして愛媛県の特定の地域だけで行われている冬の慣習(これは、後日、振り返りの記事で書かせていただく)、新盆(あらぼん)、そして一周忌と、何度も顔を合わせるうちに、最初は互いに見知らぬ存在であったとしても、次第に打ち解けて行ったようだった。また、母の古くからの友人も参列してくださったのだが、伯母とも知り合いだったりして、不思議なところで繋がりがあった。

 さて、法要後の会食の席は、父が洋室を予約してくれていた。和室と違い、参列してくださった方たちの席まで移動するのが楽ちんだったので、洋室で良かったと思う。私には、四十九日の法要のあとの会食で、参列してくださった方たちのところにご挨拶に行けなかったという反省点があったので、その反省点を活かして、参列してくださった方たちにできるだけお酌をさせていただいた。しかし、そのお酌を通じて感じたのは、コップがまだ空いていない方に飲み物をお勧めするのは、何となく押し付けているような行為にも取れるので、私はそれが嫌だったのではないかということだった。ただ、飲み物を手に持って歩き回ると、コミュニケーションのきっかけになることは間違いなかった。

 昼食を軽く取ってから三時間ほどしか経っていなかったので、ほとんどお腹は空いておらず、料理をあまり食べることはできなかったが、会食の場でも、参列してくださった皆さんが和気藹々を話をしてくださっていたので良かったと思う。また、洋室だったので、正座をするのが困難な方たちも楽に椅子に座ることができたようだ。私の実家での法要は、去年、私が購入した折りたたみ式の椅子がずいぶん好評だと書かせていただいたが、それらの折り畳み椅子の数が、今回は足りなかった。折り畳み椅子の他にも、ソファに座っていただいているのに、それでも足りなかったのである。年を追うごとに、参列者の方たちは高齢化して行くので、足に問題を抱えてしまう方が多いようだ。そこで、来年の三回忌のために、折り畳み椅子を追加で注文することにしたのだった。

 会席のあとは、先に帰りたいという方がいらっしゃったので、まだ時間的な余裕はあったものの、送迎バスで送り届けていただくことになった。帰りの送迎バスの中でも和気藹々としていたので、母も安心してくれているのではないだろうか。

 こうした和気藹々とした光景は、お通夜や葬儀、四十九日の法要あたりまでは見られなかった光景である。親しい人を亡くすことは、非常に辛いことであるには違いない。私自身も、未だに深い悲しみがこみ上げて来ることが多々あるのだが、やはり人には、深い悲しみから立ち直る能力が備わっているように思う。誤解のないように書いておくが、深い悲しみから立ち直ることと、深い悲しみを感じないでいることとは別物である。深い悲しみを感じないということは、感情の動きがないことである。私からすると、そういうい人とは感情的な繋がりを持ちにくい。喜怒哀楽の感情を体験して行くことこそが、私たちが生きている証なのではないかと感じるこの頃である。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m 「あれから一年か・・・・・・」と思うと、いろいろなことを思い出しますね。元気だった頃の母を思うと、病状が深刻になってしまってからの母は、まるで別人のようでした。一周忌でいろいろなことを思ったのですが、今回の記事の中で書き切れなかったことがたくさんありますので、また別の機会に書かせていただきますね。

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