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2013年11月

2013.11.28

ホットヨガ(三五四回目)

振り返り(17)の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m たくさんの方たちから応援クリックを賜り、心より御礼申し上げます。先週末は、金曜日から仕事が三連休になったので、またまた実家に帰省していて、ホットヨガのレッスンに参加することができませんでした。というわけで、今回も、過去に受講したレッスンの内容をお届けしたいと思います。

 十月五日土曜日、ホットヨガの三宮店のスタジオで、六十分のリラックスコースのレッスンを受けた。

 母が亡くなってからも、毎週末ごとに帰省していたのだが、その前の週に帰省したときに、四十九日の法要の案内状を作成し、投函も終えて、満中陰志の品々の手配も完了していたので、このときの週末は帰省しなくて良かったのだ。

 受付近くのスタッフルームにいらっしゃった、いつもお話させていただくインストラクターが声を掛けてくださった。週末にしかお目に掛かれないインストラクターなので、こうしてお目に掛かるのはずいぶん久し振りのことである。しかし、母が亡くなったことはまだ言えなかった。

 レッスンの参加者は八名で、レッスンを担当してくださったのは、新米インストラクターさんだった。やはり、私は身体が固く、おまけに関節に痛みもあり、ウォーミングアップのストレッチで身体を動かすのも気が引けるほどだった。

 聞くところによると、更年期障害の一つに、関節の痛みがあるらしい。これもまたエストロゲン不足が原因のようだ。エストロゲン不足なのに、子宮筋腫はしっかりと成長しているところが実に憎たらしいではないか。

 いつもは、レッスン中に飲む水やお風呂道具、着替えなどを大き目の布バッグに入れて持参しているのだが、今回から大き目の布バッグをやめて、大き目のリュックに替えてみた。すると、重い水やたくさんの着替えを片方の肩だけで支えなくても良くなったので、とても楽ちんだった。

 ホットヨガのレッスンに通うのに必要なものがすべて入る大き目のリュックは、楽天市場などをずいぶん探し回ったのだが、既に帰省用に使っている大き目のリュックとほぼ同等のものしか見付からなかった。同等のものは必要なかったので、最終的にはオークションサイトで、帰省用に使っている大き目のリュックよりもかなりお手頃価格のものをたまたま見付けて落札させていただいた。

 おかげでレッスンに通うのもずいぶん楽になり、久し振りにいい汗を掻くことができたのだった。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m 大き目のリュックに、あれやこれやとたくさん詰めてレッスンに通うようになりました。重い荷物を両肩で背負うので、これまでよりも楽にははったのですが、その反面、シャワーを浴びるときにも大きなリュックをシャワールームの入口付近まで持ち込むことになってしまいました。(苦笑)リュックの中身を小分けして、着替えとお風呂道具だけ取り出せるようにしておいたほうがいいかもしれません。

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2013.11.26

振り返り(17)

これも一つの別れの記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m たくさんの方たちから応援クリックを賜り、心より御礼申し上げます。今日は、今の私に最もしっくり来る内容が書かれているブログを二つ、ご紹介させていただきます。阿部 敏郎さんのいまここと雲 黒斎さんのもっと あの世に聞いた、この世の仕組みです。どちらのブログも男性が書かれていて、常に、私が参加しているブログランキングの上位に位置しています。お二人はブログを通じて出会い、コラボセミナーも開催されています。そのコラボセミナーの映像を貼り付けておきますので、お二人の紡ぎ出す世界が心地良いと感じられる方はご鑑賞くださいませ。それでは、振り返り(16)の続きを書かせていただきます。

 ほとんど眠れないままの夜が明けた。父は、母が亡くなる前日の夜も、また、通夜のあともほとんど寝ていないというのに早々と起き出して、実家に帰って行った。そして、母のお棺に入れるために、母が庭で大事に育てていた花を摘んで来てくれた。また、早朝から営業しているスーパーにも寄って、母が大好きだったスイカや免疫力アップのために食べていたバナナを買って来てくれた。

 私はというと、七時過ぎに母の兄弟に電話を掛けた。有り難いことに、母の三人の兄弟全員に電話が繋がり、十一時からの葬儀に参列してくれることになった。母が亡くなったことの電話連絡を母の従姉妹らにお願いしていたのだが、昨日のうちに電話連絡がつかなかったことと、また、気が付いたときには既に二十三時を回ってしまっていたので、夜遅くに電話を掛けるのは控えたことを添えておいた。とは言え、母の妹には、夜遅くても知らせてくれたら良かったのにと言われてしまった。

 私たちは朝食を軽く済ませ、斎場で使用させてもらった布団を片付けた。九時から納棺の儀が行われることになっていたので、母のお棺の中に入れてあげる想い出の品々をまとめたりして過ごした。

 九時前になると、前日の夜に打ち合わせをした女性の斎場スタッフが来てくださり、納棺の儀が行われた。納棺の儀とは、映画『おくりびと』で有名になった儀式である。とは言え、田舎の小さな斎場なので、映画『おくりびと』ほど本格的なものではなかった。

 納棺の儀には、何人かの親戚の人たちも集まってくれていた。女性のおくりびとは、私たちに、
「これから皆さんにもお手伝いいただいて、納棺の儀を行いたいと思います」
とおっしゃった。更に、
「故人には、今の皆さんのお声が聞こえていると言われております」
ともおっしゃった。私はそれを聞いて安心した。例え一方通行であったとしても、私たちの感じていることが母に伝わればいいと思っていたからだ。

 女性のおくりびとが、母の寝ている掛け布団をはがすと、両手を組んだ母の身体が見えて来た。病院から斎場に運ばれたとき、母のあごは大きな白いシュシュのようなもので固定されていたが、両手も同じように、白いシュシュのようなもので固定され、両手を組んだ状態が保たれていた。そして、その下にはドライアイスが置かれていた。まだ暑さの残る九月の初めだったので、もはや機能が停止してしまった母の身体の状態を保つために、こうしてドライアイスで冷やされていたのだった。

 母が脱ぎ捨てた肉体には、仏衣と呼ばれる、死後の旅立ちに必要なものを着けることになっていた。納棺の儀に集まって来てくれた親戚の人たちも手伝ってくれて、母に仏衣を着せてあげた。

 私は、母の左足に足袋を履かせてあげた。足袋の紐は、ほどけないように固く結び切った。手や顔と同様、母の足もまた、体温を失い、冷たくなってしまっていた。母は、もう生きてはいないのだと認識するしかなかった。悲しいことに、母の右足は、亡くなってからもひどく腫れ上がったままだった。もしかすると、この右足にできてしまった血栓が命取りになってしまったのかもしれないと思うと、腫れ上がった右足を見るのはとても辛かった。

 両足には足袋と脚絆(きゃはん)を履かせ、手には手甲(てっこう)と呼ばれる、田植えをする人たちが着けているようなものを着けた。どの結び目も、固く結び切るように女性のおくりびとに言われた。そして、頭には三角布をかぶらせ、母があの世に行くのに必要な六文銭を頭陀袋(ずだぶくろ)の中に入れた。

 こうして旅立ちの準備が整うと、母の下に敷いていた布団を数人で持ち上げ、母の亡骸をお棺の中にゆっくり収めた。そして、お棺の中には、母の好きだったものを次々に詰めて行った。お米などは母の手の届くところに入れて、果物などの水分の多いものは、母の足元に置いた。実家の庭で母が大事に育てていた花も、母が良く着ていた普段着も入れた。伯母が見付けてくれたロングスカートも、弟が母のために買った花の図鑑も入れた。そして最後に、母の着物をそれらの上からそっと掛けた。

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2013.11.21

これも一つの別れ

振り返り(16)の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m 母が亡くなる少し前から、私の人間関係に大きな変化がありました。私自身が、これまでよりも自分らしさを強く求めるようになって来たためか、これまで何となくしっくり来ないと感じていた人たちとの交流が途絶えてしまったり、また、役目を終えたと思われる人たちとのご縁が切れたりもしました。その反面、これまでよりも絆が強くなって来た人たちもいます。今回の記事でお届けするのは、役目を終えたと思われる人とのご縁が切れてしまった話です。

 九月下旬の三連休の初日、私は帰省の準備を整え、ガンモの運転するカングーに乗り込むと、I医師のいる病院へと向かった。I医師の診察を予約していたからだ。

 母が入院していた頃は、週末ごとに帰省していたため、実のところ、週末に帰省するために、一度だけI医師の診察の予約を引き延ばしたことがあった。今回の診察の予約も引き延ばそうかと思っていたのだが、九月の初めに母が亡くなってしまったので、皮肉なことに、通院できることになった。思えば、母はいつも、私が巨大な子宮筋腫を抱えていることを心配してくれていたものだった。

 いつもならば、電車と路線バスを乗り継いで、自宅から一時間半ほど掛けて通院しているのだが、今回はガンモの運転するカングーに乗っての通院となった。しかし、三連休の初日で道路がひどく込んでいたため、予約時間に間に合わなくなってしまった。そこで、病院に電話を掛けて、予約時間に遅れることを伝えておいた。

 病院には、およそ一時間遅れで到着した。いつものように、I医師に、
「どうですか?」
と尋ねられたので、
「もう大きくなって来て苦しいので、そろそろ切ります」
と宣言した。

 前回の通院時にMRIの検査を受け、その検査結果をご覧になったI医師は、
「あなたの場合は、やっぱり手術したほうがいいね。このまま放置しておくのは賢くない」
とおっしゃった。確かに、私の子宮筋腫は、複数の塊を合わせると、縦方向に三十センチ、横方向にも三十センチと巨大化してしまっていた。その、あまりもの大きさに、自然な呼吸もし辛く、歩くのもひどくのろい。また、ホットヨガのレッスンを受けているときも、前屈のポーズやうつ伏せのポーズを取るのが非常に辛い。足元に何かを落としたとしても、お腹に大きな塊があるために、拾い上げるのに気合いがいる。

 亡くなった母は、子宮筋腫がたくさんあったため、子宮全摘手術を受けていた。そのため、私の子宮筋腫が巨大化していることをいつも心配してくれていた。私は、母が早く手術をしたほうがいいと言ってくれていたのに、手術が嫌で、いつも逃げ回っていた。しかし、私としてもそろそろ限界なので、亡き母に安心してもらうためにも、ガンモと話し合って、子宮全摘手術を受けることにしたのだ。

 ただ、I医師の病院までは遠いため、I医師は神戸市内の別の病院を紹介してくださるとおっしゃっていた。しかし、その病院も自宅から遠かったので、ガンモと話し合って、自宅近くの比較的大きな病院に決めたのだった。

 I医師の診察中に、どの病院で手術を受けるかという話になり、ガンモと決めた自宅近くの大きな病院の名前を口にしたところ、I医師は診察室にあるパソコンを使って、その病院のホームページをインターネットで検索してくださった。そして、その病院のホームページで公開されている婦人科の医師の名前を確認され、
「誰も知らんなあ」
とおっしゃった。紹介状を書いてくださるのに、実際に面識がなくても良いとは思うのだが、I医師はその病院での子宮全摘手術の実績をひどく気にされていた。やはり、他の病院に患者を送り込むからには、I医師自身も納得の行く病院に紹介状を書きたいようだった。

 やがてI医師は、思いついたように、
「○○市にある△△病院はどうやろ?」
とおっしゃった。その病院は、普段は、がんなどの難しい手術をしている病院だそうで、私が住んでいる市と隣接する市にあった。その病院ならば、I医師の知っている先生がいらっしゃるという。

 その病院の最寄駅を尋ねてみると、思ったよりも近かったので、私は少し考えてから、
「はい。その病院でいいです」
と答えた。するとI医師は、再びGoogle検索エンジンにその病院名を入力し、目的の病院のホームページを探し当てた。

 私は、I医師がGoogle検索エンジンを使って、紹介先の病院を検索していることがおかしくもあった。何故なら、医師でありながらも、医師だけがアクセスできる特別な情報にアクセスされているわけではなく、私たちがアクセスできるのと同じ情報を参照されていることがおかしかったからである。

 I医師が紹介状を書いてくださるというのに、まだ少しだけ踏ん切りがつかなかった私は、
「紹介状は、いつまで有効なんですか?」
とI医師に尋ねてみた。するとI医師は、
「有効期限はありません。病院がある限り有効です」
と答えてくださった。そして、桂枝茯苓丸(けいしぶくりょうがん)とガスターDを処方していただいて、I医師にお礼を言って、診察室を出た。

 いつもならば、次の診察の予約を入れるのだが、私はI医師が紹介してくださった他の病院で開腹手術を受けることにしたので、もはや次の診察の予約を入れることはなかった。その代わり、六月に検査をしたMRI画像が入ったCD-ROMを焼いてくださり、I医師が書いてくださった紹介状とともに受け取った。

 I医師のいる病院で、紹介された病院への診察予約をしてくださることになったのだが、病院のスタッフによれば、私が手術を受けることになっている病院は、土曜日が休みだという。そのため、平日にI医師のいる病院に電話を掛けて、地域連携サービスに繋いでもらい、紹介先の病院の診察の予約を取ってくださいと言われたのだった。

 婦人科をあとにして、ロビーに出てみると、ガンモが待ってくれていた。ガンモは、
「お別れして来たのか?」
と私に言った。私は、そのときになって初めて、今回の診察がI医師による最後の診察であることを認識した。それなのに、開腹手術を受けることで頭がいっぱいで、I医師にこれまでお世話になったお礼をちゃんと言うことができなかった。I医師がまだ前の病院で診察をされていた頃からずっとお世話になっていたというのに・・・・・・。そのことに対する落ち込みと、紹介状をもらい、これまで受診したことのない大きな病院で手術を受けることへの不安を抱えながら、会計を済ませ、処方せんを受け取り、ガンモと一緒に帰省したのだった。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m ついに子宮全摘手術を受けることになりました。子宮筋腫を小さくするために、これまでいろいろなことを試して来ましたが、やはり根本的なところが解決されていないため、症状はどんどん悪化してしまいました。これを書いている時点では、既に手術を受ける病院での診察も済ませています。また他の記事も交えながら、続きを書かせていただきますね。

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2013.11.18

振り返り(16)

ホットヨガ(三五三回目)の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m たくさんの方たちから応援クリックを賜り、心より御礼申し上げます。ある事件に関するコメントで、日本の死刑制度に賛成されている方がとても多いことに驚きを覚えました。私は、死刑には反対です。何故なら、加害者が更正のチャンスを失ってしまうからです。被害者と加害者を切り離してしまうという、今の更正のプロセスにも問題があると思っています。映画『私たちの幸せな時間』を鑑賞したときにそう感じました。それでは、※振り返り(15)続きを書かせていただきます。

 私は、看護師の従姉から言われていた通り、実家から持って来た母の口紅を使って、母の口に紅を引いた。母の唇が、母自身のピンクの口紅で再び色付いた。

 母の唇で想い出すのは、闘病中の母が病院のベッドの上で、唇を震わせながら悲しみを堪(こら)えていた姿だった。父も私も、母が余命宣告を受けていることは母には伝えられなかったが、母は自分なりに、この病気がもうどうにもならないことを感じ取っていたのかもしれない。それまでずっと気丈な母だっただけに、母の震える唇を想い出すと、今でも辛い。夫婦であっても、親子であっても、深刻な病気を抱えている人の悲しみや辛さを外から体験するしかないのだ。

 さて、父と私は、実家から持って来た母の遺品を、斎場スタッフが用意してくださった遺品箱の中に入れた。翌朝の納棺の儀のときに、これらの遺品がお棺の中に入れられるのだ。

 私は、夕食をほとんど食べていなかったので、通夜のあとにみんなで食べた残り物を少しだけ食べた。

 その夜は、父と弟、そしてガンモと私の四人で斎場に泊まることになっていた。斎場に泊まるのは、義母が亡くなったときを加えると、二回目だろうか。義父が亡くなったときも斎場に泊まったような気もしているのだが、実際はそうではなかったかもしれない。

 斎場には宿泊できるようになっていて、布団やシャワーなどの設備がある。シャワールームには、ボディーソープやシャンプーはもちろん、バスタオルやフェイスタオルや歯ブラシまで備え付けられている。

 まず、父がシャワーを浴びた。そのあと、ガンモがシャワーを浴びて、続いて私も浴びた。

 シャワーを浴び終えて、みんなが布団に入ったのは、0時を回っていただろうか。父は前日の夜、ほとんど寝ていなかったというのに、やはり母を亡くした悲しみが深いせいか、何度も寝返りを打っていた。また、父は翌日の葬儀で喪主によるあいさつをすることになっていたので、あいさつの文言を頭で考えながら、布団の中でぶつぶつ言っていた。

 私も布団に入ったものの、なかなか寝付くことができなかった。時々母が寝ている布団に目をやり、ひょっとすると母が息をしているのではないかと思ったりした。しかし、母の布団が動くことはなかった。

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2013.11.16

ホットヨガ(三五三回目)

振り返り(15)の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m たくさんの方たちから応援クリックを賜り、心より御礼申し上げます。早いもので、また新しい週末がやって来ました。母の四十九日を終えた頃から、にわかに仕事が忙しくなり、毎日の残業に加え、今日は休日出勤しています。そのため、この週末は、ホットヨガのレッスンに通えそうにありません。とは言え、過去に受けたレッスンの内容を綴った下書き記事がいくつもありますので、今日はその中から最も古い記事を公開させていただきます。

 九月二十日金曜日の仕事帰りに、三宮店のスタジオでホットヨガのレッスンを受けた。この頃は、まだそれほど仕事が忙しくなく、定時退社日以外の日は、毎日一時間だけ残業をしている状態だった。そのため、十九時半から開催されているリラックスコースのレッスンには間に合わず、最終レッスンである二十時半から開催されている六十分の骨盤コースに参加することになった。

 三宮店では、三宮店のスタジオがリニューアル一周年を迎えたことを記念して、水素水のチャージキャンペーンが行われていた。ホットヨガは、水分補給を行いながらレッスンを受けるので、スタジオにも、レッスンに最適な水素水を供給するサーバが設置されている。このサーバを利用するときは、チャージ式のカードにポイントをチャージして利用するようになっている。

 今回のキャンペーンでは、水素水のチャージ式のカードに三千円分のチャージをすると、折り畳み式の水入れをもらえることになっていた。私は、去年のリニューアル記念のときにこの折り畳み式の水入れをもらい損ねてしまったので、水素水を三千円分チャージして、折り畳み式の水入れをもらえてうれしかった。確か、去年は無地の入れ物だったと思うが、今年は柄付きの入れ物だった。

 さて、レッスンの参加者は十名で、レッスンを担当してくださったのは、先週もレッスンを担当してくださった新米インストラクターさんである。

 このレッスンに参加すると、十九時半から行われているリラックスコースのレッスンを終えたばかりの方たちがいつも遅れて参加される。この日も、リラックスコースのレッスンを終えたばかりの何人かの方たちが遅れてスタジオに入って来られた。

 更年期障害のために上半身がほてりやすくなっている私は、今回もタオル地のターバンを頭に着けてレッスンに臨んだ。そうしなければ、顔からタラタラと汗が流れて来るからだ。おかげで、タオル地のターバンが顔に流れて来る汗をせき止めてくれたので助かった。それでもやはり、スタジオの暑さには弱く、レッスンの途中で何度かスタジオの外に出て休んだ。

 レッスンを終えて着替えを済ませると、いつの間にか最終退出者になってしまっていた。腹巻きや靴下の重ね履きが多いので、他の人よりも着替えに時間が掛かってしまうのだ。夜の遅い時間になると、着替え後のメイクに力を入れる方たちもいらっしゃらないので、もたもたしていると取り残されてしまうのである。

 この日は三連休の前日だった。いつもならば、夜行高速バスに乗って帰省するのだが、ガンモも三連休に休みを取ってくれていたので、翌日から、ガンモの運転するカングーに乗って帰省することになっていた。ここのところ、私の実家にばかり帰省していたので、お彼岸ということで、義母や義父のお墓参りをしてから帰省することになった。

 それにしても、金曜日の夜の最終レッスンに参加したあと、二十二時過ぎに電車に乗ると、電車の中はお酒を飲んでゴキゲンな人たちでいっぱいである。電車の中だけでなく、三宮店のスタジオを出てエレベータを利用するときも、スタジオと同じビルの中の飲食店から出て来たゴキゲンな方たちと同乗することにもなる。そんなこんなで、今の私の気分とシンクロしない現象に戸惑いながら、複雑な気持ちで帰宅したのだった。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m 三連休の前日でも、飲みに出掛ける方は多いのですね。お酒を飲んでゴキゲンな人たちと、気持ちが沈んでしまっている私との間に、何だかギャップを感じてしまいました。

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2013.11.13

振り返り(15)

振り返り(14)の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m たくさんの方たちから応援クリックを賜り、心より御礼申し上げます。以前の記事でご紹介させていただいたKarenさんのcare and shareで推薦されていた【送料無料】永遠の別れ [ エリザベス・キューブラー・ロス ]を読み始めました。近親者を亡くした人が癒される本です。まだ読み始めたばかりですが、とても内容が深く、私にとって、忘れられない本になりそうです。もしも、近親者を亡くして辛い想いをされている方がいらっしゃいましたら、私からもお勧めしますので、読んでみてください。それでは、振り返り(14)の続きを書かせていただきます。

 母の想い出の品々を集める作業は、思いのほか手間取った。お棺の中に入れてあげたいものは、もっともっとたくさんあるはずなのに、冷静になれないためか、なかなかはかどらなかった。もちろん、看護師の従姉から言われていた母の口紅は、一番最初に探し出して、用意したエコバッグの中に入れていた。父も、あたふたしながらも、お米やビニール袋、母が使っていたお茶碗などを揃えてくれた。

 母が庭で育てていた花も持参したかったが、既に夜の遅い時間だったので外は暗く、お棺の中に入れてあげるのに適当な花を探すことが困難だった。また、母が大好きだったスイカも入れてあげたかったが、食品を購入するためにいつも利用している実家近くのスーパーはもう閉まっていた。

 父と私が実家に帰った切り、鉄砲玉のように戻って来ないので、斎場でしびれを切らした弟から電話があった。弟によれば、弟の古い友人が斎場に来てくれていて、久し振りに私に会いたいとのことだった。そのため、私が斎場に戻る時間を確認したかったようだ。しかし、私が、まだしばらく掛かることを伝えると、弟の古い友人は、翌日、わざわざ仕事を休んで母の葬儀に参列してくれることになった。

 私も、母が息を引き取ったことを小学校時代の友人にメールで知らせていた。彼女は、母が入院しているときに、差し入れを持ってやって来てくれた友人である。何と、彼女から、母にお別れに行きたいので、葬儀の時間と場所を教えて欲しいというメールが届いていた。有り難いことである。私は、彼女に葬儀の時間と場所を知らせるメールを送った。

 やがて、父と私は実家をあとにして、深夜営業のスーパーに足を運んだ。そのスーパーに、母が好きだったスイカと、免疫力アップのために良く食べていたバナナを見付けたので買ってみた。しかし、いつも購入しているスイカやバナナよりも量が少なかったので、翌朝、父が七時から営業している実家近くのスーパーに出向いて買って来てくれることになった。そして、父はそのときにもう一度実家に戻り、母が大事に育てていた花を摘んで来てくれることになった。

 深夜営業のスーパーで、父は知り合いの男性に会ったようだ。父はその男性に、母が息を引き取り、翌日、葬儀を行うことを話していた。私は、その男性が誰だかわからなかったので、父の横で会話に参加せずに静かに控えていた。

 スーパーを出てから父に、先ほどの男性が誰なのかを尋ねてみると、父と母がお世話になっているMさんであることがわかった。母と毎日電話で会話をしていた中で、Mさんのこともしばしば話題に昇っていた。Mさんは、少し前に私よりも一歳年下の息子さんを亡くされたばかりだった。母は、深い悲しみの中にあるであろうMさんに、どのように接したらいいのかわからないと言っていた。

 そんなMさんが、息子さんの亡きあと、あるとき私の実家にひょっこり現れたそうだ。何と、父と母のために栄養価の高い卵を持って来てくださったという。私は、「こちらから歩み寄らなければならない状況なのに、Mさんのほうから歩み寄ってくれたなんて、何だか申し訳ないね」というようなことを母に話した。

 深夜営業のスーパーをあとにして、父と私が斎場に戻ったのは、二十二時半を回った頃だった。そのときに驚いたのは、従兄がまだ斎場に残ってくれていたことである。従兄は、まだ何か、私たちの力になれることがあるのではないかと気を遣ってくれていたらしい。従兄は、数年前に大病をしてひどく痩せて、そのあと、育ての親である伯母を亡くした。

 深夜営業のスーパーで会ったMさんと言い、遅くまで斎場に残ってくれていた従兄と言い、深い悲しみや辛さを体験して来た人たちは、こうしたさりげない優しさを惜しみなく他者に分け与えることができる有り難い存在なのだと実感した。彼らの優しさは本物った。

 私は従兄に、遅くまで残ってもらったお礼を言い、明日もあるので早く帰って休んでと言った。あとからガンモに聞いてみると、父と私が実家に帰っている間、ガンモは従兄と話をしていたそうだ。口ベタなガンモが私の従兄と話をするくらいだから、きっと実りのある会話だったのだろう。

 従兄を見送って時計を見ると、もう二十三時を回っていた。私は、母の兄弟が通夜に来てくれていなかったことがとても気になっていたので、今から母の兄弟に電話を掛けようかどうしようかと迷っていた。弟は、電話を掛けるなら、例え夜遅い時間であったとしても、今からのほうがいいと言ってくれたのだが、私は、田舎に住む人たちの夜がとても早いことを知っていたので、翌朝七時に電話を掛けることにしたのだった。

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2013.11.10

振り返り(14)

ホットヨガ(三五二回目)の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m たくさんの方たちから応援クリックを賜り、心より御礼申し上げます。茨城県を中心に大きな地震がありましたが、関東地方にお住まいの皆さん、お怪我などはありませんでしたでしょうか。少し前に発生した地震に引き続き、今回も東日本大震災の余震とのことですが、それにしても、比較的大きな余震ですよね。東日本大震災以来、地震の数も規模も増加傾向にあるように思います。不安定な環境の中にあっても、何とか生き抜いて行かなければなりません。みんなそれぞれに、大きな課題を抱えながら生きて行く時代ががやって来ているのかもしれませんね。それでは、振り返り(13)の続きを書かせていただきます。

 通夜のあと、親戚の人たちがそれとなく話をしている中で、従兄が看護師の従姉に向かって、
「夜勤明けなんじゃろ<夜勤明けなんだろ)? 今日はもう帰ったら」
と言った。私は、看護師の従姉が夜勤明けで母の臨終に付き合ってくれたことは聞いていたが、父が帰宅している間に母が入院していた病室の後片付けもしてくれて、そのあと喪服に着替えて通夜に参列してくれたというのに、従兄が口にしたその言葉が先に出て来なかったことを恥じた。従兄のその言葉で、みんなが看護師の従姉のことを気遣ったので、看護師の従姉も、やや遠慮がちに、
「それでは、お先に失礼します」
と言って、みんなにあいさつをして立ち上がった。私も看護師の従姉に厚くお礼を言い、通夜が行われた控え室から看護師の従姉を見送った。そのときに、母のあごを支えていた大きな白いシュシュのようなものを処分しておいてくれるということと、口紅の件についても再び触れられた。看護師の従姉には、何から何までお世話になり、本当に有難いと思った。

 看護師の従姉が帰ると、他の親戚の人たちもぱらぱらと席を立って帰り始めた。誰もが翌日の葬儀にも参列してくれるようだった。それでも、何人かの親戚の人たちはまだ残ってくれていた。

 そんな中、女性の斎場スタッフが打ち合わせにやって来た。翌日の葬儀は十一時から行われることになっていたのだが、その前の九時に納棺の儀を行うという。納棺の儀とは、控え室の布団の上に寝かされている母の亡骸をお棺に納めるための儀式である。母の亡骸は、納棺の儀を経てお棺の中に納められ、お棺ごと祭壇の前に安置されるのだ。

 また、母がどのような人生を生きたかについて、斎場スタッフに尋ねられた。葬儀のときに、母の生きて来た人生が言葉で語られるという。父と私は、母が花をこよなく愛したことと、十年に渡り、母が実母(すなわち、私から見れば祖母)の世話をしたことを話した。

 納棺の儀のときに、母が好きだったものをお棺の中に入れてあげることになっていたので、父と弟、そして私で手分けして実家に戻り、母の想い出の品々を持参することになった。まだ親戚の人たちが残ってくれていたので、まずは弟が一人で実家に戻り、母が好きだった飼い猫の写真を携帯電話のカメラに収め、プリントアウトしてくれた。そのあと、父と私が一緒に実家に戻り、お棺の中に入れてあげる品々を探した。それとは別に、父は、母があちらの世界に持って行くためのお米や、葬儀のあとに割ることになっている、これまで母が使っていたお茶碗を用意した。また、近所に住む父の姉(すなわち、私から見れば伯母)も一緒に付き合ってくれて、母の想い出の品々を一生懸命、探し回った。

 父も私も冷静ではなかったので、できるだけ効率良く作業するために、用意すべきものを手帳にリストアップしておいた。そして、それらをまとめて斎場に持ち込むために新品のエコバッグを用意して、その中に次々に詰めて行った。

 私は、母が良く着ていたものを探してエコバッグに詰めた。母の普段着を目にするのはとても辛かった。冬になると、母は好んでロングスカートを履いていたのだが、そのロングスカートを伯母が見付けてくれたので、そのロングスカートも用意したエコバッグに詰めた。

 また、母は抗がん剤と全脳照射による放射線治療の副作用で髪の毛が抜けてしまっていたので、私が贈った医療用かつらをかぶせてあげたいと思っていた。しかし、家中、どこを探しても、そられの医療用かつらは見当たらなかった。母にはいくつかの医療用かつらを贈っていたのだが、最初のうちは、白髪の医療用かつらがあることを知らなかったので、栗色の医療用かつらを購入してしまった。しかし、母は、栗色の医療用かつらはあまりにも若々しすぎると言って、かぶるのを躊躇していた。その後、白髪の医療用かつらをようやく入手することができたので、再びいくつか購入して贈ったのだが、そのどれもが行方不明の状態だったのだ。最初のほうに贈った栗色の医療用かつらは見付かったのだが、母が着けるのを躊躇していた医療用かつらをかぶせてあげるわけにはいかなかった。

 思えば、最初に入院した病院には、私があとから贈った白髪の医療用かつらを持ち込んでいたはずなのだが、転院してからは、母は特に何もかぶらずに過ごしていた。わざわざ医療用かつらをかぶるのが煩わしいと思っていたのか、もはや医療用かつらをかぶるほどの精神的な余裕がなくなってしまったかのどちらかである。

 しかし、そんな母を気の毒に思ってくれたのか、母が医療用かつらを持っているとは知らずに、母の従姉が母のために肌ざわりの良い帽子を作ってくれた。母が息を引き取ったとき、病室にあったその帽子を誰かがかぶせてくれたようだった。とは言え、実は母は、最初に入院していた病院でお世話になっていた看護師さんからいただいた手作りの帽子がとても気に入っていて、最初に入院した病院でも、毎日のようにかぶっていたのだった。ところが、転院したあといったん退院し、救急車で急搬送されてからは、そのお気に入りの帽子もかぶらなくなった。そのお気に入りの帽子を探してみたのだが、父に聞いても、どこにあるかわからない状態だった。おそらく、病室でもうかぶらなくなってしまったので、父がどこかに片付けてしまったのだと思う。

 私は、白髪の医療用かつらも、母が気に入ってかぶっていた手作りの帽子も見当たらないことにやきもきしていた。それでも、母のために帽子を手作りしてくれた母の従姉が、母が息を引き取ったあとに病室に来てくれて、自分がプレゼントした帽子を母がかぶっているのを見て喜んでいたと看護師の従姉から聞いていた。それならば、その帽子をかぶったままで納棺してもらおうということになった。

 他にも、伯母にも見てもらいながら、母が持っていた着物の中から、最も適当な一枚を選び出した。医師から余命宣告を受けていたのなら、こうした準備を予め行っておくという方法もあったのかもしれないが、父も私も、それはできなかった。何故なら、帰省するときに喪服を持ち帰る罪悪感と同じように、母がまだ生きている状態で、母が亡くなったときのことを考えて行動するのは、やはり罪悪感と悲しみを伴うことになるからだ。

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2013.11.07

ホットヨガ(三五二回目)

振り返り(13)の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m 母のことは、今後も継続的に綴って行きます。その一方で、ホットヨガのレッスンに関する記事の更新がしばらく止まってしまっているので、こちらも少しずつ書かせていただくことにします。

 母が亡くなった次の週の九月十三日金曜日の夜、仕事帰りに三宮店のスタジオに出向き、ホットヨガのレッスンを受けた。その二日前まで休暇を取って、愛媛の実家で過ごしていたのだが、一週間、仕事を休んでいたので、仕事に出掛けて行くために、兵庫に帰って来ていたのだ。それでも、その週末が三連休だったので、またまた帰省するつもりで、夜行高速バスに乗車する前に六十分の骨盤コースのレッスンを受けたというわけなのである。

 新米のインストラクターさんが、インドのちょっとしたお土産をくださった。学生時代にインドを旅行されたそうで、そのときにお友達へのお土産用にたくさん購入されたものがまだ手元に残っていたらしい。私がいつもインドの神様Tシャツを着ているので、わざわざ持って来てくださったのだ。見てみると、インドの様々な神様の絵が描かれたポストカードブックだった。あまりにもインドらしくて、何だか使ってしまうのがもったいない。一枚ずるばらして、オフィスの机に貼るのもいいかもしれないし、あるいはスキャナでスキャンして、パソコンの壁紙として取り込んでもいいかもしれない。

 さて、レッスンの参加者は九名で、レッスンを担当してくださったのは、インドのお土産をくださった新米インストラクターさんである。

 久し振りにレッスンを受けたというのに、不思議と疲れが出なかった。骨盤コースのレッスンを受けると、いつも息切れしてしまうはずなのに、一体どうしたのだろう。それでも、私にはほてりがあるため、スタジオの暑さにはかなわず、レッスンの途中でスタジオの外に出ることになった。そして、何と、一レッスンわずか千五百円の割引チケットが販売されることを知ったのだ。どうやら、三宮店がリニューアルしてから一周年を記念する企画チケットのようだ。どう考えても、一回のレッスンを千五百円で受けられるのは安い。しかし、もともと私は五十回回数券を購入しておきながら、ここのところ、あまりレッスンに通うことができず、回数券を消費できていない。そのため、一回千五百円の企画チケットを新たに購入したとしても、またまた余らせてしまう可能性が大きかった。

 その企画チケットに興味を示していると、企画チケットについて、スタッフが説明をしてくださった。その企画チケットは、特に、有効期限の長い回数券を持っている人にお勧めしたいチケットなのだそうだ。というのも、企画チケットの有効期限はわずか一ヶ月しかないので、企画チケットを購入した場合、先に企画チケットを消費してレッスンを受けておいて、有効期限の長い通常の回数券をあとから消費する形を取るといいらしいのだ。

 私は、一回わずか千五百円という企画チケットに魅力を感じて、レッスン中だというのに、スタッフの話に聞き入ってしまった。しかし、冷静になって考えてみると、やはり企画チケットを購入しても、通常の回数券を余らせてしまうのではないかという気がしてならなかった。企画チケットの説明に聞き入っているうちに時間が過ぎてしまったので、私は慌ててスタジオに戻り、続きのレッスンを受けた。

 今回も、顔からタラタラと汗が噴出して来たので、頭に着けたタオル地のターバンが役に立った。タオル地のターバンのおかげで、頭を伝って噴き出て来る汗を頭の上でせき止めることができたからだ。

 シャワーを浴びたあと、もたもたしていたため、退出するのは一番最後になってしまった。三宮店のスタジオをあとにして、スタジオのすぐ側で、母と電話で話をしていたことを思い出し、悲しさと寂しさがこみ上げて来た。母と話ができる間は、私は毎日、決まった時間に母に電話を掛けていた。そのため、レッスンを受ける少し前に、母と電話で話をすることも良くあったのだ。その頃のことが懐かしくてたまらなかった。しかし、もう、二度と戻らない。これからも、レッスンに通う度に、同じ場所を通過することになるだろう。その場所を通過する度に涙するのだろうか。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m 企画チケットの説明を受けているときに、スタッフが私の参加ペースが落ちていることを指摘してくださったのですが、母が亡くなったことは言えませんでした。やはり対話は凸凹なので、こういう話は、相手が受身になってくれている状態でないと、なかなか話し辛いものですね。

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2013.11.04

振り返り(13)

振り返り(12)の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m たくさんの方たちから応援クリックを賜り、心より御礼申し上げます。インターネットを徘徊しながら、Karenさんという方が書かれているcare and shareというブログを見付けました。Karenさんがブログに綴られている内容は、これまで私が感じて来た悲しみにとても近いように思います。お母さまを亡くされてから、人とのコミュニケーションに求めるものが変わって来たというのも同じです。Karenさんのお仕事は翻訳家なのでしょうか。親が亡くなったときに自分を癒す方法という記事も書かれていて、その内容にとても癒されます。この記事の原文は、こちらでも紹介されています。私は、このブログの管理人であるKarenさんが、ブログに書き込まれた一つ一つのコメントに対し、とても丁寧に心を込めて返信されている姿に心を打たれました。こういう心のこもった返信は、綴った人の想いがいつまでもそこにあるような気がしますね。また、私もいつか綴ろうと思っていたのですが、Karenさんは大切な人を亡くした友達のためにできること2という記事も書かれていて、またまた共感できることがたくさんありました。私もいつか記事にまとめますね。それでは、振り返り(12)の続きを書かせていただきます。

 十九時少し前に、お坊さんが到着されたと、斎場スタッフから父に連絡があった。父は用意していたお布施などを持って、お坊さんの控え室を訪れた。お坊さんはしばらくすると、通夜の会場となる控え室に入って来られた。三十代後半から四十代前半くらいの年齢のお坊さんだった。

 真言宗のお坊さんの動作は、さすが密教と言われているだけあって、これまで私が身近で体験して来た浄土真宗のお坊さんの動作とはまったく異なっていた。動作の中には、どこか儀式的なところもあった。思えば、私が真言宗の通夜や葬儀に参列したのは、小学校四年生のときに父方の祖父が亡くなったときだけではないだろうか。祖母が亡くなったときは、私は広島で一人暮らしをしながら浪人中で、大学受験の本番を控え、ちょうど予備校の合宿に参加している最中だった。そのため、母が私に動揺を与えないようにと気遣って、祖母が亡くなったことを私に伏せてくれていたのだった。そんな背景から、祖母の葬儀には参列していない。しかし、合宿のあと、私は祖母に呼び寄せられるかのように、自ら帰省したのを覚えている。

 そんな状況だったので、真言宗のお作法に驚きを覚えた。おそらく、小学校四年生のときも体験しているはずなのだが、どのようなお作法であったのかを、すっかり忘れてしまっていたのだ。インターネットで検索してみても、真言宗の通夜や葬儀はとても印象的だと書かれていた。

 とは言え、お経はこれまで聞いたことのあるものが多かった。特に、般若心経は子供の頃から慣れ親しんでいたので、ほとんど空(そら)で唱えることができた。また、真言十三仏に対する真言も、私自身が仏像好きであるため、知っているものが多かった。

 通夜を終えたあと、母に与えられた戒名について、お坊さんが説明をしてくださった。母は花が好きだったので、花を意味する漢字が一文字使われ、母の名前の一部も、その漢字そのものではないが、それと近い意味の漢字が一文字使われていた。

 更にお坊さんは、法話を聞かせてくださった。その内容は、「末期(まつご)の水」に関するものだった。ご存知のように、「末期の水」とは、亡くなった人の唇を最期の水で湿らせてあげることである。私の実家方面では、一葉だけのしきび(しきみ)の葉を水で濡らして、亡くなった人の唇を湿らせてあげている。

 お坊さんの法話によると、その昔、お釈迦様が亡くなられる直前に水を飲みたいとおっしゃったので、弟子が川に水を汲みに行ったところ、あいにく、川の水がとても濁っていたので、水を汲まずにお釈迦さまのところにそのまま戻ったそうだ。しかし、お釈迦さまはどうしてみ水を飲みたいとおっしゃり、水が澄んでいる川の名前を弟子に告げたところ、実際にその川に弟子が出向いてみると、とてもきれいな水が流れていたので、弟子はその川の水を汲んでお釈迦さまに飲んでいただいたそうだ。「末期の水」は、そうした話から来ているという。

 私は、肺炎を引き起こしたために、水分をろくに取ることができなかった母の唇に、しきびの葉に水を含ませて何度も飲ませてあげた。母の安らかな顔は、娘の私が言うのも変だが、とてもかわいらしいと感じた。

 お坊さんが退出されたあとは、注文しておいたお寿司の盛り合わせを親族でいただくことになった。しかし、私は食欲がなく、ほとんど食べることができなかった。人数をしっかりと把握できていなかったので、お寿司の盛り合わせが足りるかどうか心配だったが、ほんの少し余っただけなので、ちょうど良かったようだ。親戚の女性たちがお茶を入れるのを手伝ってくれて、有り難かった。

 ただ、私は、母の弟や妹が通夜に来てくれていないことが気になっていた。実は、母は、少しの間、自分の兄弟と疎遠になってしまっていた。母の入院中も、お見舞いに来てくれたりはしたのだが、気まずくなるような出来事もあり、父は母の従弟や従姉に、母の兄弟への連絡をお願いしたという。しかし、通夜に駆けつけてくれた母の従弟や従姉の話によると、三人いるはずの母の兄弟の誰にも電話が繋がらなかったというのだ。そのため、通夜のことを知らず、通夜に足を運んでくれなかったようだ。私は、そのことが気になってはいたのだが、斎場スタッフとの今後の打ち合わせも入ったり、翌朝、行われることになっている納棺のために、実家に戻って母の想い出の品々を用意しなければならなかったりと、とても慌しい状況に陥ってしまったのだった。

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2013.11.01

振り返り(12)

振り返り(11)の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m たくさんの方たちから応援クリックを賜り、心より御礼申し上げます。一年前にお父さまを亡くしてしまった友人に、母のことをメールで報告したところ、実にバタバタとした状況で簡単な返事が返って来ました。まずはそのことに驚いたのですが、お父さまを亡くしてしまっても、悲しみはそれほど深くはないので大丈夫とも書かれてあり、更に驚きました。それに加え、お父さまが亡くなられてからの細々(こまごま)とした用事が面倒だとも書かれていたので、またまた驚きました。彼女も私と同じように、実家から離れたところで暮らしているのですが、「面倒だ」という表現に唖然としてしまったわけです。親を亡くしたとしても、必ずしもみんなが同じ想いを共有できるわけではないのですね。私は、親を亡くした悲しみが深く、親への愛情も深い人たちと、今のこの想いを共有して行きたいと思いました。それでは、振り返り(11)の続きを書かせていただきます。

 通夜には、母の臨終に付き添ってくれた従姉の看護師も駆けつけてくれた。母の唇に口紅がぬられていると思ったら、何と、従姉が自前の口紅をぬってくれたのだという。「ピンクの口紅が好きな人じゃったけん(好きな人だったから)、今まで使いよった(使っていた)口紅を探してぬってあげて。もし、なかったら、うちの母の口紅をぬってあげたらええけん(ぬってあげたらいいから)」
と言ってくれた。すぐ側で、従姉の母、すなわち私の伯母も、「うんうん」とうなずいてくれていた。私は、そこまで気が回らなかったので、とても有り難いと思った。従姉が、自分の使っていた口紅を母にぬってくれたことは感動的だった。中途半端な感情では、とてもできない行為だと思ったからだ。

 また、従姉の看護師は、母の顎(あご)に白い大きなシュシュのようなものが着いているのを見て、
「これはもう外してもかまんのよ(外してもいいのよ)。顎が開かんように着けとっただけじゃけん(開かないように着けていただけだから)」
と言って、母の顎に着いていた白い大きなシュシュのようなものを慎重に取ってくれた。従姉の看護師曰く、その白い大きなシュシュのようなものは、死後硬直してしまう前に、顎を閉じて固定させておくためのものだったらしい。

 改めて従姉にお礼を言うと、従姉は、
「(父に)あれだけ看てもろて(看てもらって)(母は)幸せじゃねえゆうて(幸せだねえと言って)、みんな言いよったよ(言っていたよ)。ほんとに、看護師さんがみんな言いよった(言っていた)」
と言ってくれた。

 従姉の看護師は、母が入院していた階のすぐ上の階の担当だった。それでも従姉が、母の入院していた階の看護師さんたちと話をすると、父と母のことが話題に昇り、父が足繁く病室に通っていることを微笑ましく思っていると話してくれたそうだ。

 思えば、最初に入院していた病院の看護師さんたちからも同じことを言われていた。それもそのはずで、片道四十分掛かる道のりを、父は毎日、通ってくれたのだから。そして、地元の病院に転院してからも毎日、病院に通い、母にご飯を食べさせてくれて、私が帰省する週末以外の夜は病室に泊まり込んでくれていたのだ。そんな両親の夫婦仲の良さは、私の誇りでもあった。

 また、母には、肺がんが発覚してから、毎日、電話を掛けて来てくれる友人がいた。その方は既に九十歳を越えていて、まだ七十歳だった母とは親子ほど年が離れている方である。近所に住んでいる方なのだが、足の具合が良くないため、電話での交流がメインだったようだ。その方も、ご自身の親戚の方に付き添われて通夜の会場に駆けつけてくださった。聞くところによると、母が息を引き取ってから、病室にも足を運んでくださったそうだ。何と有り難いことだろう。

 こんなふうに、母を大切に想ってくださる方たちに囲まれて、母の通夜は間もなく始まろうとしていた。

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