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2013年10月

2013.10.28

振り返り(11)

振り返り(10)の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m たくさんの方たちから応援クリックを賜り、心より御礼申し上げます。今回の台風の被害はそれほど大きくはなかったようで、安心しました。さて、私はと言えば、相変わらず、親を亡くした人たちの書き込みを拝見しては胸を痛めています。やはり親を亡くすと、時間が経っても、なかなかその傷が癒えないという方が多いですね。私が拝見した書き込みの中には、末期がんと宣告され、わずか二週間で親を亡くされた方もいらっしゃいました。ただ、末期がんと言っても、幅はずいぶん広いと思います。一般的には、原発巣(肺がんなら、肺)以外に他の臓器に転移がある(ステージIV)と末期がんになりますが、例え末期がんであったとしても、抗がん剤などの治療を受けて、がん細胞の増殖を抑えることができる場合があります。母の場合も、末期がんと診断されてからおよそ二年間に渡り、分子標的薬あるいは抗がん剤などによる治療を受けて来ました。しかし、がん細胞が増殖して来ると、それ以上の治療は望めない状態に達してしまうことがあります。その状態のことは、末期がんというよりも、がんの終末期(ターミナル期)と呼ばれています。がんの終末期を迎えると、がん細胞をやっつける治療は行わずに、緩和治療を行うことになります。がん細胞をやっつける治療が能動的な治療ならば、緩和治療は受動的な治療と言ってもいいかもしれません。母の場合は、転移性脳腫瘍がもはや手を付けられない状態になってしまったときに、全脳照射という一生に一回しか受けられない能動的な放射線治療を受けたあと、地元の病院に移り、転移性脳腫瘍から来る脳の腫れを抑える受動的な緩和治療に入りました。「末期がんで亡くなった」という書き方をされている方が多いようですが、末期がんが必ずしも死に直結しているわけではないことをお伝えしておきたいと思います。

 通夜や葬儀を行うにあたり、私の従兄がわざわざお寺に出向き、用意すべきお布施などの金額を聞いて来てくれた。こうした情報は、かつてはなかなかオープンにはされなかったようだが、最近はお寺さんもオープンに教えてくださるらしい。

 父は末っ子なので、私の実家にはまだお墓も仏壇もなかった。家の造りとしての仏壇はあるのだが、仏壇店で売られているような仏壇を据えているわけではなかった。そのため、お寺さんとのお付き合いは、今回が初めてということになる。

 私の実家の宗派は真言宗なのだが、母の通夜と葬儀には、一人だけのお坊さんに来ていただくことになった。私たちは、従兄がわざわざお寺まで出向いて聞いて来てくれたお布施などの金額を見て驚いた。これまで、ガンモの実家方面で浄土真宗の葬儀を経験して来たが、真言宗のお寺さんから提示された金額は、浄土真宗で二人のお坊さんにお願いして供養をしていただく金額とほぼ同額だったからである。あとからインターネットを調べてわかったのだが、真言宗は他の宗派よりもお布施の金額が割高なのだそうだ。

 そんなとき、父の兄、すなわち私から見れば伯父が、「これ、使って。内緒やけど(内緒だけど)」と言って、○十万円を何にも包まずに裸のままポンと渡してくれた。伯父は金銭的には恵まれている人なので、ありがたく受け取らせていただいた。

 そして、伯父の息子、すなわち私から見れば従兄が、お坊さんにどのようにお布施をお渡しするかの作法について、伝授してくれた。従兄は、数年前に母親、すなわち私から見れば伯母を亡くしているのだ。私はそのとき、帰省せずに、母にお香典だけを託していたというのに、従兄はこうして母の通夜と葬儀に足を運んでくれているのだった。

 他の従兄や従姉も、惜しみなく力を貸してくれたので、高校を卒業したあと、実家を離れて暮らしていた私は、地元に残って生活することの大切さを思い知らされた。私も地元に残っていれば、こうした助け合いの精神がおのずと育まれていたはずなのだ。

 通夜の時間が近付くにつれ、親戚の人たちや母と交流のあった人たちが次々に斎場に足を運んでくれた。

 その中に、母の友人が二人いた。私が先ほど電話を掛けた友人たちではなかったのだが、その中の一人は私が小さい頃にお目に掛かったことのある方だった。通夜では受付をしてくれる人がいなかったので、その場で私がお二人からのお香典を預かることになった。通夜に足を運んでくださった方たちは、葬儀にも来てくださる方たちばかりだったので、通夜の受付は誰にもお願いしていなかったのだ。しかし、その方たちは、通夜にしか参列できないという理由から、わざわざお香典を持って来てくださったのだった。

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2013.10.23

振り返り(10)

振り返り(9)の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m 先日の台風で大きな被害が出たばかりだというのに、またしても大型台風がやって来ていますね。これから先、どんなに技術が発達したとしても、大型台風から人々を守ることができるような技術は生まれないのでしょうか。前回、大きな被害が出た地域への被害が少ないまま通り過ぎてくれるといいですね。私たちも、来るべき台風に備えましょう。さて、月日が経つのは早いもので、先日の日曜日に、母の四十九日の法要を終えました。父も私も、何だか気が抜けたような感じです。四十九日の法要を終えたとしても、気持ちはなかなか現実には追いつかないものですね。それでは、振り返り(9)の続きを書かせていただきます。

 ガンモと私はカングーから降りると、喪服と必要最小限のものだけを手に持って、通夜の会場へと足を踏み入れた。その日に行われるのは母の通夜だけだった。斎場スタッフに案内されて控え室に向かうと、既に何人かの親戚の人たちが集まってくれていた。私が帰省しているときに母を見舞ってくれた人たちとはしばしば顔を合わせていたが、集まってくれていた親戚の人たちの中には、もう何年も顔を合わせていない人たちもいた。

 既に何人かの親戚の人たちが集まってくれているということは、もはや家族葬で母を送る選択肢はないだろうと思った。私自身の中にも、家族葬で母を送るよりも通常の葬儀のほうがいいのではないかという想いが芽生えていたので、その流れには逆らわなかった。

 母の亡骸は、きれいな布団の上に寝かされ、顔には上品な白い布がかぶせられていた。私は荷物を置くと、母が横たわっている枕元に座り、母の顔に被せられている上品な白い布をそっとめくった。

 そこには、この世のすべての時間が止まってしまった母の穏やかな顔があった。その顔を見た途端、私は父から聞いていた通り、母がほとんど苦しむことなく息を引き取ったことを確信した。母の魂が肉体を去ってしまった悲しみは込み上げて来たものの、肺がんを患いながらも、肉体の苦しみに支配されることなく静かに息を引き取ったことがせめてもの救いだと思った。

 ただ、驚かれるかもしれないが、母はまだ満七十歳だった。母は二十歳のときに、当時二十三歳だった父とお見合い結婚して、二年後に長女である私を生んでくれた。その私が今年、年女なので、父と母はあと三ヶ月で金婚式を迎えられるはずだったのだ。

 私は、愛情を込めて母の頬を撫でてみた。既に体温を失ってしまった母の頬は冷たくなっていた。それでも、表情だけはとても穏やかだった。

 悲しみが込み上げて来ても、私たちは前に進んで行かなければならなかった。私はまず、母の携帯電話に登録された情報を頼りに、先ほど自宅に足を運んでくださったという母の友人に電話を掛けた。私自身は、その方と面識があったので、電話を掛け易かった。そして、電話に出てくださった母の友人に、十九時から通夜を行うこと、翌日の十一時から葬儀を行うことを伝え、よろしければ足を運んでくださいとお願いした。すると、ありがたいことに、通夜にも葬儀にも足を運んでくださると答えてくださった。

 そして私は、もう一人の母の友人に電話を掛けた。その友人は、しばしば野菜を分けてくださったり、母が入院しているときに電話を掛けて来てくださったりした方だ。母からも、何度となくその方の話を聞いていたし、入院中の母が電話に出られないときに、私が代わりに電話に出たこともあったのだ。その方は、通夜には足を運べないものの、葬儀には参列してくださると答えてくださった。

 喪主となった父は、いろいろなことで頭がいっぱいのようだった。通夜や葬儀を行うに当たり、決めなければならないことや用意しなければならないものがいくつもあった。ガンモや私は、義母と義父の葬儀で喪主代行や喪主を経験しているのだが、末っ子の父は、身近な人の葬儀で喪主を務めるのは初めてだったようだ。

 斎場スタッフが、通夜や葬儀に来てくださる方たちにどのようなお料理をお出ししておもてなしをするかの判断を父に委ねていた。そのため、私たちは通夜や葬儀に来てくださる方たちのおおよその人数を把握しておく必要があった。その結果、通夜に来てくださる方たちには大皿のお寿司を用意し、葬儀に足を運んでくれる親族には、一人一人、お料理を用意することになった。

 今回、初めて知ったのだが、私の出身地にある火葬場では、火葬している間、火葬場に用意された控え室で親族が集まって軽い食事をすることになるのだそうだ。そのための大皿料理も注文する必要があった。

 これまでに、ガンモの実家方面でいくつかの葬儀を経験して来た私たちだったが、ガンモの実家方面では、火葬が始まるといったん斎場に戻り、火葬が終わるまで斎場で軽い食事をしながら待機していた。そして、火葬が終わる頃に再び火葬場に出向き、骨を拾い、そのあと再び斎場に戻り、初七日の法要を行う流れになっていた。本格的な料理を食べるのは、初七日の法要のあとだった。

 しかし、私の実家方面では、葬儀のあとに初七日の法要も行ってから親族で火葬場に出向き、火葬している間に、火葬場に用意された控え室で簡単な料理を食べることになっていた。そして、簡単な料理を食べている間に火葬が終わると、骨を拾ってから斎場に戻り、本格的な料理を食べるという流れだった。

 それにしても、午前中に亡くなってしまうと、その日のうちに通夜をして、翌日には葬儀をして火葬することになるというのは、あまりにも流れが速すぎるのではないだろうか。せめて三日ほど掛けてゆっくりとお別れをしたいものだと思った。しかし、私たちはそんなことをじっくりと考える余裕もなく、定められた予定を次々にこなして行かなければならなかったのだ。

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2013.10.18

振り返り(9)

振り返り(8)の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m たくさんの方たちから応援クリックを賜り、心より御礼申し上げます。台風の被害があまりにも大き過ぎて驚いています。伊豆大島でたくさんの方たちが亡くなられましたね。まだ行方不明の方たちもたくさんいらっしゃるようです。行方不明の方たちが、例え怪我をしている状態であったとしても、命の輝きがある状態で救出されることをお祈りするとともに、亡くなられた方たちのご冥福をお祈り申し上げます。さて、前回の記事を書いた日の夜、またまた母の夢を見ました。図書館で借りた本を返すために、閉館ギリギリの時間に母が運転する車に乗り込み、図書館に向かう夢でした。母は自動車の運転免許を持っていたので、実際に起こり得る出来事ではあったのですが、現実ではこのようなことは一度もありませんでした。夢の中では、結局、図書館の閉館時間には間に合わず、図書館で借りた本を返却することができませんでした。夢の中のこの出来事は、夢の中にいる私にとっては、ごく当たり前の日常の出来事として起こっていました。しかし、現実の世界においては、こうした日常は既に終わってしまっているのです。この夢は、私に、当たり前の日常がいかに大切であるかを想い出させてくれました。皆さんも、そんな日常を大切にしてくださいね。それでは、振り返り(8)の続きを書かせていただきます。

 生前の母が家族葬を望んでいたと言っても、本当にそのような形で葬儀を取り行ってもいいものかどうか、私は判断しかねていた。母の遺志は尊重したいが、母は友人が多かったので、母の訃報を聞いて駆けつけて来てくださる方も多いはずだった。家族葬にすると、そういう人たちの想いが宙に浮いてしまうのではないかと思ったのだ。

 そんなことを考えていると、私の携帯電話に弟から電話が掛かって来た。弟は、先ほどから父が無駄な動きをしていると言った。父は、通夜と葬儀を斎場で行うことに決めてからも、葬儀のあとに親戚の人たちや母の友人が来てくださるからという理由で、引き続き、家の片付けを続けていたようだ。父は、一度ほうきで掃いた場所にわざわざ新しいごみを持って行ったりして、なかなか掃除がはかどらない状況にあったようだ。

 弟は私に、とにかく父がそういう状況なので、何かあったら自分に連絡をくれと言った。弟も深い悲しみを感じているはずだが、父よりも冷静だった。おそらく、自分の身近に取り乱した人がいると、冷静になろうとするのだろうと思う。

 母の訃報を聞いて仕事を早退した弟は、母の銀行口座を解約しに行ったそうだ。というのも、亡くなった人の銀行口座はほどなくして凍結され、口座のお金を引き出すには、財産分与という形で、相続する権利のある人たちの印鑑が必要になってしまうからだ。

 弟にも、しなければならないことはたくさんあったはずだが、彼もまた、何をすればいいか、優先順位を決めかねているようだった。そこで私は、
「遺影の写真を選ぶことが先決だと思うよ」
と言った。

 父や弟の話によれば、母は午前中に息を引き取ったので、その日のうちに通夜を行うという。そして、翌日になればすぐに葬儀を行うそうだ。それならば、通夜に間に合うように、遺影に使う写真を用意しておいたほうがいいだろうと思ったのだ。

 私は、父と弟に、遺影の写真の候補があるのかどうか、尋ねてみた。実は、生前の母に、
「葬式のときの写真はこれにして」
などと言われている写真があったのだが、父はずいぶん前にその写真を片付けてしまい、今はどこにあるのかわからないと言う。

 それでも、弟が、
「心当たりがある」
と言ってくれた。その写真は、生前の母が遺影に望んだ写真ではなかったが、他に候補がなかったので、その写真から母の遺影が作られることになった。結果的に、その写真は、普段の母にとても近い状態の写真だったので、通夜や葬儀に足を運んでくださった方たちが、いつもの母に近いと言ってくれた。

 そうこうしているうちに、十五時を回ったので、再び弟に電話を掛けてみると、父は母を寝台車に乗せるために、病院に向かったと言っていた。そして、病院をあとにして、そのまま斎場へ向かったようだ。

 通夜は十九時から斎場で行われるという。夕方になると、母の友人がわざわざ家まで来てくださったそうだ。弟は、母の遺志で家族葬にすることを母の友人に話し、通夜の時間と葬儀の時間を伝えた上で、「家族葬ですが、気にせず来てください」とお願いしたという。しかし、母の友人には、家族葬なので遠慮すると言われたそうだ。

 その友人は、母が一番本音で付き合っていた母の大切な友人である。私は、家族葬にするという理由で、やはり母の通夜や葬儀に足を運ぼうと思ってくださる方たちの想いを宙に浮かせてしまってはいけないと思った。

 ノンストップで高速道路を走った私たちは、実家には寄らずに、通夜と葬儀が行われる斎場に直接出向いた。斎場に着いたのは、十六時半前だった。そこには、母の名前とともに、「通夜会場」と書かれた大きな看板が掲げられていた。その看板を見るまでは、母の魂が肉体を去ってしまったことなど、まだ信じたくない状況だった。しかし、こうして通夜の看板まで掲げられているのだから、やはり母は本当に亡くなってしまったのだと認めざるを得ず、一気に悲しみがこみ上げて来た。

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2013.10.16

振り返り(8)

振り返り(7)の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m たくさんの方たちから応援クリックを賜り、心より御礼申し上げます。記事を書いた日の夜に、今度は母の夢を見ました。遺された者たちの想いがあまりにも強過ぎると、故人はなかなか夢には出て来てくれないと言われていますよね。何と、母の魂が肉体を去ってしまってからというもの、父はまだ一度も母の夢を見ていないのだそうです。私は、まだ数回程度ですが、今回も含めて母の夢は何度か見ています。私よりも父のほうが、母に対する想いがずっと強いということなのでしょうね。それでは、振り返り(7)の続きを書かせていただきます。

 高速道路を移動中、私は何度も父の携帯電話に電話を掛けた。そのとき、父から、母が息を引き取るときのことを聞いた。病室に院長やたくさんの看護師さんたちが集まってくださっていたことについては、以前の記事で書かせていただいた通りである。実は、院長や看護師さんたち以外にも、母の臨終に付き合ってくれた方たちがいたのだ。

 そのうちの一人が、その病院で看護師として働いている私の従姉(父にとっては姪)である。看護師の従姉は、たまたま夜勤明けで、母の病室を訪ねてくれていたのだそうだ。そして、そのまま母が息を引き取るまで付き添ってくれたのだという。看護師の従姉は、夜間勤務を終えたあとだったので、看護師の服のままではいけないと思い、わざわざ私服に着替えた上で、母の側についてくれたそうだ。

 また、他にも、毎日のように果物などを持って、母のお見舞いに来てくれていた母の従妹も一緒だったという。

 病院で亡くなると、できるだけ早いうちに葬儀屋さんに連絡をして、寝台車を用意してもらい、病室から亡骸を運び出さなければならない。しかし、有り難いことに、看護師の従姉が院長に頼んでくれて、十五時まで病室を使わせてもらえることになっているという。

 父は、病室の後片付けを、私の従姉である看護師と母の従妹にお願いして、自分は自宅に戻り、家の片付けを始めたそうだ。

 その時点で、父はかなり混乱していたようだ。母の魂が肉体を去ってしまった悲しみがこみ上げて来るというのに、そんな感情に向き合う余裕もなく、これからのことを次々に決めて行かなければならなかったからだ。決めなければならないことというのは、通夜や葬儀をどこで行うのか、また、母が息を引き取ったことを誰と誰に連絡をするのか、などである。有り難いことに、母が息を引き取ったことについては、親戚の人たちが手分けして連絡してくれたようだ。

 父が自宅に戻って家の片付けを始めたのは、母の通夜を自宅で行うためだったらしい。しかし、病室から持ち帰ったものを片付けることに思いのほか手間取ってしまい、なかなか前には進めない状況にあったようだ。

 父は私に、
「お通夜の会場なんじゃけど、お母さん、いったん家に帰っとるけん、もう自宅じゃのうてもええか(お通夜の会場なんだけど、お母さん、いったん家に帰って来ているから、もう自宅じゃなくてもいいか)」
と私に言った。私自身は、理想としては、葬儀の前に、母をいったん自宅に帰してあげたかったのだが、ゆうべ父がほとんど寝ていないことも気になっていた。その父に、自宅を片付けてもらった上で、病院から帰って来た母を迎え、通夜に来てくださる方たちの対応までお願いするのは、ずいぶん酷な気がした。

 父の言う、「母がいったん帰って来ている」というのは、退院した六月の終わりから、救急車で急搬送されることになった七月の頭くらいまで、ほんの九日間だけではあったものの、母が自宅で過ごすことができたことを意味していた。

 私は、
「うーん・・・・・・。本当は家に連れて帰ってあげたいけどね・・・・・・」
と言った。父も涙ながらに、そうしてあげたいけれど、自宅に母や通夜に来てくださる方たちをお迎えするには、なかなか家が片付かないと言った。病院から持ち帰ったものの整理に加え、訪れて来てくださった方たちに座布団を出したり、訪れてくださった方たちをもてなす準備を整えるのは、慣れない父にとっては、想像以上に大変だったようだ。

 高速道路を移動しているとは言え、私たちが到着するのは、どう頑張っても十六時半頃にはなってしまう。それまでの間は、すべての対応を父に任せるしかなかった。

 それから何度か父と電話でやりとりしているうちに、通夜も葬儀も斎場で行うことになった。父と母は、冠婚葬祭のために掛け金を掛けていたのだという。選んだ斎場は、掛け金を掛けていた斎場だった。掛け金を掛けていたおかげで、利用料金がいくらか割引になるのだそうだ。

 斎場が決まったと聞いたあと、父が、
「お母さんの生前からの望みで、家族葬にする」
と言ったので、私は驚いた。確かに私も、母が家族葬を望んでいたことは知っていた。自分の最期は、父と弟、そして私とガンモだけで送って欲しいとも言われていた。それは、母が葬儀にたくさんのお金が掛かることを気にしていたこともあるのだが、
「みんなに(お棺に入った)顔をのぞかれるのがいやじゃ(みんなに顔をのぞかれるのがいやだ)」
とも言っていたのだ。

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2013.10.11

振り返り(7)

振り返り(6)の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m 私の実家のある地域では、亡くなった人の魂は、四十九日が終わるまでは自宅の屋根の上にいて家の中の様子を見守っていると言われています。父はしばしば屋根の上を見上げては母を探しているようですが、確認できないようで、「屋根の上を見ても、お母さん、おらん(いない)」とがっかりした様子で私に伝えてくれます。四十九日が過ぎれば、母の魂は、いよいよあちらの世界へ旅立ってしまうのでしょうか。このまま屋根の上に留まって欲しいような、早く光に包まれて旅立って欲しいような、複雑な気持ちです。それでは、振り返り(6)の続きを書かせていただきます。

 母からのメッセージを受け取っていたのは、私だけではなかった。弟と、母の友人である。母の友人に関しては、葬儀が終わってから確認できたこともあるので、後日書かせていただくことにして、まずは弟のことを書いてみたいと思う。

 弟は今、実家に住んでいる。時には夜勤もあるので、仕事に出掛けて行くのは早朝か夕方である。母の魂が肉体を去ってしまった日は、早朝から仕事に出掛けて行くことになっていたため、弟は出勤の準備を整えて家の外に出たようだ。ところが、どういうわけか、車のエンジンが掛からなかったという。

 平日は、毎日、病院に泊まり込んでくれていた父は、弟が早朝から出勤する日の朝は、自分自身も朝食を食べたり、ごみを出したり、また、洗濯などの家事をこなすために、六時頃に一時的に帰宅していた。病院から実家まで、車でわずか三分程度だったので、父は母の入院中にしばしば帰宅していたのだ。その日の朝、母は初めての酸素呼吸が取り付けられていた状態だったが、父もまさかその三時間半後に母が息を引き取ってしまうなど、思ってもみなかったのだろう。

 いつものように父が帰宅したところ、弟が車のエンジンが掛からないと言って、難儀していたようだ。弟は勤務先にも連絡を入れて、車のエンジンが掛からないため出勤できない状況にあることを伝えていたという。そこで父は、自分の車を弟の車のすぐ側まで持って行き、自分の車のバッテリを供給して、弟が車のエンジンを掛けるのを援助したそうだ。

 エンジンはすぐに掛かり、弟はいつもよりも遅れて出勤したという。しかし、結果的には、その三時間半後に母の魂は肉体を去ってしまうことになった。そのため、父からの知らせを受けた弟は、私と同じように、仕事を早退することになったそうだ。

 朝、車のエンジンが掛からなかったことを近所に住む伯母に話すと、夜の間、弟の車のランプが点いていたそうだ。そのため、一時的にバッテリが上がってしまったのかもしれなかった。

 もしかすると母は、自分の魂がもうすぐ肉体を去ってしまうことがわかっていたので、弟の車のエンジンを掛からないようにすることで、弟に対し、「今日は仕事には行かないで」と訴えていたのかもしれない。

 実際、こうした虫の知らせのようなものは良くあるもので、義母が亡くなったときは、大きなムカデが義弟の靴の中に入り込み、義弟の足を刺した。義弟は、ムカデが靴の中に入っているとは気づかないまま義母の病室を訪れ、何となく違和感を感じて靴を脱いだところ、中から大きなムカデが出て来て、他の病室に入って行ってしまった。それから、病院は大騒動になったのだ。

 義父が亡くなったときは、長いこと不在にしていた鳩の父ちゃんが、突然、我が家のベランダに帰って来た。私たちは鳩の父ちゃんの帰還を喜んだのだが、その直後に義弟から電話が入り、義父が亡くなったことを知った。

 こうして考えてみると、虫の知らせとは良く言ったものだと思う。もしかすると、虫の知らせというものは、肉体を去ろうとしている(あるいは、既に去ってしまった)魂が、別の生き物の肉体を借りることによって、お別れを言いに来ているのかもしれない。

 そういう意味での虫の知らせならば、私自身にも少し気になっていることがある。母の魂が肉体を去ってしまったおよそ一時間後に、私は自宅の最寄駅のトイレを利用したのだが、そのときに、トイレにいた蠅が私の持っていた手提げバッグにくっついて来た。私はしばしばそのトイレを利用しているのだが、これまでにそのトイレで蠅を見たことは一度もなかった。蠅は、私がトイレを出たあとも、私が持っていた手提げバッグにずっとくっついて来て、しばらくの間、自転車に乗っている私のすぐ側にいたのだった。

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2013.10.07

振り返り(6)

振り返り(5)の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m たくさんの方たちから応援クリックを賜り、心より御礼申し上げます。母の魂が肉体を去ってしまってからも、週末ごとに帰省していたのですが、ようやく四十九日の法要の準備がほぼ整ったので、先日の週末は久し振りに自宅で過ごしました。自宅では、主にYouTubeでスピリチュアルな映像を見て過ごしました。私ははテレビを見ないので知らないのですが、最近は、テレビなどで、退行催眠による前世療法の話題が自然に取り上げられているのですね。参照した動画の中で、著名人の方たちが次々にトランス状態に入って行き、前世を思い出していることに驚きを覚えました。私自身も退行催眠CDを使ってトランス状態に入り、いくつかの前世を思い出しましたが、トランス状態から覚めたあとは、とにかく尋常ではないほどの涙が出て来て仕方がなかったのを覚えています。著名人の方たちの中には、自分の前世を体験して涙を流す人もいたようでしたが、私には、比較的冷静でるように映ってしまいました。尋常ではないほどの涙を流した私からすれば、どうしてそこまで冷静でいられるのか、驚いてしまったわけです。おそらくですが、著名人の方たちは、番組を構成するために、特に大きな問題を抱えているわけではない状態のままトランス状態に入ったため、比較的冷静でいられたのではないかと思います。近いうちに私も再び退行催眠を行い、前世における母との関わりも探ってみたいと思っています。それでは、振り返り(5)の続きを書かせていただきます。

 ガンモは、すぐに出発の準備を進めてくれた。そして私たちは揃ってカングーに乗り込み、高速道路に入る前に少し早めの昼食を取り、あとはノンストップで高速道路を滑るように走った。

 そのとき思ったのは、母は、危篤の知らせを受けた私たちが、高速道路を慌てて移動するのを避けたかったのではないかということだった。親の危篤の知らせを受ければ、誰しも、何とか臨終に間に合いたい一心で、高速道路でスピードを出してしまうだろう。母は、私たちがそんな危険な状態に陥らないように、息を引き取るタイミングを選んでくれたのかもしれない。

 思い返せば、虫の知らせのようなものはいくつかあった。母の魂が肉体を去ってしまったのは九月の最初の木曜日だったが、その前の週の週末から次の週の月曜日まで、私は母の病室で過ごしていた。その日はまさに、夫婦別ルートで帰路につくの記事に書かせていただいた日のことであり、ガンモはふと思い立って、青春18きっぷを使って、片道数時間も掛けて日帰りで母に会いに来てくれた。母の魂は、その三日後に肉体を去ってしまったので、この日が、ガンモにとっても私にとっても、生きている母に会った最後の日となってしまった。

 このときの帰省で、私は金曜日の深夜に三宮駅前を出発する夜行高速バスに乗って、翌日の土曜日の早朝に実家の最寄駅に着いた。いつものように、父が実家の最寄駅まで車で迎えに来てくれた。そして、そのまま母の入院している病院まで私を運んでくれたのだが、確かそのときに、父の運転する車のバックミラーに母の顔が写ったような気がしたのだ。それまで、バックミラーに写っていたのは父の顔だったので、「あれ? あれは母の顔ではないか?」と思い、もう一度、バックミラーを確認してみたところ、そこにはもはや、父の顔しか写っていなかった。バックミラーに写っていた顔の口元が、確かに母のものだと思ったのだが、そのとき母はまだ生きていたので、それほど気にも留めていなかった。しかし、あとになってから考えてみると、あれは母からのメッセージだったのかもしれないと思うのだ。

 他にも、母からのメッセージと思われるものがあった。それは、その時期に私が購入することになっていた継続の通勤定期券をなかなか購入することができなかったことである。その当時、私が使っていたJR線の通勤定期券の使用期限は九月四日までだった。JR線の通勤定期券は、継続利用ならば、使用期限の二週間前から購入することができる。しかし、私は母の病状が急変する可能性もあると思い、夫婦別ルートで帰路につくの出来事のあとに購入しようと思っていたのだ。

 ところが、私が継続の通勤定期券を購入するために自動券売機の前に並ぼうとすると、決まって他の人が自動券売機を利用していた。私は、並んで待つ時間がもったいないと思ったので、通勤定期券の使用期限までにはもう少し余裕があるのをいいことに、購入を見送った。そんなことが何度か重なったので、母は私に、「継続の通勤定期券を、今、購入しなくても良い」というメッセージを送ってくれていたのかもしれない。もしも継続の通勤定期券を購入して、しばらく実家で過ごすような事態が発生したとしたとしたら、少なくとも一週間程度は実家で過ごすことになり、その間は通勤定期券を利用しないことになるからだ。

 しかし、私はあるとき、そろそろ継続の通勤定期券を購入しておこうと思い立ち、仕事帰りに自宅の最寄駅に設置されている定期券の自動券売機の前まで歩いて行こうとした。そのとき、他の利用客が自動券売機の前に歩もうとしているのを視界の脇のほうで感じ取ったのだが、継続の通勤定期券を購入しようとする意気込みが強かった私は、その人よりも先に継続の通勤定期券の自動券売機の前に立ち、継続の通勤定期券を購入したのだ。継続の通勤定期券を購入したあと、後ろを振り返ってみると、私の後ろには誰も並んでいなかった。ひょっとすると、誰かが並ぼうとしていたというのは私の勘違いだったのかもしれないし、あるいは、かつての私のように、他の人が操作しているのならば、購入する機会を改めようと思ったのかもしれない。

 いずれにしても、私はちょっぴり強引に継続の通勤定期券を購入して、九月五日の朝も通常通り出勤したわけなのだが、結局のところ、出勤してもわずか三十分で仕事を早退し、地下鉄に乗って移動している間に母が息を引き取ってしまったのだ。

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2013.10.03

振り返り(5)

振り返り(4)の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m たくさんの方たちから応援クリックを賜り、心より御礼申し上げます。好きなアーチストが夢に出て来てくれたおかげで、少し元気になれたように思っていたのですが、やはり悲しみは根が深いですね。仕事をしていても、ふとしたときに涙を堪(こら)え切れなくなることがあります。そんなとき、老眼鏡付きのPCメガネが私の歪んだ表情を隠してくれます。仕事から帰宅すると、自分自身が解放されるからか、顔をぐちゃぐちゃにして泣いています。心の中にぽっかりと空いてしまった穴は、誰にも埋められるものではないことがわかりました。母の代わりになるものは、この世には存在しないということだと思います。インターネットを検索してみると、同じような経験をした人たちがたくさんいらっしゃることに気付きました。そういう人たちの書き込みを拝見しながら、毎日を過ごしています。また、覚醒した方たちのブログも参考になります。以前よりも一層、スピリチュアルなものを求める傾向が強くなって来ました。

 私は、母の魂が肉体を去ってしまったことを伝えるために、ガンモに電話を掛けた。ガンモはdocomoの携帯電話が通じないところで仕事をしていたので、auの業務用携帯電話に掛けて母のことを伝えた。ガンモには、仕事を早退した直後に、勤務先の最寄駅に向かう途中に電話を掛けて母の危篤を知らせていた。しかし、その電話を掛けてからほどなくして母が息を引き取ってしまったので、ガンモも驚いていた。

 私は、いったん帰宅してから、準備を整えて高速バスに乗って帰省しようと思っていた。ガンモは仕事が忙しいと言っていたので、葬儀に間に合うように帰ってくれたら充分だと思っていたのだ。

 高速バスのチケットは、いつもローソンで購入していたので、自宅近くのローソンで購入するつもりで、JR線を乗り継いで自宅の最寄駅へと向かった。そして、自宅の最寄駅に着いてみると、ひとまず職場に連絡を入れておこうと思った。少なくとも一週間は仕事を休むことになるだろうと思い、次の週末まで休暇を申請するために勤務先に電話を掛けた。

 ところが、上司の上司はあいにく会議中で、直属の上司も離席中だった。そのため、このときの電話もまた、ひどく待たされた。もう一度、掛け直そうかと思っている頃に、ようやく同じプロジェクト内の別の社員さんが電話に出てくれた。私はその社員さんに、母が亡くなってしまったことを伝え、来週いっぱいまで休暇を取りたいので上司に伝えて欲しいと伝言を頼んだ。

 それから、高速バスのチケットを購入するために自宅近くのローソンに足を運んだのだが、何と、チケットを購入できる最も早い高速バスは、三宮駅前を十三時五十分に出発する便となっていた。三宮から私の実家の最寄駅までは、高速バスで四時間半掛かるので、十三時五十分発の高速バスに乗っていては、いくら何でも遅くなり過ぎると思った。そこで、JR線か飛行機を利用して移動しようと思い、高速バスのチケットを購入することなくローソンをあとにした。

 飛行機にしようと思ったのは、これまでの旅行で貯めたマイルがたくさん残っているので、使っておきたかったからだ。しかし、利用する当日にマイルを充当して航空券を購入できるかどうかわからなかった。そのことについて立ち止まって調べるよりも、とにかく前に進もうと思い、帰省の準備を始めた。

 私は泣きながら喪服を探してバッグに詰めた。実家から離れて暮らしている私にとって、例え母の容態が芳しくない状態であったとしても、母がまだ生きているのに喪服の用意をして帰省するようなことはどうしてもできなかった。そのため、もしも帰省中に、喪服の用意がないまま母の魂が肉体を去ってしまったとしたら、どこかで喪服を購入すればいいとさえ考えていたほどだ。しかし、母の魂は、既に肉体を去ってしまった。そのため、私は喪服を持参して帰省することに抵抗を感じずに済んだ。

 かつて、義母や義父の容態が悪化したとき、ガンモは私に、喪服の用意をしておくように言った。私が、ためらいながらも、ガンモに言われた通りに喪服を探していると、ガンモは私に対し、本当は喪服の用意をして欲しくないような態度を取った。口では喪服の用意をしておくように言っておきながらも、愛があればこそ、内心は、喪服を着るような場面を想像したくはないものなのだ。

 私は、週末ごとに帰省していたので、帰省のための荷物をまとめるのは早かった。そして、帰省の準備を整えた私は、十一時頃に玄関の外に出た。この時点で、まだ何の交通手段を使って移動するか、決めてはいなかったのだが、飛行機は不確かなので、新幹線と在来線の特急列車を乗り継いで帰省しようと思っていた。

 玄関の外に出て、一呼吸していると、何と、ガンモが帰って来た。
私は驚き、
「えっ?」
と言った。
「仕事、大丈夫なの?」
とガンモに尋ねると、ガンモは、
「当たり前やんか」
と言った。

 ガンモは、抱えていた仕事を他の人に引き継いで、私と一緒に帰省するために帰宅してくれたのだ。私はとても心強いと思った。そして、ローソンで予約できる最も早い時間の高速バスが十三時五十分の便だったのは、ガンモが仕事を上がって一緒に帰省してくれることが決まっていたからだと理解した。それだけでない。仕事を上がったあと、勤務先の最寄駅で翌日の高速バスをキャンセルするために電話を掛けたときにひどく待たされたのも、また、自宅の最寄駅から勤務先に電話を掛けたときにひどく待たされたのも、ガンモが仕事を終えて帰宅する時間と、私が帰り支度を整えて玄関の外に出る時間を絶妙に調整していたのではないかと思えて来たのだった。

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