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2013年9月

2013.09.30

振り返り(4)

振り返り(3)の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m たくさんの方たちから応援クリックを賜り、心より御礼申し上げます。振り返り(3)の記事を書いた日の夜、私は好きなアーチストの夢を見ました。これまでにも彼が夢に出て来てくれたことは何度もあるのですが、今回の夢は、これまでにないほど長い夢でした。私は夢の中で、現世ではまだ出会っていない魂を持つ女性と一緒に彼の家に遊びに行きました。彼はその家に、パートナーの女性と一緒に住んでいました。私は、現世におけるその女性の顔を知っているのですが、夢に出て来たその女性は、魂は同じでも、顔がまったく違っていました。そして、彼は自分の立場をわきまえながらも、私たちを優しくもてなしてくれました。本当に長い夢で、途中で彼が自分の親に電話を掛けるシーンもありました。彼の電話の相手であるその親は、現実には既に亡くなってしまっています。そこで思い出したのですが、彼は私とほぼ同じ状況で親をなくしました。つまり、彼の親はがんを患っていました。仕事中に急変の知らせを受けた彼は、仕事を終えて病院に駆けつけようと、とある公共の乗り物を使って移動していたのですが、残念ながら、その移動中に彼の親は亡くなってしまったのです。母の魂が肉体を去ってしまってからというもの、母の永遠の不在に対する悲しみが思いのほか深いことに加え、私自身が世の中の誰ともシンクロしていないようにも感じていました。何故なら、今の私が絶対にできないと感じていることを、他の人たちは淡々とこなしているからです。しかし、彼が夢に出て来てくれたことで、私はずいぶん救われました。ガンモに出会う前にも、恋愛でひどく傷付いていた私を、まるで磁場が変わるかのように、一瞬にして私を救い上げてくれた彼であります。今回も、深い深い悲しみから引き上げてくれたように思います。とは言え、まだまだ悲しみは深いですが、長い夢に出て来て励ましてくれた彼の魂に深く感謝します。それでは、振り返り(3)の続きを書かせていただきます。

 私はもう一度父に電話を掛けた。そして、父の口からはっきりと、母が息を引き取ったと聞いたとき、私は地下鉄の三宮駅で大きな声をあげた。

 父によれば、母はほとんど苦しむことなく、静かに息を引き取ったそうだ。私はそれを聞いたときに、母の魂が苦しみながら肉体を去って行ったのではないとわかり、それだけでも良かったと思った。

 五年前に、義母、すなわちガンモの母が肉腫のために亡くなったときは、義母がとても苦しみ抜いたことを知っていた。がんで亡くなるというのは、こんなにも苦しい想いをしなければならないものなのかと実感したほどだ。また、多くのがん患者が、亡くなる直前は、肉体の痛みにひどく苦しむとも聞いていた。

 週に一度の割合で、母の入院していた病院に診察のために来られていた、最初に入院していた病院の医師からも、
「身体の痛みが出て来たら、身体に貼って痛みを和らげる薬もありますので、遠慮なく言ってください」
と言われていた。去年の年末に母と同じく肺がんで亡くなってしまった母の叔母は、身体に貼る痛み止めを使って、痛みをしのいでいたそうだ。

 しかし、ガンモが調べてくれた限りでは、転移性脳腫瘍に生命を脅かされる場合は、肉体の痛みよりも先に、脳の状態が致命的になってしまうために、患者本人はほとんど痛みを感じることなく命を落とすことになるのだという。

 私も同じような認識でいたので、あるとき母を見舞ってくれた親戚の女性が、寝ている母の前でモルヒネの話を持ち出したときに、少しムッとしてしまった。

 例え母が眠っていたとしても、モルヒネの力を借りてはいない状態で、モルヒネの話を持ち出すのはどうかと思ったのだ。まるで、「今はモルヒネの力を借りていなくても、やがてもっと病状が進行して、モルヒネに頼ることになるでしょう」と予言されているように思えたからだ。

 あとから父に聞いてみると、その女性の身近な人ががんで亡くなるときに、身体の痛みがとにかく尋常ではなかったらしい。おそらく、そのときの経験を母にも当てはめようとしたのだろうと思う。

 モルヒネのことを持ち出されて少しムッとした私は、病室でその女性に向かって、
「転移性脳腫瘍が勢力をふるっている場合は、モルヒネを使うことにはならないみたいです」
ときっぱり言い切ったのを覚えている。

 そんなこともあったので、母が苦しむことなく息を引き取ったと聞いて、私は安堵したのだった。

 母が息を引き取ったときのことをあとから父に聞いてみたところ、母は呼吸のペースが極端にスローになり、息を吸い込んだあと、その息を吐くことができなかったそうだ。

 そのとき、病室には院長のほか、たくさんの看護師さんたちが集まってくださり、看護師さんたちが母の名前をしきりに呼び掛けてくださったという。看護師さんたちが母のベッドをぐるりと取り囲んでいたので、父は母の最期に母の手を握ることも憚(はばか)られたそうだ。

 母の呼吸が極端にスローになってから、院長が聴診器を当てて母の心臓の鼓動を確認してくださったそうだ。母の呼吸が止まってからも、母の心臓はわずかに動いていたらしい。その状態のときに、看護師さんが人工呼吸器を母の病室に持って来たそうだ。父は院長から、人工呼吸器を取り付けることもできると言われたという。そうすることで、弟や私が病院に駆けつけるまでの間、母の本当の意味での臨終を引き延ばすこともできると考えたようだ。

 しかし父は、人工呼吸器をつけることで母が苦しい想いをするならば、人工呼吸器はつけなくていいと断ったそうだ。私も、あとからその話を父から聞いたときに、父は母に対して本当に愛ある行動を取ってくれたと感謝した。瀕死の状態の母に人工呼吸器を取り付けて、子供たちが駆けつけるまでの間、虫の息を続けさせるのは、愛ではなく欲望だと思うからだ。

 だから私は、母の臨終に間に合わなかったことを悔いてはいない。母が「この時」と決めたタイミングに、母は苦しみを感じることなく静かに息を引き取ったのだから。

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2013.09.25

振り返り(3)

振り返り(2)の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m たくさんの方たちから応援クリックを賜り、心より御礼申し上げます。母の魂が肉体を去ってしまってからというもの、私の中では様々な変革が起こりました。もともと、例えば映画に関しても、一過性のものではなく、長く心に残るものを求め続けていましたが、人付き合いなどに関しても、その傾向がこれまでよりも一層強くなりました。数時間も経てばすっかり過去のものになってしまうようなものではなく、感情のこもった人付き合いや、あとから何度でも読み返したくなるような、書き手の感情が落とし込まれた文章に触れたいと日々感じています。それでは、振り返り(2)の続きを書かせていただきます。

 その頃の私は、朝五時半過ぎに、母の病室に泊まり込んでくれている父に電話を掛けるのが日課になっていた。その日も父に電話を掛けて母の様子を尋ねたところ、夜中の三時頃から呼吸が大きくなり、血中酸素濃度も下がって来たとのことだった。そのため、父は母の病状が心配で、ほとんど寝ていないようだった。

 それまでの母の血中酸素濃度は、九十六パーセントから九十八パーセントにまで達することもあったくらいなのだが、呼吸が大きくなってからは、九十一パーセントまで下がってしまったという。九十一パーセントの血中酸素濃度でも、絶対値としては決して低い値ではないと思うのだが、母は普段の値が高かったので、相対値としては低くなってしまっていることから、念のため、口からの酸素呼吸器が取り付けられたそうだ。

 それを聞いた私は、仕事を休んで母のもとへ駆けつけたほうがいいのかどうか、判断しようとした。父に聞いてみると、
「まだ大丈夫じゃろじゃないか(大丈夫だろうじゃないだろうか → 大丈夫じゃないだろうか)」
と言ってくれた。とは言え、一部の看護師さんは、
「遠方の方には知らせたほうがいいかもしれませんね」
と助言してくださったそうだ。

 私は、毎週月曜日に休暇を取得している状況だったので、あくまで心理的なものだが、不確かな状態では休暇を申請しにくかった。また、今は亡き義母や義父が酸素呼吸器を取り付けられてからも、しばらくは酸素呼吸器に頼っての呼吸を続けることができたことから、予定通り、週末に帰省するつもりで出勤した。その日は木曜日だったので、翌日の夜には夜行高速バスに乗って母のもとに駆けつけるつもりだったのだ。父は、院長が出勤されたら、院長に聞いてみると言ってくれた。

 ところが、いつものように八時半に出勤して仕事を始めてしばらくすると、携帯電話に父からのメールが届いていることに気が付いた。メールには、「時間のあるときに電話ください」と書かれていた。父は仕事中の私を気遣って、それほど急ぎではない場合は、電話よりもメールで知らせてくれているのだ。

 父がメールをくれたのが八時五十分頃で、私が父からのメールに気が付いたのが九時過ぎだった。慌ててオフィスの外に飛び出して、父に電話を掛けてみると、院長に確認してみたところ、母の余命は「三日以内」と言われたそうだ。私は、
「わかった。いったん家に帰って、支度してからすぐに駆けつけるよ」
と言って電話を切った。

 オフィスに戻ってみると、いつもは会議で離席していることの多い上司のまた上司が席にいらっしゃった。すぐ近くには、別の場所で作業することの多い上司も席にいらっしゃった。私は二人のもとに歩み寄り、
「母が危篤なので早退させてください。次はいつ出勤できるかわかりませんので、また連絡させてください」
と言った。上司の上司も、直属の上司も、すぐに承諾してくださった。

 それから私は大急ぎで帰り支度を整えて、仕事を早退した。勤務先の最寄駅に着いたのは九時半前だった。私は冷静に、翌日の夜に予約している夜行高速バスのキャンセル手続きをしておこうと思った。帰省すれば、きっと冷静ではなくなると思ったからだ。

 高速バスのキャンセル処理を取り扱っているところに電話を掛けてみると、どういうわけか、ひどく待たされた。キャンセル処理に思ったよりも手間取ったものの、何とかキャンセルの手続きを終えて、地下鉄に飛び乗ってひとまず三宮へと向かった。

 ところが、地下鉄に乗っている間に父から電話が掛かって来た。地下鉄なので、電車が駅に停車しているか、地上にいるときしか携帯電話の電波が届かない。かと言って、いったん下車してしまえば、それだけ帰宅時間が遅くなってしまう。そのため、私は父に、
「今、地下鉄に乗っているので、地上に着いたら電話します」
とメールしておいた。

 そして、三宮に着いて父に電話を掛けてみると、電話に出た父が泣いていた。父は私に何か言ったのだが、
「○○○んかった!」
という部分しか聞き取ることができなかった。私は、父が何を言っているのか良く聞き取れなかったので、
「掛け直すよ」
と言って、電話を掛け直した。しかし、もう一度掛けても、結局、父が何を言っているのか、良く聞き取れなかったのだ。大切な言葉を聞き取ろうとしても、どういうわけかその時に限って、私が普段、通話用に使っているヘッドフォンの調子が良くなかったのである。あとから父に確認したところ、
「メールに書いた通り、よう助けんかった(助けられなかった)」
と言っていたそうだ。

 何と、母の魂は、私が地下鉄で三宮まで移動している間に肉体を去ってしまったのだ。父は、私が電話に出なかったので、私の携帯電話にメールを送ってくれていた。そのメールには、
「驚かないでください。九時四十分にお母さんが息を引き取りました」
と書かれていた。

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2013.09.21

振り返り(2)

振り返り(1)の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m たくさんの方たちから応援クリックを賜り、心より御礼申し上げます。先日の台風の被害がひどい地域がありますね。遅ればせながら、被害に遭われた地域にお住まいの皆さんにお見舞い申し上げます。天災の影響を著しく受けてしまうのも非常に辛い状況ではありますが、例えどんな状況に陥ったとしても、決して失うばかりではないと思いますので、その辛い経験から得られる何かを感じ取ってくださいね。それでは、振り返り(1)の続きを書かせていただきます。

 母の魂が肉体を去ってしまう一週間ほど前から、母は一日のうちに八百cc程度の尿しか出なくなってしまっていた。栄養補給が高カロリー輸液に切り替わるまでは、一日に二千ccを越える尿が出ていたはずだった。母は寝た切りの状態だったので、尿道カテーテルを通して尿を排泄していたが、多いときには尿を貯める袋がパンパンになり、通常の時間帯とは別の時間帯に、尿を貯める袋に貯まった尿を抜いてもらっていたほどだった。

 しかし、肺炎を引き起こし、口からの食事が止められてしまってからは、水分補給もままならず、一日千cc程度の高カロリー輸液で栄養と水分を補っていた。他に、脳浮腫を抑えるための点滴を受けていたが、それを水分補給と表現できるかどうかはわからない。看護師さんによれば、尿のほかに汗も出ているはずなので、一日千cc程度の水分補給で八百cc程度の尿が出ているのであれば、それほど問題視はされていないようだった。

 父や私は、母が口からものを食べることだけを禁じられていると思い込み、少しの間、吸い飲み(寝たままで飲める容器)を使って母に水やハーブティーを飲ませていた。あるとき、私が母にハーブティーを飲ませているところに看護師さんが入って来て、
「お茶をあげているんですか?」
と驚かれてしまった。私は、
「食べ物を食べさせてはいけないとは聞いていましたが、飲み物については聞いていなかったので、喉が乾いていると思い、飲ませました」
と言った。すると、看護師さんは難しい顔をしながら、
「ちょっと、聞いて来ますね」
と言って、いったん病室から出て行かれた。

 そして、間もなくすると、別の看護師さんを伴って、病室に戻って来られた。別の看護師さんは、とても優しい口調で、
「今は肺炎を引き起こしているので、口からの飲食物はすべて止めているんです」
とおっしゃった。私は、
「わかりました。すみません」
と言って謝った。

 しかし、私は、母が口からの水分補給を望んでいるのではないかという気がして仕方がなかった。そのことを優しい口調の看護師さんに告げると、
「そうですね。何を優先させるかということがとても難しいんですけれども、やはり今は、口元を湿らせる程度にしてあげて、口からは何もあげないようにしてください。」
と言われてしまったのだった。そこで、別の看護師さんに口元を湿らせる方法を教わり、ガーゼに水を染み込ませ、母の口元に持って行くようにしたのだ。母は、やはり口からの水分補給を望んでいたようで、私が水で湿らせたガーゼを母の口元に持って行くと、湿ったガーゼを口に含もうとした。

 当時の母は、微熱が続いていた。時折、咳もしていたが、かなり弱い咳だった。医師曰く、人間は、口からものを食べることで、体内の電解質を適切な状態に保っているのだそうだ。しかし、口からものを食べられなくなってしまうと、どんなに点滴で栄養分を補ったとしても、電解質の調整がひどく難しくなってしまうのだそうだ。実際、母はカリウムとナトリウムが極端に低下していた。そのため、元気がなく、咳をするにしても非常に力のない弱々しい咳しかできなかったようだ。私は、母が肺をかばって、弱い咳をしているのではないかと思っていたのだが、どうやらそうではなかったようだ。母のがんは、原発巣が肺であったとしても、肺にあるがんが極端に進行していたわけではなく、やはり転移性脳腫瘍のほうが深刻だったのだ。

 こうした状況に加え、母の魂が肉体を去ってしまう二日ほど前から、母は右足だけがひどく腫れ上がってしまったそうだ。父が二時間ほど掛けて、母の右足をリンパの流れに沿ってマッサージしてくれたようだが、一時的に腫れは引いたものの、またすぐに腫れ上がってしまったのだそうだ。

 父は、院長に母の右足を診てもらったようだが、院長は、
「循環系がようないね(良くないね)」
とおっしゃっただけで、特に何の対処もしてくださらなかったという。ひょっとすると院長は、次の日の午後に、院長とは別の医師が母の右足の腫れを診てくださることになっていたのをご存知だったのかもしれない。

 私は、母の右足だけがひどく腫れ上がっていると父から聞いて、母の右足に血栓ができてしまっているのではないかと心配していた。もちろん、魂が肉体を去って行く直前になると、足に浮腫(むくみ)ができてしまうことも知っている。しかし、片方だけの足が腫れ上がっているというのは、やはり血栓ができていたのではないだろうか。血栓ができると、血の固まりが肺に達したときに、命取りになってしまうのだ。これはあとからわかったことだが、寝た切りになってしまうと、血栓ができやすくなってしまうらしい。そして、血栓を予防するには、水分補給が大切なのだそうだ。

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2013.09.17

振り返り(1)

My Mom has gone.の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m たくさんの方たちから応援クリックを賜り、心より御礼申し上げます。母の魂が肉体を去ってしまってから、早くも十日余りが経ちました。様々な後悔もあります。ブログにどこまで綴って良いものかどうかの迷いもあるのですが、このブログを読んでくださっている方たちの大切な方が、万が一(本当に万が一です)、母と似たような状況に陥ってしまった場合のヒントになればと思い、これまで綴って来たことと重複する部分も多々あるかと思いますが、書ける範囲で書かせていただくことにします。

 母については、
「夏は越せないかもしれない」
と、最初に入院した病院の主治医から言われていた。最初は「数ヶ月程度かもしれません」と言われていたのが、最終的には三ヶ月程度の余命を宣告されていたことになる。「今後のことをご家族で良く話し合ってください」とも言われていた。

 最初に入院した病院から地元の病院に転院したのは、最初に入院した病院は「治療を行う病院」であり、県内に住む難しい病気を抱えた患者さんたちを次々に受け入れるための病院だったからだ。母の場合は、もはや治療法がなく、緩和ケアという形で地元の病院に転院したのだった。

 もちろん、このことは、母には言えなかった。これまで父と母は、診察室に一緒に入って主治医の話を聞いていた。しかし、転移性脳腫瘍から来る、足が立たなくなるなどの症状が出てからは、母を病室や診察室の外に残したまま、父と私が医師の話を聞くといったような方法を取った。

 母の転移性脳腫瘍は、二つの点で難しい状況にあった。一つは、脳幹という脳の中枢部に転移性脳腫瘍があったこと、そしてもう一つは、髄膜(ずいまく)の周りに転移性脳腫瘍があったことだ。

 私は、転移性脳腫瘍があっても、ガンマナイフで何度も何度も転移性脳腫瘍を除去してもらっている肺がん患者さんの綴るブログを拝見していたので、きっと母の場合もガンマナイフあるいはサイバーナイフで転移性脳腫瘍をきれいに除去できるものだと思い込んでいた。しかし、転移性脳腫瘍が脳幹にあると、脳の最もデリケートな中枢部に向けて除去の処置を行うことになるため、ガンマナイフもサイバーナイフも施せない状況だったのだ。

 また、髄膜の周りに転移性脳腫瘍がある場合、随液播種(ずいえきはしゅ)と言って、転移性脳腫瘍が脳全体にばらまかれてしまう症状が発生する可能性があるとも言われた。

 既に母の転移性脳腫瘍は、母の脳の中にたくさん点在していたので、最初に入院していた病院で全脳照射という脳全体に緩い放射線を当ててもらう治療を受けた。この全脳照射は、私たち人間が許容できる放射線量の関係で、一生に一度しか受けられないものだった。言い換えると、全脳照射を受けて、現在ある転移性脳腫瘍がいったん小さくなることはあるものの、その後、新たな転移性脳腫瘍が成長して来たとしても、何の治療法もなかったというわけなのだ。

 おそらくだが、母には、全脳照射が少しは効いたのだと思う。最初に入院した病院では、トイレに立つにも、毎回、ナースコールをしていたのだが、転院先の病院では、ベッドから自分で車いすに乗り換え、トイレに立てるようになるまで回復していたからだ。母の足を立てなくさせていたのは、脳腫瘍の周りにできていた脳浮腫(のうふしゅ)で、母は脳浮腫を抑える(脳の腫れを取る)点滴を受けたり、内服薬を服用していた。

 これらの処置で、母の脳にできていた脳浮腫は小さくなったようだ。そのため、転院先の病院から退院することができたわけだ。

 しかし、退院からわずか九日後に母は高熱を出して、足もまったく立たなくなり、退院したばかりの病院に救急車で搬送されることになった。そして、母は完全に寝た切りになってしまったのだ。そのまま入院が続き、救急車で搬送された日からおよそ二ヶ月足らずで、母の魂は肉体を去ってしまった。

 最初に入院した病院の主治医から余命宣告されていたものの、父や私、そして弟も、母の魂が近いうちに肉体を去ってしまうなんて、信じたくない気持ちでいっぱいだった。しかし、私が帰省する度に弱って行く母を見ていると、もはや覚悟を決めるしかなかった。

 運の悪いことに、亡くなる直前の母には肺炎の症状も出ていた。そのため、口からの飲食は止められ、カテーテルを通して送り込まれる高カロリー輸液だけで母は生き延びていた。時折、父や私が水を染み込ませたガーゼを母の口元に持って行くと、母はガーゼを口の中に含もうとした。きっと、喉が渇いていたに違いない。

 母が肺炎を患ってからは、脳の腫れを抑える点滴のほかに、抗生物質も投与されるようになっていた。母の場合は、転移性脳腫瘍から来る嘔吐のために、時折、胃の奥のほうから胃液が口元まで上がって来ることがあった。それに加え、寝た切りになると、口腔ケアが思うように行かなくなってしまった。

 また、高カロリー輸液による栄養補給に切り替わるまでは、食べ物を口に入れたまま眠ってしまうことも多く、口腔ケアのために用意していたスポンジもあまり活用できていない状況だった。いろいろな要因が重なって、母は誤嚥(ごえん)性肺炎を起こし易い状況にあったと思う。母の肺炎が誤嚥性であったかどうかは定かではないのだが、とにかく、転移性脳腫瘍から来る嘔吐で胃液が逆流して来たり、口腔ケアが行き届かないために、口の中に雑菌が溜まってしまい、肺炎を引き起こしてしまったのかもしれない。

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2013.09.13

My Mom has gone.

しばらくお休みしますの記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m お休みをいただいている間も、何度もこのブログを訪問してくださり、ありがとうございます。昨日から仕事にも復活しました。まだまだ本調子ではありませんが、少しずつ書かせていただこうと思います。なお、これまでは一日一記事ずつ綴って来ましたが、今後は不定期更新とさせていただきます。

My mom passed away 8 days ago.

 八日前に、母の魂が肉体を去って行きました。今は、それだけご報告させていただきます。

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2013.09.04

しばらくお休みします

いつも「ガンまる日記」を読んでくださってありがとうございます。都合により、しばらく「ガンまる日記」の更新をお休みさせていただきます。

なお、mixiにおいて、この「ガンまる日記」の更新通知が自動で上がるように設定してありますので書かせていただきます。アプリのリクエストなどにもしばらくお応えできません。あしからずご了承ください。

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2013.09.03

夫婦別ルートで帰路につく

映画『天使の分け前』の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m たくさんの方たちから応援クリックを賜り、心より御礼申し上げます。仕事帰りに雨が降っていたのですが、自宅の最寄駅に着いて、雨が止んだ隙に自転車にまたがり、何とかほとんど雨に濡れることなく帰宅することができました。雨がたくさん降っている地域もあるようですね。どうか皆さん、自然災害にはくれぐれもご注意ください。

 今週の月曜日のことである。母の具合が良くなく、母が入院している病室に泊まっていた私は、実家で寝ている父を夜中に呼び出した。母は何とか落ち着いたものの、私の代わりに父がしばらく起きてくれていたため、私は病室のソファーベッドで朝まで睡眠を取らせてもらった。そのとき私は眠気に負けてしまったが、母に対する父の愛情は相当深いものだと知った。母の症状が落ち着いたのも、自宅で休んでいた父が駆けつけてくれたからかもしれない。私もそんな父に甘え、睡眠を取らせてもらったのだ。父はそのまま朝四時頃まで母に付き添い、母が落ち着いたのを確認すると、いったん帰宅したあと仮眠を取り、実家でお風呂に入る私を再び病院まで迎えに来てくれた。

 週の初めからそんな状況だったので、いつもアクセスしているmixiにログインする余裕がなかった。父が車で私を実家に送り届けてくれて、実家で一人になったときに携帯電話を開いてみると、ガンモが香川県の観音寺(かんおんじ)辺りまで来ていることがわかった。どうやらガンモは、青春18きっぷを利用して各駅停車を乗り継いで、私のいる愛媛県まで向かっているようなのである。

 私が母の病室にいるときは、ガンモと電話で話をすることもあるのだが、母が寝ていることも多いため、チャットで静かに会話をするのがほとんどだ。前日の夜もチャットで話をしていたのに、ガンモは青春18きっぷで愛媛に来るとは言っていなかった。しかし、ガンモは早起きして五時台の始発電車に乗り、愛媛県に向かっていたのだ。

 私はその状況に驚き、すぐにガンモにメールを入れたのだが、ガンモからはすぐにメールの返事がなかった。そこで、列車で移動中なのに申し訳ないと思いつつもガンモに電話を掛けてみたところ、やはり応答なしだった。あとで確認してみると、スマートフォンを消音モードにしていたらしい。

 ガンモと連絡が取れないので、ガンモが書き込みをしている時間を頼りに時刻表を調べ、ガンモが実家の最寄駅に到着するであろう時間を割り出して、もう一度ガンモにメールを送ったところ、ようやく返信があった。その結果、やはり私が割り出した時間に、ガンモが実家の最寄駅に到着することがわかった。何と、自宅の最寄駅の始発に乗ってから実に七時間半も掛けて移動してくれていたのである。

 雨が降っていなければ、私が自転車に乗って実家の最寄駅までガンモを迎えに行っても良かったのだが、あいにく雨が降っていたので、父に電話を掛けて、ガンモが実家の最寄駅に向かっていることを告げた。そして、実家でお風呂に入った私を病院まで連れ戻しに来てもらうついでに、実家の最寄駅にも寄って、ガンモを拾って欲しいと頼んだところ、父は快く承諾してくれた。

 そうして、ガンモと私は父に車で病院まで運んでもらい、少しの間、母と一緒に過ごした。その日の前夜に母の具合が良くなかったことをガンモにはまだ話していなかったのだが、来てくれたガンモにそのことを話すと、
「何かそんな気がしたんだよ」
と言っていた。

 私はその日の夕方の高速バスで兵庫県の三ノ宮駅前まで帰る予定だったのだが、ガンモは病室に一時間余り滞在したあと、いったん途中下車してお昼ご飯を食べて、仕事の電話会議に参加してから再び青春18きっぷを使って各駅停車を乗り継いで自宅の最寄駅まで帰ると言った。あいにく、ガンモが病室に来てくれている間、母はずっと眠っていた。

 一方、私は十五時半過ぎまで母と病室で過ごし、再び父の運転する車で実家の最寄駅まで送ってもらい、予約しておいた高速バスに乗り込んだ。ガンモは青春18きっぷを使って兵庫県にある自宅の最寄駅を目指し、私は私で高速バスで兵庫県の三ノ宮駅前に向かっていた。

 高速バスに乗ってから、およそ四時間余りで私は三ノ宮駅前に到着したのだが、そのときガンモはまだ姫路辺りにいた。同じ場所を目指しているのに、出発の時間も経路も違っていておかしな感じだ。それでも、それから間もなくしてから、私たちは自宅で一緒に過ごしていた。私は、ガンモが急な思いつきで、青春18きっぷを使って片道七時間半も掛けて母を見舞ってくれたことが、とてもうれしかった。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m 帰るところは同じなのに、別々の時間に別々のルートで帰宅したというのが何とも不思議な感じでありました。しかし、自宅に着いてしまえば同じでありますね。ガンモは仕事の電話会議に参加しなければならない状況だったというのに、わざわざ来てくれたことがうれしかったですね。

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2013.09.02

映画『天使の分け前』

運命の人と出会うの記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m たくさんの方たちから応援クリックを賜り、心より御礼申し上げます。埼玉県で竜巻が発生したと聞いて驚きました。恐ろしいことですね。まさか「ガンまる日記」を読んでくださっている方たちの中に、竜巻の被害に遭われた方がいらっしゃるとは思いたくないですが、もしもいらっしゃるのであれば、心よりお見舞い申し上げます。竜巻が発生したときのために、屋外にいるときと屋内にいるときで身を守る方法が提示されています。事前に調べておいて、咄嗟のときに実践したいものですね。とにかく、最近は何が起こるかわからない状況なので、インターネット上に溢れている情報を大いに活用したいものです。

 本作を鑑賞したのは、四月十三日のことである。映画『麦の穂をゆらす風』映画『エリックを探して』映画『ルート・アイリッシュ』などのケン・ローチ監督の作品である。

 ワインや日本酒の利き酒というのは聞いたことがあったのだが、何と、スコッチ・ウィスキーにも利き酒があった。物語は、スコッチ・ウィスキーの産地であるスコットランドを舞台に繰り広げられる、

 ナインティナインの岡村くん似のポール・ブラニガンという新人の俳優さんが演じるロビーは、あちらこちらで問題を起こしていた。幸い、彼は刑務所に送り込まれるのではなく、社会奉仕活動をすることで更生への道を歩み始める。そこで知り合った指導者のハリーがスコッチ・ウィスキーに詳しい人だった。ロビーは、ハリーからスコッチ・ウィスキーについて教わっているうちに、自分にも利き酒の素質があることがわかり、スコッチ・ウィスキーの奥深い世界へと入って行く。あちらこちらで問題を起こして来たロビーだったが、恋人との間にできた子供がもうすぐ生まれそうな状態でもある。そんなロビーが、利き酒に目覚め、仲間を募ってある計画を立てるのだ。

 邦題として掲げられている『天使の分け前』とは、ウィスキーなどを樽で熟成させるときに、蒸発して失われる部分のことを指しているそうだ。しかし、本作の中での『天使の分け前』とは、ちょっと意味合いが違っている。というのも、もともとの『天使の分け前』は自然に失われて行くものだが、本作の『天使の分け前』は、人工的に失われるものであるからだ。

 ケン・ローチ監督の得意とするところなのかどうかはわからないが、本作でも主人公が仲間を募り、ある計画を実行する。私には、ケン・ローチ監督が、いつも作品の中にチームワークを描き出したいのではないかと思えるくらいだ。本作でもロビーは仲間の助けを借りて、目的を達成しようとするのだが、それがいつものように共感できる内容ではない。そのため、ちゃんと彼らに対する罰も用意されている。いやはや、こういうのを更生と呼んでしまっていいのだろうか。しかも、ロビーが何をしたのかわかっていながら、そのときハリーはロビーの指導者ではなく、ただのスコッチ・ウィスキーの愛好家となってしまっているではないか。

 結末は何ともしっくり来なかったのだが、たまにはケン・ローチ監督も、こんな作品を撮ってもいいのかもしれないと思いながら、最後まで鑑賞したのだった。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m 有名なスコッチ・ウィスキーは、オークションにかけられて高値が付いていることを初めて知りました。世の中に出回っている有名なスコッチ・ウィスキーもまた、『天使の分け前』を差し引いた残りだったのですね。(苦笑)

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2013.09.01

運命の人と出会う

ホットヨガ(三五一回目)の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m たくさんの方たちから応援クリックを賜り、心より御礼申し上げます。ずいぶん過ごしやすくなりましたね。そのせいか、早くも長袖の服を着て歩いている人たちを見掛けます。最高気温は二十七度くらいまでは上がっているようですが、半袖では寒いと感じる方もいらっしゃるみたいですね。私は、上半身のほてりがあるので、おそらく最高気温が十七度くらいに下がるまでは半袖で過ごすと思います。(苦笑)

 mixiには、「つぶやきネタ」という機能がある。つぶやきのネタになるようなお題を運営側が提供したり、ユーザからも募ったりして、回答したいネタを選んでお題に答えることができる。それらの中に、運命の人とどのように出会いたいかについて綴るつぶやきネタがあったので、読ませていただいた。

 しかし、拝見してみてがっかりしたのは、多くの人たちが、運命の出会いをほとんど期待してはいないということだった。最も多かったのは、「パンを加えて走っているときに、曲がり角で誰かにぶつかり、登校してみると、ぶつかったのは転校生で、その転校生と恋に落ちる」という回答だった。次に多かったのは、「(運命の人が)空から降って来る」というものだった。同じような回答がいくつも挙げられていたので、もしかすると、アニメかマンガかゲームに登場する男女の出会い方なのかもしれない。

 ガンモと私の場合、馴れ初めはパソコン通信だったのだが、私はガンモとの出会いにより、これまでに体験したことのないような感情を体験した。というのも、愛しさのために、とてつもなく泣けて来るのである。決して悲しいわけでもなく、単にうれしいわけでもない。その存在を認識し、心の中で想うときに、魂の奥底からわき上がって来るような愛しさを感じたのだ。

 その感情は、ガンモの頭のほうから発せられる何かに反応しているように思えたので、当時の私は、ガンモが宇宙人によって何らかの回路を頭の中に埋め込まれ、私がその回路に反応しているのではないかと思っていたほどだ。

 結婚してからも、早く家に帰りたくて、仕事中も良く泣いていたのを覚えている。じっとしていても愛しさがこみ上げて来るのである。

 しかし、そうした尋常ではない愛しさは、他の人たちとの関係性にギャップを与えることにもなった。ガンモと過ごす時間があまりにも心地よいために、とりわけ仕事を通じて出会った人たちとの社会的な関係が、ひどく味気のないものに思えてしまったのだ。

 結婚して十数年経つと、こうしたわき上がって来る感情はずいぶんと落ち着いて来たのだが、果たしてあの頃の感情が何だったのかと考えてみると、魂としての再会の喜びだったのかもしれないと思っている。というのも、ある前世において、私はガンモの目の前で、ゴンドラのようなものから落ちて命を落としているからだ。退行催眠によって、そのときのことを思い出したときにも、私は尋常ではない感情に襲われたものだ。大切な人を遺して肉体を去って行くことの辛さを体験したのだ。

 私は、今の若者たちが、こうした尋常ではない感情を体験するチャンスを失ってしまっているように思えた。ひょっとすると、何らかの理由により、こうした尋常ではない感情を体験できる回路を閉じてしまっているのかもしれない。若者たちには、もっと「感じる」ということを大切にして欲しいと思うこの頃だ。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m mixiのつぶやきネタで、運命の出会いに関する書き込みをされていた方たちの多くは、運命の出会いをほとんど期待していないように思えましたね。感情のブロックを解いてあげれば、変わって行くような気がします。

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