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2012.05.14

映画『蛍火の杜へ』

二〇一二年健康診断(1)の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m 福山のホテル火災は、ホテル側にいろいろな問題があったことが指摘されていますね。先日の高速バスの事故もそうですが、景気が低迷してしまっている今の時代において、顧客獲得のために格安のサービスを提供しようとすると、本来あるべき姿から外れてしまうのは事実だと思います。私たちも格安サービスを利用する場合は、リスクを覚悟した上で利用しなければなりませんね。亡くなられた方たちのご冥福を慎んでお祈り申し上げます。

 本作を鑑賞したのは、十月二十二日のことである。わずか四十四分という短い作品なのだが、何の予備知識もなく、ただ映画を観たいと思って映画館に入り、上映時間にちょうど間に合う作品だったので鑑賞した。普段からアニメをほとんど鑑賞しない私だが、信頼できるミニシアター系映画館だったので鑑賞することにしたのである。

 鑑賞してみると、人間に触れられると消えてしまうという不思議な少年ギンと人間の少女蛍との切ない恋の物語だった。

 夏休みの間だけ祖父の家に遊びに来ている蛍は、最初のうちはまだ幼い子供である。妖怪が出るという“山神の森”に迷い込んでしまった蛍の前に現れたのは、狐の面をかぶった少年ギンだった。ギンは蛍を“山神の森”の出口まで案内する。

 ギンとの不思議な出会いを果たした蛍は、それから毎年のように“山神の森”を訪れ、ギンとともに過ごすようになる。その時間は、いつしか二人にとって、とても大切な時間になっていた。

 時を経るごとに、蛍は幼い子供から少女へと成長して行く。しかし、蛍がどんどん成長して行くのに対し、まるで成長が止まってしまっているかのように、ギンは何も変わらない。年も取らなければ、声も変わらないのだ。蛍の「動」に対し、ギンの「静」がここにある。そして、二人の間に少しずつ芽生えて行く確かな感情・・・・・・。

 男女が惹かれ合えば、相手に触れたくなるのは当然のことなのに、人間に触れられてしまえば、ギンの姿はたちどころに消えてしまうのだ。だから二人は直接手を繋がずに、"山神の森"で拾った木の切れ端を介して繋がる。ああ、何とも切ないではないか。

 ギンがどのような存在だったのかを知ると、更にせつなくなる。“山神の森”に棲む妖怪たちとも気軽に話をすることのできるギンは、ある種の決断を下すことができずに“山神の森”に長いこと留まってしまっていたのかもしれない。だから、蛍がギンに触れることは、ギンの状態が「静」から「動」へと切り替わることを意味する。観客は、そこで奇跡が起こることを期待するだろう。果たして、ギンの行方は?

 このような作品を鑑賞すると、私たち人間は、「動」の存在だったのだということを改めて認識させられる。しかし、「動」の中にあっても毎年変わらずに、蛍が“山神の森”に通い続けたことが感動をもたらすのだ。

 考えてみると、二人の恋は、それぞれが人生における大きな転機を迎えるところまでのサポート的な意味合いを持っていたのかもしれない。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m 触れたいのに触れられないというジレンマは、愛し合う恋人たちにとってはとても辛いことでしょうね。しかし、触れたいとする気持ちを欲望だとすれば、触れてしまってはギンがたちどころに消えてしまうと思い、触れたい気持ちを押し込めようとするのは愛ではないでしょうか。

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