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2011.11.10

映画『ラビット・ホール』

ホットヨガ(二六四回目)の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m たくさんの方たちから応援クリックを賜り、心より御礼申し上げます。映画を鑑賞して帰宅途中に、沿線で火災が発生したため、JR神戸線がひどく遅れたり運休するなどの状況が発生していました。一体何事だろうと思っていたところ、何と、沿線の倉庫が燃えてしまったようです。幸い、けが人などは出なかったようですが、大阪~姫路間の電車がしばらく止まってしまったので、仕事帰りのガンモも阪神電車で帰宅する羽目になったようです。それにしても、沿線の火災により、電車が止まるなどという経験は初めてのことでした。

 今回は、本日鑑賞したばかりの見ごたえのある作品をご紹介させていただこうと思う。本作は、劇場で何度となく予告編を観ていて、公開されたら絶対に鑑賞しようと思っていた作品の一つである。木曜日は、本作を上映している映画館の会員カード提示でポイントを二倍もらえるので、仕事を終えた私はまっすぐ映画館に向かったのだった。

 一言で言ってしまえば、本作は、四歳の息子を交通事故で喪ってしまった夫婦の再生を描いた作品とも言える。しかし、他の作品とはどこか違う。それぞれの登場人物の抱える、ベクトルの異なる想いが手に取るようにわかるからだ。

 まず、息子を喪うなどという究極的な悲しみを共有すれば、夫婦は同じ方向を向いて互いに支え合いながら生きて行くのではないかと思いがちである。しかし、本作の夫婦は違うのだ。夫は、いつまでも息子との思い出に浸りながら、撮影した息子の動画などを観ては涙している。一方、妻はというと、日中、自宅で過ごしているために、亡き息子の思い出の品に否が応でも触れることになってしまい、なかなか前に進めないことを理由に、息子の遺したものをさっさと処分してしまいたいと思っている。このように、息子を喪ったという悲しみの深さ(ベクトルの大きさ)はそれほど変わらなくても、取っている行動(ベクトルの向き)がまったく異なっているのだ。

 普段から片付け上手ではない私は、ものをどんどん手放す行為から、感情的に冷たいものを感じ取ってしまいがちである。しかし、ニコール・キッドマン演じる妻のベッカは、息子の遺したものを自分の視界から遠ざけようとしながらも、心に深い傷を負っているのがわかった。更に、その傷はあまりにも深過ぎて、周りの人たちとの温度差が生じてしまっているように見えた。

 例えば、これまで仲の良かった友人が、息子を喪ったあとに、電話の一本も寄越さずに、実質的にベッカと距離を置いている。ベッカはそのことに対してひどく苛立ちを覚えているのだが、私にもそんなベッカの気持ちが良くわかる。感情が大きく揺れ動くような出来事を体験してしまうと、これまで交流して来た人たちが、果たしてどれくらいの覚悟でもって自分と関わろうとしてくれているのかが手に取るようにわかってしまう。はっきり言って、自分が大変だと思っているときに距離を置かれてしまうような間柄ならば、これまで本当の友情を結んでいたわけではなかったと私は思う。何故なら、物理的な距離がそのまま心の距離を表していると思うからだ。本当に仲の良い友人ならば、相手が悲しみに打ちひしがれているときに駆けつけもせず、電話の一本も掛けないなどということは有り得ない。もしもそのような行動を取ってしまうならば、相手の悲しみに同調することができず、自分自身の中に相手との温度差を感じてしまっているために近付けないのだと思う。

 再生を目指すベッカと夫は、同じように子供を喪った夫婦で構成されるグループに参加する。そこで、みんなと同じような悲しみを共有して癒される人たちもいるのかもしれない。しかし、夫はそのグループで他の参加者たちに同調しようとしているのに対し、妻のベッカはどこか冷めた目でグループの活動を見ている。お互いに同じような悲しみを抱えているはずなのに、悲しみを乗り越えようとするベクトルが違っているのだ。そのシーンを見てからの私は、ベッカの取る行動からいよいよ目が離せなくなってしまった。

 その後、更にベッカの取る行動は、私の興味を強く惹き付けた。ふとした偶然から、彼女は何と、息子をはねた加害者の少年と接点を持つのだ。その描写がとにかく素晴らしい。特に、少年とベッカが公園のベンチに座り、互いに涙を流すシーンは圧巻である。少年の中には、自分の運転による過失で小さな子供をはねて死なせてしまったという深い罪の意識と後悔がある。と同時に、それらの感情の先には深い悲しみがある。もちろん、ベッカもまた、愛する息子を喪った深い悲しみを背負っている。とは言え、立場の違う両者の悲しみのベクトルは大きく異なっているはずだ。それなのに、ベッカと青年は、ベクトルの違うところで繋がる。ベッカは、最も身近であるはずの夫とは異なるベクトルの悲しみを持っていて、夫婦関係がどこかギクシャクしているというのに、加害者の少年とは、言葉の要らないところで繋がってしまうのだ。そして、実のところ、その繋がりのきっかけが、本作のタイトルにもなっている。

 ベッカの妹やベッカの母との関係もいい。ベッカが息子を喪って悲しみに暮れているというのに、ベッカの妹の妊娠が発覚する。一方、ベッカの母は、ベッカと同じように息子(すなわちベッカにとっては兄)を喪った深い悲しみを背負っている。だからと言って、母と娘がお互いの深い悲しみを通じて理解し合うような展開にならないところが素晴らしい。おそらく、本作で主に表現されようとしているのは、例え同じような状況にあったとしても、それぞれの置かれている状況や個性などの違いから、いろいろなベクトルが生まれてしまうということなのだろう。それだけに、登場人物の持つそれぞれの個性が見事に表現された作品であるとも言える。それゆえに、とことんリアルなのだ。

 今まで様々な作品を鑑賞して来たが、ここまで人物の個性がリアルに描写されている作品も珍しいと思う。いずれ本作もまた、二コール・キッドマンの代表作になるのは間違いないだろう。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m いやはや、リアルなヒューマンドラマでした。本作を鑑賞すると、リアルな生活においては、本作のようにいろいろな人たちの異なるベクトルが、あっちを向いたりこっちを向いたりしながら混沌としているのだということを実感します。むしろ、他の作品がうまくまとまり過ぎているような気さえして来ますね。まだまだ劇場公開中ですので、お近くの映画館で鑑賞できるという方には、是非お勧めの作品です。

人気blogランキングには、もともとブログの書籍化を夢見て参加させていただきました。まだまだほど遠いですが、私の夢を応援してくださると、大変うれしく思います。
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