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2011.09.17

映画『神様のカルテ』

リュープリンという選択(4)の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m たくさんの方たちから応援クリックを賜り、心より御礼申し上げます。皆さんのお住まいの地域では、台風十五号の影響はいかがでしょうか。私は今、四国の実家にいるのですが、高速道路の一部が土砂崩れで通行止めになってしまっていたために、渋滞の中を何とか帰省しました。渋滞にはイライラさせられますが、土砂崩れに遭遇するよりは幸運な出来事だったと思っています。雨も、時折激しく振っていました。皆さんも、川の氾濫や土砂崩れには充分お気をつけくださいね。

 たまには鑑賞したばかりの作品のレビューを書かせていただこうと思う。

 本作は、公開前から気になっていた作品ではあるものの、末期がん患者が闘病の末に亡くなってしまうような類の作品ならば観たくないと思い、鑑賞を見送っていた。それでも心のどこかで本作が気に掛かるので、既に鑑賞された方たちのレビューを拝見させていただいたところ、「優しい気持ちになれる作品」という感想を述べている方が多かった。それならば、例え鑑賞したとしても決して後味が悪くなるような作品ではないだろうと思っていると、九月十六日金曜日の夜、まるで吸い寄せられるかのように本作を鑑賞することになった。

 実際に鑑賞してるみると、他の方たちがまさしくレビューに書かれている通りの「優しい気持ちになれる作品」だった。私は劇場で、じわじわとこみ上げて来る感動に涙し、作品全体から漂って来るその不思議な雰囲気に酔いしれた。一般的に言って、病院内で繰り広げられる、人の生死に関わるほど深刻なドラマがスクリーン上に展開されるとき、緊迫した雰囲気は避けられない。とりわけ、患者の側ではなく、医師の側からそれらの深刻な状況が描写されようとするとき、医学的な用語が多用されることもあり、その内容は硬くなりがちである。

 しかし本作は、医師の側から描写されているにもかかわらず、全体的にほんわかとした雰囲気が漂っていた。それは、主人公の栗原医師がもたらす独特の世界が表現されているからかもしれない。むしろ、栗原医師よりも、彼と一緒に働いている看護師さんたちのほうがしゃきしゃきしている。その絶妙なバランスがいいのだろうか。

 ほんわかとした雰囲気の栗原医師を形成している大切な要素の一つは、彼が夏目漱石の熱烈な読者であるということだ。そのため、彼は医師でありながらも、表現がどこか文学的で、一止という彼の名前の通り、ことあるごとに立ち止まっては物思いに耽(ふけ)っている。

 彼の妻である榛名との関係も緩くていい感じである。いつも仕事が忙しい栗原と、写真を撮ることを趣味としている榛名は、互いの感情を激しくぶつけ合うような密な関係を築いている夫婦ではない。二人の会話には敬語が含まれていたりして、一見すると、何となく距離感を感じてしまうような夫婦なのだが、互いの心はしっかりと結ばれている。また、古い旅館で共同生活を送っている画家の男爵や大学生の学士との関係も緩くていい感じである。特に、男爵を演じている原田泰造さんは、私がこれまで知っているコメディアンの彼ではなかった。私は、もしも自分が演出家ならば、このような緩いキャラクターを演出することは決してできないだろうと想像した。

 夫に先立たれ、他に身寄りもない安曇雪乃は、医学的には既に手の施しようのない末期がんだった。このような状態の患者が病院を訪れたとき、受け入れを拒否する病院もあるのだろうか。栗原に診て欲しいと必死に懇願する安曇を患者として受け入れたものの、栗原は具体的な治療方法に悩んでいた。

 栗原の患者となった安曇は、亡き夫との思い出話を栗原に語る。夫が亡くなって、既に何年も経っているはずなのに、今でも夫のことを想い続けている安曇の姿に栗原は心を打たれる。そして、そんな安曇に寄り添おうとする病院のスタッフも素晴らしい。医師も含めた病院のスタッフ全員が、多くの患者さんたちと関わりを持つ身でありながらも、患者を「患者」という一つの大きな塊として扱ってしまわずに、それぞれの患者の気持ちに寄り添っているのだ。そうした丁寧な想いが、死と隣り合わせにいる深刻な末期がん患者である安曇の気持ちさえも豊かにする。

 安曇が栗原に宛てた手紙の中に、本作のタイトルとなった『神様のカルテ』の意味が込められている。その部分が読み上げられたとき、私はどうしても涙せずにはいられなかった。ああ、人の生死を扱う作品で、こんなにも優しい気持ちにさせてくれる作品は本当に珍しい。こういう作品こそ、『神様の映画』とも言えるのではないだろうか。

 私は、安曇を演じていた女優さんのお顔を、どこかで拝見したことがあるはずだと思い、女優さんの名前を思い出すために映画サイトにアクセスして驚いた。何と、加賀まりこさんだったのである。私のイメージの中にいる加賀まりこさんは、どんな芸能人もひれ伏してしまうほど強い存在だった。あの加賀まりこさんが、こんなにも控えめで静かな役を演じていたとは驚きである。これほどまで別人になり切っているのだから、私が加賀まりこさんだと認識できなかったのも無理はない。原田泰造さんと言い、加賀まりこさんと言い、本作は、これまで私が知っていた役者さんたちの新たな一面を見せてくれた作品とも言える。

 ちなみに、私は普段からテレビを観る習慣がないので、栗原を演じていた櫻井翔くんのことはまったく知らなかった。それでも、原作を読んでいない私が言うのも変かもしれないが、彼の演じた栗原は完璧だったと思う。彼のように、一見のんびりしているようでいて、実は芯の太いキャラクターを演じることのできる役者さんはなかなかいないと思う。

 大袈裟に聞こえるかもしれないが、本作に登場する立場の異なる様々なキャラクターは、そのまま実社会に当てはまるように思う。例えば、栗原のように一見のんびりとしているようでいて、実は芯の太いキャラクターがいたり、そんな栗原の尻を叩いてエンジンを掛けようとするせっかちなキャラクターがいたり、患者の治療よりも、医療の最先端を目指そうとするエリートがいたり、はたまた、そんなエリートコースからはすっかり外れて、地道に患者の治療を続けている医師もいたりする。

 しかし、医療の最先端を目指すエリートたちの存在なくしては医学の発展は有り得ない。むしろ、エリートコースからはすっかり外れて、地道に患者の治療を続けている医師たちは、医療の最先端を目指すエリートたちが開発した技術を実践の場で活かしている人たちなのである。そんなふうに、実社会というこの世は、ありとあらゆる立場の人たちが一つの無駄もなく配置されている貴重な場所とも言える。だから、他の人がうらやむような道をいやいや選ぶのではなく、自分の魂が赴くままの道を進んで行けば良い。私にとっては、そんなことを感じさせてくれる作品でもあった。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m 本作の中に、一人の患者さんに対する処置を何人もの医師たちが考えを出し合って決めるシーンがありました。大学病院などの大きな病院では、そのようなことが行われていると、実際に話をうかがったことがありましたが、それを裏付けるようなシーンが出て来て、納得しました。これからも私は、医師の側の立場ではなく、患者の側の立場であり続けると思いますので、こういうシーンを確認すると安心できますね。それにしても、どこの病院でも、医師たちは食事の時間が取れないほど忙しく働いています。私などは、仕事をしていても、十二時のチャイムが鳴ればすぐにお昼休みのプライベートな時間に切り替えることができますので、そうした勤務事情に関しては恵まれていると思います。医師という仕事は、プライベートな時間と仕事の時間の切り分けが難しい職業ではありますが、逆にプライベートの時間を削ってまでも、とてもやりがいのある仕事だと言えるるのでしょう。

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» ■映画『神様のカルテ』 [Viva La Vida! <ライターCheese の映画やもろもろ>]
嵐の櫻井翔と宮崎あおいがほんわか夫婦を演じる映画『神様のカルテ』。 地域医療に真摯に取り組む青年医師・イチを櫻井翔が、そのイチを支える風景写真家の妻・ハルを宮崎あおいが演じています。 ある種の理想的な医師であり、ある種の理想的な夫婦であるこのふたり。 ちょ... [続きを読む]

受信: 2011.10.06 02:29

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