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2011.04.25

私にとってのサイババ

秋田紀行(1)の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m たくさんの方たちから応援クリックを賜り、心より御礼申し上げます。東日本大震災の影響による自粛ムードのため、旅行業界全体で売り上げが落ち込んでいるようですね。ゴールデンウィークも、海外旅行に出掛ける人たちは例年の半分近くであると予想されています。そんな中、全日空では、利用客を増やすために、土日の大幅な運賃の値下げを実施するようですね。自粛ムードもいたくわかりますし、落ち込んでいる売り上げを何とか回復させようとする企業の頑張りも良くわかります。あとは私たちがどこに傾いて行くかですよね。

 サイババがお亡くなりになった。それなのに、私の中では、サイババがまだ生きているように感じられる。誰かが亡くなったとき、「ご冥福をお祈りします」という言葉が出て来ることが多いのだが、サイババに関しては違う。もしかするとサイババは、肉体を持っていながらも、最も魂に近い存在だったのではないだろうか。だから、サイババが肉体を持っていたときと、肉体を去って行ったあとのギャップが少ないのかもしれない。

 最初に断っておくが、私は決して、サイババの信者であると胸を張って言える立場にはない。サイババの存在を知ったのは、サイババが世の中の人たちに知られる少し前のことだった。スピリチュアルな話のできる同じアーチストファンの友人が、その存在を教えてくれたのだ。その友人は、青山圭秀さんの存在も同時に教えてくれたので、私は一時期、『理性のゆらぎ』、『アガスティアの葉』、『真実のサイババ』などの彼の著書を読みふけった。

 そんな私は、つい先日、何年も前に身に着けていたサイババのペンダントを、何の前触れもなく久し振りに発掘した。確かアジア雑貨のお店で買ったようなオフィシャルに製作されたものではないペンダントで、表面にサイババの絵が、裏面にサイババの前世であるシルディ・サイババの絵が型取られていた。サイババが危篤状態に陥ったとのニュースが流れたのは、確か私がペンダントを見付けた翌日のことだったと思う。何しろ私は、そのペンダントをもう何年も身に着けていなかったので、その不思議なシンクロに驚いたのだ。

 サイババと私は、ガンモと結婚した当時に一時的に接近した。その頃、参加していた精神世界系のメーリングリストでサイババに帰依している方と出会い、その方のご案内で、東京のサティヤ・サイ・オーガニゼーション・ジャパン(サイセンター)を一度だけ訪れたことがあるのだ。私はそこでバジャンを歌い、ガーヤトリーマントラを唱えた。サイセンターにある祭壇には、サイババのパネルやサイババの前世であるシルディ・サイババのパネルなどが飾られていた。他にもいろいろな聖者のパネルが飾られていたように思う。東京のサイセンターで出会った方たちは、とても温かい方たちばかりだった。私が兵庫県に住んでいることを知ると、神戸にもサイセンターがあることを教えてくださり、そこのバジャンが凄いともうかがった。

 その後、私はサイセンターで、とある奉仕をすることになった。ごく簡単な奉仕だったのだが、サイセンターを訪れて奉仕ができるのは、サイババに呼ばれた証とのことだった。そのとき私は、これからもサイセンターとの関わりを持って行くのだろうかと考えていた。

 東京のサイセンターを訪れたとき、私はガンモと一緒に東京に滞在していた。しかし、サイセンターにガンモを誘ったところ、自分は行きたくないと言った。ガンモからすれば、サイババを支持することは、他の新興宗教に入信することと変わりがないようだった。

 東京のサイセンターから帰った私が、
「神戸のサイセンターで行われているのバジャンは凄いんだって。一度、神戸のバジャンに参加してみたらどうかって勧められたよ」
と言うと、ガンモは、私が神戸のサイセンターに足を運ぶことを断固として反対した。そして、とうとう、
「まるみがサイ(サイセンター)に行くと帰って来なくなる」
と言って泣き始めてしまったのだ。私は、なかなか泣き止まないガンモに対し、
「わかった。サイには行かないよ」
と言いながら、ガンモを抱きしめ、なだめた。

 あとからわかったことだが、ガンモの学生時代に、何かの新興宗教に入信して、帰って来なくなってしまった同窓生がいたらしいのだ。ガンモはその同窓生と私を重ね、私が神戸のサイセンターに足を運ぶと、もはやガンモと生活を共にしている自宅には帰って来なくなるのではないかとひどく心配したようなのだ。私はガンモに、サイセンターはそういうところではないとしきりに説明したのだが、サイババを知らない人が外から見ると、そう見えてしまったようだ。

 そんな背景もあって、一時的に接近していたサイババとの距離は、再び離れることになった。しかし、私はその後、サイババという外的神を入口にするのではなく、自分の中の内的神を探求することのほうが自分に合っていると感じた。私の感覚では、新興宗教の多くは外的神と内的神が繋がっていないように感じられるが、サイババに関してはちゃんと繋がっていると感じる。だから私は、今からサイババの転生を今から楽しみに待っているのだ。 

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m 生前のサイババは、自分は九十代で亡くなり、数年後に転生すると予言されていたそうです。ところが、実際は予言よりも早い死となってしまいました。シルディ・サイババのときもそうだったのかどうかわかりませんが、サイババが転生された頃、私はまだ生まれていなかったので、シルディ・サイババの転生を見届けることができませんでした。しかし、サイババが転生するのが数年後だとすると、このまま何もなければ、私はその転生を見届けることができそうです。私は、今からそのときを楽しみにしています。

さて、今回も記事の中にボタンを埋め込ませていただきますが、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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