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2010.08.05

アンネ・フランクの家

ガンまる、ICEに乗るの記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m 記事の中のリンクがおかしなことになってしまっていて、申し訳ありませんでした。実は、ホテルのインターネット環境が、ガンモと私のそれぞれのノートパソコンを同時にインターネット接続可能な状態にしてくれないため、自分のノートパソコン上で編集作業を行ったあと、ガンモのノートパソコンを借りて記事を更新しています。自分のノートパソコンには、記事を更新しやすいように単語登録などのいろいろな設定を行っているのですが、ガンモのノートパソコンにはその設定がないため、HTMLのリンクを入力するのに手打ちで入力しなければなりませんでした。そのときに、一部の文字が誤って欠落してしまっていたため、記事の一部の内容がごっそり削れてしまっていたようです。お見苦しい状態のまま何時間も放置してしまい、申し訳ありませんでした。

 ドイツのフランクフルトと同様に、アムステルダムは路面電車の走る街である。いや、フランクフルトよりももっと、路面電車が人々の生活にしっかりと根付いていると言っても過言ではない。そして、路面電車と同様に、アムステルダムの人々の生活にしっかりと根付いているものがある。それは、自転車である。以前、訪れた北京や上海も自転車の多いところだったが、ここアムステルダムもまた、自転車の利用者がすこぶる多い。わざわざ自転車のための道路が整備されているくらいなのだ。日本では、自転車は時には車道を走ったり、歩道を走ったりと、こうもりのように曖昧である。しかし、ここアムステルダムでは、自転車道がしっかりと整備され、歩行者は自動車と同じくらい、自転車に注意して歩かなければならない。

 さて、アムステルダム滞在の二日目は、路面電車を足にして、市内を観光することにした。ホテルでもらった地図を片手に観光を始めたのだが、平日であるはずのアムステルダムは、まるで週末のように賑わっていて、ヴィンセント・ファン・ゴッホ国立美術館や国立博物館、マダムタッソーろう人形館など、私たちが訪れようとするすべての場所に長い長い入場待ちの行列が出来ていた。あらかじめ入場券を購入しておけば、優先窓口から入場できるようなので、これからアムステルダムを訪れる計画のある方は、ホテルや街のチケットショップなどであらかじめ入場券を購入しておくことを強くお勧めする。ホテルにチェックインしたときに、これらの入場券をホテルで購入することができると説明を受けたのに、何とかなるだろうと思い、鉄砲玉のようにアムステルダムの街へと飛び出して来てしまったことを後悔した。

 そこで、最後の望みを懸けたのが、アンネ・フランクの家だった。彼女の書いた『アンネの日記』はあまりにも有名だが、彼女たち一家が二年間に渡り、身を潜めていた隠れ家が公開されているのである。しかし、アンネ・フランクの家もまた、長い長い入場待ちの行列が出来ていた。私たちは、アムステルダムが国際的な観光都市であることをようやく理解した。平日なのに、まるで週末のようにたくさんの人たちで賑わっているということは、世界各地から、私たちと同じようにAパターンの夏休みを取得した観光客が訪れているのだ。しかし、アンネ・フランクの家も見送るとなると、せっかく市内観光を始めたというのに何も触れることなく一日が終わってしまう。それはあまりにも悔しいので、私たちは意を決して長い長い入場待ちの行列に並ぶことにした。

 ガンモ曰く、アンネ・フランクの家は、インターネットで十五分単位の入場予約ができるそうだ。しかも、インターネットから予約した場合、入場料が一人五十セント(ユーロ)割引になるという。十五分単位という細かい区切りなので、確実にその時間に訪問できるという確証があるならば、長い長い待ち行列に並ばなくて済むので、利用したほうがいいかもしれない。

 長い長い入場待ちの行列に並んだ私たちは、三十分は待っただろうか。ようやく入場できる順番が回って来た。おそらく館内が混雑しているためだろう。リュックは背中側に背負うのではなく、お腹側に向きを変えて、手で抱え込むようにして入場しなければならなかった。

 アンネ・フランクは、一九二九年にドイツで生まれたが、ドイツの反ユダヤ体制から逃れるため、家族とともにオランダのアムステルダムに移住した。アムステルダムでは、父であるオットー・フランクの会社を改造して造られたこの隠れ家に、他のユダヤ人とともに合計八人で二年間の潜伏生活を送ることになる。しかし、あるとき、何者かの密告により、彼らはナチスに連行され、収容所に送り込まれることになってしまう。そしてアンネは、一九四五年に収容所でチフスにかかり、若い人生を閉じた。

 アンネ・フランクの家は、全体的にこじんまりしたイメージがあるのだが、部屋がいくつもあり、むしろ広いという印象さえ抱いた。潜伏生活を送っているということを、オットー・フランクの会社で働いていた従業員には気付かれないないように、音を立てないように歩いたり、息を潜めて会話をしたり、水を使わないように配慮したりしながら二年間も過ごしたという。

 家の中にある階段が狭い上にひどく急だったので、高所恐怖症の人には見学は難しいと言える。私もひどい高所恐怖症だが、寝台列車の上段に昇るための階段や全国各地の灯台見学で鍛えた精神で、歯を食いしばって何とか見学を続けた。特に、狭くて急な階段を昇るところで、階下の見えるガラス張りの場所もあり、先にそこを通ったガンモは、私にはここを通ることは絶対に無理だろうと思ったらしい。それでも何とか私が昇って来たので、ガンモは驚いていたようだった。

 アンネ・フランクが生活していた場所には、雑誌から切り抜いた映画スターの写真などが壁に貼られていた。そのようにして、気持ちを少しでも前向きに保ちながら生活していたのがわかる。彼女たちの潜伏生活を助けてくれたオランダ人がいたようで、その人たちが運んでくれる食べ物や雑誌などが、外の世界と繋がる唯一の接点だったようだ。

 アンネ・フランクは、自由になったら、潜伏生活を送っている間に書いた自分の日記を本にして出版したいと思っていたらしい。アンネ・フランクが書いていた日記は、彼女たちがナチスに連行されたあと、潜伏生活を送っていた頃の協力者だった人の手によって発見され、のちに収容所から帰還したオットー・フランクの手に渡されたという。そして、オットー・フランクは、アンネ・フランクの書いた日記を出版することを決意したようだ。

 恥ずかしながら、私は『アンネの日記』をすべて読んでいるわけではない。しかし、私も書くことが好きな人間の一人として、彼女の書きたい気持ちがとても良くわかる。書くことが好きな人とそうでない人の違いは、書くときに客観性を持っているかどうかだと思う。おそらく彼女は、日々の出来事を日記として綴りながらも、その日記が誰かに読まれることを常に意識しながら書いていたのではないかと思う。そんな彼女の想いが、彼女の亡きあとに叶うことになろうとは・・・・・・。

 『アンネの日記』は、現在、七十ヵ国以上の言語に翻訳され、出版されているそうだ。彼女の書いた日記は、当時の状況を正確に伝えるだけでなく、読む人に対し、彼女自身の感情とリンクさせるものがあるのではないだろうか。

 私は、アンネ・フランクは確かに不幸な最期を遂げたかもしれないが、協力者のあたたかい支援を受けながら、家族とともに濃密な二年間を送ることができたことは、必ずしも不幸なことではなかったような気がしてならない。自由意思が少なければ少ないほど、本当に一緒に過ごしたい人と濃密な時間を過ごせるというのは、皮肉なことには違いないのだが、逆に自由意思を持っている人たちには決して得ることのできない、ささやかな幸福であったようにも思えるのだ。

※撮影した写真のスライドショーを貼り付けておきます。なお、スライドショーが表示されない場合や、写真へのコメントをご覧になる場合は、アンネ・フランクの家をご覧ください。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m アンネ・フランクの家の昇りの階段はとても狭い上に急だったのですが、下りの階段は現代的な階段が新たに設置されていますので、高所恐怖症の私にも降り易かったと思います。ただ、リュックをお腹に抱えた状態では足元が見えませんので、それが少し怖いくらいでした。第二次世界大戦の終了から六十五年経った今でも、アンネ・フランクの家には当時のまま残されているものも多く、ここに潜伏していたアンネ・フランク一家の気持ちを想像しながら見学することができました。

さて、今回も記事の中にボタンを埋め込ませていただきますが、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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