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2008.09.13

エネルギーを奪わない言葉

おやすみ、あいしちゅの記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m 実は、調べてみると二年前にも同じタイトルで記事を書いていたので、過去の記事のタイトルを変えておきました。(笑)ちなみに、「あいしちゅ」というのは、愛シチューのことであり、「愛している」の意味であります。これにちなんで、愛シチュー博などという記事も書きましたね。(笑)

 たくさんの乗客を乗せたフェリーは、朝六時過ぎに実家近くの港に着いた。早朝だったが、私の両親が車で迎えに来てくれていた。下船時間が近付いて来ると、ロビーはたくさんの乗客でごった返していた。私の両親もまた、フェリーからたくさんの人たちが下船して来るのを見て驚いていたようである。私が実家に帰るのはゴールデンウィーク以来だが、私の両親とは、ここ数ヶ月のうちにガンモの実家やその周辺で行われたいくつかのプロジェクトで顔を合わせている。

 思い切って、私が一人で実家に帰っている事情をお話ししよう。それは、私たちが夏休みにパリとロンドンに旅行に出掛けていた頃に遡る。帰国を一日後に控え、ロンドンで楽しい時間を過ごしていた私は、日本から持参した携帯電話を使って、四国の実家に電話を掛けた。しかし、日本時間では既に二十時を回っていたというのに、誰も電話に出なかった。私は、何か夜に出掛けなければならないような出来事が起こったのかと思い、心配になった。しかし、それ以上、電話を掛け続けることはせず、翌日の帰国前にもう一度実家に電話を掛けた。電話に出たのは父だった。父は落ち着いた口調で、
「お母さんに代わるね」
と言った。間もなく母が電話に出たので、私はすかさず、
「何かあったの?」
と尋ねた。すると、最初のうちは返事を曖昧にしていた母も、ようやく、
「うん。あったと言えばあったけど、今は二人で旅行を楽しんでるんだから、帰って来てから話す。とにかく、今は旅行を楽しんで」
と言ってくれた。私は母の言ったことがとても気になったが、母の心遣いに甘えることにした。

 そして、帰国してから電話を掛けてみると、病院で十年近く闘病生活を送っていた祖母が亡くなったことを知らされた。祖母が亡くなったのは、私が電話を掛けた前日だったらしい。しかし、早朝に亡くなったため、ロンドンにいる私たちに知らせても葬儀には間に合わないと思い、父と話し合って、私たちには帰国まで黙っておくこと決めたという。

 言葉には、人のエネルギーを奪ってしまう言葉とそうでない言葉がある。人のエネルギーを奪わない言葉というのは、その言葉を発しないことで、自らが責任を負う。しかし、人のエネルギーを奪う言葉というのは、わざわざ注意を特定の方向に向けさせる目的で使用したりする。祖母が亡くなったことを私たちに伝えなかった私の両親は、私たちにそのことを知らせないことで、自ら責任を負った。私は、私たちから何も奪わないように配慮してくれた両親の決断に深く感謝した。

 私たちが帰国したとき、祖母の葬儀は既に終わっていたが、私は何とかして祖母をお参りするために帰省したかった。しかし、勤務先に無理を言って夏休みの日程を変更してもらっていたり、お盆にはガンモの実家に帰ることになっていたりと、すぐに帰省できる状況ではなかった。というのも、既に皆さんはお気付きのことと思うが、今年の五月に義母が亡くなっていたからである。お盆は義母にとっての初盆だったのだ。そして、お盆の次の週はTOEICの試験、更にその次の週の終末は、義母の百カ日の法要だった。母は、
「ばあちゃんは逃げないから、帰れるときにいつでも帰っておいで」
と言ってくれたので、私は九月に入ってからの三連休を利用して帰省することにしたのである。

 私の両親は、祖母の四十九日が終わるまで、毎日祖母のところに出掛け、仏前でお経を唱えているそうだ。そして今日は私も両親に同行した。久しぶりに顔を合わせる親戚のおばちゃん、おじちゃん、従妹。そして、初めて顔を合わせる従妹の子供たち。ああ、このように、人の死は人と人とを結び付けていく。義母の死を通じて私が体験して来たことが、ここでも生かされていた。

 ただ、私の中では、祖母が亡くなってしまったことがまだまだ現実のものにはならない。病院に足を運べば、祖母に会えるような気がしている。最も気を落としているのは、およそ十年もの間、毎日のように祖母の入院している病院に通い続け、祖母の世話をして来た母である。母もまた、祖母の突然の死が受け入れられないらしい。

 命日から数えるさまざまな区切りの日は、あたかも亡くなった人たちのために存在しているようでいて、実際は、遺された人たちのために存在しているのかもしれない。私には、それぞれに用意された区切りの日を目標に、残された人たちが前向きに生きられるようにプログラムされているように思えるのだった。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m 今年は身近な人たちの肉体の死を立て続けに体験し、肉体の死について考え直すきっかけにもなりました。故人が遺して行ったものを使っていると、故人はほんのちょっとどこかに出掛けているだけなのではないか、という気がして来ます。これが、故人の魂を感じていることと同等なのかどうかはわかりません。ただ、肉体が存在していないのことだけは確かなのだと実感しています。そして、死は決してネガティヴだけではないということも同時に学んでいます。

さて、今回も記事の中にボタンを埋め込ませていただきますが、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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