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2008.06.04

自立と依存

介護の記録の記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m 病院での介護の経験がある義妹にこの話をすると、彼女が介護士として働いていたときは、特に担当を決めず、手の空いている人が自主的に介護の対象を決めて次々に世話をしていたそうです。おそらくですが、重視されているのはコミュニケーションではなく、「身の回りの世話」なんでしょうね。

 介護について、もう少し思うところを書いておきたい。先日、日々の気づきという別ブログに、何が親切?という目の不自由な方に関する記事を書いた。私にとっては、後ろからやって来た男性が率先して目の不自由な方の手を取って歩き始めたことが衝撃的だったのだ。

 身体の不自由な方に対して最初から手を差し出すことは、身体の不自由な方の自分で何かをしようとする気持ちを奪い去ってしまうと思う。何故なら、私たちはできる限り自立して生きて行くことを目指していると思うからだ。だから私は、身体の不自由な方を見掛けると、すぐには手を差し出さずにしばらくじっと見守る。見守りながら、いつでも手を差し出せる体制を整えるのだ。時には、手を差し出すのが間に合わないこともあるかもしれない。しかし、身体の不自由な方たちの自立したいという自由意思を奪って、最初から手を差し出すようなことはできるだけしたくない。

 今回の帰省で、義父が歩けなくなってしまう事態に遭遇した。自宅にいるときは、義父は手すりを使いながらそろそろ歩く。しかし、具合の悪くなった義父は、手すりのない出先で車椅子をお借りすることになった。そうした状況の中で、私は考えた。義父に車椅子を買ってあげたほうがいいのだろうかと。

 しかし私はすぐにその考えを打ち消した。何故なら、車椅子を購入することは、義父が歩けなくなるための準備を進めてしまうようなものだと感じたからだ。義父には、もっともっと自分の足で歩いてもらいたい。車椅子を購入して、歩けなくなる準備を先に進めておくことは、まだまだ自分の足で歩きたいと思っているであろう義父に対して失礼なのではないかとも思ったのだ。

 自立について考えて行くと、様々な関係性が浮き上がって来る。例えば私の母は、何から何まで家事をこなす人である。しかし、私が母に似なかったのは、母が何から何までこなす人だったからではないだろうか。つまり、私は家事をこなすという点において、母に依存し続けていたのだ。

 先日より、あるご夫婦のブログを拝見している。そのご夫婦のご家庭では、子供たちのお弁当のおかずはお母さんが作るが、お弁当におかずを詰めるのは子供たち自身なのだそうだ。お母さんが、子供たちのために何から何まで世話を焼かずにいるところが素晴らしい。まさしく、子供たちの自立を促す育て方だと思う。

 何から何まで世話を焼いてしまうと、甘えの気持ちが生まれ、世話を焼いてくれる人に依存するようになる。妻が何から何まで面倒を見ていると、家では何もしないダメ夫が育ってしまう。介護についても同じことが言えるのではないだろうか。その人ができるかできないか、ギリギリのところでなければ手を貸さないという姿勢でなければ、その人が持っている本来の力は活躍のチャンスを失い、やがて失われてしまうように思えるのだ。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m 実は、こんなことを書いている私は、ガンモに洗濯の作業を依存しています。(苦笑)ガンモは時々、「まるみは手伝ってくれない」と愚痴をこぼしますが、ガンモが洗濯を完璧にこなすために、ガンモに依存してしまうのですね。「私にも、活躍の場を与えておくれよ」と、小さい声で言っておきます。(笑)

さて、今回も記事の中にボタンを埋め込ませていただきますが、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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