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2008.03.04

映画『明日への遺言』

待つこと三時間の記事にの記事に応援クリックしてくださった皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m これが、ソウルメイト夫婦の日常であります。(笑)そのため私たちは、場所によって、「待つ」場所を決めています。三宮ならここ、○○ならここ、というふうに。一日の行動は別々であっても、帰宅までのわずかな時間を共有して一日を締めくくる私たちの姿は、皆さんにはどのように映ったでしょうか。さて、今回もまた、映画のレビューを書かせていただくことにします。もともと戦争ものの映画のレビューを書くのは苦手なのですが、どうして苦手なのか、この映画を観てようやくわかったような気がします。ちょっと、異端児的なレビューになるかと思いますが、書いてみますね。

 日曜日は、ガンモの運転する自家用車で、大阪の箕面(みのお)にある箕面マーケットパーク visolaに出掛けた。公開中の映画『明日への遺言』を観るためである。この日は、私たちが出向いた映画館において、この映画の監督を手掛けた小泉堯史監督と藤田まことさんの舞台挨拶が行われたらしい。当然のことながら、その上映回の座席券は既に完売だったので、私たちは舞台挨拶よりもあとの回の上映を鑑賞することにした。

 日曜日だったからだろうか。箕面に着くまでに道がひどく混み合っていた。そのため、予定よりも到着が大幅に遅れ、映画館の駐車場に着いたのは、上映のわずか十数分前だった。しかも、駐車場もかなり混雑していたため、予告編の鑑賞を半ば諦めかけていたところだった。すると、まるで私たちを導くかのように、私たちの目の前に停まっていた車が一台、出て行ったのだ。停車すべき場所を求めて私たちのすぐ前を走っていた車は、既に先へと進んでしまっていた。駐車場は一方通行なので、もはや先行の車がバックすることはできない。そこで私たちは、振って沸いたような幸運に感謝しながら、空いたばかりのその場所に車を収めたのである。

 この映画は、ガンモが観たいと言うので、派遣会社の福利厚生ページから前売券を購入しておいたものである。公開されてまだ二日目とあって、映画館には多くの人たちが足を運んでいた。しかも、年齢層がかなり高い。

 第二次世界大戦の頃、名古屋で再三に渡り、空爆をけしかけて来たアメリカ軍の兵士たちが、パラシュートで降下して来た。本来ならば、そうした兵士たちは捕虜にするのが当時の決まりだったらしい。しかし、彼らを処刑したとして、東海軍の司令官だった岡田資(たすく)中将が軍人としての責任を問われ、裁判にかけられている。

 この映画のほとんどは、そうした裁判のシーンで成り立っている。その裁判は、裁く人たちと弁護人がアメリカ人、そして裁かれる人が日本人という私たちにとっては見慣れない光景だった。処刑された兵士たちがアメリカ人だったことから、アメリカ人が裁判を開いているのである。裁判に出席している人たちは、通訳に頼るために、ヘッドフォンを耳につけている。

 不思議なことに、生死を賭けた裁判のはずなのに、どことなくアットホームな雰囲気さえ感じられる。岡田資中将が傍聴席に座っている自分の家族や親戚をアメリカ人たち紹介したり、また、傍聴席に座っている親族から、生まれて間もない孫を抱かせてもらったりする。そうした行為を、法廷で自分を裁こうとしている人たちの前でごく自然に行っている。つまり、この裁判には「許容」があるのがわかる。その「許容」はどこから来ているのか。やがて私たち観客は、岡田資中将自身が生み出した「許容」が循環しているのだということに気が付いて行く。

 岡田資中将は、裁判で部下たちを全面的にかばい、中将としての責任を一人で背負った。裁判において、自分の行為を正当化してしまう人が多い中で、岡田資中将は自分の不利になるような発言でさえも厭わない態度で自身の裁判に臨んだ。

 私はこの映画を鑑賞し終えてから、他の人たちのレビューを参考にさせていただきながら、じっくりと復習しているところだ。正直に書いてしまえば、私はこの映画を観て、他の人たちが書かれているほど大きな感動を味わうことができなかった。裁判のシーンが多い上に、裁判で使われている用語が難解だったことも理由の一つである。

 別の理由として、戦争による無差別殺人と、アメリカ軍の兵士たちを捕虜にせずに処刑したこと、更には法が定める死刑というものを、私の中で明確に区別することができなかったことも大きい。私から見れば、どれも殺人であることには変わりがない。それなのに、国のために戦い、相手国の人たちを死に至らしめることについては罪を問われず、捕虜にすることなく処刑した人は罪を問われ、はたまた、法に基づき死刑を執行するという大義名分を振りかざして新たな殺人を犯す人たちについては罪を問われないというのがどうしても納得が行かない。それらが連鎖し合っているにもかかわらず、ある特定の期間だけを切り取って判断することに強い反感を覚えるのだ。国が戦争を始めたことにより、名古屋が激しい空爆を受けた。そのとき、空爆に関わったアメリカ軍の兵士たちがパラシュートで降りて来た。そして、岡田資中将が指揮を取り、彼らを処刑した。

 起こっているすべての出来事に理由がある。国が戦争を始めたことにも理由があり、名古屋が激しい空爆を受けたことにも理由がある。アメリカ軍の兵士たちがパラシュートで降りて来たことにも理由があり、その人たちを処刑したことにも理由がある。しかし、裁判では、国が戦争を始めたことまではさかのぼらない。国が戦争を始めさえしなければ、起こらなかったであろう出来事であるにもかかわらず。

 そうした不完全な追求は、芋づる式に連鎖し合っている。だから、どこかでその連鎖を絶たなければならないのに、誰にもその連鎖を絶つ勇気がない。何もこの映画に限ったことだけでなく、現実世界でも同じである。

 死刑をも含めて、もしも人を死に至らしめることに筋の通った理由があるならば、人を死に至らしめるという点においては、立場や状況を問わず、どれも同じなのではないだろうか。法に基づくだとか国のためだとか、私たちの魂の想いとは別のところにある無機質なものを重んじる意味が、私には良くわからないのである。

 死刑は、現代でも当たり前のように行われている。しかし、「本当にそれでいいの?」とは誰も言わない。去年観た映画『私たちの幸せな時間』では、刑を執行する人たちの苦悩が描かれていた。また、殺人を犯した死刑囚が、遺族と対面するという難しいシーンも描写されていた。私はそこに人間の真実を見た。遺族である母親は、人間としては自分の娘を殺した死刑囚を許したい。しかし、彼女にはまだその準備が整っていない。死刑囚と対面したあと、許したいのにまだ許せないという葛藤を抱えることになる。それが人間の真実というものではないだろうか。だから、例え死刑が確定し、その刑が執行されたとしても、それで終わりではないのである。世の中の人たちにもそれがわかっているはずなのに、今後もそうした行為を法に基づく正当な行為として認めて行くべきなのだろうか。

 私が最も納得が行かなかったのは、「人を死に至らしめたこと」を裁こうとしているのに、同じように人を死に至らしめる死刑という方法でもって、新たな殺人を行おうとしているところだ。「裁く」という誰かの行為を認めるならば、戦争中に個人が裁こうが、法廷で裁こうが、区別などないのではないだろうか。それなのに、法廷で裁くことだけが正当化されるのはおかしい。私には、法というものが人間の想いよりも大切なものであるとは思えないからだ。

 おそらくこの映画は、そういうところで立ち止まるべき映画ではないのだろう。裁く人たちとも友好的に接することができた岡田資中将の人柄にスポットを当てるべきなのだろう。私がこの映画に感動できなかったのは、人を死に至らしめるという点において、公平にとらえようとしまったからだ。それは、今でも日本にまかり通っている制度の問題であって、小泉堯史監督のせいではないと思いたい。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m 私はやはり、戦争に関する映画は苦手です。理不尽な想いがふつふつと沸いて来るからです。でも、多くの人たちは、この映画で感動されているようです。私は別のところに視点が向いてしまったために、このような感想を抱くことになりました。おそらく、ご覧になった皆さんも、私とは違う感想だと思います。異端児的なレビューでごめんなさい。m(__)m

さて、今回も記事の中にボタンを埋め込ませていただきますが、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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