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2007.09.02

映画『誰も知らない』

 凄い映画を観た。以前から、この映画をご覧になった方のレビューを拝見し、題名だけは知っていた映画である。映画のレビューを書かれた方の衝撃があまりにも強そうだったので、私もDVDを借りて観てみることにした。

 この映画は、一九八八年に東京で実際に起こった巣鴨子供置き去り事件をベースに製作されているという。父親の違う四人の子供を持つ母親が子育てを放棄し、子供たちをアパートに残したまま、好きな男性の元へ走ってしまうというストーリーである。アパートに残された子供たちは、母親からの仕送りのお金で細々と生活をしている。ただ、映画の中で弟や妹たちの面倒をみている長男の明は、必ずしも実際の事件の長男のキャラクターとは一致しないそうだ。

 私は、この映画から、衝撃も含めて極めて多くのものを受け取った。まず、子供がたくさんいると、アパートでは入居を断られるケースもあるという事実に驚いた。犬や猫などのペットの飼育を禁止しているアパートやマンションが多いことは周知の事実だが、小さい子供の入居を禁止しているアパートがあることまでは良く知らなかった。物語は、一家が新しいアパートに引っ越して来るシーンから始まるのだが、どういうわけか、二つのスーツケースの中から子供たちが一人ずつ出て来る。いきなり、映画でそのようなシーンが映し出されても大丈夫なのだろうかと不安になってしまう。もしもこの映画を観た子供たちが真似をして、スーツケースの中で息ができなくなってしまったとしら、窒息死してしまうのではないか。そんな映像を観るだけでも冷や冷やものなのに、撮影中は安全だったのだろうか。しかし、そんな危険を冒してまでも、まるで荷物のように運ばれる子供たち。一体何事かと思えば、小さい子供の入居禁止というアパートの事情から逃れるために、小さい子供がいることを周りに隠しているのである。YOU演じる母けい子は、アパートの隣人にも、子供は一人だけだと言う。実際は四人なのに。スーツケースから出て来た二人の子供以外にも、明が駅まで長女を迎えに行き、こっそりアパートの中に招き入れる。それだけでも、何だか悲しい物語の始まりを予感させる。

 子供が四人もいることがわかってしまうと、アパートには居られなくなってしまうことから、けい子は明以外の子供たちに、「大きな音を立ててはいけない。大きな声を出して騒いではいけない。ベランダに出てはいけない」と厳しいルールを宣言する。育ち盛りで騒ぎたい子供たちにとって、それはとても窮屈なルールだったはずだ。しかし、そのアパートで一緒に暮らすためには守らなければならないルールだった。そう、ここには、少子化とは反対の問題が浮上しているのだ。子供を産んで育てていない私からすると、お子さんを四人も生んでくれてありがとうという気持ちになる。しかし、現実には、子供をたくさん抱えた、父親のいない母子家庭のアパート暮らしは想像以上に厳しい状況らしい。小さい子供が入居可能なアパートを探そうにも、家賃の問題もあるのだろう。

 驚いたことに、映画の中の子供たちは、誰一人として学校にも行っていない。現実の事件の説明に目を通してみると、出生届が提出されていないことがわかった。しかし、子供たちは学校に行きたがり、友達を欲しがっているのがわかる。家の外に出て行くことを許されない明以外の子供たちにとっては、家の中の世界がすべてだ。狭いアパートの中では、次男がゲームをしたり、けい子が仕事に出掛けている間に長女がせっせと洗濯をしたり、次女はお絵かきをしたりして過ごしている。しかし、少しだけ外の世界を知っている明。そして、外に働きに出掛けて、もっともっと外の世界を知っているけい子。次第に、外の世界を知っていることによる葛藤が描き出されて行く。

 一見、幸せそうに見えるけい子と子供たちだが、けい子に好きな男性ができたあたりから、子供たちの生活が一変してしまう。けい子がアパートに帰らなくなってしまうのだ。けい子が何ヶ月もアパートを不在にしている間、長男の明が弟たちの面倒をみていた。実にしっかりした長男である。お金はときどき、けい子から仕送りされていたようだが、家賃の支払いが停滞したり、電気代が払えないために、電気が止められたりもする。やがては、水道も止められていたのだろうか。そのため、公園で水を汲んだり、公園の水で洗濯をしたりして、何とか生活を続けて行く子供たち。時には、コンビニの期限切れの食べ物をもらって空腹をしのぐ姿もあった。

 長男の明に集中する人が多いかもしれないが、私が特に印象に残っているのは、ピアノが好きな長女の京子である。子供の頃に買ってもらったピアノをいつまでも弾き続けている。少しずつおしゃれをしたくなって来る年頃の京子は、けい子に塗ってもらったマニキュアが少しずつ剥がれて行く手の先を見守っている。洗濯をするから、家事をするから剥がれて行くのである。また、公園の遊具の上に妹が乗ったあと、遊具の上に付いた泥を手で払っている。その姿に、姉として、自分が妹の面倒をみなければ、という責任感が表れている。

 ああ、何だろう。この映画を観ていると、社会の制度だとか、ルールだとか、そんなものが一切関係なくなってしまう。生きるためなら、万引きしても仕方がないじゃないか。亡くなった子供を土に返してやるのもアリじゃないか。そう思えて来るのだ。周りにいる大人を責めるとか、そんな感覚さえも失ってしまう。ただ、彼らの生きようとする姿を純粋に応援したくなるのである。

 公開当時はミニシアター系の映画館で上映されていた映画らしく、台詞による細かいストーリーの説明はなく、観客に想像させるような映像展開となっている。先程も述べた通り、この映画で描かれているのは、外の世界と内の世界である。アパートの扉は、外の世界との境界。けい子は完全に外の世界に憧れ、内の世界を放棄して出て行った。外の世界と内の世界の狭間で揺れていたのは、自由に出歩くことのできる明だったのではないだろうか。一時、友達に恵まれた明。学校にも行っていなかった明にとって、その友達はとても貴重な存在だったはずだ。しかし、やがてその友達も、明を利用していただけだということがわかってしまう。更には、いじめにあっている女子中学生との出会いがある。おそらく、明は彼女に恋をしている。しかし、明は彼女と外の世界を作るのではなく、彼女を内の世界へと招き入れた。明の内の世界に入った女子中学生は、他の兄弟たちとも調和して行く。明の友達では実現できなかったことが、女子中学生には実現できた。それは、女子中学生が明を利用しようとしなかったからだ。彼女こそが、真の友達だ。なるほど、真の友達というのは、内と外を結ぶ役割を持っているのだ。真とは、片側だけではない、ということだ。プラスだけでも、マイナスだけでもないということだ。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m とても衝撃的な映画でありました。これは、社会の問題ではなく、個人の問題だと思いました。社会の問題として取り上げるとするならば、小さな子供の入居を拒否しない制度を作るということでしょうか。子供たちは、誰かに助けを求めることもできたのでしょうが、そうすることによって、四人ばらばらの生活を強いられてしまうという恐怖もあったようです。だから彼らは、警察にも駆け込まず、ごく一部の人たちにだけ助けを求め、細々と暮らしていたのでしょう。母けい子は、子供たちを内の世界に閉じ込めたまま、外の世界を選びました。しかし、自分の達成したいことが、自分の関わって行く人たちの達成したいことと矛盾している状況に陥ったとき、私たちはどちらを選択することになるのでしょう。自分の達成したいことと、自分の関わって行く人たちの達成したいことを天秤にかけて判断するのでしょうか。けい子は、天秤にかけた結果、外の世界を選ぶことにしたのでしょう。しかし、おそらくけい子の選択は、好きな男性と一緒に暮らしていたとしても八方塞だったのではないかと想像されます。何故なら、内の世界にいる子供たちと繋がっていないからです。いろいろな悲しい背景はありますが、映画を観ていると、それでも彼らは幸せだったのではないだろうかという気がしてなりません。だから、映画を観るときも完全に受身の姿勢で、ストーリーの展開を映画自身にゆだねることができました。そうそう、コンビニの店員さんに、映画『アルゼンチンババア』の主題歌を歌っていたタテタカコさんが出ていました。歌声を聴いたときは、ずいぶん不思議な歌い方をされる方だと思っていましたが、キャラクターも中性的でちょっぴり不思議ですね。(笑)

さて、今回も記事の中にボタンを埋め込ませていただきますが、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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