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2007.08.26

映画『シド・アンド・ナンシー』

ホットヨガ(六十四回目)の記事にたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m お腹を意識する脂肪燃焼2のコースは、お腹に力を入れることから逃げないことを教えてくれた貴重なレッスンとなりました。もしかすると、私に最も適しているコースなのかもしれません。近いうちに、2の付かない脂肪燃焼コースも体験したいと思っています。

 ホットヨガの帰りに観た映画は、『怪談』という破滅的な男女の恋を描いた作品である。正直言ってしまうと、私にはあまりピンと来ないテーマだった。確か、劇場で繰り返し観ていた予告編では、黒木瞳さんの「死んでも愛してる」という台詞が流れていた。「死んでも愛してる」か。ううむ。言葉から想像する世界だけならまだ美しい。もしも死に行くとき、愛し合った相手に遺す言葉なら、「あなたと愛し合ったことを忘れない」という意味にも取れるからだ。しかし一言で言って、この映画で表現されているのは、「愛」というよりもむしろ「執着」である。予告編でも流れていたが、黒木瞳さんは、「この先、女房を取れば、必ずや取り殺す」という手紙まで残していた。このように、破壊的な男女の恋として描き出されていたわけである。

 この映画をついつい観てしまったのは、決して他の映画と間違えたわけではなく、『怪談』を上映している映画館で観た映画の半券が六枚分溜まり、それら六枚分の半券と引き換えに、映画を一本無料で観られることになっていたからだ。そのサービスの有効期限は九月末までだったというのに、思わず早まってしまったというわけである。

 映画を観終わったあと、同じ破滅的なら、自分なりにもっと感動的な男女の愛が表現されている映画を観たくなった。そこで私は、独身時代に観て切なくなった『シド・アンド・ナンシー』のDVDを観ることにした。映画『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』の記事にも書いたように、この映画で主演しているのは、ハリー・ポッターシリーズでシリウス・ブラックを演じているゲイリー・オールドマンである。映画『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』を観て、およそ二十年後の彼を知っているだけに、若い頃の彼を観るのはちょっと妙な気がしたが、彼ははちゃめちゃなパンクロッカーの役を見事に演じていた。

 一九七〇年代後半に実際に起こった出来事をベースに製作されたこの映画は、ロンドンで活動していたパンクロックグループ、セックス・ピストルズのベーシストであるシド・ヴィシャスが、次第に麻薬に溺れ、アメリカ人の恋人ナンシーとともに破滅に向かって行くさまが描き出されている。破滅的な二人だが、どうしても離れることができない。映画から感じ取れる雰囲気では、二人は特に精神的に深く結び付いているわけでもなければ、セックスに溺れているわけでもない。それなのに、二人を引き離せない何かがある。二人はお互いにとって、なくてはならない存在だったのだ。そのため、シドがアメリカに遠征ツアーに出掛けて行くことをひどく寂しがるナンシー。映画の中では声も大きく、騒々しい上に厚化粧の女性なのだが、シドを想う態度がとてもピュアでかわいい。一方、アメリカに遠征に出掛けたシドも、ナンシーと離れ離れになってしまったことで心のバランスを崩し、何となく調子が出ない。

 歴史的事実なので、映画の結末を書いてしまっても差し支えないだろう。のちにナンシーは、シドと一緒に連泊していたニューヨークのホテルで、刺殺体で発見される。あれだけ愛し合っていたはずの二人に一体何が起こったのか。実は、このときの二人は麻薬中毒者になっていて、精神的にかなりおかしな状態だった。だから、二人が宿泊していたホテルの一室で何が起こったのか、正確なことはわからない。シドはナンシー殺害の容疑でいったん連行されるが、間もなく保釈されたと言う。しかし、シドはその後、自殺未遂をはかり、一命を取り留めたものの、わずか二十一歳の若さで麻薬中毒で亡くなったそうだ。シドは自分の亡骸をナンシーと一緒に埋めて欲しいと遺書にしたためていたらしいが、ナンシーの両親に拒まれたことで、シドの母親がシドのお墓を掘り起こし、ナンシーのお墓にシドの遺灰を撒いたという。

 この二人がこれほどまで破滅的になってしまったのは、ひとえに麻薬から足を洗うことができなかった弱さのせいだろう。『怪談』のように、相手に執着するような破滅ではない。シドとナンシーは、どこか世間から外れたような生き方を選んでしまった。二人の世界は、連泊しているホテルの一室だった。その世界から、他のどの世界とも繋がることができず、二人は自分たちだけの世界に没頭し、どんどん堕ちて行った。

 この映画の感動的なシーンは、何と言ってもラストだろう。シドが街で出会った子供たちと一緒に曲に合わせて踊っていると、どこからともなくタクシーが現れる。そのタクシーには何と、ホテルで亡くなったはずのナンシーが乗っていて、シドを見てうれしそうに微笑む。その微笑みを確認しただけで、シドに刺されたかもしれないナンシーは、既にシドを許していることがわかる。ここで初めて、二人が破滅的な愛から解き放たれる。吸い込まれるようにタクシーに乗り込むシド。ようやく二人に本当の幸せが訪れた。そう思ったところで、映画が終わるのだ。若い頃、私はこのラストシーンに涙したものだった。

 このラストシーンに登場する子供たちを天使とする解釈があるようである。つまり、天使が出て来た時点で、シドが天に召されることを意味しているという。実際、タクシーのシーンの直後に、シドの死を伝える文字がスクリーンに映し出される。この映画のラストシーンは、二人が死んで幸せになったという意味で、『怪談』のラストシーンにも通じるものがある。

 何だろう、これほどまで凄まじい破滅的な男女の愛は。私は良く、「ガンモと二人で一緒にいるだけで幸せだ」と思う。しかし、シドとナンシーは、お互いに深く愛し合いながらも、二人で一緒にいることでどんどん破滅に向かってしまった。そうなると、どんなときも愛し合う二人が一緒にいることが最高の愛ではないことになってしまう。二人で一緒にいるだけで幸せと断言できるには、他に何か必要なものがあるようだ。それは多分、強さだ。愛を維持するには、二人の生き方を軌道修正する強さも必要なのだ。二人は麻薬から足を洗うことができなかった。それは、弱さから来るものだ。二人は、そんな弱さを共有してしまった。そこに破滅の原因があったのではないだろうか。

 しかし、そう思うのは私の客観であって、シドとナンシーの主観においては、例え麻薬の影響により、最愛の人を失うことになったとしても、二人で過ごした時間は幸せだったと言い切れるのかもしれない。そうだとすると、あのラストシーンは、状況がどうであれ、二人が幸せだったことを象徴しているのだろうか。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m この作品の舞台の半分はロンドンですが、私が見て来たロンドンとは異なるロンドンが描き出されています。子供たちが道を歩きながら、高級車を足で蹴ったり、また、棒で叩いて傷つけたりしています。シドもまた、ロールス・ロイスのガラスを叩き割ります。もしこれが現実に起こっている出来事なのだとしたら、日本は何と平和な国なのでしょうか。パンクロックなどの方法で、究極的な世界を表現して行くということは、こうしたはちゃめちゃな行動を取りやすくしてしまうものなのでしょうか。彼らは何か、自分が社会や身近な人に受け入れられていない怒りのようなものを抱え込んでいるのでしょうか。私には、はちゃめちゃな行動を取る彼らはあたかも開いているように見えているけれど、実際は閉じているのだと感じました。そして、何らかの怒りを原動力にして、音楽活動を続けていたのでしょうか。しかし、そうしたエネルギーが、結局は人を破滅に向かわせたという物語でありました。

さて、今回も記事の中にボタンを埋め込ませていただきますが、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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