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2007.07.28

映画『殯(もがり)の森』と舞台挨拶

 早起きをして出掛けようと思っていたのは、ホットヨガ神戸店のすぐ隣にあるシネ・カノン神戸で初回上映前に行われる映画『殯(もがり)の森』の舞台挨拶だ。この映画は、二〇〇七年度カンヌ国際映画祭グランプリ(審査員特別賞)を受賞した名誉ある作品である。舞台挨拶には、河瀬直美監督と主演のうだしげきさんが来られることになっていた。私は、シネ・カノン神戸で映画を観る度に、『殯(もがり)の森』の予告編を目にして、公開されたら絶対に観に来ようと心に決めていたのだった。そして、どうせ観るなら、上映初日の舞台挨拶の回を観たい。そう思っていたのだ。

 舞台挨拶は十時からの予定だったが、映画館としては九時から受付を始めるという。前日の夜、プロジェクトの飲み会のために帰りが遅かったので、少々睡眠不足ではあったが、私はできる限り早めに家を出ようと思い、六時半に目覚ましをセットして起き出した。しかし、前夜のお酒がまだ完全には抜け切っていなかったことと、睡眠不足のせいでのろのろと支度を始めてしまい、結局、家を出たのは八時過ぎだった。

 ところが、最寄駅に着いてみると、人身事故の影響で電車が遅れていた。人の命がかかっている出来事に対して申し訳ないが、最低でも、九時からの受付には間に合うように出掛けて行きたいと思っていたのに、シネ・カノン神戸に着いたときには既に九時半を回っていたのである。こんなに遅くなってしまっては、もはや舞台挨拶の回には入場できないのではないか。そんな不安が脳裏をよぎったが、受付で入場券を求めると、「本日の舞台挨拶は既に満員です」とも何とも言われなかった。「良かった、まだ入場できる!」私はそう思い、案内されたスクリーンへと急いだ。

 私は、シネ・カノン神戸の会員なので、これまでにも何度かこの映画館を訪れている。会員になれば、一回千二百円で映画を観られるからだ。いやいや、ここでそんなことを話したいわけではない。比較的マイナーな映画を上映しているシネ・カノン神戸は、ミニシアター系の映画館と言ってしまってもいいだろう。だから、メジャーな映画が上映されて、いつもたくさんの人たちで賑わっているような映画館ではない。しかし、今回はいつになく混雑していた。やはり、二〇〇七年度カンヌ国際映画祭グランプリ(審査員特別賞)を受賞した作品の舞台挨拶ということで、注目度が高いのだろう。ただ、若い人たちよりも、とりわけ、ご年配の方たちの参加が目立っていた。そして、舞台挨拶直前の十時前になると、ほとんど満席と言ってしまってもいいほど、座席は埋め尽くされたのである。

 十時になると、司会の男性が入って来た。司会の男性が簡単なあいさつを済ませると、私たちが入場した出入口から河瀬直美監督とうだしげきさんが入って来られた。会場から一斉に拍手が沸き起こる。いやはや、舞台挨拶に参加するのは何年振りだろう。二十年ほど前に観た『私をスキーに連れてって』以来ではないだろうか。当時の舞台挨拶は、写真撮影も許可されていて、私も一眼レフを構えて役者さんたちを撮影していたものだが、現在は許可されていないようだった。

 それはさておき、プロフィールによると、河瀬監督は、私よりも四歳年下の女性である。私が彼女の監督作品を拝見するのは今回が初めてだ。一方、うだしげきさんは、一九四六年生まれの初老の男性である。ずっと、編集、ライターのお仕事をされていた方だが、現在は『ならまち文庫・古書喫茶ちちろ』を開業されている。今回は何と、映画初出演であり、グループホームで暮らす認知症の男性を主演していらっしゃる。

 河瀬監督もうだしげきさんも、カンヌ国際映画祭グランプリ(審査員特別賞)を受賞されてからの生活はがらりと変わってしまったそうだ。特に、映画初出演のうだしげきさんは、町で声を掛けられるようになり、飲み屋さんに行っても話し掛けられるので大変だとおっしゃっていた。

 河瀬監督は、映画を撮るようになったきっかけとして、「それは、私がもう一つの目を持ったときでした」と語り始めると、「文学少女でもなく、映画を撮りたいと強く思っていたわけでもなく、ただ自分の足元を見つめて掘り下げれば、豊かなものに辿り着ける」と付け加えた。すなわち、日常の中に映画にしたい題材を見つけられたということだろう。ある日、河瀬監督は、「世の中は、おもちゃ箱をひっくり返したみたいに何て面白いんだろう」と思ったそうだ。ご自分の発見に客観性を持たせるとともに、その発見がちゃんとした物語になるように、自分の知らない人にも届いて行くように、強く意識されているそうだ。客観性の説明としては、「観客の中に、普段の自分とは違う自分が存在していること」とおっしゃっていた。

 河瀬監督の言葉は、私にとって、とても刺激的だった。私が毎日ブログを綴ることに関しても、客観性を強く意識しているところがある。自分のノートにひっそりと書き記す日記ではなく、人に伝わって行くことを強く意識している。もしもこの意識が欠けてしまえば、ブログはひとりよがりなものになってしまうだろう。なるほど、芸術とは、主観を客観に変換して行くことなのではないだろうか。ふと、そんな気がした。

 河瀬監督は、次回作を既に取り終えられているそうだ。次回作は、来年の春頃の公開になるだろうとのことだった。

 あっという間に時間は過ぎ、お二人の舞台挨拶はお開きになった。河瀬監督は次のお仕事が入っていらっしゃるとかで、すぐに次の仕事場へと向かわれたのだが、うだしげきさんは、そのまま会場で私たちと一緒に映画をご覧になった。上映後、何と、うだしげきさんがパンフレットを購入した人たちにサインをしてくださるとアナウンスがあった。

 やがて会場が暗くなり、『殯(もがり)の森』の上映が始まった。舞台挨拶で河瀬監督がおっしゃっていたのだが、この作品はほとんどがアフレコ(アフター・レコーディング)なのだそうだ。そのため、全体的に独特の雰囲気が出ている。音が曖昧ではなく、とてもクリアなのだ。特に、お年寄りが集まって話をしているシーンは、まるでアドリブで構成されているかのような、とても不思議なシーンに仕上がっている。フランス人のスタッフが二ヶ月掛けて音の仕上げを行ったのだそうだ。

 ストーリー自体は、奈良の美しい自然を描写しながら、とても静かにゆっくりと進行して行く。しかも、すべてにおいて、状況の説明がない。例えば、しげきさんとグループホームの介護スタッフである真千子が二人で車に乗って出掛けて行くシーンがある。観客には、二人が車に乗って出掛けて行くシーンが映し出されているだけで、二人が一体どこへ出掛けて行こうとしているのかささっぱりわからない。通常の映画ならば、どこに出掛けて行くかを台詞で説明するように構成されている。しかし、この映画は最初から最後までそうではないのだ。そういう意味で、察して欲しい映画になるのかもしれない。しげきさんと真千子が二人でどこへ出掛けて行くかは、ずっとあとになってからわかる。

 しげきさんは、三十三年前に最愛の妻を亡くしている。このような表現は適切ではないかもしれないが、最愛の妻を亡くした悲しみがあまりにも深かったために、しげきさんは認知症という病気を選んだのではないかという気がした。そして、介護スタッフの真千子もまた、最愛の息子を亡くし、深い傷を抱えていた。

 映画を観たときには得られなかった感動が、今、レビューを書きながら押し寄せて来ている。そう、この映画は、最愛の人を亡くした経験がなければ、心に響いて来るものに巡り合えないかもしれない。いや、例え最愛の人を失う経験があったとしても、あまりにも前向きな人には、何故、三十三年もの間、しげきが妻を失った悲しみから立ち直れないでいるのか、理解できないかもしれない。私自身はと言うと、最愛の人をまだ失ってはいない。だから、本当の意味で『殯(もがり)の森』に足を踏み入れてはいない。

 映画を振り返ろうとして、いつものようにYahoo!映画 - 殯(もがり)の森 - 作品ユーザーレビューを観に行った。そこで出会ったのが、分からなかった映画分かりたくない気持ちというコメントだ。このコメントを拝見していると、どういうわけか、胸にきゅーんと響いて来るものがあった。勝手ながら、少し引用させていただくことにしよう。

 見終わった後、映画のことがよくわかりませんでした。しかし、一つ席の空いた隣の初老の女性が泣き続けていました。
 どうして泣き続けていたのだろうと考え、映画の中に出てきた「殯」の意味と組み合わせたときに、老人(しげき)とそれを支える真千子の意味をとらえることができた気がしました。

 上映後、私はパンフレットを購入し、うだしげきさんにサインをいただいた。そのとき、うだしげきさんが私に、
「何度観ても涙が止まらなくなる映画なんですよ。もう十五回も観てるんですけどね」
とおっしゃった。私は、上映中に泣くことができなかったので、うだしげきさんのその言葉に対し、何も反応することができなかった。そのときは、主役を演じられたうだしげきさんが、主観で映画を観られて感動されているのだろうと思い込んでいた。しかし、前出のユーザーレビューを拝見して、私には届きにくい領域で感動が沸き起こっている映画なのだとわかった。うだしげきさんの涙も、決して主役を演じた主観からではなく、最愛の人を亡くした経験のある人の涙だったのだろう。
 

うだしげきさんにいただいたサイン

※ネタバレ注意報。ここから元の文字の色に戻るまでネタバレです。

 しげきさんと真千子が出会う前は、お互いに最愛の人を亡くした悲しみから立ち直ることができずに袋小路にいた。しかし、二人が出会い、森の中で一日を共にすることにより、お互いの傷が癒されて行く。同じ悲しみを抱えた者同士だからこそ、二人は繋がることができたのではないだろうか。その証拠に、しげきさんはあれだけ大切にしていたリュックを真千子が背負うことを許容する。リュックを真千子に預けるのだ。かつては、何も知らずに妻との想い出の品の入ったリュックに手を触れた真千子を突き飛ばして怪我をさせたというのに。大自然の森が、二人の深い傷を癒したとも言える。

 それを考えると、真千子と二人でお墓を掘り起こすラストのシーンは、これまで閉じていた領域を完全に開放した状態にあると言えるのではないだろうか。しげきさんにしてみれば、最愛の妻のお墓は、リュックよりも大切な場所でもあるはずだ。更に真千子も、自分が部外者であるという意識が残っていては、決して立ち入ることのできない領域でもある。しかし、二人はその領域に到達する。ああ、おそらく、うだしげきさんが何度観ても涙が出るとおっしゃっていたのは、ラストシーンだ。映画の中のしげきさんが、最愛の妻にもっとも近い場所に辿り着いたシーンで涙されるのだろう。しげきさんは、最愛の妻にもっとも近い場所で、安心したように眠る。

 この映画は、映画を観終わった直後ではなく、映画への理解を深めようとしたときに感動に襲われる映画かもしれない。少なくとも、私にとってはそうだった。この映画がわからないと叫ぶことよりも、わかろうとすることのほうが大切だと思う。笑いは万人に共通でも、深い悲しみは万人に共通ではないことを実感させられる映画だった。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m 映画への理解を深めようとして、いろいろな方たちの感想を読む度に、身になるものがあると感じるような映画でした。ただ、台詞での説明がないだけに、そうした作りに慣れている人には戸惑いを感じてしまうかもしれません。でも、あとになって、あれはこういう意味だったんだ、ということがわかって来ると、じわじわと感動がこみ上げて来る映画なのです。映画の世界においては、「わかって!」を強く打ち出すと、時には押し付けがましい描写になったりもします。そういう意味では、この映画は観客の感じるままに任せる映画だと言うことができると思います。しかし、最愛の人の死に対し、どのような方向に進んで行くのが理想的なのでしょうか。いつまでも悲しみに留まらず、前を向いて生きて行く人たちもいます。そうした人たちは、決して薄情というわけではなく、亡くなられた方の魂をいつも身近に感じていらっしゃるのかもしれませんよね。

さて、今回も記事の中にボタンを埋め込ませていただきますが、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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