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2007.06.01

映画『あしたの私のつくり方』

 この映画が公開されることを知ったのは、ホットヨガのスタジオに置かれていたチラシからだった。ホットヨガに映画の半券を持って行くと、二回分のトライアルレッスンが通常三千円のところ二千円になるほか、入会金も通常五千円のところ三千円になるという。そのようなチラシがあることからすると、この映画の主人公がホットヨガを通して自分を作って行くプロセスが描かれた作品なのかと錯覚してしまったのだが、どうやらそうではないらしい。チラシの中で各界の著名人がこの映画を絶賛するコメントを寄せていたので、どうしてもこの映画を観たくなったのだ。

 この映画は、自分らしさを問う物語と言ってもいい。時として私たちは、集団の中で孤独を感じないように生きるための工夫として、人に好かれる自分を演じることがある。しかし、やがて、そのように演じている自分と、本当の自分とのギャップに苦しむようになる。この映画は、そうしたギャップに苦しむ若者たちを主人公とした映画である。さすが、NTT DoCoMoが特別協賛しているだけあって、携帯電話のメールを頻繁に使用しての交流が進んで行く。

 人に好かれようとするあまり、いつの間にか本当の自分ではない自分を演じてしまう気持ちは良くわかる。オープンでありたいと思えば思うほど、そうした壁にぶち当たることになる。私だって、「ガンまる日記」を毎日綴りながら、毎日楽しみに読んでくださっている方たちのことをがっかりさせてしまわないように、できるだけ多くの人たちに伝わりやすく文章を組み立てることがある。例えば、こうした映画のレビューも、まだ映画を観ていない人や、これからも映画を見る予定のない人が確実にいらっしゃるわけである。そうした人たちに対し、書くことを遠慮してしまう傾向が、私にはある。心を動かされた映画であればあるほど、感想を綴りたいにもかかわらず。また、本当の自分としてはもっとマニアックな部分を表現したいのに、一部の人にしか伝わりにくい内容であったりすると、表現することをためらってしまうこともある。もしもこれが公開されたブログではなく、自分の手帳ならば間違いなく書くだろう。

 そう、つまりは、人に見せている自分と、人に見せていない自分は必ずしも一致しないということである。これは、社会に出るともっと顕著になる。私の場合、職場で見せる自分と普段の自分はまったく異なっている。話せる人に対してはどんどんオープンになることができるが、まだまだお互いの入口を模索しているような間柄だと、なかなかオープンになることはできない。それは、人と人が相対的な関係を結んでいるからだと思う。

 ところで、この映画には、あちらこちらにキラリと光る台詞がある。特に印象に残ったのは、小学校の図書館で寿梨(じゅり)と日南子(ひなこ)が顔を合わせずにお互い前方を見つめながら交わす会話だ。かつてはクラスの人気者だったはずの日南子があることをきっかけにしてクラスメートから無視される対象になり、かつての自分が本当の自分なのか、孤立した今の自分が本当の自分なのかわからないと放った台詞だ。この言葉が寿梨や日南子の心にいつまでも残る。例えほんの短い会話であったとしても、このとき二人は、お互いの入口を見つけることができたに違いない。そして、その入口は、あたかも数年後に開けられる約束をされたタイムカプセルのように、大事に仕舞われてしまった。

 一時的に交流が途絶えてしまう二人だが、日南子の引越しをきっかけに、寿梨が日南子にメールを送ることから二人の交流が復活する。と言っても、本名を明かさないニックネームでのやりとりという奇妙な交流だ。寿梨は、日南子が転校先の学校でみんなに馴染めるように、メールで励ますのである。

 私自身は転校の経験はないが、大学のサークルを二年から参加したことがある。通常、大学のサークルというものは一年の早い時期から参加し、同じ一年生同士の雰囲気がすっかり出来上がっているものだ。一年遅れて参加した私に対し、一年の頃からサークルに参加していた人たちに構えがなかったとは言い切れない。ただ、私が所属していたのは写真研究会というほとんど男性ばかりのサークルだったので、女性の私が受け入れられやすい状況にあったのかもしれない。だからだろうか、彼らに気に入られるために自分自身を演出したという記憶はない。

 人と同じことをしなければ、過ごしにくくなってしまう学校生活。もともと学校は、個が磨かれる場所ではない。集団で行動する場所であるがゆえに、個の考えは集団の考えに丸められてしまう。だから、同じものは歓迎されるが、違うものは排斥される傾向にある。そして、排斥されないようにするために、自分自身を演出するというわけだ。

 それにしても、この映画には、思い返せば気になる台詞がいくつもある。
「中学に受かって欲しかったのは私じゃない。私の両親だ」
と寿梨は言う。確かに親の引いたレールの上を走らなければならないような環境で育つと、自分の願望を押し殺して、親の望む自分を演じることが当たり前のようになってしまうのかもしれない。自分が反発しないことで、物事がで丸く収まることがわかっているのだから。しかし、親の言いなりになってしまうなんて、私には絶対にできないことだ。私は、自分が納得の行かないことに関してはとことん反発して来た。実際私は、寿梨とは逆のことをしている。一度入学した広島の大学を、親の反対を押し切って休学し、翌年に東京の大学を再受験したからだ。この選択は、親にずいぶん心配を掛けたし、私立大学の入学金を二年連続支払うという金銭的な負担も掛けてしまった。しかし、東京で生活したことで、私の人生は大きく変わったと思っている。東京での私は、今の私の多くの部分を作っていると思う。

 この映画の結論としては、いつまでも本当の自分を模索し続けるのではなく、演出している自分も自分だと認める方向へと落ち着いた。クラスメートから無視されていた自分も自分。例えそれが目をそむけたくなるような自分であっても、目をそらさないでいようということ。つまり、本当の自分と嘘の自分が存在するわけではなく、すべて自分。そういう結論だった。これは、なるほど、と思う。どの自分が本当の自分なのかと自分探しを始めたら、心地良くない自分が存在することを環境のせいにしてしまう。しかし、そうではなく、格好悪い自分も自分だと認めるというは、ものすごく勇気の要る決断だと思うのだ。若い二人にそれができたのは素晴らしいことだ。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m 寿梨と日南子が携帯電話で話をするシーンで、
「テレビ電話に切り替えられる?」
「切り替えられるよ」
という台詞があります。これには驚きました。最近の携帯電話は、そういうことが可能なのですね。いやはや、驚きでした。この映画は、もっといろんな観方ができる映画だと思います。実は、切ないシーンもあったのです。それは、寿梨が失ったものを持っている、かつてのいじめられっ子に出会ったときです。決して悪気があるわけではないのに、かつてのいじめられっ子の微笑みが寿梨の心をチクチクさせるんですね。

さて、今回も記事の中にボタンを埋め込ませていただきますが、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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