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2007.05.04

映画『バベル』

 水曜日の大阪のレディースデイに見た映画とは、『バベル』である。映画館は、きのうも書いた通りの大盛況ぶりだった。当たり前のことだが、やはり、大阪は神戸よりも都会である。それだけに、映画館のキャパも大きい。とにかく、レディースデイということで、映画館の発券カウンターがくねくね曲がるほどの人がやって来ることが驚きだった。私は、既に満席になってしまった十四時からの上映を見送り、四時間近く待って、十七時十五分からの上映を観ることにした。その間、別の映画でも観られればと思っていたが、観たい映画の上映時間が合わず、結局、上映までの待ち時間に大阪の町をぶらぶらと歩き回っていた。せっかくのレディースデイなのに、このような形で時間をロスしてしまうのはもったいない気がした。

 ようやく上映時間になり、スクリーンに入った。私が選んだのは通路側の席だったのだが、あとになって、その席を選んだことを後悔した。さきほども書いた通り、大阪の映画館は大きい。そして、ゴールデンウィーク中のレディースデイということで、たくさんの人たちが映画を観に来ていた。私が席に付いてリラックスしていると、上映時間ギリギリまで、いや、上映時間になっても、次から次へと人が入って来る。往来の絶えない通路側の席に、私はまたしても居心地の悪さを感じていた。これから大阪で映画を観るときは、通路側の席だけは絶対に避けようと心に誓ったのだった。

 さて、この映画だが、既にあちらこちらで物議をかもし出しているようだ。例えば、Yahoo! 映画のユーザレビューに目を通してみてもそれは一目瞭然だ。そう、この映画もまた、賛否両論が激しく分かれる映画のようである。この映画を観て何も受け取らなかった人たちは、勝手に怒っている。何故、そんなに怒るのだろうと考えてみると、なるほど、わざわざお金を出して観ているという意識があるからなのだろう。私が通路側の席に座って居心地の悪さを感じてしまったのも、お金を払って観ているという意識があるからなのだろうか。私の場合はおそらく、ざわざわしない静かな映画館と比較してしまうからだと思う。

 この映画のテーマは、「通じない」だろうか。モロッコ、メキシコ、アメリカ、日本を舞台に、主に言葉の通じない世界が描かれている。言葉以外にも、思いが通じない世界も描かれている。言葉が通じないという経験は、きっと誰にでもあることだろう。私自身にもある。独身の頃、外国の方たちと交流があり、言葉の壁を感じてしまったことが何度かある。また、以前にもここに書いたことがあるが、独身の頃、ヨーロッパ旅行に出掛けたとき、パリのシャンゼリゼ通りの美容院でパーマをかけたことがある。そのとき、ストレートパーマにして欲しいと言ったつもりだったが、黒人歌手のような見事なカーリーヘアに仕上がってしまった。その頃の私は軽いソバージュだったので、まっすぐの髪にしてもらおうと、フランス語で「まっすぐな」という単語と「パーマネント」という単語をつなぎ合わせて注文したのだ。しかし、「パーマネント」のほうだけが通じて、カーリーヘアになってしまった。その頃の私は社会人一年生だったのだが、日本に帰ってからも私はしばらくその髪型で通した。だから、言葉が通じなかったことが失敗だったとは思っていない。現に、こうして長きに渡って私の心の中に残り、日記のネタにもなっている。

 言葉の壁のほかに、意識の壁もずいぶん体験している。人と人が関わり合うとき、多くの場合、自分の視点からしかものを見ることができない。つまり、第三者を理解しようとするとき、その人特有の経験が邪魔をすることがある。相手が理解しているかどうかは手ごたえでわかるので、相手に通じていないときはそうじゃないと一生懸命説明しようとするのだが、たいていの場合、その方法はうまく行かない。大袈裟に言えば、自分の知っていることは正しいことで、自分の知らないことは間違いといった現象が起こる。もっとも顕著なのは、医者と患者の会話ではないだろうか。映画の中でも、メキシコとアメリカの国境でこのようなことが起こっている。果たして、コミュニケーションとは何だろう。多くのコミュニケーションが、本当に誰かの話に耳を傾けているのではない。口を開けば、みんな、自分のことばかり話している。自分のことを話すのがコミュニケーションなのだろうか。

 映画の中で、菊池凛子という若手女優が耳の聞こえない女子高生、チエコを演じている。本当に聾唖者なのか? と錯覚してしまうほどの迫真の演技だった。映画を観ていない人のために詳しく書くことはできないが、チエコの行動がとても不思議なのだ。要は、耳が聞こえないというハンディを背負いたくないために、「自分にだってここまでできる」ということを周りに対して主張しているのだ。その主張は、性への興味とも直結している。しかし、チエコがその方法で成功することはない。性交することもない。私は、わかって欲しいという気持ちの強いチエコに、自分自身の姿を見た気がする。

 いくつものシーンが、映画を観終わってからの復習が必要なくらい、断片的に心に残っている。それらのシーンは、どれも深く考えさせられるような重要なシーンばかりだ。例えば、メキシコ生まれの子守り役の女性が、砂漠の中で子供たちを置き去りにしたと勝手に解釈されたこと。実際はそうではないのに、解釈する側に妙な思い込みがある。その思い込みが邪魔をして、彼女の真実を理解することができない。また、生死に関わるほどの怪我人がいるのに、滞在時間が長くなると、ツアーバスに同乗していた人たちの心が離れて行ったこと。瀬戸際に立たされたとき、第三者よりも自分を選ぶという人間の心理を描き出している。また、息子の結婚式なのに、子守りを任された女性に代わりの子守りがやって来ないこと。この行為を行っているのは、瀬戸際に立たされたとき、第三者よりも自分を選ぶということを、反対の立場で経験している夫婦だ。他の人によって突きつけられている現実を、別の人に対して突きつけている。他人は鏡とは良く言ったものである。相手に自分の主張を認めてもらえないと、まるでボタンをかけ違えたみたいにどんどんずれで行く。そうしたことは、日常茶飯事に起こっているが、根本的な解決に至らずに、次々に新しい問題を生み出している場合が多い。

 一本のライフルが、様々な人たちを引き合わせた。ライフルでジャッカルを撃たずにツアーバスを撃った。すべてはそこから始まったように思えた。いや、本当はもっと前から始まっていた。通訳が、ライフルを譲り受けた瞬間から。いや、もっと前からだ。そう考えると、ライフルは、一体誰の手元にあるべきだったのだろうか。結局はそこに辿り着く。この映画には、「適材適所」というテーマも隠されていたのだろうか。

 とにかく、映画を観終わってから、断片的にいろいろなシーンがよみがえって来るのである。実際の映画も断片的で、複数の時間を同時進行させようとして、一つの場所で、ある程度の時間が流れると、画面が次々に切り替わって行く。そうした展開に慣れない人もいるのだろう。映画館では、席を立って歩き回る人が多かった。彼らは映画に釘付けになっているのではなく、どうやら退屈してしまっているらしい。Yahoo! 映画のユーザレビューに酷評を書いている人も、映画館で歩き回っていた人の一人かもしれない。二時間余りの作品で、長いということもある。それなのに、なかなか結論が出ない。しかし、物語はやがて一つの方向へと繋がって行く。ただ、繋がるスピードが遅いために、中には待ち切れなくなってしまう人も多いようだ。

 このレビューを書きながら、私はふと思った。映画のテーマが「通じない」なら、監督は最初から、観客にこの映画が「通じない」ことを願ったのだろうかと。少なくともこの映画は、日常生活でありがちな「通じない」という現象を、断片的に訴えかけている。どうしたら「通じない」状況から脱することができるのかについては、的確な答えをくれない。それぞれが自分で答えを導き出すしかないのだが、この映画の中で取り上げている方法を実践するとうまく行かないということだけは間違いない。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m 人と分かり合えないとき、わかろうとする場合と、わかることを諦める場合がありますよね。わかることを諦める場合は、自分や相手の主張が激しいときである場合が多いように思います。わかろうとする場合は、相手を知ろうとして受身になれるときだと思います。ある人のレビューを読んでいたら、情報は素早く伝わるのに、言葉や思いはなかなか伝わらないと書かれていました。まさしくその通りだと思いました。なるほど、この映画は、情報の伝達の速さと、言葉や思いの伝わる遅さを対比した映画だったのですね。

さて、今回も記事の中にボタンを埋め込ませていただきますが、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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