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2006.12.30

ロールプレイング

 何となくきのうの余韻を引きずっている。きのうは淡々と出来事を並べてしまったので、今日は出来事に付随する感情をもう少し書き留めてみようと思う。

 私は普段から、人と話をするときも、頭の中でそっと文章を組み立てている。そのため、頭の中である程度、話の構想が出来上がっている。しかし、人と話をする場合、文章を書くのとは違って、自分が組み立てた文章が完結しないこともあることに気がついた。文章の場合、自分の言いたいことをすべて書いてしまってから筆を置くことができる。しかし、人と話をするということは、相手からの相槌や反論や第三者の介入などにより、自分の書いたシナリオが変わってしまうことがある。そのため、自分で書いた筋書き通りにはことが運ばず、むしろアドリブ勝負になってしまう。

 言い換えると、文章における交流のほうが、お互いに長い時間、主張ができる仕組みになっているということである。関西に移住してからの私は、人と会ってもあまりしゃべらなくなっていた。これは、私自身がホームページやブログなどで自分の表現したいことを表現できているからだと、つい最近まで思っていたのだが、それは違うとわかって来た。何故なら、私自身がアドリブに弱く、文章で表現することのほうが性に合っていることに気がついたからだ。

 このことは、関西に来てから知り合った友人たちがとてもおしゃべり好きだったことも関係している。かつての私には、二人で会って食事をしたり、一緒にお酒を飲みに行ったりしていた友人たちが今よりもたくさんいたのだが、次第にそういう機会が少なくなってしまった。それは、おしゃべり好きな関西の友人たちに圧倒されてしまい、彼女たちの話に対して受身に徹することができなくなってしまったからだと思う。次から次へと話をするのが好きな人と、アドリブに弱く、頭の中で文章を組み立てるのが好きな私とは、ペースが合わなかったのだ。おしゃべり好きな友人たちは、必ずと言っていいほど別れ際に、
「まるみちゃんの話も聞きたかったのに」
などと言ってくれるのだが、彼女たちとの会話の中に、私自身が自分のことを話せる隙間などなかったと言える。ちなみに、現在も交流が続いている関西在住の友人たちは、話し上手でもあり、聞き上手でもある。

 ところで、きのう会食した友人たちは、私と同じように仕事を持っていた。一人は学習塾の先生、もう一人は小学校の先生である。思うに、私のように自分のやりたいことを大事にしている人たちは、結婚してからも仕事を続けている人たちが多い。仕事をすることで、誰にも頼らず、自分の好きなことに没頭できる環境を整えているのかもしれない。世間の人たちは、仕事を持って、経済的に自立している女性をどのように思っているかわからないが、私は、経済的に自立して、自分のスケジュールを管理し、自分のやりたいことに向かって行く人の姿は美しいと思っている。学習塾の先生も、小学校の先生も、私のように休暇を取ることに関し、融通の利く仕事ではない。とりわけ、小学校の先生は朝が早くて大変なのではないだろうか。それでも、休みの日には何とか都合をつけてコンサートに足を運んでいるところに情熱を感じる。私は、そういう情熱が大好きだ。

 会食しているときに、カラカラに揚がった春巻を食べていた一人が、
「こんなふうにカラカラに揚げるにはどうしたらいいんだろう。何度やってもうまく行かないのよ」
と言った。料理に詳しくない私は、
「かなりの高温で、ささっと揚げるんじゃないですかね」
などと適当なことを言った。

 コンサートが終わったあと、デジカメの画像をどのようにしてパソコンに取り込むかという話になった。コンサートの前に、一人が持って来ていたデジタルカメラで記念撮影をしたのだ。私は、
「メディアをパソコン本体に挿せるなら、エクスプローラで画像ファイルを確認して、メールに添付して送ってくださいね」
とお願いした。すると、
「メディアの取り出し方もわからないし、エクスプローラが何だかもわからない」
という答えが返って来て驚いた。

 パソコンにメディアを挿せると聞いたのでそう言ったのだが、一般的に、女性は機械には疎いものだ。また、思考そのものがあまりロジカルではない。機械の操作を理解することを、最初から諦めてしまっているようでもある。私にとっては、エクスプローラは当たり前の存在だったので、この当たり前の感覚を言葉でどのように説明したらいいか、困ってしまった。家に帰ってからガンモにこの話を聞かせると、
「エクスプローラよりも、マイコンピュータを使ってる人が多いんじゃないかな?」
という答えが返って来た。なるほど。そう言えば、職場でも、プログラムの開発を担当していない人は、マイコンピュータをクリックしてフォルダの中身を参照しようとする。私も、そのような操作をしている人のパソコンの画面を覗き込んだことがあるが、フォルダの中身が大きなアイコンのまま表示されていて、とてもわかりにくかった。

 私のように、プログラムの開発を担当している人たちは、マイコンピュータはほとんど使わない。スタートボタンを右クリックして(左クリックだと、スタートメニューが表示されてしまう。スタートボタンの右クリックは、隠しコマンドのようなものだ)、エクスプローラを直接呼び出して、フォルダの中身をアイコン表示ではなく、詳細表示にして使う。こうしておけば、フォルダの中身を更新された順に並べ替えて表示させて、目的のファイルを探し出すことが容易なのだ。しかも、登録されている拡張子も隠しファイルまでも表示させる設定にしておく。おまけに、Windowsに標準のメモ帳は使い辛いので、もっと使い易いエディタをフリーウェアやシェアウェアの公開サイトからダウンロードして、.txtに関連付けして使っている。これが技術者の標準的な使い方だ。

 私は、エクスプローラの一件で、さきほどの料理のことを思い出した。私の場合、世の中の主婦が当たり前のように知っていることを、料理やその他の分野においては知らないことが多い。その代わり、コンピュータ業界で長く働いている分、コンピュータに関してはそれなりに詳しい。しかし、何かを知っているから偉いなんて、誰も言えない。何かに詳しいということは、同時に他の何かには詳しくないということだ。あらゆる分野に詳しい人なんていないのだから。「ガンまる日記」や掲示板にも書いて来たが、自分の中で足りていないものを認め合い、お互い分け合って生きて行くことができたらいいのにと常々思う。ロールプレイングゲームなどでは、これが成り立っている。そろそろ私たちの人生そのものを、ロールプレイングゲームに置き換える必要があるかもしれない。もともと私たちは、人生でそれぞれの役割を演じている(ロールプレイング)はずなのだから。

 きのうの記事に、「一つの方向に向かっているから一つだ」と書いたが、全体という大きな「一つ」の中に、役割を持って組み込まれていることもまた、「一つ」と呼べるのではないだろうか。ということは、おしゃべり好きな関西人の友人たちも、おしゃべりをするという役割を持って生まれて来ていることになる。ただ、相対的な関係において、それが生かされるかどうかだけの違いだ。私自身が彼女たちに生かされているという実感がなかったにしても、おしゃべり好きな関西人の友人は、おしゃべり好きではない私の前では生かされていたことに気がついた。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m お忙しいところ、読んでくださって感謝しています。とうとう二〇〇六年も、残すところあと一日となりましたね。皆さん、お正月の準備は万全でしょうか。私も今日、ようやく年賀状を投函することができました。若い頃は、元旦に届けられる締切日までに必ず投函していたものですが、今は大量印刷もできるようになって、とても便利になったというのに、年賀状を出すのも遅れがちになってしまいました。不思議なものです。

さて、今回も記事の中にボタンを埋め込ませていただきますが、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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