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2006.10.24

映画『イルマーレ』

 定時退社日ではなかったのだが、職場全体の飲み会が開催されるというので、私は仕事を早く上がりたい一心で、定時のチャイムが鳴るのを心待ちにしていた。仕事を早く上がりたいと言っても、飲み会に参加するわけではない。職場全体の飲み会には、私たち派遣社員にも声を掛けていただけるのだが、ほとんどの派遣社員は、飲み会には参加せずに帰宅してしまう。派遣先企業との間に一線を置いているのである。だから、こうした行事がある日は、月に一度の定時退社日のようなうきうきしたムードが漂うのである。

 おまけに毎週火曜日は、三宮周辺の映画館でレディースディのサービスが実施されている。私は、ガンモの仕事が忙しいのであれば、映画を観に行こうと決めていた。ガンモに電話を掛けてみると、何やら慌しい様子である。私はガンモに、
「じゃあ、映画を観て帰るから」
と早口で告げたあと、三宮へと急いだ。

 映画館に着くと、観たいと思っていた映画は既に公開が終了していることがわかった。別の映画館ではまだ上映されていたのだが、これから観るには上映時間が合わない。そこで私は、観たい映画のもう一つの候補だった『イルマーレ』を観ることにしたのである。

 この映画は、二〇〇〇年に韓国で製作された同名の映画をハリウッドでリメイクしたものだそうだ。専門家のレビューを拝見すると、オリジナルのほうがもっと涙を誘うらしい。しかし私はオリジナルを観ていないので、オリジナルの感動は伝えられない。リメイクされたこの映画は、キアヌ・リーブスが出演されている上に、公開されてから一ヶ月近く経っているので、既にご覧になられた方も多いかもしれない。

 映画のコマーシャル程度に概要を説明すると、この映画は、二〇〇六年を生きる女性医師ケイトと二〇〇四年を生きる男性建築家アレックスとの時間を越えたラブストーリーである。二人は湖畔のガラス張りの家に住む過去の住民と未来の住民という設定である。二〇〇六年のケイトが湖畔の家から引越しをするときに、次に住むであろう人に宛てて手紙を書くのだが、その手紙を受け取ったのは、二〇〇四年にその家に住んでいたアレックスだった。つまり、未来から過去に手紙が届いたというわけである。事務的なやりとりから始まった二人の交流だが、不思議と会話がはずみ、次から次へと手紙を交換し、やがては愛し合うようになるというストーリーである。

 率直な感想を述べてしまえば、時間の流れを理解しようとして、紙と鉛筆を持って年表を書き始めると、いよいよ混乱してしまう映画である。二〇〇六年と二〇〇四年の二つの時間軸が存在するのはよしとしよう。しかし、これら二つの時間軸は、常に過去から未来へ向かって行く単純な時間軸ではない。二〇〇六年を生きているケイトには、二〇〇四年を生きているアレックスの未来がわかっているだけに、既に起こってしまったことさえも変えてしまおうとする新たな時間軸まで加わってしまうため、とてもわかり辛くなっているのだ。おまけに、二〇〇六年のケイトが生活している場所があいまいである。

 物語の中には、アメリカの家庭にあるポストが何度も登場する。日本では、書いた手紙を誰かに届けて欲しいときは、街に設置されている公衆ポストに切手を貼った手紙を投函する。しかし、アメリカではそうではないらしい。自分宛の手紙がポストに配達されるのはもちろんのこと、こちらから送付する手紙も自分の家のポストに入れておくことになっているようである。つまり、自宅のポストに投函した手紙を、郵便配達人が回収してくれるシステムになっているらしいのだ。また、郵便配達人がポストに手紙を届けると、ポストの横にある赤い旗を立てておくことになっているようである。その家に住む人は、自分の家のポストに赤い旗が立っているかいないかで、わざわざポストを開けなくても手紙が届いているかどうかがわかるようになっているようだ。

 私は、昔、Netscapeに付属のメーラーを使っていたときのことを思い出した。現在のバージョンはどのような作りになっているか知らないが、私が使っていた頃のNetscapeのメーラーは、メールが届くと、タスクバーに常駐している待機アイコンに赤い旗が立つのだ。それは、アメリカのこのような郵便システムから取り入れた設計だったようである。

 さて、この二人は、手紙のやりとりを重ねて行くうちに、お互いに自分のことをもっと示し合うようになる。何通も手紙を書き、届いた手紙に対して継続的に返事を書き続けるという行為は、当人同士が特に意識していなくても、愛の行為に相当しているのかもしれない。その交流が途切れずに続いたということは、単に文字だけのやりとりではなく、お互いの感情が動いているということである。実際、手紙のやりとりを重ねて行くうちに、二人は愛し合うようになる。いや、愛し合っていたから手紙のやりとりが続いた。二人の間には、二年という時の隔たりがあり、実際に会うことなどできないというのに。二人の物理的な距離が遠いなら、時間を掛けて会いに行けば良い。しかし、二〇〇六年を生きているケイトと、二〇〇四年を生きているアレックスの間にある時の隔たりは、タイムマシンでもない限り、どうすることもできない。その二人を手紙だけが繋いでいる。だから余計に手紙を書くことに熱心になる。仕事が忙しくて少々やりとりに時間が空いてしまっても、何とか時間を作って手紙を書いている。

 もしかすると、こうした時間差の発想は、技術の進歩への挑戦と言えるべきものではないかと私には思える。どんなに技術が進歩したとしても、時間を越えることはできない。そうした事実への挑戦ではないだろうか。

 現代では、技術が進歩したことをきっかけに、人間の動作にさえスピードが求められるようになって来た。かつての手紙ベースの交流は、電子メールという高速な手段にとって代わり、送受信のスピードが格段にアップした。アナログの手紙でやりとりをしていた頃は、手紙を書き上げてから相手に届くまでに二日くらいかかっていた。更に、相手からの返事が届くまでに、数日から数週間かかっていた。そう、以前はそれくらいスローなペースで、一つの交流の周期を完結させていたのである。

 現代は、携帯電話に付属のメールでの交流のペースがもっとも高速なのではないだろうか。速い人は、メールを受信したその場で返事を書いている。中身よりもスピードの時代になってしまったのかもしれない。しかし、このように速いスピードでは、相手の想いをじっくりと味わえるだけの時間がない。食べ物を良く噛まずに胃の中に流し込んでしまうのと同じである。

 この映画の中にも、携帯電話は登場している。それなのに、時間差のある二人は携帯電話を掛け合うこともしなければ、携帯電話のメールアドレスを交換することもせずに、ただひたすら手紙を書いている。こうした二人のやりとりは、技術の進歩への挑戦とともに、人と人が関わって行く上での大切な姿勢を思い出させてくれる。もしも現代において、携帯電話に付属のメールの返信を数日間、放っておいたらどうなるのだろう。スピードが求められる現代では、もう交流する気がないものと判断されてしまいかねない。しかし、この映画の中の二人は、どんなに仕事が忙しくて返事が書けない状態に陥ったとしても、途切れることなく交流を続けているのだ。そういう意味で、お互いにとって貴重な存在に育って行ったとしてもおかしくはない。

 実は、この映画の結末は、「あれれ?」という結末である。私なら、ああいう結末の台本は書かないだろう。もっともっと感情を溜め込んで、うれしさと恥ずかしさの入り混じった、涙いっぱいのシーンにする。しかし、実際の結末は、二人の感情がとてもストレートだ。途中から時間軸がぐちゃぐちゃになっていたことと、結末が「あれれ?」なのが少々残念ではあったが、それでも、この映画がスピード重視の現代に生きる私たちに問い掛けたものは大きいと思う。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m 最終的に深い愛に落ちて行く二人ならば、例え本格的に出会っていない状態であっても、本格的に出会う前にどこかでプロローグ的な関わりをしているのかもしれないと、この映画を観て思いました。過去と未来を繋げて時間差を縮めて行くように、二人の運命は引き合わされて行くのかもしれませんね。また、家(建物)と家庭(絆)の区別という観点からも、面白い映画でした。大切なのは、家という器ではなく、繋がりなんですね。

さて、今回も記事の中にボタンを埋め込ませていただきますが、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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