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2006.10.05

直径十二センチの彼女の送別会

 直径十二センチの彼女は、九月いっぱいで、私のいる職場での勤務を終えた。彼女の最後の勤務の日、彼女はお世話になった人たち一人一人に丁寧にあいさつをして職場を去って行った。わずか九ヶ月の勤務だったというのに、何という丁寧な終わり方なのだろう。これまで、いろいろな事情で辞めて行く派遣社員たちを見送って来たが、簡単なあいさつだけで終わってしまう人が多かっただけに、彼女ような仕事の終え方はとても好感が持てたのだった。彼女の丁寧なあいさつは、「立つ鳥あとを濁さず」ということわざを思い出させてくれた。誰しも、自分から仕事を辞めると言い出したときは、後ろめたく感じているものだ。その後ろめたさに引きずられずに、最後まで丁寧にあいさつをした彼女にエールを送りたい。

 そんな彼女の送別会を開くために、一部の派遣仲間が三宮に集まった。私が働いているのは、神戸市のはずれにあるため、おしゃれなお店に行こうと思ったら、小一時間かけて三宮まで出掛けて行くことになる。お店が三宮であっても、私にとっては帰宅途中なので、まったく差し支えはないのだが、同じ職場に通っている多くの派遣社員たちは、職場のある地下鉄沿線に住んでいる。そのため、彼女たちと一緒に仕事帰りに三宮に出掛けて行くということは、彼女たちが住んでいる最寄駅を通過することになってしまうのだ。そんなこともあって、地下鉄沿線に住んでいる人からの提案でもなければ、三宮のお店が候補に挙がることは少ない。そして今回は、地下鉄沿線に住む人からの提案があって三宮のお店に決まった。

 以前も書いたように、派遣社員同士の人間関係がゴタゴタしていたこともあって、派遣社員全員には声を掛けず、一部の人たちだけで彼女を送別することになった。私は、オフィスという平べったい人間関係を築く場所では、特定の人と親しい関係を結ぶことに対し、気を遣ってしまうということを話した。私以外の人たちも、みんな同じ気持ちだったようだ。やはり、今回のように、誘わなかった人たちに対し、気を遣ってしまうらしい。これは、ホームページの管理人の気持ちと良く似ている。至るところに同じようなテーマが転がっているのは、私がまだこれに対する答えを見つけ出していないせいかもしれない。私は、公明正大でありたいという気持ちが先走ってしまい、オフィスで特定の人と親密な関係を結ぶことに対し、いつも躊躇しているのである。

 直径十二センチの彼女を囲んで、彼女が仕事で抱えていたストレスや、職場の人間関係の話をした。驚いたのは、そこに居たすべての人たちが、話の長い女性に対して、直径十二センチの彼女や私の思っていたこととまったく同じことを感じていたことだった。そして、すべての人たちが、これから先、話の長い女性とどのように接したらいいかで悩んでいた。

 ある派遣仲間が、
「彼女に最も近い人が彼女に教えてあげるべきであって、それは私の仕事じゃないと思う」
と言った。私は、
「ううん」
と頭を抱え込んだ。
「もしかすると」
と私は前置きしてから、
「彼女がいつまでも自分のことばかりしゃべり続けるのは、私たちが彼女にそれを許し続けているということなのかな?」
と言ってみた。確かにそうなのだ。こんなふうに、彼女のいないところで彼女の話をするのではなく、彼女に直接言えばいいのだ。しかし、私たちは全員、それができなかった。

 私は一人でこっそりと思考をめぐらせていたのだが、話の長い女性が本当に、そこに居たすべての人たちの鏡だとしたら、私たちは少しずつ、自分よりも弱い立場の人たちに向けて、話の長い女性と同じような態度を取っていることになる。しかし、集まった派遣仲間の中で最もエネルギッシュなのは私で、あとの人たちはとても大人しかったり、人の話に熱心に耳を傾けるタイプの人が多かった。ということは、全員の鏡ではないということになるのだろうか。おそらく、私にとっては、掲示板のコメントをなかなか返信できないでいることが別の形で現れたのだろうと思った。「受信」よりも「発信」のほうにエネルギーを注いでいるという意味で。しかし、他の人たちのことはわからない。もしかすると、私と同じような課題が隠されているのかもしれない。

 派遣仲間の一人から聞いた印象的な話を書いておこう。その派遣仲間と同じプロジェクトの人が、打ち合わせのときに、
「僕は仕事が遅いから、他の人たちのように、たくさんの仕事を一度にこなせない」
と言って、上司に対して切実に訴えたという話を聞いた。そのことを聞いた派遣仲間の一人が、
「その人の気持ち、とても良くわかる」
と言いながら、大きくうなずいた。そして、技術職というものは、ひとたび仕事が軌道に乗ると、仕事ができなかった頃の気持ちを忘れてしまいがちだという話になった。確かにその通りだと思った。しかし、私はその話を聞いたとき、不謹慎かもしれないが、そんな打ち合わせを少々うらやましく思ってしまったのだ。何故なら、私の参加しているプロジェクトは、そんなふうに、誰かが究極の感情を示すこともなく、淡々と仕事をしているからだ。もしかしたら、辛くても心の中にじっと感情を溜め込んで、怒りや悲しみの感情を抑え込みながら歯を食いしばって仕事をしているのかもしれない。しかし、そのような方法を取って、表面だけを取り繕うよりも、究極の感情をさらけ出すような打ち合わせに私も参加したいと思ってしまったのだ。

 今回の送別会には、一年ほど前に私が大喧嘩をした派遣仲間も参加していた。私は彼女に、
「そう言えば私たち、仕事中に大喧嘩したよねえ。派手に」
と言った。もちろん、彼女もそのことを覚えていた。現在は、彼女も私も、当時のしこりなど微塵も感じないくらいに会話している。何故、当時の感情を微塵も感じないのだろう。おそらく、あのときに、言いたいことを全部言って、怒りの感情を感じ切ったからだ。彼女と私は全速力で関わって、怒りを発散させたのだ。しかし、相手に感情をぶつけることができずに溜め込むと、どんどん利子がついて、もっと陰湿な関係に発展してしまうのではないだろうか。

 送別会は二十三時頃まで続き、時にはほっぺたが痛くなるくらいに笑った。今月いっぱいで、今回の送別会に参加した別の派遣仲間が今の職場での勤務を終える。そのときに、また同じメンバーで集まろうという約束をして、私たちは分かれた。

※皆さん、いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m 私の中には、なかなか手放せないテーマがいくつもあるようで、いろいろとキャストや構成を変えては、また私のところに戻って来ます。次はどんなキャスティングで私を楽しませてくれるのやら。(苦笑)昔、携帯電話の電池を充電するのに、電池を一度使い切ってから充電したほうが長持ちするという時代がありましたが、人間関係もそれと似ているのかもしれませんね。やはり私は、それがプラスであっても、マイナスであっても、究極の感情を示し合うのが好きです。とにかく、そのことだけはわかりました。でも、究極の感情に転べないときが一番やっかいなのです。

今回も記事の中にボタンを埋め込ませていただきますが、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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