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2006.09.22

色眼鏡

 心の中でくすぶっているものを、なるべくわからないようにオブラートに包んで書くべきか、それとも、単刀直入に書いてしまうべきか。はたまた、まるで何ごともなかったかのように振る舞うべきか。「友達の友達は、皆、友達か」というテーマについて書き始めてからも、私の中では様々な想いが交差していた。でも、乗りかかった船だ。この際、乗ってしまおう。

 私が今回の一連の記事を書いている間、非公開掲示板で絶縁状態になってしまった女性が、私のサイトや「ガンまる日記」を読みに来てくれていた。私は、彼女のアクセス記録を確認し、彼女の中に何らかの後悔があって、もう少し私への理解を深めようとしてくれているのではないかと期待しながら、記事を書いていた。しかし、彼女のアクセス記録は、かつてのようにブラウザのお気に入りからのアクセスではなく、検索エンジンからのアクセスに変わっていた。管理人としては、これまでブラウザのお気に入りからアクセスしてくれていた人が、検索エンジンからのアクセスに切り替えてしまうというのは、なかなか寂しい気持ちになるものである。もう交流はしないと宣言されてからも、彼女はしばらく、私のサイトをお気に入りから外すことなく、しばしば様子を見に来てくれていた。私としては、もう少し彼女との交流を深めておきたい後悔があった。しかし、彼女は、彼女と強く結びついている心の友との交流を尊重したいために、私とは距離を置くことにしたのだと思っていた。その後、彼女は私のサイトをブラウザのお気に入りから外したが、外してもなお、気になっていたのか、検索エンジンを頼りにアクセスしてくれていた。

 きのうの記事を書き終わったとき、私は、自分の掲示板で彼女に向かって呼びかけようと思っていた。しかし、彼女のほうから私のところにメールが届いたのである。そのメールは、「『ガンまる日記』を読んで、気になることがあったのでメールする」という書き出しだった。

 掲示板に書き込まれた内容ならば、ここに引用しても差し支えないとは思うのだが、メールの内容については、詳しく書くことはできない。だから、メールの内容ではなく、彼女からのメールを読んだときの私の気持ちを中心に書き残しておこうと思う。

 一言で言って、私は彼女からのメールを読んで、彼女が見ている私の姿と、私が自分で見ている自分の姿との間に大きなギャップを感じた。彼女が私のことを想像しながら書いている内容が、ことごとく外れているのである。私は、彼女からのメールを読みながら、何度も何度も大きなため息を漏らした。時には、激しい怒りさえ感じた。そうなのだ。非公開掲示板を閉じる直前も、このようなチグハグなやりとりを繰り返したことを思い出した。彼女からは、本当の私が見えなくなってしまっていた。かつて、「ガンまる日記」を熱心に読んでくれて、何度も感想のメールを送ってくれたはずの彼女が、今では別人のように変わってしまっていた。かつての彼女は、「ガンまる日記」が好きだと言ってくれた。ガンモと私の愛がとても温かいと。私自身も、彼女の温かさに何度も触れた。それなのに、何がこんなに彼女を変えてしまったのか。それは多分、彼女を取り巻く相対性だ。

 彼女は私のサイトで、心の友に出会った。しかし、彼女の心の友は、私からはとても遠い存在だった。私は、彼女の心の友の魂には触れることができなかった。彼女の心の友が、何を大切にしながら生きている人なのかを理解することができなかった。しかし彼女は、自分の心の友のいる位置へと大きく傾いた。その結果、私が見えなくなってしまったのだ。彼女にこれまであったはずの、私への共感がなくなってしまった。彼女が私へのメールに書いて来た内容は、彼女が自分の心の友のほうに大きく傾いた位置から、色眼鏡をかけて私を見た内容ばかりだった。

 非公開掲示板を閉じる少し前に、オフ会の話が出た。私が関東地方に行くのは、ハワイから帰って来た直後であったこともあって、私はオフ会への参加には消極的な姿勢を示していた。夜はライブに参加する予定だったため、できるだけ身体を休ませておきたい気持ちもあったからだ。更には、掲示板を通じてうまく交流が成り立っていないというのに、実際に会って、何かが変わるとも思えなかった。私は、自分のサイトや「ガンまる日記」で自分らしさを最大限に表現しているので、そこで表現している私を受け入れられないと言っている人たちとリアルで会って、楽しい時間が過ごせるとは思えなかったのだ。しかし、彼女は、そのことについても、色眼鏡で見ていた。彼女が私との交流を断ったのは、私と話が通じないからであって、話が通じない私が、オフ会に対して消極的な姿勢を示したため、リアルで会ってカバーすることもできないので、言葉だけしかないネットの交流は難しいということだった。

 私は、これを読んだとき、とにかく大きなギャップを感じた。彼女の考えは、私の考えとはまったく異なっていた。私は、何故、オフ会に関する考え方がこんなにも違うのかを考えた。私は、絵は相当下手だが、自分の気持ちや状況を文章で表現して行くことに対しては抵抗がない。しかし、文章で自分を表現することが苦手な人もいる。そういう人は、リアルで会うことによって、文章で表現できない部分を埋め合わせたいのだろう。私の場合はそうではなく、ネットでの交流が成り立たないのに、リアルには転べないと思っていたのである。

 私は、彼女にメールの返事を書きながら、かつてのやりとりを思い出して、涙した。あの頃は私も、彼女の魂に触れることができたのに。そして、彼女へのメールに、私はあの頃のあなたが大好きだったと書いた。そのときに、かつて触れたはずの彼女の魂の感触を思い出した。かつての感覚が蘇って来たとき、私にはまるで、現在の彼女が別人の皮をかぶった存在であるかのように思えた。彼女が色眼鏡をかけて私を見ていることが、残念でならなかった。

 私は彼女に、もしも否定的な感情を持って私のサイトを見ているなら、私が私らしくいるために、私のサイトを訪問しないで欲しいとメールに書いた。そして、彼女の書いている私に関することが、彼女自身の色眼鏡を通して見た私の姿だと強く反論した。彼女からは、すぐにメールが返って来た。やはり、私とはわかり合えないから、私のサイトはもう訪問しないと書かれてあった。

 果たして、本当にこれでいいのだろうか。これで解決なんだろうか。単に、お互いに、かけていた色眼鏡を外せばいいだけなんじゃないだろうか。私は、かつて彼女の魂に触れていた頃の自分を思い出すことができる。その頃のことを、お互いに思い出せばいいだけなんじゃないのだろうか。サイクルを持って満ち欠けする月のように、人間だって、美しく輝ける時期もあれば、そうでない時期もある。でも、例えば月が新月に変わってしまったからと言って、二度と満月がやって来ないとは誰も思わないだろう。満月を見たいなら、満月になるのを待てばいい。満月になるのを待たずに、新月になって輝きを失った月を見放したりはしないだろう。人間だって、エネルギーが落ちている時期がある。その一番辛い時期に見切りをつけて、満月だった頃のことを簡単に忘れて、もうこれから先、ずっと光を失ってしまった存在であるかのように振る舞うのは何故なんだろう。何故、一番良かった時期を簡単に忘れてしまうのだろう。更には、本当の友達って何なのだろう。一番落ち込んでいるときに突き放すのが本当の友達なんだろうか。

 ああ、何だかまたもやもやして来てしまった。色眼鏡を外すということは、輝いていた時期を思い出し、過去を水に流すということだ。果たして、これから先、お互いにそれができるのだろうか。それは私にはわからない。このあと、彼女にメールを書く。最後のメールになるかもしれないし、お互いの色眼鏡を外すきっかけになるかもしれない。何か進展があったら、また報告させていただくことにしよう。できれば、明日は別の記事を書きたい。

※皆さん、たくさんの応援クリックをありがとうございます。m(__)m 一度晴れたはずのもやもやが、また戻って来てしまいました。人間関係は、何故、こんなにも醜くこじれてしまうのでしょう。せっかく長い時間をかけて交流しても、一度こじれてしまうと、過去にわかり合ったことや、共感していたことさえもすっかり忘れてしまうのは、とても悲しいものですね。今の彼女が本当の彼女なら、私はかつて、彼女の魂の偽物に触れていたのでしょうか。また、長いこと「ガンまる日記」を読んでくださっている方におうかがいしたいのですが、「ガンまる日記」の初期の頃と今の私で、私の考えが見えなくなってしまったということはありますか? それにしても、色眼鏡を外す瞬間って、一体どんなときなんでしょう。また、女性同士は、お互いに言いたいことを言い合ってもなお、交流を続けて行くということは難しいのでしょうか。さて、今後も引き続き、記事の中にボタンを埋め込ませていただきますが、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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