« ホットヨガ(九回目) | トップページ | 二十万ヒットありがとう! »

2006.08.29

集団の持つ相対性

 最近、相対性について深く考えることが多い。私の場合、自分自身の絶対性を守り抜きたいと思っていても、相対性に揺れてしまうからだ。例えば、私の参加しているプロジェクトでは、昼休みあとにプロジェクトメンバ全員が参加する昼礼の司会進行役を、持ち回り制で決めている。その役は、単なる司会進行役だけでなく、最後に何か一言スピーチをすることになっている。これはとてもいいアイディアだと思うのだが、スピーチに耳を傾けるプロジェクトメンバの反応がいまいちなのである。

 先日、私に当番が回って来ることになった。私は、夏休みに出掛けたハワイの話をしようと思っていた。日立の樹を観に行った話をすれば、何か手ごたえが感じられるのではないかと期待していた。スピーチの前日、ガンモと打ち合わせをしながら、リハーサルをした。私の勤務先は、メーカーの子会社なので、ガンモが、
「『○○○(そのメーカの名前)の樹があったら、観に行ったんですけども』と、一言添えたらいいんじゃないかな」
とアドバイスをくれた。

 私は、当日、日立の樹の話をしたあと、ガンモのアドバイス通り、
「○○○(そのメーカの名前)の樹があったら、観に行ったんですけども」
と添えてみた。私としては、ここでみんなに笑って欲しいところだった。しかし、私の話に耳を傾けていたプロジェクトメンバは、ウンでもスンでもなかったのである。とうとう場が持たなくなった私は、ついに、
「ここは笑うとこなんですけど」
と自分でフォローを入れた。

 何だかとてもみじめな気持ちだった。ガンモとリハーサルまでしたのに、彼らはずっとポーカーフェイスだった。プロジェクトメンバ、一人一人と話をすると、なかなか面白い個性を引き出すことができるのだが、全員揃うと、とても静かな集団になってしまう。仕事の相性についてもいま一つで、うまく連携が取れないことが多い。技術者集団のせいか、コミュニケーションの取り方が下手な人が多いのだ。飲み会の席でも、とにかくみんな受身のポーズ(ヨガのポーズではない)を取っていて、とても静かである。みんな、誰かが話を始めてくれるのを待っているのだ。プロジェクトメンバ全員が揃うことで、何となく意心地の悪い感じを抱いているように見える。

 自由意思で結びつく友人たちとは違って、仕事の仲間は、会社の意志によって集められる。そのような形で集められたことにも、きっと何か大きな意味があるのだろうが、一人一人と話をすると面白いということは、プロジェクトメンバが集められて相対性を築いて行くとき、それぞれの持っている個がつぶされてしまっているのだと思う。大勢の中にいても、個が生かされなければ、人は生き生きして来ない。

 集団の持つ相対性が素晴らしいと、その集団と関わって行く人のエネルギーも大きく上に伸びて行く。例えば、漫才師は、観客に拍手をしてもらうことによって、自信を持つことができる。ミュージシャンは、ノリノリの観客の前でおもしろおかしく羽目を外し、大きく弾ける。もしも絶対性だけで生きて行くなら、観客の拍手に関係なく、いい漫才をすることであり、観客のノリに関係なく、パワフルな演奏を披露することだと思う。しかし、それはなかなか難しいのではないだろうか。

 相対性を感じながら生き生きすることは、相手に自分自身を預け、相手から返って来る循環のエネルギーを感じながら自分らしく輝いて行くことかもしれない。

※いつも応援クリックしてくださっている皆さん、どうもありがとうございます。m(__)m 考えてみると、掲示板でのやりとりなども相対性ですね。相手の中に自分を映し出すときに、心地がいいかどうかによって、自分のエネルギーを存分に発揮できる場合とそうでない場合があるような気がします。他の人の影響をまったく受けずにいるということは、生きて行く上で相当難しいのではないでしょうか。

|

« ホットヨガ(九回目) | トップページ | 二十万ヒットありがとう! »