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2006.06.21

ブログのコメント欄に関する考察

 「ガンまる日記」を書き始めた頃から、ブログのコメント機能はOFFに設定させていただいている。私には、ブログを書き始める前から、ホームページでの活動があった。ホームページの掲示板の返信もままならない状態なのに、ブログのコメントを受け入れるわけには行かないと判断したわけである。毎日綴ると決めて書き始めたブログのため、コメントの返信が追いつかなくなるであろうと予想したのだ。もしも私が発信して行くことに対して、何らかの反応を返してくださる方がいらっしゃるならば、ホームページの掲示板を訪ねてくださるだろうという想いもあった。私は、掲示板による交流方法がとても気に入っていたので、ブログのコメント欄だけでは、思うような交流が実現できないと感じていたのだ。

 というのも、私自身、ブログを書き始めてから二年以上経ち、ブログを書く者同士の交流もいくつか経験して来た。そうした交流の中で、いつも不便に思ってしまうのが、そのブログの管理者からいただいたコメントへの更なる返信を書くということと、ブログ欄のコメントには文字数の制限があり、思うようには綴れないということだ。

 ブログの記事とセットになっているブログのコメント欄は、そのブログの管理者からいただいたコメントに対し、更なる返信を書くようにはできていないと思う。何故なら、新しい記事が書き込まれてしまうと、いつまでも過去の記事の内容を引きずってはいけないような気持ちになってしまうからだ。

 また、ブログの管理人の綴る大きな記事に対し、コメント欄には文字数の制限がある。大きな記事を飲み込んだ感想を書き込むには、あまりにも小さいのである。コメント欄の許容エリアが小さいとなると、できるだけ簡潔に収まるようにコメントを書いてしまう。そこで行われるのは、コミュニケーションの省略だ。

 省略されたコミュニケーションで必要となるのは、行間を埋めて行く能力である。しかし、能力と言っても、同じ価値観を持っているか、同じような経験を持っているかでなければ、行間は埋まりにくい。実は、こうした背景からコメントを簡略化してしまったせいで、月見想のりえちゃんのブログに書かせていただいたコメントが波紋を呼んでいるようだ。

 私は先日、りえちゃんのぐるぐるめぐるという記事の中で、

凹む気持ちもわかる。
りえちゃんは、自分で探したいんだよね、きっと。

私は、りえちゃんが本当は何を望んでいるのかがわからない。

望んでいるのは、子供?
それとも、結婚相手?
それとも、心から愛する人?

と書かせていただいた。りえちゃんは私のコメントを読んだとき、すべてを望んではいけないのかと思い、戸惑ってしまったらしい。同じく、私が書き込んだ上記のコメントの内容に関して、フニさんもコメントをくださったのだが、「こういうことに優先順位をつけるべきものなの?」とフニさんに驚かれてしまった。普段から、男女の愛がもっとも大切だと公言している私が、子供を産むことや結婚相手を探すことが、男女の愛よりも優先順位の低いものだと考えているのではないかというご指摘だった。

 ああ、違うのだ。私がこれを書いたのは、りえちゃんのぐるぐるめぐるという記事を読ませていただいたときに、子供を産むということが、りえちゃんにとって最大の目的であり、結婚相手に出会うことや、愛する人に出会うことが、あたかも手段であるかのように思えてしまったからだ。何故なら、その記事には、子供を産むことに対する制限が、真っ先に綴られていたからだ。更には、ある年齢を越えてしまえば、それほど強く結婚を望まないという記述が、ますます私をそちらに傾かせたのである。

 子供のいない私でも、愛する人の子供が欲しいという気持ちはわかっているつもりだ。子供とは、愛し合う男女が愛を拡大する方法の一つであり、愛し合う男女のもとに生まれて来る存在だと思っている。だから、まるでニワトリが先か卵が先かという課題のようだが、男女が愛し合うということがまず第一歩なのだ。その第一歩とは、優先順位ではなく、男女が愛し合うという原因があって、子供が生まれるという結果があるという原因と結果の順序に基づいているのだ。

 だから、後日、綴られたりえちゃんの待つという記事の中で、お見合いの話を断ったりえちゃんの記事を読んで、りえちゃんと私の間には、それほどギャップがないと悟ったのだった。

 しかし、このように感じたことを、ブログのコメントの小さな枠の中で表現することはとても難しい。価値観や経験が違えば、なおさら多くの説明が必要なはずなのに、文字数の制限を意識してしまい、そうした背景を省略して書き込むと、このように、周りから誤解されることになってしまう。こういうときに、「言葉だけのコミュニケーション」という表現が生まれるのだろうか。確かに、価値観や経験が異なれば、共有できるものがない分、言葉だけのコミュニケーションになりがちだ。お互いの向いている方向が異なっている場合、誤解を招かないように、自分の見ているものを一生懸命説明するには、ブログのコメント欄だけではとても足りない。となると、次々に新しい記事が書き込まれ、更なるコメントを書き込むことに対して躊躇してしまうブログのコメント欄は、価値観や経験が似ている人たち向けのツールなのかもしれないと思う。

 価値観や経験の違う人とのコミュニケーションでは、省略は禁物だということが、今回の経験を通して良くわかった。少ない情報の中で引き出されるのは、既に自分の中にある価値観なのだ。新しいものが入って来るほどの情報を、私自身が与えなかったということだ。

※いつも応援クリックしてくださっている皆さん、ありがとうございます。この課題に関しては、まだまだ書き足りないこともあるのですが、いずれ、まとまったら記事にしたいと思います。きのうの記事を受けて、ななちゃんがコメントを書いてくれて、お互いに向き合って、行間を埋めることの大切さを思い知らされました。(苦笑)

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