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2006.03.01

報酬

 先日、友人(と言っても、人生のかなり先輩)のパソコンが立ち上がらなくなり、私の携帯電話に助けを求めて来た。私は、ガンモと相談しながらわかる範囲で対応したが、電話だけではなかなか状況がつかみにくく、もどかしい想いを抱えていた。電話を受けたとき、ちょうど友人の家の近くまで来ていたので、用事を終えたらガンモと二人でそちらに行くことも可能だと伝えたのだが、友人は私たちに遠慮した。

 しかし、その後、近所に住む大学生がパソコンの再セットアップをしてくれて、何とか使えるようになったのだそうだ。その大学生に何かお礼をしたいが、彼は将来、IT関係の仕事に就きたいらしく、今回の再セットアップは自分にとっても勉強になったので、お礼は要らないと断って来たそうである。何も受け取ってくれない大学生に対し、どんなお礼をしたらいいか、何かいい案があったら教えて欲しいと、友人からのメールに書かれてあった。

 そのメールを読んで、私はとてもあたたかい気持ちになった。友人は、パソコンを使えるようにしてくれた大学生に対して、何かお礼をしたいという気持ちが強く、その想いが物品に向けられている。一方、大学生は、自分の知識や経験が、困っている人の役に立ったことで既に満足している。大学生は、一方的に与えたのではなく、パソコンの再セットアップという作業を通して、自分自身も受け取ったものが大きいことを知っているのだ。

 パソコンを直してもらってうれしい友人と、友人のパソコンを直せてうれしい大学生。おそらくだが、二人のうれしさは同じくらいなのだろう。だから、そういう関係に対し、お礼の物品は必要ない。もしも友人が無理に大学生に何かを贈ろうとしたら、お礼の物品だけが宙に浮いてしまうことだろう。

 そう考えて行くと、何かをしてくれた相手に物品のお礼をしたり、反対に、物品のお礼を受け取ったりすることは、一体何なのだろうと考え込んでしまう。感謝の気持ちを物品に変えようとする行為は、相手がその経験を通して、既に何か受け取っている状態を無視することになってしまうのではないだろうか。おそらくだが、その満足感は、物品を受け取ることによって失われてしまうだろう。

 しかし、更にこの考えを発展させると、仕事が大きな喜びになっている人にとっては、仕事の報酬を受け取らなくても満足できることになってしまうのだ。それは、精神世界的には理想的な喜びなのだが、そうなると、今度は生活が成り立たなくなってしまう。だから、報酬を受け取ることが大前提だとすると、どうしてもあまり気の進まないことを仕事にする割り切りが出て来てしまう。しかし、本当は、こうした事情は、好きなことを仕事にできないという悪循環を引き起こしているのである。

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