六万人の非日常
朝、いつものように神戸市営地下鉄三宮駅に着いてみると、普段よりも多くの人たちが改札の前でうごめいていた。彼らは途方に暮れているようだった。一体何が起こっているのかと思いながら、駅の案内板を見てみると、停電のため、地下鉄が運休しているという。これは面白い。私の職場は神戸市の外れにあるため、車通勤の人も多いが、電車通勤の人もたくさんいる。現在、電車通勤の人たち全員が職場にたどり着けない状態にあることを想像すると、普段から非日常を求めて旅に出ることを楽しみとしている私としては、日常の生活の中で起こったハプニングにわくわくし始めていた。
私は、職場のある最寄駅に着くためには、明石からバスが出ていることを知っていた。地下鉄の駅員さんに確認してみると、やはり、明石からバスに乗るように言われた。振替輸送を行っているかと尋ねてみると、地下鉄の定期券を持っている人にはJRの振替輸送券を発行してくれると言う。私は、回数券通勤だったので、振替輸送券はもらえなかったが、とにかく、JRで明石まで向かうことにした。勤務先には、明石まで出て、そこからバスに乗るので、十一時くらいの出勤になることをメールで伝えておいた。
JRのホームに着くと、すぐに新快速電車が入って来たので、私はそれに乗り込んだ。普段から、私は通勤にもJRを利用しているが、いつもは三宮駅で降りてしまうので、そこから先の旅は非日常になる。以前、明石よりももっと先にある大久保で働いていたことがあるので、その頃のことを思い出しながら、私は窓の景色を見て回想にふけっていた。
たくさんの人たちが明石でどやどやと降りた。時刻は既に十時近い。明石駅ビルの中のお店も開店間近だ。私は、ショッピングを楽しみたい衝動に駆られたが、ぐっと我慢してバス乗り場へと向かった。バス乗り場では、既にたくさんの人たちが長い列を作っていた。地下鉄が運休しているため、普段、地下鉄を利用している人たちが流れ込んで来たのだ。停車中のバスには乗ることができなかったので、私は次にやって来たバスに乗り込んだ。
バスが発車し、途中の停留所にバスが止まると、停留所でバスを待っている、いつもそのバスを利用している地元の人たちが驚きの表情を隠し切れない様子だった。彼らは、地下鉄を利用していないのだから、地下鉄が運休していることなど知る由もない。だから、普段、空いているはずのバスが超満員であることに、一体なにごとかと思ったようだった。途中の停留所から乗り込んで来た地元の人たちの会話に耳を傾けていると、一本前のバスも超満員だったので、乗れなかったそうだ。いつもは楽に座れるはずのバスが、突然超満員で通過する。彼らにとっても、この事態は非日常だったようだ。しかも、利用客はお年寄りが多い。お年寄りたちは、終点まで乗るのではなく、ほんの少しの区間だけ利用していた。
終点までは、およそ四十五分かかった。平日の午前中、のどかな時間を私はバスの中で過ごした。バスは住宅街を巡り、いくつもの停留所に停車しながら、ようやく終点に着いた。バスを降りて、地下鉄の駅の前を通ってみると、電車はもう復旧していた。三宮駅でもう少し根気強く待っていれば、復旧した地下鉄に乗れたかもしれなかった。私も、バスと一緒に回り道をしたわけだが、地下鉄の運休は、非日常を存分に体験させてくれて、ちょっとした小旅行気分だった。
出勤してみると、とにかく通勤が大変だったと、みんな口を揃えて言っていた。職場の最寄駅の一つ手前の駅に住んでいる人は、歩いて出勤したと言う。他にも、家の人に職場まで車で送ってもらった人、停電前から地下鉄に乗っていて、電車の中で数十分もの間、缶詰状態になっていた人、途中の駅まで復旧した段階で、とりあえず、途中の駅までやって来て、そこからバスに乗り換えた人、舞子という明石の手前の駅で降りて、地下鉄の途中の駅まで向かうバスに乗り換え、地下鉄の復旧を待ってから出勤した人、実に様々だった。同じ目的地に向かうのに、みんなそれぞれ異なるルートを通っていた。そして、私のように小旅行を楽しんだという人は少なく、それぞれの体験した非日常が、大変だったと感じた人が多かったようだった。
私と同じ派遣社員の中には、地下鉄運休のため、普段出勤できるはずの時間に家を出たにもかかわらず、到着できなかったということで、タイムシートには一体どの時間を記入したら良いか、派遣会社に問い合わせる人まで出て来た。私は、派遣社員は時給で働いているのだから、出勤した時間を書くのが当然だろうと思っていたのだが、彼女に言わせれば、普段、出勤しているはずの時間に出勤できなかったのは、地下鉄が運休したせいであって、決して自分のせいではないので、普段、出勤するはずの時間をタイムシートに記入してもいいのではないかということらしい。私は、非日常の小旅行に満足していたので、そんなことはどうでも良かった。もしも、それが認められるなら、毎日のように遅れているJRの遅れの分だけ、私はタイムシートに働いた時間を加算してもいいことになってしまう。
ニュースによれば、神戸市営地下鉄の運休は、六万人の足に影響を及ぼしたと言う。私もその六万人の一人だったわけであるが、同じ職場の人たちの中でも、これだけ千差万別の反応があるということは、六万通りの反応があるのかもしれない。
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