« 続・三朝温泉 | トップページ | 魂の感覚を忘れた一年間 »

2005.12.05

メビウスの輪

 これは、りえちゃんの月見想陰と陽の捉え方の違い極と際へのダブルトラックバックである。

 早速、りえちゃんの記事を引用させていただく。

 私とフニさんと共通の事柄の中で、親との対立と友人との不和ということがある。
 二人の共通した見解は、相手を理解をしたいと思っているのに、相手からは理解されないという状況だと思っていた。
 先日の 「理解することされること」 を読んだフニさんから賛同を得て、話はその先へと進む。
 理解出来無い相手とはどこまでつき合うべきか。
 相手に合わせるべきだろうか、じぶんの考えを主張し続けるべきか、あるいは距離をとるということもあるだろう。
 理解出来無い相手とのすったもんだの付き合いは、軌道修正ができたなら幸いである。私は以前同棲していた彼のことを思い出し、泥沼の先を危うく見てしまうところだったことをふり返ってあることに気づいた。

 以前にまるみん(まるみさん)から極に向かうということを言われた。
 それからずっと、極に向かうとはどういうことかと考えていた。
 極に向かうことは苦しみが絶えずあって、極にたどり着く前に戻ろうとしたくなる。だからこそご褒美としてある種の真理が垣間見える。それが欲しいという自分がいるのだろう。
 さて、人間関係の極とはどこなのだろうか。フニさんと対話をしていて気づく、極には向こう側があるということ。
 いや、言いかえてしまえば際(きわ)を越えてしまうということ。

 なかなか興味深い話題である。まず、理解されない相手とどのようにして付き合って行くか。これは、お互いに、相手を理解しようとする姿勢があるかないかで異なって来る。結論から言ってしまえば、相手を理解しようとする姿勢がある場合、極に向かった関係は、ある時期を経て、お互いの極が入れ替わり、再び元に戻る。りえちゃんから際というキーワードが出ているが、際を越えた関係は、途中でねじれて裏返るのだ。ちょうど今、掲示板で、ななちゃんとSHANAくんがDNAの螺旋構造のはなしをしているが、その螺旋に相当するかもしれない。私は、メビウスの輪のような感覚でとらえている。

 相手を理解しようとする姿勢がない場合は、お互いの主張の繰り返しになるだろう。これは、私も何度か経験済みである。人間関係には凸凹、□□(凸凹のない同じ形の正方形)、凸凸、凹凹の組み合わせがある。凸凹の関係は、相手が主張しているとき(凸)にはもう片方が聞き役(凹)になって、ウンウンと頷いている。この凸凹の入れ替わりが行われるのが最も心地良い関係である。□□の関係は、対立の少ない共感の関係で、こちらも仲間意識を感じることのできる心地良い関係だ。凸凸は共感がなく、対立ばかりの関係。また、凹凹はお互いに受け身で、何も始まらない関係。

 どちらの主張もない場合は、凹凹の関係になるので、理解し合うことのない関係は、凸凸の関係ということになるだろう。凸凸の関係は、どちらかが凹になってあげれば丸く収まるのであるが、これがなかなか難しい。果たして、そんな凸凸の関係とどこまで付き合って行くか。とことん凸凸になると、お互いにエネルギーを激しく消耗する関係に発展してしまう。そうなると、その関係はやがて崩壊することになる。しかし、例え崩壊したとしても、相手を理解しようとする気持ちが残っている限り、実に不思議なことが起こって行く。具体的には、第三者を通して、頭と頭を付き合わせて対立していたときはまったく理解できなかった相手の凸を理解できるようになるのだ。その第三者とは、凸になって対立していた相手よりも、もっと醜い姿で登場する。そして、ああ、あの凸の相手が言いたかったのはこういうことだったのかと、ようやく理解するわけである。これが、私の体験して来た、極に向かったあとに極が入れ変わるという現象である。極が変わったあとは、再び自分の極に戻るのだが、そのときは、反対側の極も味方に付けているのだ。

 先日の記事で、欠乏→飽和→過剰という状態の矢印を書いたが、私はその記事を書きながら、欠乏と過剰は、マイナスとプラスなのにとても似ていると思っていた。対立の関係に発展する場合は、どちらかが欠乏していて、どちらかが過剰の状態である場合が多いように思う。そして、一つの事象を、片方は陰、もう片方は陽の見方でとらえていて、その開きが大きい関係である。

 例えば、いつだったか、掲示板で、
「対立を乗り越えて行かなければ、本当に親しい関係は築けない」
という話題が持ち上がったことがある。これは、対立をポジティヴにとらえた考え方である。しかし、一方では、対立をネガティヴにとらえている人たちもいた。そういう人たちは、対立しても、その先に和解のない関係もあるという見解を押し出した。

 どちらの立場も、対立だけがすべてではないと主張していたはずだった。しかし、対立を陽に転ばせている人は、対立のポジティヴな面を引き出そうとし、対立を陰に転ばせている人は、対立のネガティヴな面を盾にしていた。対話が平行線になっている場合、たいてい、このような現象が起こっている。しかし、自分の主張に夢中になってしまうと、そのことに気が付かないのだ。激しい議論に火花を散らせるのも良いが、一歩下がって客観的に見てみると、これまで見えなかったものが見えて来る場合が多い。

 愛情の際の向こう側は憎しみであって、もっと先に行くと最終的には相手の存在が許せなくなる。相手の存在が自分の不幸に直結して感じるからだ。
 私は際を越えてしまったので、自分の中にある濁りも見えてしまった。そして、相手への愛情と自分への愛情を天秤に掛けている状態が、まさしく極限=際だったのかもしれない。
 簡単に言ったら、無理はいけないってことだろうか。でも未熟な者で、今になってようやくその辺りが分かってきた。フニさんとの対話でフニさんに話すことで、自分の理解が進むのだから面白い。

 おそらく、愛情の向こう側にも憎しみはあり、憎しみの向こう側にも愛情があるのだと思う。それは、メビウスの輪のように繋がっていると思う。そして、通常、私たちが体験しているのは、ある局面だけだと思う。肝心なのは、メビウスの輪がねじれるときに、どんな行動を取れるかではないだろうか。

 さて、未熟なりに見えている答を出しておくとすれば、本当の愛情とは、自分への愛情がイコール相手への愛情になるのだろう。
 そうだなぁ、私が元気にここにある状態がフニさんの喜びになり。フニさんの元気な様子が私の喜びになるということだろうか。

 それも一つの答えだと思う。逆の言い方をすれば、相手への愛情よりも自分への愛情のほうが勝るとき、人は苦しみの関係を自分自身から切り離して楽になろうとする。しかし、本当に愛しているときは、苦しみさえも忘却の彼方へと押しやってしまう。

|

« 続・三朝温泉 | トップページ | 魂の感覚を忘れた一年間 »