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2005.11.06

食肉の陰陽

 きのう、動物について少し書いてみたが、実は私には、ある時期まで、魚介類と野菜しか食べられない時期があった。動物のことを大切に思うあまり、動物のお肉を食べられなくなってしまったのである。スーパーに行くと、精肉売場に切り刻まれた動物の肉がある。そこを通ると、胸がぎゅーんと苦しくなり、涙がこみ上げて来ることも多かった。

 本当かどうかはわからないが、魚介類は傷みを感じないと聞いたことがある。また、植物は、私たちがいただくことで、完全に命が奪われてしまうわけではない。そうした理由から、魚介類や野菜を主にいただいていたのである。だから、家で料理をするときも、お肉の代わりに魚肉ソーセージを使っていた。しかし、私がお肉を食べなかった頃も、ガンモは好んでお肉を食べていたので、魚肉ソーセージ入りのカレーやシチューは、ガンモには不評だった。また、お肉を食べないとなると、人と外食をするときに、お店選びに困ってしまうことが多かった。

 例えば、派遣期間が終了し、派遣先で私の送別会を開いてくださるという方が、行きつけの焼鳥屋さんに連れて行ってくださったことがある。。当時の私は、自分がお肉を食べていないことを周りにちゃんと伝えていなかった。私がお肉を食べない理由を口にすることで、お肉を食べている人たちの生き方を否定してしまうような気がしていたからだ。焼鳥屋さんで、お店の方にどんなものを食べたいか尋ねられたときに、私は、
「野菜中心でお願いします」
と答えてしまった。そのとき、焼鳥屋さんの顔が曇ったのは言うまでもない。確か、
「うちは焼鳥屋なんだよね」
くらいのことを言われたと思う。それを聞いた私は、焼鳥屋さんに対しても申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。何故、こっちを立てればあっちが立たなくなってしまうのだろう。私の取っている行動は、本当に、動物に対する愛情なのだろうか。なかなか実りがなく、お肉を食べない選択を常に貫けない状況に、私は、自分の考え方と世間の考え方とのギャップを感じていた。

 そんなとき、参加していた精神世界のMLの人が、こんなことを言った。
「人間だけが食物連鎖に組み込まれないのはおかしい。私は鳥葬を望む」
と。その発言を読んで、私はとにかく驚いた。確かに、人間は動物を食べるのに、動物が人間を食べると、まるで仇のように殺されてしまう。人間と動物は対等ではない。だから、対等になろうとして、MLでその発言をした人は凄いと思った。

 しかし、考えてみれば、鳥葬というのは、自分が亡くなったあとに鳥にその肉体をついばんでもらうことであって、動物たちの食欲を満たすためにわざわ自分の命を差し出すわけではない。だから、動物たちと完全に対等ではないのだ。それを考えると、やはり、人間は、動物たちに対して一体何をしてあげられるのだろうと考えてしまう。私たち人間は、彼らからいつも、もらいっぱなしなのではないだろうか。

 掲示板などにも何度か書いて来たことだが、手塚治虫先生の『ブッダ』の中に、こんなストーリーがある。おなかを空かせた登場人物のために、ウサギが、
「どうぞ私を食べてください」
と言いながら、自ら火の中に飛び込み、丸焼きになるのだ。私は、あの長い長い『ブッダ』の中で、このシーンが最も衝撃的で、印象に残っている。ウサギのそうした行為に、自己犠牲のかけらも感じられなかったことは、とても不思議なことである。

 ところで、世の中には、カニバリズムという考え方がある。一言で言うと、食肉主義と言っていいのだろうか。カリバニズムを支持する人たちの中には、「自分が死んだとき、自分の愛する人に自分を食べて欲しい。何故なら、自分が、愛する人の中で血となり肉となり、生き続けられるからだ」という考えを持っている人たちもいる。実際に、親しい人が亡くなったとき、その肉を食べるという儀式を行っていた部族もいたようだ。こうした習慣のない日本人には、驚くべき行為である。

 もう一つ、お肉を食べるということについて、私のツインソウルが大変興味深いことを示してくれた。彼は、私とは正反対で、子供の頃は、まったくお肉を食べられなかったのだそうだ。しかし、動物に対して愛情を持つようになったら、お肉を食べられるようになったと言う。私が、動物に対して愛情を持つようになったら、お肉を食べられなくなったのとは正反対の現象である。

 さて、これらのことをふまえた上で、現在の私はこう思う。お肉を食べるという行為に対して、愛情があるかどうかが重要なのであって、お肉を食べる、食べないの問題ではないと。自分が実践できるかどうかは別にして、カニバリズムについても、愛情があるからこそ食べることができると解釈する。しかし、食べる対象が動物であっても、人であっても、愛情があって食べるのと、愛情もなく食べるのとはまったく違う。食べるなら、愛情をもって食べることが大切なのだ。おそらく、愛情をもって食べることは、愛情があるから食べないのと同じ行為に匹敵するのではないだろうか。

 『ブッダ』の中で自ら火の中に飛び込んで丸焼き意になったウサギにも、愛があった。空腹の登場人物に対し、自分の肉を捧げ、食べてくださいと言えるほどの命をかけた愛。人間が、自分勝手にウサギを殺して食べるのとはワケが違う。動物好きの人たちがひっかかるのは、実は、この部分なのだ。つまり、動物の側に、人間に食べて欲しいと思えるほどの愛があるかどうか。それがないと感じているために、人間に食べられるために殺されることが動物の苦しみだと思ってしまうのだろう。

 食肉に関しては、今回の記事だけではとても書き切れない。まだまだ検証して行きたいことがらがたくさんある。それでも、こうした様々な経緯から、現在の私は、お肉をおいしくいただいている。私たちのために、命までも投げ出してくれた動物たちのことを思いながら。「いただきます」は、「命をいただきます」という意味なのだと思いながら。

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