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2005.11.21

オクラホマミキサー

 年を取って来ると、突然、子供の頃のことを思い出したりする。例えば、中学校の運動会で踊ったオクラホマミキサー。いや、最近ちょっとご無沙汰しているmikiさんが、オクラホマに住んでいるというわけではない。(^^;

 オクラホマミキサーは、二列になった男女が大きな円を作り、男女がそれぞれ反対方向に周りながら、自分の目の前に現れたパートナーと、ある決められたフレーズの間だけ踊る。好きな男の子の順番が回って来るのが待ち遠しくもあり、また、好きな男の子の順番があっという間に終わってしまうことが寂しくもあった。

 もしも時間の流れというものをまったく気にしないのだとしたら、私たちがオクラホマミキサーで体験して来たことは、人生、いや、魂としての男女の関わりそのものかもしれない。私たちの魂は、長い長い時間をかけて、すべての人たちとパートナーを組んで踊るのではないだろうか。そして、すべての人と踊り終えたときに、魂全体として、何かが完成するのかもしれない。しかし、ひと通り踊り終えたとしても、オクラホマミキサーの音楽はまだまだ鳴りやまない。同じ人と踊る順番が再び巡って来たとしても、決して一回目と同じ踊りにはならない。初めてのときよりも踊りは上達しているはずだし、以前よりも相手に対する親しさが増している。反対に、以前一緒に踊ったときの印象が悪ければ、次に踊るときは、相手の足をわざと踏んづけるかもしれない。

 大人になってからオクラホマミキサーを踊った経験はないが、かなり照れくさいのではないかと想像する。しかし、子供の頃は、こうしたスキンシップも照れ臭くなく、とても自然だった。

 通勤の途中、電車の中で、幼稚園の子供たちの集団に出会うことがある。先生に連れられながら駅に降り立った彼らは、必ずと言っていいほど、友達同士でしっかりと手を繋いでいる。しかも、相手が男の子だろうが、女の子だろうが、特に意識している様子はない。あの頃は、性を区別しようとする意識がほとんどなかったのだ。しかし、次第に大人に近づくにつれて、男子と女子を区別するようになって行く。こうした感覚は進化なのか、それとも退化なのか。

 例えば、幼稚園の頃には意識しなかった男女の性別を、中学校で意識するようになったのなら、それは進化だろう。しかし、男女の性別を意識する時期を経て、男女の性別を意識しない異性の友達を作るのは退化なのだろうか。

 異性なのに、異性を感じないのは、相手に対して失礼だという説もある。しかし、性別を越えた魂の愛を経験している人たちに対してもそれは当てはまるのだろうか。

 私は、価値観というものは、ある特定の時期を切り取った区間でしか成り立たないように思える。おそらくだが、価値観も、ぐるぐると回り続けている。そう、まるで私たちが踊っているオクラホマミキサーのように。

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