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2005.11.08

映画『春の雪』

 ガンモがきのうの記事を読んで、
「何だかまるで俺がダメダメ人間みたいじゃん。禁止!」
と言った。おそらく、ガンモも私と同じ自開症(じかいしょう)だから、本気で怒っているわけではない。ただ、実家のことなど、自分たち以外のプライバシーに関しては非常に気を遣っている。

 最近は、ガンモが何か面白いことを言うと、
「あ、それ、『ガンまる日記』のネタにいただきね(^^)」
などという会話が定着して来た。私は、その言葉を発した瞬間のガンモの表情を見て、ガンモが本当に嫌がるであろうことは書かないようにしている。

 さて、相変わらず、ガンモの仕事は忙しい様子だったので、今日も私はそそくさと仕事を終わらせて、映画を観に行った。みんなが忙しく働いている中で、連日、定時過ぎに仕事を上がるのは少々気が引けるものだが、火曜日は三宮の映画館がレディースディだったので、私は定時前からそわそわしていた。

 観た映画は、『春の雪』。若い頃、三島由紀夫の原作を読んで、大泣きした作品だった。だから、ストーリーも良く知っていた。原作を読んだときのように、聡子と松枝清顕の悲恋に大泣きできるのかと期待していたのだが、どうしたことか、そんな期待に反して、まったく泣けなかった。原作を読んで、あんなに心苦しい気持ちになって泣けたのが、今となっては不思議なくらいだ。

 何故、泣けなかったのだろうと考えてみた。おそらくだが、主人公の松枝清顕のまったくもって素直じゃない態度と、あまりにも強引な愛情表現に引いてしまったのだと思う。彼は、幼なじみの聡子が自分のことを好いてくれていることを知りながら、自分自身も聡子に想いを寄せているにもかかわらず、聡子を遠ざけるような行動ばかり取っていた。それが、あることをきっかけにして、まるで火がついたように聡子を追い回すようになる。聡子を押し倒して唇を奪ったりなどして、半ば強引に聡子と関係を持つようになる。

 結婚前にカルマの体験をしてからの私は、こうした愛情表現には感動できなくなってしまっていた。「本当に愛したらそうじゃないだろう」と思ってしまうのだ。愛すれば愛するほど、相手の自由意思を尊重する行動を取るはずだ。だから、『マディソン郡の橋』も、原作を読んだときは、世の中との関わりを絶ち、電話に出たくなくなるほど感動したのに対し、映画が公開されたときはもう感動しなくなっていた。『マディソン郡の橋』の原作を読んだのは、カルマの体験をする前のことだった。そして、映画を観たのは、カルマの体験をしたあとのことだった。今回観た『春の雪』についても、同様のことが言える。原作を読んだのは、まだ若い二十代の頃だった。そして、映画を観たのは、ガンモと出会い、結婚して十年近く経った頃だ。

 その間に、私の魂は凄まじいカルマの体験を終わらせ、ソウルメイトであるガンモとの出会いを果たし、更にはツインソウルにも出会い、愛とは何たるかということをじっくりと味わいながら、これこそが愛だと思える感動的な瞬間を重ねて来た。『春の雪』で表現されていた悲恋は、いつの間にか、私が感動的だと思える愛の範疇からは外れてしまっていたのである。

 過去に泣けた理由が、感動に起因するならば、おそらく原作を読んでから何年経ったとしても、感動にむせび泣くことができたのではないだろうか。しかし、原作を読んだ当時の私は、感動して泣いたわけではなかった。「何故、愛し合う二人は一緒になれないの?」という同情を誘うような感情だったと思う。自分なりに感動的な愛の体験を重ねて来た私の魂は、そうした悲恋に対し、「素直になるべきときに素直にならなかった、自分自身の責任だろう」という感想しか沸いて来ないのだった。

 実は、私は、ミッチー(及川光博さん)のファンだったことがある。彼のライブにも何度か足を運んで来た。アイドルとは違う、彼の独創的な世界が好きだった。そんなミッチーの演じる皇太子は適役だったと思う。それなのに、ミッチーの出番が期待していたほど多くなかったのはいただけない。また、今回の作品には出演していないが、私は昔、三上博史さんのファンだったこともある。彼と私は、生年は違うが、誕生日が同じだ。私が三島の原作を読んだのは、彼のお勧め作品だったからでもある。だから、この作品が映画化されるなら、松枝清顕の役は三上博史さんに演じて欲しいと思っていたのだが、いかんせん、彼は私よりも三歳も年上なので、若い松枝清顕の役を演じるチャンスは巡って来なかったのかもしれない。そんな個人的な理由からも、残念な映画だったと思う。ああ、これからこの映画を観ようと楽しみにしてらっしゃる方には本当に申し訳ない。

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