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2005年11月

2005.11.30

風化

 近鉄電車に乗ったときに、とある広告が目に留まった。その広告には、
「痴漢は犯罪です」
と書かれてあった。私は、「あれっ?」と思ったものだ。この広告を見ると、痴漢は犯罪だから、痴漢をするなと言っているように見える。しかし、本当はそうではないはずだ。

 同じように、
「交通ルールを守りましょう」
という標識にも、私は、「あれっ?」と思ってしまう。交通ルールを破った人が罰金を取られるのも何だかおかしい。交通ルールを守ることが、本来の目的ではないはずなのに。

 また、ここに、愛し合っている男女がいるとする。彼らは、
「結婚したいけど、お金がなくてね」
などと言っている。私はまたまた、「あれっ?」と思ってしまう。私自身は結婚式とは無縁だったが、百歩譲って、
「結婚式を挙げたいけど、お金がなくてね」
ならまだわかる。でも、いつの間にか、結婚式と結婚がイコールになってしまっている。

 きのうの記事を書きながら感じていたのは、いつの間にか、伝統を守ることが目的となってしまっていることのむなしさだった。本来の目的からかけ離れたものを追い求めていることに気がついていない。それらは風化し、人々の目を曇らせてしまっている。

※ちーちゃんへ

久しぶりに、ちーちゃんに泣かされたよ。
新たな人と関わり始めるということは、責任も重いはずなのに、素晴らしい感動をありがとう。
愛は、何だかわからないけど、とにかく泣けて来るものだね。
ちーちゃんが、河童になったみたいにスースーすると書いてた意味がわかったよ。
双方向から掘り進めたトンネルが完成したんだ。(^^)
私にも、大きな感動を分けてくれてありがとう。

※てんちゃんへ

今のこの流れは、てんちゃんのおかげだよ。
とにかく、みんな頼もしい。
最初にあいさつを交わしてから、わずか数ヶ月でどんどん変化が起こっている。
たくさんの気づきををありがとう。

※皆さんへ

いつもたくさんの応援クリックをありがとうございます。
最近、仕事が忙しくて、更新も遅くなっていますが、
皆さんに励まされています。
本当にありがとう。m(__)m

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2005.11.29

男尊女卑

 皇位継承について、女系・女性天皇を認めるという決定が、世間に波紋を投げかけている。この話題がいろいろなブログで取り上げられているのを見るにつけ、大胆にもそのほとんどが、この決定に反論する内容であるのは、ただただ驚くばかりである。世間の人たちにとっては、これまでの「伝統」を守り抜くことは、それほど重要なことなのだろうか。女系・女性天皇の受け入れに反対する人たちの中には、側室制度の復活を望む声もあるようだ。男女間の愛で何が大切かという観点から考えれば、まったくばかばかしい話である。はっきり言ってしまえば、こうした考えは、女性の位置づけが、子供を産むための道具となってしまっていることの証である。しかも、生まれて来る子供は男子でなければならないと来ている。私は、こうした男女間の愛や人権を無視した考え方に、激しい憤りを感じてしまうのだ。

 このような「男子優先の制度」が続く限り、皇室に入った女性たちは、男子を産まなければならないというプレッシャーに苛まれ続けることになるだろう。そもそも、子供を産むか産まないかは、夫婦間の自由意思で決められることなのではないだろうか。それなのに、日本に限らず、いろいろな国々で、こうした「男子優先」の考えが強く根付いている。特に、皇位を継承する家系では、後継ぎとなる元気な男子を産んでもらうために、何人もの側室を囲っていた時代があった。そうした時代を背景にした漫画を読むと、皇后対側室、または側室同士のドロドロとした人間関係が描かれている。そこまで人間関係を醜くしている制度なのに、そうした醜さに目を瞑り、いつまでも男子にこだわる理由は一体何なのだろう。

 日本において、側室制度が廃止されたのは、昭和天皇の時代からだと言う。しかし、男子優先の考え方が残っている限り、側室制度を廃止した分だけ、皇室に入る女性のプレッシャーは、むしろ強くなってしまったかもしれない。そういう意味で、私は、皇室に入る女性たちを大変気の毒に思うのだ。子供を産むか産まないかの自由意思がないことと、生まれて来る子供の性別を選択する自由意思がないことに対してである。

 いや、何も皇室に限ったことではない。愛し合う男女が結婚しても、子供に恵まれないと幸せになれないだとか、生まれた子供が女の子ばかりでは後継ぎがいないので家が絶えるだとか、そんなことを気にしている人たちは一体何様だ、と思ってしまう。側室が産んだ男子がいかに健康優良児であったとしても、二人の間に愛がなかったり、また、側室を迎えたことで、もともと愛し合って結婚したはずの正妻が深い悲しみを感じている場合、側室の産んだ男子が皇位を継承することで国が繁栄して行くとは思えない。

 天皇制度は残ってもいい。しかし、血筋だとか、男子でなければならないとか、そんな呪縛から、そろそろ解放されてもいいのではないだろうか。

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2005.11.28

平和への祈り

 路面電車を原爆ドーム前で降りると、目の前には世界遺産の原爆ドームがあった。六〇年前には確かに焼け野原だったこの広島も、今では世界中からたくさんの観光客を受け入れている。私も、カメラを持参して、この地を訪れている。時間の経過とは不思議なものだ。世界史上、もっとも悲惨な出来事が起こった場所でも、何十年もの時が経ってしまえば、こうしてカメラを向けることができる。

 私たちは、平和記念公園の中にある広島平和記念資料館に足を運んだ。ガンモも私も、ここを訪れるのはそれぞれ二回目のことである。以前来たときよりも、スペースが拡張されているように感じた。そして、ここを訪れる人の数も多くなっていた。特に、欧米から来られた外国人観光客の方が多いのには驚いた。彼らは、真剣なまなざしで展示物に見入っていた。広島平和記念資料館の中では、笑う人もおしゃべりをする人も少なかった。

 展示物から、歴代の広島市長が、核実験を行っている国々に対し、核実験の中止を願う抗議文を送り続けていたことを知った。それにもかかわらず、今なお繰り返され続けている核実験。未だに、核による人体への影響は計り知れないと言う。核兵器の恐ろしさを知っている広島と、核兵器の恐ろしさを、核実験によって知りたがる国々。この対比が恐ろしい。核実験を行うくらいなら、ここに来てみればいいのに、と私は思う。そういう人たちは、自分の大切な人たちを亡くさなければ、核兵器の恐ろしさを知ることができないのだろうか。私たちは、こうした資料館で、核兵器の恐ろしさを充分学んでいるというのに。

 去年、私たちは、長崎原爆資料館にも足を運んだ。広島平和記念資料館にもあったが、長崎原爆資料館にも、焼け焦げたお弁当箱の遺品が展示されている。そのお弁当は、原爆が投下された日にお母さんが愛情を込めて作ってくれたものであり、被爆者は、それを口にすることなく亡くなっている。私は、誰かの愛情をないがしろにするような行為に強く反応する。長崎原爆資料館でも、焼け焦げたお弁当箱を見たときは、思わず目頭が熱くなっていた。

 しかし、こうした出来事を語るとき、私の中には、常にもう一つの考えが浮かんで来る。それは、広島や長崎は、本当に被害に遭っただけなのかということだ。原爆が落とされたことによって、世界中の人たちが訪問するほどの都市に成長した。また、人々が平和について充分に考察するきっかけを与えてくれた。千羽鶴を折るという、みんなが一つの方向に向かおうとする結束したパワーを生み出させてくれた。慰霊碑を造るという芸術のチャンスを与えてくれた。そして、何よりも重要なのは、日本という国が、核実験を行わずに済んでいるということだ。

 失われた人たちの命は尊い。しかし、そうした被害によって見出されて来たものも大きい。それらを天秤にかけるわけではないが、失わなければ見出すことができなかったこともたくさんある。長い長い歴史からすれば、戦争はずいぶん減って来ていると思う。だから、私たちの魂は、今もなお、進化を続けている。私はそう思いたいのだ。

今日撮影した写真:
広島〜平和への祈り〜

去年の夏に撮影した写真:
長崎〜平和への祈り〜

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2005.11.27

ガンまる、宮島へ行く

 ホテルをチェックアウトした私たちは、広電の路面電車に乗り、広島港へと向かった。そして、広島港から、宮島行きのファーストビーチ高速艇に乗船して宮島港に降り立った。広島市内から宮島まで行くのに、このようなルートは一般的でないと思われるのだが、今回購入した「広島・瀬戸内フリーきっぷ」を使えば、広島港からのファーストビーチ高速艇も乗り降り自由だったのである。

 宮島に着いた私たちは、まず、その人の多さに圧倒された。旅行会社のツアーバッチを付けた団体客や、たくさんの家族連れ。宮島が、数多くの人たちに支持されているのがわかる。「ガンまる日記」にも何度か書いて来たが、私は高校を卒業したあと、いったん広島の大学に入学し、東京(正確には神奈川県)の大学に再受験するまでの一年間を広島で過ごした。だから、宮島にも何度か足を運んだことがあるのだが、宮島がこれほどの観光地だったということを、今回、初めて知ることになった。一方、ガンモは生まれて初めて宮島を訪れたらしい。ガンモが想像していた宮島は、厳島神社しかないほどの小さな島だったと言う。それが、こんなに大きな島だったとわかり、とても驚いていた。

 ところで、厳島神社にいらっしゃるのは女の神様で、カップルで訪れるとやきもちを妬いて別れさせるという話だったが、果たして本当にそうなのだろうか。私には、これほどたくさんの人たちが訪れているその宮島に、そのようなジンクスが生まれたことがおかしいくらいに思えた。厳島神社周辺の木々に、厳島神社の居心地を聞いてみようと思ったが、海岸沿いということもあって、参道に植えられていたのは松の木だった。松の木は、葉っぱの緑色の部分が少ないので、彼らがここでうれしそうにしているかどうかを感じ取ることができなかったのだ。

 厳島神社の醸し出す雰囲気は、これまで足を運んで来た神社とはどこか違っていた。世界遺産という誇りがそう感じさせるのだろうか? 三百円の拝観料を払って、神殿の中まで入らなかったので、中の雰囲気は良くわからなかった。ただ、潮が満ちて来ると、神殿の周りが海水で覆われて光景は、とても神秘的だった。

 私は、潮の満ち引きと、広島を離れたことと、またこうして広島に近づいたことを重ね合わせて考えた。確か、今年の十月に道後温泉に足を運んだときもそうだった。愛媛で生まれ育った私が、観光客として松山を訪れ、道後温泉の偉大さを知った。それと同じように、広島を離れた私が、再び観光客として広島に戻り、宮島の偉大さを知った。松山や宮島の観光地としての偉大さを知ったのは、私が一度離れたからではなかったか。マクロレンズで見るよりも、広角レンズで見たほうが、きれいに映る光景もあるということだ。大切なことは、いつもその中にあって、素晴らしさを感じることなのに。だから私は、このあと、マクロレンズで見ても素晴らしいことを証明すれば良い。

 宮島を満喫した私たちは、十五分ごとに運行されているJR連絡船に乗り、宮島口まで出た。そこから路面電車に乗り換え、原爆ドームで降りた。この続きはまた明日。

今日撮影した写真:
宮島

※皆さんの応援クリックに感謝しています。本当にありがとうございますm(__)m

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2005.11.26

洗脳

 さて、私たちは、広島にやって来た。新神戸から三原まで新幹線に乗り、三原から瀬戸内マリンビューという臨時列車で呉まで出た。呉でひとまず降りて、駅から徒歩五分のところにある大和ミュージアムに足を運んだ。

 大和ミュージアムは、造船にスポットを当てながら呉の歴史を紹介している資料館で、潜航艇や零式艦上戦闘機(通称:ゼロ戦)などの実物が展示されている。その中でも特に気を引いたのが、人間魚雷と言われている、特攻兵器「回天」である。

 人間魚雷とは、魚雷の中に人間が入り、魚雷を操縦して標的に体当たりする究極的な武器である。当然、標的に命中すれば、魚雷の中にいる人の命は失われてしまう。人間魚雷で命を失った人たちの数は、実に百名以上にも昇ると言う。しかも、その多くは、二十代の若者だったと言う。戦時中は、「お国のために」という名目で、このように悲惨なことが当然のように行われていた。

 人間魚雷が展示されていた場所には、まさに明日、人間魚雷に乗り込むことになっている若者の遺言が録音されたものを聞くことができた。その声は、二十代とは思えないほどの落ち着きがあり、清書された遺言を読み上げるように、力強く語っていた。彼は、もっともっと生きたかったけれども、「お国のために」命を捧げられることを誇りに思っているようでもあった。

 私の近くで人間魚雷の説明文を読んでいた年配の男性が、
「戦争で亡くなって行った男にだって、愛や恋はあった。それを、『お国のために』などと言い聞かせられて、若い命が失われて行った」
と、同行している人に話しているのが聞こえて来た。私もまったく同じ気持ちだった。そして、私の中に、「洗脳」というキーワードが浮かんだ。

 私は、リアルタイムに戦争の時代を生きていないので、当時のことはわからない。しかし、自由な現代を生きている私には、「お国のために」という言葉は、「洗脳」であるように思える。そして、「洗脳」と言うと、昔のオウム真理教などの新興宗教を思い浮かべる。

 かつて、「洗脳すること」で国を守ろうとした時代があった。しかし、現代は、「洗脳されないこと」で人々を守ろうとしているとも言える。「洗脳」という一つの事象を取り上げても、時代背景や人々の意識の変化により、陰にも陽にも転ぶということだ。私たちの魂が、別々の肉体を持ちながら転生しているのだとしたら、こうした変化は、私たちの魂が進化して来ていることの証だ。あの時代を忘れてはならない。そのために、こうした歴史資料館は存在している。私たちの魂に、進化の証として焼き付けるために。

今日撮影した写真:
大和ミュージアム

※皆さん、いつも応援クリックありがとうございます。おかげ様で、たくさんの元気をいただいています。m(__)m

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2005.11.25

臭いものにも蓋をしない

 夏休みに撮影した写真を整理していたガンモが、一枚の写真を私に見せてくれた。それは、ガンモが撮影した私のすっぴん写真だった。百円ショップで買った日本てぬぐいをターバンのように頭に巻きつけ、まゆげも描かず、口紅も引かず、無防備な表情でこちらに目線を送っている。顔に皺はないが、まるで、八十年も生きたおばあちゃんのようだった。
「うわあ、やめてえ!」
と私は言った。自分のすっぴん写真の醜さに思わず目を背けてしまった私だったが、あろうことか、ガンモはその写真を、わざわざ自分のパソコンのデスクトップの壁紙に設定したのだ。

 「どうして壁紙なんかに設定するの?」
と私が尋ねると、
「まるみがシャットダウンするときに見るから」
とガンモは答えた。更には、
「ホームページで公開しているまるみのプロフィールの写真も、こっちに変えておこうかな」
などと言うのだ。
「ダメダメ、やめてえ!」
と私は強く抵抗した。プロフィールで公開している私の写真は、数年前に撮影した写真で、今の私は、その写真を撮影した当時よりももっと劣化している。それでも、私は、わざわざ劣化した写真に張り替えるほどの勇気を持ち合わせてはいないので、プロフィールの写真はそのままにしているのだ。だから、思わず目を背けたくなるほどの醜いすっぴん写真に張り替えるなど、到底考えられないことだった。

 それなのに、ガンモは私の醜い写真を自分のパソコンのデスクトップの壁紙に設定した。私がシャットダウンするときに見るからなどと言ってはいるが、私には、その写真を見ながらガンモ自身が楽しんでいる様子がうかがえる。私自身が目を背けたくなるほど醜い写真なのに、このような臭いものにも蓋をしないガンモは一体何者? と思ってしまう。

 夫や妻の、きれいに撮れた写真を愛でるのは当たり前のことだ。しかし、本人も嫌がるほど醜い写真さえも愛でることができるのだろうか。果たして、ガンモの醜い写真があったらどうだろう。やはり私も、パソコンのデスクトップにガンモの写真を飾るだろうと思う。このように、私たち夫婦の繋がりは、肉体的な醜さを超えたところにあるとも言える。

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2005.11.24

沈黙について

 はづきさんも書かれていらっしゃるように、きのうはココログのメンテナンス中で、昼休み中に書き上げた記事をアップしようとしてもエラーになってしまい、アップできなかった。そんなことのないように、いつもはエディタの上で書き上げてから編集ボックスに貼り付けているのだが、貼り付けたあとに別の文字をクリップボードにコピーしてしまったため、せっかく書いた記事が水の泡となって消えてしまった。そんなわけで、きのう書いた記事に、もう少し補足しておきたいことがある。そう思っていたら、てんちゃんが掲示板にコメントを書いてくださったので、てんちゃんへのメッセージも含めて書かせていただこうと思う。

■No986に返信(てんてんさんの記事)

てんちゃんへ

コメントありがとう。

> 沈黙が怖かったのは、私も一緒だ。(笑)
> 最近は怖くないなあ。

てんちゃんなら、沈黙の怖さをわかってくれると思ってた。(笑)

何故、沈黙が怖かったのかと考えてみると、私の場合、思っていることを全部口に出すタイプだからだと思う。
特に、親しい人に対してはね。
だから、反対に、思っていることを言えないことはストレスの原因にもなってしまうし、普段、自分が思っていることを隠そうとしないので、他の人が黙っているということは、何も感じていないか、言いたくないのどちらかだと思い込んでいたんだ。
それだけ、言葉に対する依存が大きかったのかな。
もしかすると、それはそのまま、芸術の理解への乏しさを証明していたのかもしれない。

ツインソウルは言っていた。
言葉では表現し切れないものがあるから、足りない分を芸術で埋めて行くのだと。
沈黙が怖くない人は、言葉以外の手段があることを、私よりも先に知っていたんだね。

振り返ってみれば、ツインソウルとこの対話を始めたのだって、
「最近、何で黙ってるの?」
と私が聞いたことが始まりだった。
もともと口数の少ないツインソウルは、
「何でって、黙ってるのが普通だから」
と言ったんだ。私は、
「だったら、これまでたくさん交わして来た言葉は一体何だったの?」
と反論した。すべてはそこから始まったんだ。
それにしても、今回の対話は長かった。とにかく、たくさんの言葉を交わしたよ。
しかも、もとはと言えば、これまでと同じようにたくさんの言葉を求めようとして対立を始めたのに、対立が終わる頃には、こうして沈黙に酔いしれているとはね。(苦笑)
まったく、ツインソウルと関わっていると、何が起こるかわからないね。
まるでびっくり箱を開けるみたいだよ。

てんちゃんも、沈黙が怖くなくなったということは、私も、てんちゃんと同じものを見つけられたのかもしれない。
言葉では表現されない思いやりや行動を。

あと、違うものに対する恐れも緩和されたように思う。
今までは、ツインソウルに、
「何で□□なの」
という反論ばかりしていたんだ。(□□は、私と違う部分ね)
ツインソウルは、「自分はこうなのに、あなたはこうじゃない」と言われるのがものすごくイヤだったみたい。違ってて当たり前なんだと。

でも、考えてみると、誰かと対話をするにしたって、単なる共感だけではそれ以上の拡がりがなく、「そうそう」で終わってしまう場合もあるよね。
違うということは、極端に言葉数が多くなるか、少なくなるかのどちらかだね。
それにしても、前者と後者の違いは何だろう。
違うから、相手のことをもっともっと知りたいと思って言葉を発するか、別の個として切り離してしまうかの違いなのかなあ。

> あれだけ、言葉を交わしていたのにね。
> 交わりが言葉という手段を使わない域に
> 来たのだろうか?

それはまだわからない。
でも、今の感覚が、とても心地いい。
とにかく、これからは、これまでとは違う方向に進んで行く気がしている。

> 壁紙がクリスマスになったね。
> そろそろ、12月だ。

気づいてくれてありがとう。(^^)
ガンまる日記とホームページのトップページの壁紙を変えてみたよ。
髪の毛を切ったときに、
「あ、髪、切ったんだね」
と言ってもらえたようなうれしい気分だ。(^^)

もう十二月だなんて、時が経つのはほんとに早いね!

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2005.11.23

りんごの皮をむいてみたら

 去年の十一月頃からツインソウルとメールで人生論を繰り広げていたのだが、ここに来て新たな段階に入った。ツインソウルと私は、一回のやりとりでおよそ数百行から千行のメールを交わしていた。お互いの価値観がまったく異なるために分かり合えないことが多く、「何故? こうじゃないの?」を繰り返しているうちに、ついつい長いメールになってしまっていた。

 私にとって、お互いの価値観が異なるために理解し合えないことは、本当に苦しいやりとりになった。しかし、一人一人の価値観が異なることなど当たり前だと思っているツインソウルにとっては、それほど苦しくないことのように思えた。私は以前、このことについて、掲示板で以下のように報告したことがある。

私は、ツインソウルの価値観を受け入れられなくて、
交流を続けて行くことが苦しくて苦しくてたまらないと感じたとき、
「アンタと交流を続けて行くのはとても苦しい。でも、アンタは苦しくないの?」
と言ったんだ。
そしたら、相手は、
「苦しいのならやめればいい。それを、自分が苦しいのに、
 おまえは苦しくないのか、そう相手に責められる根拠はなんだ?
 苦しいほうが偉いのか。苦しくない方が軽いのか。軽率なのか」
と切り返された。何だ、こいつ? と思ったよ。
でも、それがツインソウルなんだ。

 それからも、私にとって苦しい対話はしばらく続いていたのだが、あるとき、私はとうとうギブアップしそうになった。こんなに苦しいのなら、ツインソウルとの交流なんて、もうやめてしまおう。しかし、そう決心してからしばらくすると、やっぱりもう少し頑張ってみようという気持ちが沸き上がって来るのだった。私は、プラスとマイナスの極を行ったり来たりしていた。そのことをツインソウルに話すと、ツインソウルのほうも、「対話なんてもうやあめた」という気持ちになったらしい。そして、長い長いこの対話はひとまず休戦したのだ。

 それからおよそ一ヶ月近くもの間、ツインソウルと私は連絡を取り合わなかった。こんなことは、交流が始まって以来、初めてのことだった。その間、お互いに、何となく調子が出なかったようだ。しかし、実に不思議なことなのだが、ツインソウルと頻繁にやりとりしていた時期にはわからなかったことが、ほんの少し離れただけで、まるで手に取るように理解できるようになったのだ。特に、これまでツインソウルが言葉にしなかった内容が、ツルツルと芋づる式に私の中に入って来た。そして、これまでツインソウルが抱えていたはずの苦しみまでも浮き上がって来たのだ。

 私は、これまで苦しいと思っていたツインソウルのやりとりが、まるで宝物のように思えて来た。私自身の経験から、自分から発信して行くことよりも、相手の言葉を受けながらの対話を進めて行くことのほうが根気のいる作業だということがわかっている。それなのに、途中で途切れることなく、十ヶ月もの間、りんごの皮をていねいにむくように、ツインソウルと私は長い長い対話を続けて来た。更に、対話を休止させてからは、言葉を交わさなければ交わさないなりに、相手を理解しようとする機能がぐんぐん発達して来た。それはまるで、たくさんの言葉を必要としていた時期を経て、一つの極に達し、そこから、言葉のあまり必要のない反対の極へと移行したかのようだった。

 一ヶ月経って、再びぽつりぽつり会話をするようになったものの、以前のようにたくさんの言葉を使ったパワフルな関わり方ではなくなっていた。これまでは、たくさんの言葉を交わしながらぶつかり合うことで、お互いのエネルギーの強さを確認していたように思う。跳ね返ってくる力で相手を知ろうとしていたのだ。しかし、今はそうではなく、静かに佇むのその関わりの中に、言葉では表現されないエネルギーの交流がある。そして、私はいつの間にか、ツインソウルが自分勝手な行動を取っても腹を立てなくなっていた。私にとって、これはものすごい進歩なのだ。

 かつての私は沈黙が怖かった。しかし、今は沈黙が怖くない。沈黙していても、確かに流れているエネルギーがある。かつて、ツインソウルは沈黙など怖くないと言った。耳を澄ませば、心の声が聞こえて来るとも言っていた。ツインソウルが言いたかったのは、こういう沈黙のことだったのだろうか。これから再びたくさんの言葉を交わすようになるかどうかわからないが、少なくとも私は、今の沈黙を楽しんでいる。

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2005.11.22

男性性と女性性

 最近、掲示板で何度となく登場している言葉の中に、男性性と女性性という言葉がある。それも、同じスレッドの中に登場するのではなく、異なる掲示板で対話を進めている人たちのやりとりの中にも登場している。これだけ私の前にクローズアップされるとやはり気になってしまうので、今日は、このテーマを与えてくださった皆さんに感謝しながら、男性性と女性性をテーマに書いてみたい。

 私は女性として生まれて来たにもかかわらず、小さい頃からとても男っぽかった。お人形さんごっこやままごと遊びにはほとんど興味を示さず、怪獣のおもちゃや剣(けん)のおもちゃなどを好んだ。座るときもパンツ丸見えで腰を下ろし、親からは良く、
「少しは女の子らしくしなさい」
と言われ続けて来た。その頃から、女性らしくあることへの反発があったように思う。

 女子大生ブームと言われていた大学時代でさえ、ファッション雑誌などには目もくれず、ファミコンやカメラなどに心惹かれていた。職業として選んだのも、男性の多いソフトウェア業界だった。そして、職場では、"サムライ"と呼ばれている。

 就職してからは、お昼休みに女の子だけで集まってお弁当を食べるのが大の苦手だった。テレビドラマを好んで見るわけでもなく、ファッションや化粧品などにも興味を持っているわけではなかったので、複数の女性たちと共通の話題を見出すことができなかったのだと思う。そんな中でも、仲良くなれた女性たちは、どこか中性的な人が多かった。

 ここまで振り返ってみると、私の場合、女性性よりも男性性のほうがはるかに発達していると言っても過言ではないだろう。いや、女性性が退化してしまっていると言ったほうが適切かもしれない。

 自分の中に、既に男性性が存在しているせいか、好きになる男性も中性的な男性が多かった。もちろん、ガンモも中性的だ。男性性が特に発達している男性に対しては、まったくと言っていいほど興味を示さなかった。むしろ、苦手なほうだった。

 女性にしかできないこと。女性だからこそできること。それが、女性性だと思う。果たして、私の中に、女性性は存在しているのだろうか? 何だかこれを書きながら不安になって来た。女性には先天的に備わっているはずの母性でさえも、退化してしまっているように思える。子供の頃から女の子らしくしなさいと言われ続け、とうとう女の子らしくなることなく、私はおばさんになってしまった。だから、女性性はすっかり放棄されたものとして、婦人病にかかったのだろうか? ということは、自分の中の女性性を引き出すことで、退化した部分が再び活性化して来るのだろうか? もしもそうなら、その道のりは相当険しいと感じる。何故なら、自分にとって、苦手な人を目指すことになってしまうからだ。しかも、自分の中の女性性をたっぷりと引き出してしまったら、中性的な男性であるガンモとの関係はどうなってしまうのだろう? ガンモも一緒に男性性を引き出すことをしなければ、バランスが取れなくなってしまうのではないだろうか? それに、何よりも、中性的であるという「私たちらしさ」が失われてしまうようにも思える。となると、性に特化した肉体的機能は必要ないということなのだろうか。

 以前の日記に、私は、一つの性に偏りたくないなどと書いた覚えがある。しかし、こうして蓋を開けてみれば、自分では一つの性に偏っていないつもりでも、男性という一つの性に偏り過ぎていた。ああ、何ということだ。自分と向き合うことは恐ろしい。でも、ほんの少しだけ前に進めた気がする。きっかけを与えてくださった皆さん、どうもありがとう。

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2005.11.21

オクラホマミキサー

 年を取って来ると、突然、子供の頃のことを思い出したりする。例えば、中学校の運動会で踊ったオクラホマミキサー。いや、最近ちょっとご無沙汰しているmikiさんが、オクラホマに住んでいるというわけではない。(^^;

 オクラホマミキサーは、二列になった男女が大きな円を作り、男女がそれぞれ反対方向に周りながら、自分の目の前に現れたパートナーと、ある決められたフレーズの間だけ踊る。好きな男の子の順番が回って来るのが待ち遠しくもあり、また、好きな男の子の順番があっという間に終わってしまうことが寂しくもあった。

 もしも時間の流れというものをまったく気にしないのだとしたら、私たちがオクラホマミキサーで体験して来たことは、人生、いや、魂としての男女の関わりそのものかもしれない。私たちの魂は、長い長い時間をかけて、すべての人たちとパートナーを組んで踊るのではないだろうか。そして、すべての人と踊り終えたときに、魂全体として、何かが完成するのかもしれない。しかし、ひと通り踊り終えたとしても、オクラホマミキサーの音楽はまだまだ鳴りやまない。同じ人と踊る順番が再び巡って来たとしても、決して一回目と同じ踊りにはならない。初めてのときよりも踊りは上達しているはずだし、以前よりも相手に対する親しさが増している。反対に、以前一緒に踊ったときの印象が悪ければ、次に踊るときは、相手の足をわざと踏んづけるかもしれない。

 大人になってからオクラホマミキサーを踊った経験はないが、かなり照れくさいのではないかと想像する。しかし、子供の頃は、こうしたスキンシップも照れ臭くなく、とても自然だった。

 通勤の途中、電車の中で、幼稚園の子供たちの集団に出会うことがある。先生に連れられながら駅に降り立った彼らは、必ずと言っていいほど、友達同士でしっかりと手を繋いでいる。しかも、相手が男の子だろうが、女の子だろうが、特に意識している様子はない。あの頃は、性を区別しようとする意識がほとんどなかったのだ。しかし、次第に大人に近づくにつれて、男子と女子を区別するようになって行く。こうした感覚は進化なのか、それとも退化なのか。

 例えば、幼稚園の頃には意識しなかった男女の性別を、中学校で意識するようになったのなら、それは進化だろう。しかし、男女の性別を意識する時期を経て、男女の性別を意識しない異性の友達を作るのは退化なのだろうか。

 異性なのに、異性を感じないのは、相手に対して失礼だという説もある。しかし、性別を越えた魂の愛を経験している人たちに対してもそれは当てはまるのだろうか。

 私は、価値観というものは、ある特定の時期を切り取った区間でしか成り立たないように思える。おそらくだが、価値観も、ぐるぐると回り続けている。そう、まるで私たちが踊っているオクラホマミキサーのように。

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2005.11.20

自我持参

 自画自賛とは、自分で自分の絵を誉めることだ。しかし、自我持参はちょと違う。

 土曜日に、ガンモと喧嘩をしてしまった。原因は、ガンモが仕事に出掛けている間に私が観た映画(DVD)が、ことのほか面白かったので、ガンモにも是非とも観て欲しいと強要したことだった。

 仕事から帰って来たガンモが、ご飯を食べ終わってくつろいでいるとき、私は、
「このDVD、ものすごく面白いから観てみなよ」
と言って、借りて来たDVDをガンモの使っているパソコンにセットした。ガンモは、
「いやあ、今日は眠いし、とても疲れてるんだよ」
と言って、DVDの再生を中止した。
「いやいや、一時間ちょっとで見終わるし、絶対面白いから、観て!」
と私は言った。二人で観たら、絶対に笑える映画だと思っていた。私も、観ている途中に声を上げて大笑いしたくらいだ。しかし、ガンモは眠い、眠いと言いながら、ベッドに潜り込んでしまった。

 私は、その映画の面白さをガンモと共有したかったのに、それが実現されなかったことで、急にイライラして来た。眠いと言ってベッドに潜り込んだガンモは、ほんのさっきまでパソコンの前に座って、ネットサーフィンしていたはずだった。それなのに、私がDVDの話を持ち出した途端、急に眠いと言い出すなんて・・・・・・。

 私は、ガンモにDVDを観てもらえないイライラを、仕事の忙しさや派遣仲間との対立とリンクさせた。すると、突然、世の中で独りぼっちになってしまったような孤独感に襲われた。この広い世の中に、味方が誰もいないような気がして来たのだ。それでも、心のどこかには、このイライラに対して冷めた感覚があり、完全には怒り切れない冷静さを感じてもいた。しかし私は、意識的に、開きかけたパソコンのDVDのトレイを、ガチャンと乱暴に力任せに手で押した。すると、DVDのトレイは、ガチャガチャと異常な音を立てて途中で止まってしまった。それを見ていたガンモが、
「あーあ」
と言った。私は、意識的にそれをやったことがわかっていた。しかし、すぐに我に返り、とんでもないことをしでかしてしまったと、DVDのトレイを何度も何度も手動でしまい込もうとしたが、トレイはもう、中には収まらなくなってしまっていた。

 ベッドにいたガンモが起き上がり、トレイの様子を調べに来た。私は、
「ガンモ、ごめん」
と言って謝った。ガンモは私に対して怒ろうとはせず、私たちはすぐに抱き合って、キスをした。そしてガンモは、私が壊したDVDのトレイを、慎重に慎重に直し始めた。DVDのトレイには、ギザギザの歯車のようなものがついていて、そのギザギザが、出し入れを行う機構と繋がっている。ガンモはそのギザギザが、トレイの溝としっかり噛み合うように、力を込めてトレイを一気にしまい込んだ。しかし、そんなことで電動トレイが直るはずはないと私は思っていた。ところが驚いたことに、DVDの取り出しボタンを押してみると、トレイがちゃんと出て来るように直っていた。しかも、今まで通り、トレイをいったん引き出したあと、軽く押すことで、トレイが自動的に中にしまい込まれることまで確認できたのだ。

 「ガンモありがとう」
と言って、私はガンモに抱きついた。何だろう。職場で派遣仲間と対立するときは、ガンモと喧嘩しているときのような、怒りに対する冷静さがない。ガンモと喧嘩をしているときは、まるで「怒っているフリをしているような」感覚なのだ。それに対し、職場で派遣仲間と対立するときは、怒りに対する冷めた感覚がなく、怒り狂う自分を完全に演じ切っている。これが、愛のある喧嘩と愛のない喧嘩の違いなのだろうか。愛のある喧嘩は、自分でこの怒りを創造しているとうすうす気づいていて、本当はそれほど怒っていないはずなのに、ひどく怒っている「フリ」をしている。しかし、愛のない喧嘩では、怒りのエネルギーを炸裂させているようだ。

 今回のガンモとの対立は、お互いの自我を押しつけ合うことによって起こった。私はガンモにどうしてもDVDを観て欲しいという自我があり、ガンモには眠りたいという自我があった。冷静になって考えてみれば、土曜日に仕事に出掛けたガンモが疲れて眠いのは当たり前のことなのに、あまりにも面白いDVDを観てしまったために、ガンモを笑いの世界に引きずり込みたくなってしまったのだった。だからこれは、お互いに自我を持参し続けていた夫婦のはなし。というわけで、自我持参なのだ。

P.S.
ななちゃん、ようこちゃん、あたたかい言葉をどうもありがとう。(^^)

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2005.11.19

人生設計を立て直す

 ここのところ、低迷気味でなかなか調子が出ない。そのせいか、言葉に魂が宿ってくれないのは困ったものだ。それでも、「ガンまる日記」は毎日書くと決めたのだから、私は書いて行く。

 午前中、鍼灸治療に出掛けた。鍼灸院の先生に、先日の検査の結果を報告をした。これまで、筋腫に効果があると言われている鍼灸治療を続けて来ただけに、先生もかなり深刻な顔をされていた。実際、歩行時に痛みを感じたときにお灸をすえてやると、すぐに痛みが和らいで来たので、何らかの効果はあったと思っている。ただ、筋腫の成長のほうが早かっただけのことだ。

 この先、手術は避けられないとして、筋腫だけを摘出してもらうか、子宮ごと摘出してもらうかの選択に迫られていることを話すと、
「人生設計を立て直さなければなりませんね」
と言われた。確かにその通りだ。

 例えば、今後、妊娠・出産を望む選択をしたとして、子供を産むために、筋腫だけの摘出手術を受けたとする。ただし、この選択に踏み切るには、他にいくつもある筋腫が、手術後に育たないという前提条件が必要である。しかも、その手術を行ったとしても、手術後は子宮が荒れているために、一年間は妊娠しないように子宮を休ませなければならないそうだ。となると、今すぐ手術をしたとしても、妊娠できるのは早くて一年後。となると、最短でも四十二歳で初出産ということになる。だから、子供を産んで育てるなら、すぐさま決断しなければならないのだ。

 しかし、何よりも、私は手術が苦手だ。筋腫だけの摘出といえども、出産経験のない私は、開腹手術になるそうだ。想像しただけでも力が抜けて来る。歯医者さんの麻酔でさえ恐怖を感じているのに。とにかく、手術に踏み切れなくて困っている。

 その後、スーパーに買い物に行ったら、二人のお子さん連れの妊婦さんに出会った。彼女の姿を見て、何だか急に涙がこみ上げて出て来た。既に二人もお子さんがいらっしゃるのに、三人目を産もうとしてくださっているありがたさに。

 私は一体どうしたいのか。肉体的なタイムリミットが刻一刻と迫っているというのに、判断力がにぶっているこの時期に判断を下したくないともがいている。

 ネットサーフィンしてたまたま辿り着いたページに、結婚十一年の男性が書かれているブログがあった。そのご夫婦は、既にお子さんが二人いらっしゃるようだが、奥さんが二人目を出産されたあと、再度の妊娠が怖くて、セックスレスになってしまったのだそうだ。生理直前の安全日でさえ、避妊を欠かさないと言う。更に、そうしたブログに書き込まれているコメントのリンクを辿ってみると、妻は日中の子育てでぐったりと疲れているのに、夜になると夫が求めて来て困るなどというトラックバック記事があった。これに対し、男性側の言い分としては、これまで100%自分に注がれていたはずの愛情が、子供が産まれた途端、100%子供に注がれるようになったために、妻の愛情を確認したくて、妻を求めるのだそうだ。

 通常、このような夫婦の事情というのは、隠されたところにある。子供を産んで育てるということは、受け取ることも大きい分、これまでの環境や関係を覆すような出来事も起こって行くのではないだろうか。ただ、すべての夫婦がそうであるとは限らない。こういう記事を書かれている人たちは、失ったものを主張しているのであって、得ているものを忘れてしまっているだけだと思う。

 では、私たち夫婦はどうなのだろう。もともと、二人で一緒にいることが楽しくてたまらなくて、二人の間には子供は必要ないと思っていた。つまり、世の中で言われている、子は鎹(かすがい)のまったく逆の状態である。しかし、この感覚を理解してくれる人は少ない。それに加え、私自身の中に、妊娠・出産に対する恐怖があった。それでも、現在は、この恐怖は取り去られている。ただ、出産したあと、子供を育てるというヴィジョンがどうしても浮かんで来ないのだ。今では、結婚当初には考えられなかった、家庭内に限っての夫婦別動も可能になって来たので、私たち夫婦の間に子供がやって来ることも、子は鎹(かすがい)の反対の状態にはならないだろう。しかし、本当に私は子供を産んで育てるのだろうか。そのヴィジョンがどうしても見えて来ない。それでも、過去の私をご存知の方ならおわかりだと思うが、少なくとも一年以上前の私からすると、ものすごく変化しているのだ。このペースで変化して行くとなると、一年後にはもっともっと変化しているかもしれない。そう考えると、筋腫の摘出手術だけを受けて、変化を待つというのも一つの手ではある。しかし、はっきりとしたヴィジョンが見えて来ないだけに、まだまだ決断できないのが現状である。

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2005.11.18

続・朝令暮改プロジェクト

 朝令暮改プロジェクトに投入されてから四日目。また、派遣仲間の女性と激しい対立をしてしまった。それは、私が質問した内容を、
「何を言っているのかわからない」
と彼女が言って来たことから始まった。プログラムのことでちょっと説明し辛いので、私たちが作っているプログラムを、将来コンビニエンスストアになる建物に例えてみよう。建物に付けられる名前にはいくつかのパターンがあり、わかりやすくするために、LAWSON、ファミリーマート、サンクスとしよう。出来上がった建物は、特定の条件によって、LAWSONの看板が掲げられることもあれば、ファミリーマートの看板が掲げられることもある。その条件を、プログラムの中で判断し、制御するのである。

 通常、プログラムを作るときは、LAWSONやファミリーマート、サンクスといった文字を、プログラムの中で定義する。その定義が、今回の仕様変更により、まったく新しいものに置き換えられたのだ。置き換えられた新しい定義を、LAWSON、ダイエー、そごう、三越としよう。定義だけ見ると、LAWSONは両方に存在しているが、かつてあったはずのファミリーマート、サンクスがなくなってしまっている。しかし、プログラムの中には、ファミリーマートやサンクスを判断する箇所が残っている。これらを、新しい定義に置き換えなければ、プログラムを生成できない。

 そこで私は、ファミリーマートやサンクスは、新しい定義のどれと対応しているのかと彼女に尋ねた。すると彼女は、定義がまるっきり変わったのだから、プログラムも変えなければならないの一点張り。私は、そうじゃなくて、旧定義との対応を知りたいと主張した。そうしなければ、定義エラーになって、プログラムを生成できないのである。

 私は、私の持っている技術を見下しているかのような彼女の態度にカチンと来た。彼女は、「どうしてこんなこともわからないの?」というような口調で、開発言語であるC#(シーシャープ)の仕組みを説明し始める。私は、そんな初歩的なことは知っている。私が知りたいのはC#の仕組みではなく、新しい定義と旧定義の対応だと言った。私と一緒に仕事をしている助っ人メンバーも、私の言いたいことを理解してくれたのだが、私の技術が足りないと思い込んでいる彼女は、どこまでもC#という言語の仕様に話を持って行こうとする。

 大きな声でやりとりをしているうちに、どうやら、「仕様が変わった」というのは、「削除された定義もある」ということだということがわかって来た。定義が「変わった」と知らされていた私は、かつてあったファミリーマートやサンクスの定義が、ダイエーかそごうか三越のどれかに置き換わると思っていたのだ。しかし、実際はそうではなく、ファミリーマートやサンクスは定義の中からなくなり、代わりにダイエーとそごうと三越が追加されることになったらしい。

 そうした仕様変更は、これまでニ年近くも同じプロジェクトに関わり続けて来た彼女にとっては、ごく当たり前のことだったようだ。何故なら、新たに加わったダイエーやそごう、三越といった定義は、彼女たちが開発して来た製品名を象徴する名前だったからだ。私は、そのような背景もわからずに突然投入されたので、プログラムの定義エラーを出さないようにするために、狭い範囲だけを見ていたのだ。

 普段、普通に楽しい会話もできる彼女なのに、仕事の相性がこれほど良くなかったとは驚きだった。私も同じプロジェクトに三年以上いるのだが、同じプロジェクトで長く仕事をしていると、このあたりの感覚がどんどん麻痺してしまう。いつの間にか、自分のやっていることが「当たり前」になり、やがてそれが「基準」になってしまう。これは、同じプロジェクトで関わる人たちが、そこで相対的な関係を結んで行くからだろう。だから、その「基準」から外れる人たちのことを、やっかいだと思ってしまう。

 以前、私たちのプロジェクトに新たなメンバーが加わったときも、私はその手のギャップを感じたことがある。新たなメンバーにプログラムの動作確認を頼むと、私たちが普段検査しないようなことをして、プログラムのバグを見つける。それは、品質向上のためにはとてもいいことなのだが、感覚が麻痺してしまっているために、見つけられると仕事が増えてやっかいだという気持ちを起こさせる。

 彼女との対立は、愛がないだけに、とても後味が悪い。仕事を終えて帰宅してからも、後味の悪い感覚がずっと続いている。どうしてこんなに後味が悪いのか考えてみたのだが、どうやら、対立に対して対立で返した自分に対してひどい自己嫌悪を感じているようだ。つまり、そんな醜い自分が嫌なのだ。

 彼女は今、私の理想的でない鏡としての役割をかってくれている。人のフリみて我がフリ直せというのは、まさしくこのことだ。

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2005.11.17

創造主

 今日は、掲示板に書き込んでくださったてんちゃんのコメントへの返信という形で記事を書かせていただこうと思う。

■No954に返信(てんてんさんの記事)

てんちゃんへ

てんちゃんの突き抜けたような感覚が心地いい。
てんちゃんが体験して来たことに対して、今のような選択ができるなんて、本当に素晴らしいことだ。
私は、そんなてんちゃんと交流させてもらっていることを誇りに思うよ。

それから、私の迷いに関してのコメントもありがとう。
こういうことには触れたがらない人も多いのに、本当にうれしかった。心からありがとう。

> まるみんへ
>
> 海外に住んで想うこと。
> 日本は、あらゆる意味で自由が進んでいる。
>
> 自由になると、人は不安になる。
>
> 不自由な生活だと、意外と人は安定している。
> 日本とは、違うところでゆったりと自由だったりもする。
> 日本人が忘れてしまいがちなものも、たくさん残っている。
>
> 日本は、物が溢れて、生活が便利で
> とても豊かななのに、不安を抱えている人が多い。
> 自由だから、どこに向いて進んでいいのか
> 迷ってしまう。
>
> 迷うってことは、選択肢が多いってことだ。
> いいも、悪いもなく、自由度が高いというのは、
> そういうことだ。

そうかあ、そうだね。
海外に住むと、「そこにあるものを必然的に選択して行かなければならない」けれど、日本に住んでいると、選択肢がたくさんある分、「迷う余裕がある」とも言えるわけだね。

そう言えば、ほんのちっぽけなことだけど、私も思い出した。
街を歩いているとき、のどが渇けば、日本には自動販売機がたくさんあるのに、海外にはなかった。
日本はほんとに治安がいいんだなあと思った。
水にしても、日本は水道水をそのまま飲むことができるもんね。
ローマやパリでは、子供たちが観光客などを相手に平気でスリを働く。
朝、盗まれたものが、お昼頃には蚤の市で売られている。

そういう意味でも、日本は豊かだよね。
子供たちの教育も行き届いていて、生活にもそれほどの差はない。
また、旅行中に荷物を地べたに置いたとしても、すぐさま盗まれたりはしない。

ただ、物価はひどく高いんだろうな。
だから、骨董市なんかに出掛けると、外人さんがとても多い。
きっと、普通のお店で買うよりも、安く手に入るからだろうな。

> まるみんが、自分の身体の治療法について選べるのも、
> 自由度が高い日本だからだなあ。と感じた。
>
> この時代の日本に生まれるということが、
> まるみんや私の生まれる前の選択だったのだろう。

うん、「迷う」ということに関しては、そういう捉え方もできるかな。
ただ、私はいつも、直感で行動するタイプなんだけど、こんなに迷うことって、ほんとに少ないんだよね。
何かをしようとすると、直感が降りて来て、「はい、これ!」と選んでくれるから。
今回、どうしてこんなに迷うのかと言うと、直感が降りて来ないからなんだなあ。

でも、確かに私の生まれる前からの選択だったような気がする。
いろいろな要因が絡み合っているからね。
私自身の抱えていた恐怖と、ずっと二人で一緒にいたいというソウルメイトの学びと。

> 今のまるみんの選択を私は見ている。
> 良い悪いじゃなくて、まるみんがどの道を選ぶのかを
> 見ている。
> ただ見ている。
>
> 私はまるみんと同じ道は歩かないけれど、見ることができる。
> それが、出逢うとことの一つの意味なのかもしれないと想う。
>
> 私の魂の記憶として、ちゃんと残るということだ。

てんちゃんのこういう表現、好きだなあ。
ツインソウル的な愛に溢れている。
同じ道を歩かなくても、決して突き放しているわけじゃない。
単に見ているというよりは、見守ってくれている感覚に近いよ。
どうもありがとう。(^^)

そうだね。
例え同じ道を歩かなくても、相手のなりゆきを見届けるために出会い、それらの行為が記憶に残る。
それは、魂を交差させるということだよね。
記憶に残るというのは、そういうことだと思う。

> 過去において、まるみんが交われなかったと感じた人とも
> 出逢って、交われなかったと記憶されている。
> それが、すごいなあ。って想うんだ。

おお、とってもポジティヴな捉え方だ(^^)
そうだね、交われなかった人たちのことも、私の魂にはちゃんと記録されているものね。
それが、次への課題となるのかな。
もしもまた交わりたいと思えば、交わることはできるんだろうな。
それが起こらないということは、交わりたいとは思っていないということだ。

私たちはいつも、自分に必要な出来事を創造し続けているんだね。
自分が創造しているのだから、交われないキャストを創造したのも私だ。

だとすると、筋腫を創造したのも私だ。
そのほうが都合が良かったんだな、私にとって。

ちーちゃんが、検査の前に見た私が妊娠するというガンモの夢を、意思を越えたメッセージだと言ってくれた。
まだ扉は完全には開かないけど、そこに何かが隠されている気がする。

私は一体、何を創造しようとしているんだろう。
もう少し、創造主である自分と向き合ってみたいと思ってるんだ。
何を創造しようとしているか、はっきりと見えて来たら、また「ガンまる日記」に書かせてもらうね。

てんちゃん、本当にどうもありがとう。

> ようこちゃんへ
>
> ようこちゃんが感じているものが、愛だよ〜!
>
> ようこちゃんが、一生懸命語ったことは
> きっと、お友達の魂に刻ませている。
> そう感じた。

うん、そうだね。
時間はかかっても、きっと、遅れてやって来る。(^^)
ようこちゃんもきっと、創造したんだ。
みんなみんな、創造主なんだ。

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2005.11.16

朝令暮改プロジェクト

 「火の車になっているプロジェクトがあるので、手を貸して欲しい」
上司にそう言われたのが先週のことだった。そのプロジェクトは、C#(シーシャープ)という開発言語で開発業務を行っている。プロジェクト立ち上がり当時はまだ規模の小さなプロジェクトだったが、いつの間にか大きなプロジェクトに成長し、その都度、新たな人員を割り振って来たが、ここに来て、とうとう開発が追いつかなくなってしまったらしい。そこで、私の参加しているプロジェクトから、私の他にもう一人、助っ人としてそのプロジェクトに参加することになった。

 世界にいろいろな母国語があるのと同じように、ソフトウェア業界にも、いろいろな開発言語がある。アマチュアの人たちにも浸透しているDelphiやVISUAL BASICをはじめ、アセンブラ、C、C++、Java、C#などがある。その中でも、C#は比較的新しい言語で、私もまだそれほど使いこなせるわけではない。しかし、少しでも知っているということで、火の車のプロジェクトの助っ人として投入されたわけである。私と一緒に火の車プロジェクトに参加したもう一人の人は、C#をまったく知らない。ただ、CやC++を知っているので、何とかなるだろうという上司の判断らしい。これは、フランス語やドイツ語を知っているので、イタリア語も何とかなるだろうという感覚に近い。

 さて、そのプロジェクトだが、一部の人が朝の六時まで仕事をするような凄まじい状況になっているという。何故、そのようなことになるのか。私も参加してみてわかったのだが、とにかく、仕様がコロコロ変わるのである。まさしく、朝令暮改である。実は、そのプロジェクトは、いろいろな開発部隊が作り上げたものを部品として使っている。その部品が変われば、そのプロジェクト内のプログラムにも手を加えなければならない。そんなことが、実に数時間おきに発生している。仕様が変わりましたというメールがばんばん飛んで来る。これを、家を建てるプロセスに例えると、柱の位置や数が変わったために、既に塗り終わったはずの壁をもう一度はがして塗り直すようなものだ。これでは、全体の作業量もわからないし、一体、いつになったら終わるのかも推測できない。それにもかかわらず、プログラムの作成期限が決められている。

 しかも、このプロジェクトは、非常に新しい試みなので、私たちがこれまで蓄積して来た技術があまり役に立たない。これまで私が知らなかった技術ばかり登場する。これをチャンスと思うか、地獄と思うかは、私の向上心次第なのだろう。

 実は、プロジェクト参加二日目にして、ようやくそのプロジェクトでやっていることが見えて来た。そして、自分のペースが掴めそうだと感じた。しかし、出勤してみると、やり方を変えたいので、作り直してくださいというメールが届いている。築き上げたものが崩れた。下降と上昇の繰り返し。ああ、この感覚、何かに似ている。

追記:

 技術のことで、同じ派遣仲間と対立になってしまった。彼女は、そのプロジェクトの元からのメンバーで、そのプロジェクトに一年以上も携わり、蓄積して来たものがある。以前、「思い込み連鎖」にも書いたように、私たちの参加しているプロジェクトは非常に保守的で、古くからの製品をずっと保守し続けている。つまり、保守にパワーがかかっているため、新しいことにチャレンジできる余裕がない。しかし、今回私が送り込まれたのは、新しい試みに挑戦しているプロジェクトだった。そのため、同じC#という言語を使っていても、私たちが開発して来た製品とはまったく体系が異なっている。それは、同じ日本国内にも方言があるようなものだ。一年前の夏休みに九州に出掛けたが、鹿児島のローカル線の中で地元のおばあちゃんがしゃべっていることを理解できなかった。それと同じように、私は彼らの使っている言語の意味が理解できない。

 派遣仲間の彼女が、私に説明をするための時間をたくさんさいてくれるのだが、そのことが、プロジェクト内で問題になっているらしい。彼女が私に説明することを、私たちのチームで理解できる人はいないのかと彼女の上司が言っていると言う。私はカチンと来て、こう言ってしまった。
「確かに忙しいのはわかるけど、よそのプロジェクトのメンバーまで巻き込んで手伝ってもらっている状況なのに、そんなことを言える立場なの?」
と。彼女は、
「それは、上司が言ってることだから、私たちがここで話すことじゃない」
と言ったが、何だかもやもやした気持ちが残った。

 ああ、それにしても、忙しさというものは、ここまで人を醜くしてしまうものなのか。

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2005.11.15

続・縦の学びと横の学び

 この記事は、現在、ちょっと落ち込み気味のようこちゃんに捧げることにしよう。というわけで、今回も、ようこちゃんが掲示板に書き込んでくださった記事への返信という形で記事を書かせていただこうと思う。

■No947に返信(ようこさんの記事)

ようこちゃんへ

こういうコメントを読むと、私は放っておけなくなるんだ。
だから、またここに書かせてね。

> まるみんへ
> こんにちは。
> 日記にアップしてくれてありがとう。

いえいえ、こちらこそ。
ようこちゃんの書きこみを読ませてもらうと、
私の学びにとても近くて、ようこちゃんの言葉を借りて、私の中にあるものを引き出したくなってしまうんだ。

> 念願かなって、まるみんと初めてソウルメイトを語れた喜びにふるえているようこ
> です。
> 日記を目にした、多くの人が、何かを感じたり、考えてくれたらいいいですね。
> 老夫婦の事から。

うんうん。私もそう思うよ。
そして、私も、ようこちゃんとソウルメイトの愛を語れる喜びに打ち震えているよ。
もともと、私が「精神世界のはなし」を立ち上げたのも、
ソウルメイトについて書きたいと思ったからだった。
ところが、書いているうちに、ツインソウルと出会った。
そして、私がツインソウルについて書き始めると、
ツインソウルに出会ったという人がたくさん集まって来てくださった。
私は、ツインソウルのことも書きたいけれど、
ソウルメイトのことをもっともっと語りたいという気持ちも強かった。
そのための「鏡」を、ずっと探していたと思う。
でも、なかなか巡り合うことができなかったんだ。

私がツインソウルについて書き始めた頃、
掲示板では、夫婦間系は冷え切っているのに、
「ツインソウルと一緒に過ごせなくて辛い」
という書き込みが極端に多かった。
彼女たちを「鏡」にするのは、
前世の自分を見ているようで辛かった。

私はね、いつも愛を感じながら一緒に過ごしているご夫婦と対話がしたいと思っていたんだ。
だから、「ガンまる日記」を書き始めた。
私を見つけて! と思っていたのかもしれない。

そしたら、ツインソウルと一緒に過ごしている人たちが、
「ガンまる日記」を支持してくださった。
それがね、とてもうれしかったんだよ。
ソウルメイトの愛だとか、ツインソウルの愛だとか、
愛には区別なんてないんだなあと思ったんだ。

> でも、今日は、ちょっと、ペースダウン気味。
> ああ、やっぱり、ソウルメイトの事はわかってくれないのかなあ・・・・・。
> てんちゃんは、ようこの感覚を、わからないけれど、いいよ!
> といってくれていたけれど・・。

ソウルメイトは「共感」ベースで幸せを感じる存在だから、
「共感」を喜びの基準にしてしまいがちなんだよね。
そして、共感の喜びを知っているだけに、
他の人との関わりで共感が得られないときは、
苦しくなってしまうことも多々あるね。

でもね、私も「ガンまる日記」を書き始めて思ったけど、
もともと愛がある人は、同じ経験がなくても、
愛を十分に感じてくれると思うの。
ただ、経験そのものは、その人のものだから、
誰かの経験談を読んで、何かを感じることはできても、
経験そのものとはイコールにできないだろうと思う。

例えば、私は映画のレビューをときどき書いているけれど、
その映画を実際に観ていない人が、
私の書いたレビューを読んでくれたとしても、
映画を観たことにはならないと思うのね。
ただ、レビューがそれなりに面白ければ、
実際にその映画を観ていなくても、
読んでくれた人の中に、何かが残って行くとは思う。

>>うん、ありがとう。
>>私も、ようこちゃんでよかったあ。
>>きっと、二人で一緒にいることが大きな喜びになっている人には理解できるだろうと思う。
>
> そうなの。この感覚は、そういうパートナーでなくては、わからないのかな。
> 別に、パートナーにがんじがらめとかそんな感覚じゃないのよね。
> でも、わからない人は、そんな風に、かんじるのかなあ・・・。
> ソウルメイトのソウルメイトも、横つながりになってくすばらしさもあるのにね。
> ようこは、ここに来ると、感覚の世界になってしまうから、
> それでもって、書き込みしていくと、
> 精神世界を追求している、ここの、多くの皆さんは、だいたい、
> ようこの言っている事をつかんでくださっていると、思うのに、
> やっぱり、そうでない人には、伝わらないのね。
> 少し、リアルの人に、手厳しくお批判をいただいて、
> パワーダウンのようこです。ふ〜。

ようこちゃんの、「わかって!」という気持ち、とても良くわかるよ。
それは、私が「ガンまる日記」を書き続けている気持ちにとても近いと思うの。
そんな私が言うのも何だけど、私は、この「わかって!」という気持ちが強過ぎて、
醜い対立をしたことがあるんだ。
確か、以前にも「ガンまる日記」に書いたことがあったと思う。
相手はやっぱり、ソウルメイト特有の、
一緒にいたいという気持ちをなかなかわかってくれない人でね、
私の体験している愛はこうだ! と言うと、
「まるみさんの言っていることは、まるで子供みたい」
と言われた。
ただただ一緒にいたいという純粋な気持ちを、
「まるで子供みたい」と表現された。悲しかったね。
しかし、一方で、私は、彼女が愛だと主張するものを理解できなかった。
夫婦の間に境界や秘密を作り、
それを「個の尊重だ」などと表現していることが理解できなかったんだ。
それで、お互いの体験している愛の主張の対立へと発展してしまったんだ。
とてもとても醜い対立だったよ。

その対立を通して思ったことは、まず、
私たちは、誰しも、
自分の体験している愛を否定されることは、
とてつもなく恐怖だということ。
その恐れが、醜い対立を引き起こしたと言えるかな。

更に、「わかって!」と叫んでいるとき、
実は、自分も相手のことを理解してはいない。
だから、吸収の行われない醜い対立に発展してしまうんだ。

だけど、実際にその愛を体験していなくても、
何かを感じ取ってくださっている方たちとは、
そんな醜い対立には発展しない。
自分が体験している愛とは異なっていても、
ちゃんと愛を感じてくださる方はいるよ。

でも逆に、私自身、過去に、
これは愛だ!
と感じていたことが、
もう、愛だと感じられなくなってしまったことが、
いくつかあるんだ。
昔観た映画で泣けなかったり、
というのはその典型的なパターン。
それは多分、私の学びが変化したんだろうな。

そうでなくて、
誰かの愛の経験に感動できない場合は、
その人が、感情をブロックして、
傷つかないように自分を守っている可能性もあると思う。
例えば、「ガンまる日記」でも使っている歓喜天の写真。
これを見て、うらやましいとか、ほほえましいと言ってくれる人がほとんどだけど、
中には「気持ち悪い」と言う人もいる。
何らかのトラウマとか、コンプレックスがある場合に、
感動できないこともあるようだよ。

> そうじゃないんだよ!
> ソウルメイトをわかってほしい。
> 横つながりもあるんだよ!!
> あなたもソウルメイトなの。
> 感覚があるから、ツインであり、ソウルメイトでしょう?
> 悲しくなったよ。
> 伝わらない悲しさです。。。。
> なぜ、もっと、素直になれないの?

うん、わかるよ。
でも、ここで、発想の転換。
私たちの魂は、学びに対して貪欲にはなれないから、
一度にたくさんのことを学び切れないんだと思う。
だから、横に繋がっているソウルメイトたちが手分けして、
いろいろな愛を分担して体験してくれている。
素直な愛も、素直じゃない愛も。
あとで一つになって、自分の体験として吸収するために。

それから、横に繋がる愛で思い出した。
以前、縦の学びと横の学びという記事を書いたけれど、
例えば、ソウルメイトの愛は横の学びで、
ツインソウルの愛は縦の学びだね。
でも、もしも誰かが、
「横の繋がりはこんなにも素晴らしいよ!」と主張すれば、
「縦の学びもあるよ!」と言いたくなる人も出て来るんだと思う。

>>一緒にいられないことのほうが悲劇だということも。
>
> ソウルメイトは、やっぱり、一緒にいなくては崩れてしまうのかしらね。
> だとしたら、ソウルメイトの悲劇を、今、私は、初めて、かんじているのかもしれない・・・・・。ふ〜。

そう、その通り。
ソウルメイトの弱点は、そこだね。
共感ベースの関係に喜びを感じる気持ちが大きいだけに、
共感のない関係に、とことん弱いんだ。
私が醜い対立をした相手とも、まさしくそんな関係だった。
何を話しても、話がまったく交差しなかったね。
だから、対話を続けて行くことが苦しかったなあ。

>> そうそう! 本当にそうなの。
>>二人の意思がいつも近いところにあるから、こういうことが実現できるんだよね。
>
> この感覚。そうなの。
> だから、自分を良くわかっていてくれているとも感じるし、
> それが、ここちいいのよね。

その通り。
更には、相手の痛みまで自分のものになってしまうから恐ろしいよ。(笑)

>>私たち夫婦は、一緒に全国の鉄道を乗り潰ししてるでしょう。
>>私にとっては、あれも大きな喜びなんだよね。
>>ガンモと同じことをしている自分が好きだし、
>>好きなことで生き生きしているガンモも好きなの。
>>愛する人の好きなものに、自分も参加しているという喜び。
>>ガンモが私の好きなアーチストに足を運んでくれることも喜び。
>>二人でお揃いの服やお揃いのリュックを背負うことも喜び。
>
> やっぱり、ここをわかってくれるのは、まるみんだけ?
> もし、こんなご夫婦が側にいたなら、外部の人はちか寄りがたい?
> 私は違うね。
> 仲良ししてていいね!って
> 私達も入れて!って
> いうけどね。
> でも、やっぱり、てんちゃんも言っていたように、ようこの感覚で、愛
> を感じて、語っているから、わからない人には、わからないのかしらね。

どういう表現を愛だと思うかは、本当に人それぞれなんだろうね。
やっぱり、愛に対して閉じているか開いているか、というのも大きいのかなあ。
これは、愛に対するコンプレックスがないという意味ね。

うん、私も、「仲良しでいいね」って言うよ。
あまりにも仲が良かったら、金箔入りのテレフォンカードをあげちゃうね。(笑)

>>うん、おそらくだけど、決して、周りも手を差し伸べなかったわけじゃないと私は想像するよ。
>>でも、老夫婦の間にあるとても強い結びつきは、周りの関係とのギャップを生み出してしまったのかもしれないね。
>>私ね、良く思うんだよ。
>>それはね、ガンモとの間に築いた関係の心地良さと、例えば仕事仲間など、心を交わさない関係とのギャップ。
>>一度、そうした関係の心地良さを知ってしまったら、そうじゃない関係とのギャップを埋めて行くのはなかなか難しいことだと感じている。
>
> そう!今、私はこの状態なの。
> 悲しくなるよ。
> わかって!!
> 涙がでてくるよ。
> がんじがらめとか、そんなんじゃない!!

自分の学びを理解してもらえなかったら悲しいよね。
しかも、良き理解者に限って、
何で自分の近くには居てくれないんだろうね。

ずっと以前に、『第十の予言』を読んだときだったかなあ。
ソウルメイトたちって、普段は散らばって存在しているものなんだなあと思ったんだ。
『第十の予言』では、何か大きな目的を達成するために、
普段、散らばっているソウルメイトたちが、あちこちから集まって来るんだよね。
そう考えると、ソウルメイトが身近に居てくれるというのは、
本当にありがたいことだと思う。
もしかすると、稀なことなのかも。

そういう意味で、ソウルメイトと溶け合った経験がないために、
理解できないという人もいるかもしれない。
でも、溶け合うのとは別の方法で愛を体験していれば、
溶け合うことの素晴らしさを否定したりはしないと思うよ。

>>だから、時には周りの人たちが、二人の結び付きの強さに太刀打ちできないこともあると思うんだ。
>
> そうなのね。
> ここなのだと思う。
> これは、例えば、仲間のソウルメイトも太刀打ちできない感じをうけるのかしらね?
> 二人はそんなんじゃないのにね。
> 知らず知らず、結びつきが強くなっているのかな。

ううん、これは難しいなあ。
お子さんがいなくて、ずっと二人で暮らして来られたご夫婦でしょう。
それを想像すると、お二人への深い愛情なしには入り込めない気がする。
しかも、直接的な問題は、介護の人手が足りないことではなくて、
一緒に病院に入れなかったことなんじゃないのかな。
どうもそんな気がして来た。

>>例えばだけど、二人で一緒にいることの喜びをまだ味わっていない人は、
>>病院に入ったほうがいいって、平気で言えちゃうと思う。
>>でも、そこで二人で一緒にいたいと思っている老夫婦とはギャップが生まれる。
>>ギャップがあると、良かれと思って言ったことなのに、お互いに理解し合えないという状況が起こりやすい。
>
> まさしくそう。
> 今のようこは、このギャップを突きつけられています。
> なぜ、そんなに、ひねくれちゃっているのかなと。

ひねくれちゃってる?
その人は、ようこちゃんにどんなことを言ったんだろう。
気になるなあ。

>>人はそれぞれ、自分の愛の経験から、状況を判断するからね。
>>もしかしたら、周りの人たちとの間に、そういうギャップもあったのかもしれない。
>
> これは、ソウルメイト夫婦の悲しみになってしまうみたい。
> まるみんなら、わかってくれるよね。
> この結びつきを。

うん、わかるよ。
ソウルメイト夫婦の結び付きがわかるから、
そして、世の中にも伝えて行きたいから、
こうして「ガンまる日記」を書いているんだよ。

> それと、仲間のソウルメイトは、横つながりになれるのを、感じていたのに、
> 繋がれないのは、やっぱり、ソウルメイトではなかったのかな?
> やっぱり、これは、私だけの独りよがりの感覚なのかもね。
> そうじゃないのに!!

そうか、ようこちゃんをわかってくれなかった人は、
ようこちゃんがソウルメイトだと感じていた人だったんだね。
いや、理解するのに時間がかかっているだけなのかも。
お互いに、相手を理解したいと思ったら、
追試が起こって行くよ。
お互いを大切に想う気持ちが強ければ強いほど、
追試はすぐにやって来る。
そのときが、再度、お互いの理解を深めて行くチャンスだと思うよ。

> でもいい。
> 繋がるものは、繋がるし、
> 繋がらないものは、繋がらないのだから。
> 神様は、すべて、ご存知なのさ!!
>
> まるみん、今日はごめんなさい。
> 独り言の多いようこでした。
> 実は、目いっぱい、落ち込んでいるの。
> まるで、蛇のようにね。
> パワーアップするまで、しばらく、時間がかかりそうです。。。
> ふ〜。

ようこちゃん、力強い書き込みをどうもありがとう。
どうか、ごめんなさいなんて謝ったりしないでね。
ようこちゃんの落ち込む気持ちもわかるけれど、
実は、そうした落ち込みを克服して行くことも、
ソウルメイトと一緒に過ごし、
溶け合う感覚を知っている人たちの共通の課題だね。
そう、共感の枠を越えるという課題。
自分の中にないものを取り込んで行くという課題。

私の場合は、醜い対立をした相手とは疎遠になってしまったよ。
だから、ようこちゃんには、
私と同じ道を歩んで欲しくないなあ。
だって、ようこちゃんは、その方のことを、
ソウルメイトだと思えるくらい、
身近に感じているんでしょう?
次の追試のチャンスを待ってみてね!

前に勲章の話をしたと思うけど、
理解し合えない関係を修復したり、
対立を乗り越えて行くのだって、
立派な勲章だからね。

元気出してね!

※きのうの記事を読んで、メールをくださった皆さん、ありがとう。
とてもうれしかった。
お返事、書かせてもらいます。

※きのうから、超多忙なプロジェクトに、助っ人として投入されてしまいました。
そのため、メールや掲示板の返信が、これまでよりも一層遅れてしまいそうです。
皆さん、ごめんなさい。m(__)m

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2005.11.14

東洋医学の敗北か

 今回の記事は、今の自分と向き合うために書くので、内容がどうであれ、どうか皆さんはご心配なきよう。いわば、自分の気持ちを整理するためと、記録のために書くようなものだから。

 半年に一回の検診のため、仕事を休んで産婦人科に行った。去年の夏の健康診断で子宮筋腫の疑いがあると言われ、地元の病院へ足を運んでから早一年余り。地元の病院では、エコー検査を行い、直径二.五センチから五センチの子宮筋腫が四つあると言われた。手術して切除するしか方法がないと言われ、手術を避けたい一心から、漢方薬を処方してくれる別の病院を探し当て診てもらったところ、MRIの検査で直径七センチの筋腫をはじめ、直径数センチほどの筋腫がいくつも見つかった。医師には、いろいろな治療法を提示していただいた。しかし、西洋医学的には何もせず、経過観察という選択を取って来た。

 子宮筋腫は、女性の四人に一人は存在しているというポピュラーな婦人病である。生理痛が特に激しいとか、出血が多いなどの症状がなければ、筋腫を抱えたまま閉経を迎えても差し支えない。だから私は、西洋医学的な治療はせずに、鍼灸治療や漢方薬などの東洋医学的な治療を続けて来たのだ。

 実際、鍼灸治療や漢方薬のおかげで、私の下半身の冷えはずいぶん緩和されて来た。それまで、私の下半身はいつも冷たく、夏でもカイロを手放せなかったくらいだった。それが、今では腹巻だけでしのいでいる。まだまだ冷たい部分はあるものの、手を当てるとあたたかな体温を感じる。しかも、あれだけ重かった生理が漢方薬のおかげで軽くなり、また、出血の量も少なくなって来た。以前のように、一時間に一回の割合で、タンポンを取り替える必要もなくなって来たのだ。この変化は著しい。毎朝、欠かすことなく十分間煎じ薬を作っているし、旅行先にも煎じ薬を持参している。また、歩行時に痛みを感じると(私の場合、歩くときに内蔵に何かがつきささるような感じがある)、お灸をすえれば緩和されている。これらの東洋医学的方法で、何とか筋腫の成長も食い止められると思っていた。

 しかし、半年ぶりのエコーでわかったことは、私の筋腫は、一年前よりも成長しているということだった。どうやら、一番大きいもので、直径九センチはあるらしい。それが膀胱を圧迫しているので、トイレも近い。医師にも、
「トイレが近いでしょう」
と言い当てられてしまった。そして医師は更に、
「そろそろ何か手を打ったほうがいいでしょう」
と言った。これまで、西洋医学的には何の治療もしていなかったからだ。

 さてさて、どうするか。私が真っ先に思い浮かべたのは、ホルモン療法だった。ホルモン療法というのは、生理を止めるために、月に一回、女性ホルモンを抑制する注射を打つことである。医師は言った。
「でも、注射は費用がかかりますよ。一回、一万五千円」
「一万五千円?」
と私は繰り返した。月に一回の治療だけで、あとは何もしなくて良い分、治療費がかさむのだそうだ。更に、生理を抑制する注射は、生理痛が特に重い人にとっては、生理が来なくなるので大変ありがたいことらしい。しかし、私のように、生理痛がそれほど重くない人にとっては、一回一万五千円の注射はあまりありがたくないようだ。その注射を六ヶ月続ければ、筋腫の体積は六〇パーセントに減ると言う。ただし、注射をやめたあと、また元の大きさに戻ってしまう人が多いのだそうだ。

 私が困っていると、以前と同じように、
「今後、妊娠を希望されるかどうかで、筋腫だけを切除するか、子宮を全摘するかを考えられたほうがいいのではないかと思います」
と言われた。やはり、筋腫がここまで成長して来ると、手術という選択は避けられないようである。
「一度大きくなった筋腫は、小さくはならないのですか?」
と医師に尋ねると、
「はい、小さくはならないですよ」
という答えが返って来た。

 しかし、東洋医学では、整体や鍼灸治療で筋腫が小さくなったという例があるらしい。以前、愛知県の整体師さんを訪ねたときも、整体で筋腫は小さくできると言われたし、鍼灸医院の先生の話でも、筋腫が小さくなった例があると聞いたことがある。また、漢方薬でも、比較的小さい筋腫なら、もっと小さくできると言われている。しかし、大きな筋腫は、漢方薬の範囲ではないらしい。おそらく、整体や鍼灸治療で小さくできるという例も、二センチや三センチなどの、比較的小さな筋腫のことなのだろう。もしかしたらそれは、単に誤差の範囲かもしれない。

 ところで、ネットを検索していたら、こんないかがわしい本を見つけてしまった。

日本初 子宮筋腫が手で小さくなる―29の症例で見る治療現場の実際と病気予防のための「小松式健康管理法」

私は、はっと思い、この本を購入しようかとも思ったのだが、これらの本のレビューに一つ一つ目を通してみると、何とも凄まじいことが書かれている。私は、それら一つ一つのレビューを読んで、憤りに近いものを感じてしまった。筋腫を小さくすることが、悪質な商売にまでなっているとは・・・・・・。しかも、筆者は、何度も何度も同じような内容の本を出版し続けている。このようなことがまかり通っていいのだろうか。私には、藁をもすがる思いでこの本の著者を頼りにした読者たちの気持ちがわかるだけに、こうして商売にされてしまうことが痛ましい。こうした商売目的でなくても、保険の効かない漢方薬や鍼灸治療であっても、それなりにお金はかかる。東洋医学の効果的な治療に対しては、もっともっと保険が適用されてもいいのではないかと私は思う。鍼灸院の先生に尋ねてみたところ、鍼灸治療でも、西洋医学の医師が適当だと認めれば、保険が適用されることもあるらしい。こうした制度が一般化されていないために、商売目的のいかがわしい治療が野放しになってしまうのかもしれない。

 私は今後、どのような選択を取ることになるのだろう。おそらく、このまま行けば、手術は避けられないだろう。それとも、もっと別の方法であがいてみるか。もしも仮に手術を受けるとしたら、私はどちらの手術を受けたいのだろうか。子宮全摘なのか、それとも、筋腫だけの摘出なのか。手術にかかる時間を考えると、筋腫の多い私は、子宮全摘のほうが短くて済むらしい。

 ああ、どう考えても、今の私には決められない。それが答えだ。とにかく、手術がいやだと思っていることは間違いない。だから、もしも手術を受けなければ、快適な生活が送れないような状況なら、一回の手術で済ませるために、子宮全滴手術を受けることになるのだろう。しかし、果たしてそれでいいのだろうか。どうしても、私にはわからない。一年前からすれば、心も身体も変化して来ているはずなのに、私の心や身体の変化と、筋腫の成長は、同期を取ってくれていないように思える。

 私自身、このような形で子供を産むか産まないかの決断をすることになろうとは思ってもみなかった。しかし、まだタイムリミットではない。だから、考える時間は十分ある。

※ようこちゃんへ

コメントありがとう。でもね、きっと、私がすごいのではないよ。私は、男女の愛に関してとりわけ厳しい考えを持っている。そんな厳しさに、ようこちゃんも、ずっとシンクロし続けてくれた。だから、ここに来て、いろいろな変化が起こっているのだと思う。対話をする人たちは、みんな自分の鏡なんだと思う。ようこちゃんは、こんな厳しい私という鏡に向き合ってくれた。何だかね、最近、なかなかコメントに返信できないでいるけど、みんなの変化がうれしくてたまらないよ。

※てんちゃんへ

お帰り! そして、おめでとう! 一段とパワーアップしたてんちゃんをびんびん感じるよ。こうなることを、ちーちゃんが予測してたんだよ。てんちゃんはきっと、痛みを解放するだろうって。それが、本当に起こった。てんちゃんが新たな段階に入ったこと、私はうれしくてたまらない。それにしても、自分自身と向き合うということは、何てやっかいなことなんだろう。最近、そんなことをひしひしと感じているよ。自分自身から逃げなかったてんちゃんは、こんな素晴らしいご褒美を手にしているというのに、実践するのは難しいことだよね。

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2005.11.13

映画『恋人たちの予感』

 メグ・ライアンの『恋人たちの予感』を観た。何年か前にテレビで観て、とても感動した映画だ。この映画では、友情で結ばれた男女が、十一年もの時を経て、生涯の伴侶へと変化して行くプロセスがおもしろおかしく描かれている。

 主演のビリー・クリスタルとメグ・ライアンの息が驚くほどぴったり合っている上に、お互いに言いたいことをずばずばと言い合っていて、観ていてとても気持ちがいい。二人の考え方はまったく異なっているのだが、どういうわけか、卓球選手の手にかかったピンポン玉のように、会話が途切れることなくポンポン続いて行く。まったく、相性がいいのか悪いのかわからない関係である。この映画が公開された頃、メグ・ライアンはまだそれほど有名な女優さんではなかったらしい。

 二人がお互いの友人同士をそれぞれの恋人として付き合うことを前提に紹介し合い、四人で会食するシーンがあるのだが、どういうわけか、ビリー・クリスタルの友人とメグ・ライアンのカップル、ビリー・クリスタルとメグ・ライアンの友人のカップル、ともに会話がはずまない。一度投げた会話のポンポン玉が、ストンと真下に落ちてしまうのだ。その代わり、二人の友人同士が会話を始めた途端、会話のピンポン玉が復活する。そして、結局のところ、二人の最初の計画とは裏腹に、二人の友人同士が結ばれることになる。

 意見がまったく異なっているにもかかわらず、会話が途切れることのない関係と、意見が異なっているがゆえに、会話が途切れてしまう関係。二つの関係の対比から、以前、ちーちゃんが掲示板に書いてくれた「引き合う力」というものを想像せずにはいられない。引き合う力が強ければ、例え意見が異なっていたとしても、会話のピンポン玉は果てしなく返し続けられる。しかし、引き合う力が弱ければ、会話のピンポン玉を受け取ることさえ苦痛になり、やがて、ぽとりと落としてしまうのだ。

 ふと思ったのだが、もしかすると男女に限らず、すべての人間関係の間には、知らず知らずのうちに化学結合が起こっているのかもしれない。意見がまったく異なっているにもかかわらず、会話が途切れることのない関係には、ツインソウルを思わせるような陰陽のイオン結合が、そして、共感の多いソウルメイトのような関係には共有結合が、それぞれ起こっているのではないだろうか。私は文系出身なので、理数系はちょっと苦手だかったが、化学結合を人間関係に例えてくれればわかりやすかったのにと思う。

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2005.11.12

ガンモの人生設計

 私は毎週土曜日、日曜日と祝日が休日だが、ガンモはときどき仕事のことがある。ここ二年ほどの間、特に出掛ける予定のない土曜日の午前中は、私は鍼灸医院で治療を受けている。待機メンバー(企業でトラブルが発生すると、コールセンタから呼び出しが掛かる当番)だったガンモは、急な呼び出しが入り、出掛けて行った。私が鍼灸治療から帰る頃、ガンモに電話を掛けてみると、ちょうど仕事を終えて帰宅中だと言う。そして、私がマンションに帰り、エレベータを呼び出したその瞬間、仕事を終えたガンモがマンションのエントランスに入って来た。まさしくグッドタイミングである。こうしたことが起こるのは、二人の気持ちが近いところにある証拠である。

 それから私たちは、休日の午後を自宅でのんびりと過ごした。私は、先日カットしたばかりのガンモの髪の毛がとてもかわいいので、ときどきガンモの頭を抱え込んでは、ぐりぐりした。こうして、長い時間を夫婦水入らずで過ごせるのは、とても喜ばしいことだ。

 ガンモが、
「俺たちに子供ができる夢を見た」
と言う。ガンモは夢の中で、子供が生まれるとなると、人生設計を変えなければならないと思ったらしい。
「これから子供を産んで育てるとなると、六十五歳まで働かなきゃいけなくなる。これは大変だ」
とガンモは言う。これは夢ではなく、現実のはなしだが、実際、ガンモの会社は、六十五歳まで定年が延びたそうだ。しかし、五十歳になったら、管理職以外は関連会社に出向または転籍させられ、給料は五十パーセントカット、その分、仕事は十パーセントカットになると言う。しかし、これは、「現在」の延長線上にある「未来」であって、これから少しずつ景気が回復し、少し先の「現在」が変われば、また違う「未来」を創造することができるのではないかと私は思っている。

 十二月になると、一泊二日でガンモの職場の慰安旅行があると言う。
「私は呼んでもらえないの?」
と訪ねると、
「そういう制度は、うちの会社にはないんだよね。昔はあったんだけどね」
とガンモは答える。もっと景気の良い頃は、会社主催の家族パーティーなどがクリスマスに開催されていたそうだ。しかし、今は何が何でも経費削減の時代。景気が良かった頃、今のような状況が訪れることなど、一体誰が予想し得ただろうか。そう考えると、やがて景気も上を向いて来る可能性だってある。そんな気がするこの頃である。

 「ところで、夢の中で生まれた子供は、男の子なの? 女の子なの?」
と訪ねると、
「いや、生まれたわけではなくて、まだおなかのなかに居ただけだった」
とガンモは答えた。ガンモがこんな夢を見るなんて珍しい。私でさえ、見たことがないのに。果たして、ガンモの夢は正夢になるのだろうか。もしも正夢になるのだとしたら、ガンモには、六十五歳まで働いてもらわないと困ってしまう。

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2005.11.11

木々は語る

 仕事を終えたあと、大急ぎで帰宅した。雨が降っていたので、ちょうど自宅近くで仕事を終えたガンモに車で迎えに来てもらい、そのまま地元の回転寿司屋さんへと車を走らせた。今日は、ガンモの仕事がようやく一段落ついたので、その打ち上げだと言う。と言っても、回転寿司屋さんには、打ち上げでなくても良く足を運んでいるのだが。

 比較的早く帰宅できたので、床屋さんごっこをして、しばらく伸び放題だったガンモの髪の毛をカットした。ここのところ、ガンモの帰宅があまりにも遅かったので、髪の毛がかなり伸びていることに気がついてからカットするまでに、ずいぶん時間がかかってしまったのだ。髪の毛をカットしたあとのガンモは、すっきりした様子でとてもうれしそうだった。私は、髪の毛をカットしたあとのガンモを見ると、すりすりしたくなってしまう。とにかく、とてもかわいいのだ。あまりにもガンモがかわいいので、家の中ですれ違う度に抱き合って、すりすりしている。

 ところで、今月、広島に行くことになっている私たちだが、ガンモが宮島に行きたいと言っている。私は、浪人時代(と言っても、現役で入った大学の休学中)に広島に住んでいたこともあり、宮島には何度か足を運んだことがある。宮島にある厳島神社は、カップルで行くと別れるというジンクスがある。何でも、厳島神社の神様が女性の神様で、カップルで行くとやきもちを焼くのだとか。神様がやきもちをやいて、カップルを別れさせるなんて、そんなばかばかしい話はないだろう。

 確か、出雲大社にもそのようなジンクスがあったが、夫婦で訪れるのは神様が喜んでくださるらしい。実際、出雲大社に足を運んでみたところ、仲の良さそうなご夫婦が目立っていた。ネットで調べてみると、厳島神社も、家族でお参りするのは良いと書かれている。誰が言い始めたのかわからないが、私の解釈では、スピリチュアルな場所に足を運ぶことにより、本来の自分を取り戻して、お互いに、自分にとって本当に相応しい相手かどうかを見極めるようになるのではないかと思う。

 私は、これまでに、有名どころと言われているあちこちの神社を訪れて来たが、神社で神々との対話を試みるのではなく、神社にある木々が生き生きとしているかどうかを感じ取っている。そういう観点で参拝してみると、有名どころと言われている神社でも、木々が生き生きとしていない神社もある。私が最も好きなのは、名古屋の熱田神宮で、その次が出雲大社だ。熱田神宮や出雲大社の木々は、参道を歩く私たちに、「またおいで」と優しく語り掛けてくれるかのようだ。だから、また訪れたくなるのだ。果たして、宮島の厳島神社の木々は、私たちに語りかけてくれるのだろうか。

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2005.11.10

続・焼却炉で亡くなられた老夫婦

 きのう取り上げた焼却炉で亡くなられた老夫婦の記事に関して、ようこちゃんが掲示板にコメントを書き込んでくださったので、今日は、その記事への返信という形を取らせていただきたいと思う。

■No929に返信(ようこさんの記事)

ようこちゃんへ

コメントありがとう。

> まるみんへ
>
> こんにちは。
> 今日も来てしまいました。
> 昨日、レスした後、ずっと気になっていたのね。老夫婦に記事の事。
> それで、新聞、開いたら、ちょうど、その記事がのっていて、
> おお、と思い、よくよく読んだら、自分のここに書いた事、少し、不謹慎
> だったかな、と思ったのね。
> でも、まるみんのレス読んだら、安心しました。

うん。気にかかるよね。
実を言うと、私も記事を書いた直後は、少しだけ葛藤があった。
自分の書いたことが、不謹慎なんじゃないかと思ったりもした。
でも、いったんアップしたあと、そのまま仕事をして、
夕方の休み時間に自分の書いた記事を読み返しながら推敲を重ねてたら、
だんだん言葉に魂が宿って来て、
もやもやした想いが吹っ切れて来た。

>> ようこちゃんからもやっぱり、「美しい」という言葉が出て来たよね。
>> ソウルメイト的な学びをしている私には、ものすごく理解できる事件だったんだよ。
>
> そうなの。わかるんだよ。わかるから、
> 美しい。
> と言えたけれど、そこまで、ソウルメイトを全うしたんだね。ってすぐ思えた
> んだけれど、この言葉、その感覚、わからない人には、不謹慎に思えるかも。
> まるみんでよかったあ。

うん、ありがとう。
私も、ようこちゃんでよかったあ。
きっと、二人で一緒にいることが大きな喜びになっている人には理解できるだろうと思う。
一緒にいられないことのほうが悲劇だということも。

>> 依存とかそういうのじゃなくて、とにかく、一緒にいることが喜びなんだよね。
>> 何でも一緒にできることが喜びなの。
>
> そう、二人でいること、そのものがいいのよね。
> 何でもいい、
> 食事でもいい、
> 音楽聞く事でもいい、
> 買い物でもいい、
> そして、二人きっりで、お酒を飲んで、語らう事もいい。

そうそう! 本当にそうなの。
二人の意思がいつも近いところにあるから、こういうことが実現できるんだよね。

私たち夫婦は、一緒に全国の鉄道を乗り潰ししてるでしょう。
私にとっては、あれも大きな喜びなんだよね。
ガンモと同じことをしている自分が好きだし、
好きなことで生き生きしているガンモも好きなの。
愛する人の好きなものに、自分も参加しているという喜び。
ガンモが私の好きなアーチストに足を運んでくれることも喜び。
二人でお揃いの服やお揃いのリュックを背負うことも喜び。

>> 二人の魂が、どんどん融合して行くことが喜びなの。
>
> そうそう、その感じ!
> 溶け合っていく感じがいいのね。
> うちは、良く、ジョンが、お酒を飲んできた日に、
> 家で、二次会、三次会、・・・・
> もう一度、ご機嫌のジョンに、ようこがおつきあいして、
> 時間も忘れて、何時間も語っている。
> 酔っているのか、眠いのか、訳わかんなくなるほど、
> 二人の世界に酔っている。
> そんな時、溶け合っているって、すごく思う。
> そんな時、魂が喜んでいるのを感じる。

うわあ、その情景が目に浮かぶよ!
一次会は、外の仲間たちと楽しんで、
二次会、三次会を我が家で行うっていうのがまたいいよね。
きっと、ジョンさんも、ようこちゃんと一緒にいたくていたくて、早く家に帰りたいんだろうなあ。

> ほんと、子供にさえ、介入してほしくないと思うもの。
> こんな時。
> 二人だけの、二人だけの世界がいいのよね。

うん、わかるよ。
私は、結婚したときから、ずっとこの感覚が強過ぎて、
子宝に恵まれるという選択を、ずっと後回しに来たんだよ。
今は、少し変化しているけれど。

>> でも、ずっと一緒に歩いて来た反面、離れ離れになることはとても悲劇的なことなんだよ。
>
> そうね、たぶん。
> 離れたくないよね。
> 二人でいる、安心や、喜びが、そこで、壊れちゃう。
> 壊したくたくない。
> 壊す事が、自分でなくなってしまう様な。
> 壊す事への不安。
> もしも、そんな時が来たら、一人で立っていられなくなっちゃうかもしれない。

うん、これもわかるよ。
でも、この感覚は、依存と混同されやすいんだ。
愛する人と溶け合ったことのある人になら理解してもらえるだろうけど、依存とは違うんだ。
とにかく、純粋に純粋に、二人でいることが喜びなんだよね。

>> お二人は、「生をまっとうした」と私は感じる。
>> しかも、人に迷惑を掛けないようにと、あんな選択をするなんてね。
>
> ここが、問題。
> 二人は、多分、その選択が、まさに
> 今がその時。
> だったのでしょうし、まるみんにも、私にもわかるんだけれどね。
> 二人の世界はいいんだけれど、
> やはり、ここで、考えなくてはいけない事があると思うの。
> ここが、ソウルメイト夫婦のデメリットだと思うの。
> 周りが見えなくなっちゃう。
> だって、やっぱり、こんな、選択、周りからすると、切ないというか、
> 悲劇に感じる人の方が多いでしょう。
> 周囲は、何をしていたのか、なんて、誰もが思うよね。
> 老夫婦、二人はそれで、良かったのかしれない。
> でも、何か、ひっかかるでしょう。
> 二人っきりで、生きている訳じゃないんだから。
> やっぱり、周囲は何をしていたの!と私は、物凄い、憤りを感じるんだけれど。
> まさしく、愛の欠如だよ!!
> 愛って、もっと、もっと、つながっていくものでしょう!!
> なぜ、一人でも、このご夫婦に気づいてあげられなかったんだろう!
> なぜ、声をかけてあげられなかったなの!!
> なんか、こういうの、大嫌い!だなあ!
> 周囲にね。何か、とても、引っ掛かりを感じるの。
> 愛って、もっともっと、前に出て行くものだよね。
> 恥ずかしいとか、誰かが、とか、そんなことじゃないよね。
> 今!自分が!なんだよ。
> 周りの目なんか気にすることじゃない!
> 今、目の前に、愛を必要としている人がいいたら、
> 手を差し伸べるのは、あなたしかいないのよ。
> (少し、興奮してしまいました。)
> でも、本当の所、わからない。
> 何が、ベストだったのか。

うん、おそらくだけど、決して、周りも手を差し伸べなかったわけじゃないと私は想像するよ。
でも、老夫婦の間にあるとても強い結びつきは、周りの関係とのギャップを生み出してしまったのかもしれないね。
私ね、良く思うんだよ。
それはね、ガンモとの間に築いた関係の心地良さと、例えば仕事仲間など、心を交わさない関係とのギャップ。
一度、そうした関係の心地良さを知ってしまったら、そうじゃない関係とのギャップを埋めて行くのはなかなか難しいことだと感じている。
だから、時には周りの人たちが、二人の結び付きの強さに太刀打ちできないこともあると思うんだ。

例えばだけど、二人で一緒にいることの喜びをまだ味わっていない人は、
病院に入ったほうがいいって、平気で言えちゃうと思う。
でも、そこで二人で一緒にいたいと思っている老夫婦とはギャップが生まれる。
ギャップがあると、良かれと思って言ったことなのに、お互いに理解し合えないという状況が起こりやすい。
人はそれぞれ、自分の愛の経験から、状況を判断するからね。
もしかしたら、周りの人たちとの間に、そういうギャップもあったのかもしれない。

>> 今後、こうした老夫婦が一緒に入院できる病院ができるといいなあ。
>> 私たちが働いて、その税金が、そうした事業に役立つといいなあ。
>> そんなことを思ったよ。
>
> ほんとにね。
> 社会問題ですよね。
> もっともっと、大きく取り上げて、考えるべきだと思う。
>
> ソウルメイト病院とかね。ツインソウル病院とかね。 ふふふ。

あはは。ソウルメイト病院、ツインソウル病院という発想は面白いね。
どちらも老夫婦が一緒に入れる病院なら、
ソウルメイト病院は付属品が何から何まで一個でいいけど、
ツインソウル病院は付属品がそれぞれ二個ずつ必要とかね。
そうなると、受付で、ソウルメイトチェック、ツインソウルチェックが行われたりするのかな。

この老夫婦が子供に恵まれなかったのは、どういう理由かわからないけれど、
非常に厳しい言い方をすれば、こうした形で責任を背負ったと言えるのかもしれないね。

>> インドの聖者が書いた本なんかを読んでいるとね、
>> 彼らは、「今がそのとき!」と思った瞬間に、自らの意志で亡くなるの。
>> 多分、もうこの世に思い残すことがないときに、それは起こるんじゃないかなと思えるんだ。
>
> 凄いね!
> そんな、死を選択できたら、本望だよね。
> その瞬間を見極めれるだけの、思い残しのない人生を送る事の方が大変かも!
> 老夫婦は、まさに、その瞬間だったのかもしれないね。

うん、そうだね。
自分の意志で、死をコントロールできたら凄いよね。
でも、聖人だからこそ、こうした選択に対してうなずけるんだろうと思う。
それは、私たちの中に、聖人の取る行動に対する強い信頼があるからだと思う。
その信頼がないと、どうして自ら死を選ぶんだろうと避難する人も出て来ると思う。
子供が真似するから隠したりとかね。

私はね、老夫婦がわざわざ焼却炉を選んだということに、特に注目したんだ。
その中で自らの身体を焼くということは、周りに迷惑をかけないための、究極の選択だと思ってるよ。
そうした選択を取った老夫婦の行動に、周りの人に対する深い配慮がうかがえるんだ。
そうした配慮を、私たちは素通りしてしまってはいけないと思うんだよ。

※きのうの記事に関して、たくさんの応援クリック、ありがとうございました。m(__)m

※本日、ガンまる.comがサーバダウンしていました。度重なるサーバダウンにより、皆さまには大変ご迷惑をおかけしました。申し訳ありません。

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2005.11.09

焼却炉で亡くなられた老夫婦

 これは、あおいさんの私生活日記切ない。。。 と、私の書いている別ブログ日々の気づき老夫婦の入水自殺へのトラックバックである。

 今日は、久しぶりにガンモと一緒に帰ろうと思っていた。仕事を終えてからガンモに電話を掛けてみると、私が三宮に着く頃には、ガンモも仕事を上がれるらしい。私が映画を観たいと思ったらガンモの仕事が忙しかったり、一緒に帰ろうと思ったらちょうどいい時間に上がれたりと、私たちはこのような形においてもシンクロし続けている。

 三宮でガンモと一緒に晩御飯を食べたあと、電車に乗った。電車の中で、ガンモが、先日ニュースで知ったという老夫婦の焼身自殺のはなしを聞かせてくれた。ガンモから聞いた内容は、あおいさんが記事に書かれている通りである。ガンモは、
「その老夫婦には、子供がいなかったんだって。それで、誰にも迷惑を掛けたくないと思って、わざわざ焼却炉で死ぬことを選んだんだよ」
と言った。その瞬間、私の中で、きゅーんとこみ上げて来るような何かが走った。きっと、「誰にも迷惑をかけたくないと思って」という言葉に反応したのだと思う。

 子供がいなくて、二人だけでずっと仲良く暮らして来た老夫婦。そんな老夫婦にとって、どちらかが病院に入ることにより、離れ離れで生活して行くことは、本当に悲劇的なことだ。不謹慎に思われる方もいらっしゃるかもしれないが、夫婦が離れ離れになってしまう辛さと、死の苦しみを天秤にかけたとき、死を選びたくなってしまう気持ちが、私には良くわかるのだ。

 ガンモと私は、その老夫婦の取った行動に対し、
「美しい」
ということで同意した。何故だろう。その老夫婦が、苦しみの果てに死を選んだのではないということが想像できるのだ。とにかく、どんなときも二人で一緒に居たい。だから、病院に入ることさえも拒絶した。これまで、二人で一緒に過ごして来た時間はとても幸せで満ち足りたものだった。ずっと二人で一緒だったのだから、死ぬときも一緒。二人はもう十分生きて来た。子供がいないために、面倒を看てくれる人は誰もいない。だから、せめて、誰にも迷惑をかけないようにしてこの生涯を閉じてしまおう。

 私は、パトリス・ルコントの『髪結いの亭主』を観たときには、自分の感情が置き去りにされたような感覚を抱いてしまった。しかし、こうした死の選択には何故か同意できる。この老夫婦が死を選んだことに関して、例えいろいろな背景が絡んでいたとしても、二人はとても幸せだったと感じられるのだ。もしも二人が社会に対して何か反発した想いを抱いていたなら、わざわざ焼却炉を最期の場所に選んだりはしなかっただろう。最期の最期まで周りを気遣う心を忘れず、二人は一生懸命、今の生を生き抜いた。私にはそう思えるのだ。

 この事件に関して、私と同じ想いを抱かない方も、たくさんいらっしゃることだろうと思う。しかし、私はこうした事件を知ると、かつて日々の気づき老夫婦の入水自殺でも取り上げたように、

その想いを達成できれば、いつ肉体を去ったとしても悔いはないのかもしれない。

ここにたどり着くのである。

※心より、老夫婦のご冥福をお祈り申し上げます。でもきっと、お二人は、あちらの世界でもしっかりと抱き合っていらっしゃることでしょう。

※あおいさん、初めまして。この度、あおいさんの記事にトラックバックさせていただきました。私のブログは、コメント機能もトラックバック機能もOFFにさせていただいております。こちらがトラックバックを送らせていただくのに、大変失礼かと思いますが、ごめんなさい。

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2005.11.08

映画『春の雪』

 ガンモがきのうの記事を読んで、
「何だかまるで俺がダメダメ人間みたいじゃん。禁止!」
と言った。おそらく、ガンモも私と同じ自開症(じかいしょう)だから、本気で怒っているわけではない。ただ、実家のことなど、自分たち以外のプライバシーに関しては非常に気を遣っている。

 最近は、ガンモが何か面白いことを言うと、
「あ、それ、『ガンまる日記』のネタにいただきね(^^)」
などという会話が定着して来た。私は、その言葉を発した瞬間のガンモの表情を見て、ガンモが本当に嫌がるであろうことは書かないようにしている。

 さて、相変わらず、ガンモの仕事は忙しい様子だったので、今日も私はそそくさと仕事を終わらせて、映画を観に行った。みんなが忙しく働いている中で、連日、定時過ぎに仕事を上がるのは少々気が引けるものだが、火曜日は三宮の映画館がレディースディだったので、私は定時前からそわそわしていた。

 観た映画は、『春の雪』。若い頃、三島由紀夫の原作を読んで、大泣きした作品だった。だから、ストーリーも良く知っていた。原作を読んだときのように、聡子と松枝清顕の悲恋に大泣きできるのかと期待していたのだが、どうしたことか、そんな期待に反して、まったく泣けなかった。原作を読んで、あんなに心苦しい気持ちになって泣けたのが、今となっては不思議なくらいだ。

 何故、泣けなかったのだろうと考えてみた。おそらくだが、主人公の松枝清顕のまったくもって素直じゃない態度と、あまりにも強引な愛情表現に引いてしまったのだと思う。彼は、幼なじみの聡子が自分のことを好いてくれていることを知りながら、自分自身も聡子に想いを寄せているにもかかわらず、聡子を遠ざけるような行動ばかり取っていた。それが、あることをきっかけにして、まるで火がついたように聡子を追い回すようになる。聡子を押し倒して唇を奪ったりなどして、半ば強引に聡子と関係を持つようになる。

 結婚前にカルマの体験をしてからの私は、こうした愛情表現には感動できなくなってしまっていた。「本当に愛したらそうじゃないだろう」と思ってしまうのだ。愛すれば愛するほど、相手の自由意思を尊重する行動を取るはずだ。だから、『マディソン郡の橋』も、原作を読んだときは、世の中との関わりを絶ち、電話に出たくなくなるほど感動したのに対し、映画が公開されたときはもう感動しなくなっていた。『マディソン郡の橋』の原作を読んだのは、カルマの体験をする前のことだった。そして、映画を観たのは、カルマの体験をしたあとのことだった。今回観た『春の雪』についても、同様のことが言える。原作を読んだのは、まだ若い二十代の頃だった。そして、映画を観たのは、ガンモと出会い、結婚して十年近く経った頃だ。

 その間に、私の魂は凄まじいカルマの体験を終わらせ、ソウルメイトであるガンモとの出会いを果たし、更にはツインソウルにも出会い、愛とは何たるかということをじっくりと味わいながら、これこそが愛だと思える感動的な瞬間を重ねて来た。『春の雪』で表現されていた悲恋は、いつの間にか、私が感動的だと思える愛の範疇からは外れてしまっていたのである。

 過去に泣けた理由が、感動に起因するならば、おそらく原作を読んでから何年経ったとしても、感動にむせび泣くことができたのではないだろうか。しかし、原作を読んだ当時の私は、感動して泣いたわけではなかった。「何故、愛し合う二人は一緒になれないの?」という同情を誘うような感情だったと思う。自分なりに感動的な愛の体験を重ねて来た私の魂は、そうした悲恋に対し、「素直になるべきときに素直にならなかった、自分自身の責任だろう」という感想しか沸いて来ないのだった。

 実は、私は、ミッチー(及川光博さん)のファンだったことがある。彼のライブにも何度か足を運んで来た。アイドルとは違う、彼の独創的な世界が好きだった。そんなミッチーの演じる皇太子は適役だったと思う。それなのに、ミッチーの出番が期待していたほど多くなかったのはいただけない。また、今回の作品には出演していないが、私は昔、三上博史さんのファンだったこともある。彼と私は、生年は違うが、誕生日が同じだ。私が三島の原作を読んだのは、彼のお勧め作品だったからでもある。だから、この作品が映画化されるなら、松枝清顕の役は三上博史さんに演じて欲しいと思っていたのだが、いかんせん、彼は私よりも三歳も年上なので、若い松枝清顕の役を演じるチャンスは巡って来なかったのかもしれない。そんな個人的な理由からも、残念な映画だったと思う。ああ、これからこの映画を観ようと楽しみにしてらっしゃる方には本当に申し訳ない。

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2005.11.07

やけっぱちのガンモ

 職場近くの映画館がレディースディだったので、そわそわしながら、定時過ぎに仕事を上がった。ガンモに電話を掛けると、忙しさのせいでとてもキリキリしている。私が映画を観たいと思ったときは、いつも、ガンモの仕事が忙しい。まるで、
「今は忙しいから、一人で映画でも観てなさい」
と言われているかのようだ。私は、
「じゃあ、映画を観て帰るから」
と言って電話を切り、映画館へと向かった。

 今回観たのは、『ALWAYS 三丁目の夕日』。昭和三十三年の日本を描いた素晴らしい映画だ。都電がまだ東京の中心部を走っている。作りかけの東京タワーが見えている。そんな、東京の下町で繰り広げられる人情ドラマ。映画を見終わったあとの余韻がものすごく良かった。心を交わすことの大切さを遠回しに教えてくれるような映画だった。

 映画を観て帰宅し、再びガンモに電話を掛けてみたが、ガンモはまだまだ忙しそうだった。それから間もなくしてガンモは帰宅したが、イライラした口調で、まだこれから自宅で仕事が残っていると言う。ガンモは、
「俺、四十二歳でもう死ぬから」
などと弱音を吐いた。ガンモは仕事が辛くなると、ときどきこんなふうにやけっぱちになる。精神的な余裕がなくなってしまうのだ。私は、
「ばっか言ってんじゃないよ。あのね、私だって、結婚してすぐに派遣された会社で、毎晩、二時、三時まで働いて、タクシー帰りしてたことがあったでしょ。あのときだって、仕事中に、五階のトイレから飛び降りたら楽になれるんじゃないか、なんて思ったこともあったよ。仕事上で、誰も頼れる人がいなかったしね。でもね、ガンモが居たから踏ん張れたんだよ。ガンモを悲しませちゃいけないと思って。仕事が忙しいからってね、甘えるんじゃないの!」
私の言葉に、ガンモはようやく正気に戻ったようだ。そして、ガンモはてきぱきと仕事をこなしたあと、自分のWeb日記も更新した。

 本当に仕事が忙しいとき、思わず逃げ出したくなる気持ちは私にも良くわかる。しかし、逃げ出さないように思い留まらせるのは、愛する人を大切に想う気持ちなのだ。私たちは、愛する人のために生きていると言っても過言ではない。どんなに感情が突っ走ってしまったとしても、私たちはいずれ、戻るべきところに戻るようになっている。一人で突っ走って行く感情は、ほんの一時的なものであり、私たちがずっとそこに留まることはない。そんな一時的な感情に翻弄されることなく、突っ走ってしまいそうになったときには、自分の軸になっているはずの愛をしっかりと思い出すことが大切なのだ。

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2005.11.06

食肉の陰陽

 きのう、動物について少し書いてみたが、実は私には、ある時期まで、魚介類と野菜しか食べられない時期があった。動物のことを大切に思うあまり、動物のお肉を食べられなくなってしまったのである。スーパーに行くと、精肉売場に切り刻まれた動物の肉がある。そこを通ると、胸がぎゅーんと苦しくなり、涙がこみ上げて来ることも多かった。

 本当かどうかはわからないが、魚介類は傷みを感じないと聞いたことがある。また、植物は、私たちがいただくことで、完全に命が奪われてしまうわけではない。そうした理由から、魚介類や野菜を主にいただいていたのである。だから、家で料理をするときも、お肉の代わりに魚肉ソーセージを使っていた。しかし、私がお肉を食べなかった頃も、ガンモは好んでお肉を食べていたので、魚肉ソーセージ入りのカレーやシチューは、ガンモには不評だった。また、お肉を食べないとなると、人と外食をするときに、お店選びに困ってしまうことが多かった。

 例えば、派遣期間が終了し、派遣先で私の送別会を開いてくださるという方が、行きつけの焼鳥屋さんに連れて行ってくださったことがある。。当時の私は、自分がお肉を食べていないことを周りにちゃんと伝えていなかった。私がお肉を食べない理由を口にすることで、お肉を食べている人たちの生き方を否定してしまうような気がしていたからだ。焼鳥屋さんで、お店の方にどんなものを食べたいか尋ねられたときに、私は、
「野菜中心でお願いします」
と答えてしまった。そのとき、焼鳥屋さんの顔が曇ったのは言うまでもない。確か、
「うちは焼鳥屋なんだよね」
くらいのことを言われたと思う。それを聞いた私は、焼鳥屋さんに対しても申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。何故、こっちを立てればあっちが立たなくなってしまうのだろう。私の取っている行動は、本当に、動物に対する愛情なのだろうか。なかなか実りがなく、お肉を食べない選択を常に貫けない状況に、私は、自分の考え方と世間の考え方とのギャップを感じていた。

 そんなとき、参加していた精神世界のMLの人が、こんなことを言った。
「人間だけが食物連鎖に組み込まれないのはおかしい。私は鳥葬を望む」
と。その発言を読んで、私はとにかく驚いた。確かに、人間は動物を食べるのに、動物が人間を食べると、まるで仇のように殺されてしまう。人間と動物は対等ではない。だから、対等になろうとして、MLでその発言をした人は凄いと思った。

 しかし、考えてみれば、鳥葬というのは、自分が亡くなったあとに鳥にその肉体をついばんでもらうことであって、動物たちの食欲を満たすためにわざわ自分の命を差し出すわけではない。だから、動物たちと完全に対等ではないのだ。それを考えると、やはり、人間は、動物たちに対して一体何をしてあげられるのだろうと考えてしまう。私たち人間は、彼らからいつも、もらいっぱなしなのではないだろうか。

 掲示板などにも何度か書いて来たことだが、手塚治虫先生の『ブッダ』の中に、こんなストーリーがある。おなかを空かせた登場人物のために、ウサギが、
「どうぞ私を食べてください」
と言いながら、自ら火の中に飛び込み、丸焼きになるのだ。私は、あの長い長い『ブッダ』の中で、このシーンが最も衝撃的で、印象に残っている。ウサギのそうした行為に、自己犠牲のかけらも感じられなかったことは、とても不思議なことである。

 ところで、世の中には、カニバリズムという考え方がある。一言で言うと、食肉主義と言っていいのだろうか。カリバニズムを支持する人たちの中には、「自分が死んだとき、自分の愛する人に自分を食べて欲しい。何故なら、自分が、愛する人の中で血となり肉となり、生き続けられるからだ」という考えを持っている人たちもいる。実際に、親しい人が亡くなったとき、その肉を食べるという儀式を行っていた部族もいたようだ。こうした習慣のない日本人には、驚くべき行為である。

 もう一つ、お肉を食べるということについて、私のツインソウルが大変興味深いことを示してくれた。彼は、私とは正反対で、子供の頃は、まったくお肉を食べられなかったのだそうだ。しかし、動物に対して愛情を持つようになったら、お肉を食べられるようになったと言う。私が、動物に対して愛情を持つようになったら、お肉を食べられなくなったのとは正反対の現象である。

 さて、これらのことをふまえた上で、現在の私はこう思う。お肉を食べるという行為に対して、愛情があるかどうかが重要なのであって、お肉を食べる、食べないの問題ではないと。自分が実践できるかどうかは別にして、カニバリズムについても、愛情があるからこそ食べることができると解釈する。しかし、食べる対象が動物であっても、人であっても、愛情があって食べるのと、愛情もなく食べるのとはまったく違う。食べるなら、愛情をもって食べることが大切なのだ。おそらく、愛情をもって食べることは、愛情があるから食べないのと同じ行為に匹敵するのではないだろうか。

 『ブッダ』の中で自ら火の中に飛び込んで丸焼き意になったウサギにも、愛があった。空腹の登場人物に対し、自分の肉を捧げ、食べてくださいと言えるほどの命をかけた愛。人間が、自分勝手にウサギを殺して食べるのとはワケが違う。動物好きの人たちがひっかかるのは、実は、この部分なのだ。つまり、動物の側に、人間に食べて欲しいと思えるほどの愛があるかどうか。それがないと感じているために、人間に食べられるために殺されることが動物の苦しみだと思ってしまうのだろう。

 食肉に関しては、今回の記事だけではとても書き切れない。まだまだ検証して行きたいことがらがたくさんある。それでも、こうした様々な経緯から、現在の私は、お肉をおいしくいただいている。私たちのために、命までも投げ出してくれた動物たちのことを思いながら。「いただきます」は、「命をいただきます」という意味なのだと思いながら。

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2005.11.05

姫路城と姫路市立動物園

 先日、比叡山に行ったときに使った「スルッとKANSAI 3dayチケット」(関西圏の提携している私鉄・地下鉄・バスに三日間乗り放題の切符)が一日分余っていたので、山陽電車で姫路に行こうということになり、ガンモと二人で姫路まで出掛けた。

 私たちの住んでいる地域から鉄道を利用して神戸方面や大阪方面に向かうときは、JR、阪神電車、阪急電車の三通りの選択肢がある。それぞれの路線が途中で少しずつ交差しながら、西へ東へと延びている。姫路へは、JRの新快速列車を利用するのが最も速く、およそ五十分程度で姫路に着く。しかし、山陽電車を使うと、一時間二十分以上もかかってしまう。それでも、乗り潰しのために、私たちは山陽電車に乗り込んだのだ。

 山陽電車は、阪神電車や阪急電車の終点の先から運行されている電車で、阪神電車や阪急電車との相互乗り入れを実現している。つまり、阪神電車のホームで待っていれば、姫路行きの直通特急に乗れるというわけである。というわけで、私たちは、阪神電車の姫路行き直通特急に乗り込んだ。例え近場だとしても、普段利用していない電車だけに、ちょっとした旅行気分を味わえる。電車に乗っていたのがちょうどお昼どきだったので、いつもの旅行気分を出すために、山陽電車の中でお弁当を食べた。

 姫路に着いた私たちがまっすぐ向かったのは、姫路城だった。やはり、ちょっとした旅なのだから、観光しておかなければ気が済まない。十一月だというのにとても暖かい日で、姫路城の周辺の広場では、家族で出掛けて来てくつろいでいる人たちが多かった。

 実は、姫路城にまっすぐやって来たのは、そこに顔抜きがあると聞いていたことも大きかった。しかし、少なくとも、周辺を見渡した限りでは、顔抜きらしきものは見当たらなかった。まさか、世界遺産に指定されている姫路城の中に顔抜きがあるとはとても思えず、念のため、入場料金を払う場所で、
「この中には、観光客の顔をはめて記念撮影できるものがありますか?」
と尋ねてみたのだが、
「ありません」
という答えが返って来た。だから、わざわざ入場料六百円を払ってまで中に入ることを断念したのだ。

 その代わりと言っては何だが、同じ敷地内にある姫路市立動物園に足を運んでみた。こちらは、入場料が二百円だった。動物好きは、動物園が好きになれないというのはその通りで、私は、動物園に行くと、毎回心が締め付けられるようになってしまう。しかし、今回は、彼らのそうした姿も目に焼き付けておこうと思ったのだ。いつもは、動物たちの苦しそうな姿から目を背けようとするばかりだが、今回はもっと冷静に動物園を体験できるかもしれないと思っていた。

 園内は、それほど広くはないが、たくさんの動物たちが飼育されていた。人手が少ないせいだろうか。他の動物園よりも、檻の網目が細かい気がした。だから、檻が邪魔になって、動物たちが良く見えない。しかし、まったく初冬らしくない陽気のせいか、私が知っている他の動物園よりも、動物たちが幾分、生き生きしているように見えた。それでも、ゾウの姫子の悲しそうな目や、彼女が逃げないように電線が張り巡らされているのを目にすると、胸がキューンと痛んだ。そして、私は考えたのだ。餌を手に入れられるかどうかの確証もなく、野生のまま自由に生活するのと、餌の保証はあるが、自由がなく、檻の中で生活し続けるのと、どちらがいいのかと。

 私は、こうした光景が、何かに似ていると思った。そう、刑務所だ。崔洋一監督の『刑務所の中で』という映画を観たとき、刑務所内での労働がそれほどきつくなく、三度の飯にもありつけるのだから、外の世界で働くよりもむしろ、刑務所の中のほうが居心地がいいというような台詞があった。動物園にいる動物たちの中にも、実際、そのように感じる動物もいるかもしれない。しかし、動物たちは、別に悪いことをして動物園に入っているわけではなく、ただただ人間の欲望を満たすためだけに捕らえられ、見世物になっているのである。動物と人間は、まだまだ対等ではない。だから、『猿の惑星』のような映画が面白がられるのかもしれない。

 入場料二百円の姫路市立動物園は、私にいろいろなことを考えさせてくれた。動物園でなければ、決して巡り合うことのできない動物たちに出会えたのも事実である。大切なのは、ここで見た光景を、今後、どのように生かして行くかだと思う。動物たちはいつも、一方的に、私たちに何かを与え続けてくれていることは間違いない。その彼らに対し、自分は何ができるか。自分に何ができるかを意識しながら、今後の生活を送ることができるかどうか。こんなふうに、動物園に行くと、子供の頃に、親から教わらなかったことがどんどん溢れて来るのだった。そして、ここ最近の映画の見過ぎと、陽気のせいで、普段よりも開放的になっていた私は、ガンモを抱きしめ、キスを交わしたい気持ちに駆られたのだが、ここは日本だとブレーキがかかり、踏みとどまった。日本は愛情表現に関して、とにかく不自由な国だと思った。
 
※今日撮影した写真
姫路城と姫路市立動物園

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2005.11.04

異性との交流

 先日、ある主婦の方が書かれている人気ブログを拝読していたら、ブログを書いていることを、ご主人さんにには内緒にされているとの記事があり、ひどく驚いた。そのブログでは、ご夫婦の性生活についても赤裸々に綴られている。そういう背景もあってのことだろうか。決して後ろめたい内容ではないはずなのに、何故かご主人さんには内緒なのだそうだ。

 ある日、そのブログ主の主婦の方がご主人さんと二人でテレビを見ていたとき、「ブログを綴る妻」という特集をやっていて、彼女は自分の秘密を暴かれているようで、ものすごく驚いたそうだ。テレビで取り上げられていたケースでは、ブログに男性からもコメントが書き込まれ、テレビで取材されていた主婦が、そうした書き込みに対してマメに返信していたと言う。その番組を見たご主人さんが、
「こういうのはまるでチャット状態だからダメだ。我が家のパソコンにもロックをかけておかなくちゃね」
と言ったらしい。そして、自分の妻も、このようなことをしていないかどうか心配になり、彼女に尋ねたそうだ。彼女は、自分はブログなんか書いていないとごまかしたそうである。世の中には、このような主婦の方もいらっしゃるのだなあと、ただ驚くばかりだった。

 私も、ホームページやブログを運営している関係上、男性たちとの交流はある。ガンモもブログを書いているので、鉄道好きの女性たちとも交流している。しかし、私たち夫婦は、お互いに、異性と交流していてもまったく気にならない。交流するにしても、異性を意識しないような交流方法になるからだろうか。そのせいか、お互いの中にはいつも絶対的な信頼がある。また、交流している内容をお互いに詳しく報告し合っている。もちろん、ツインソウルと話した内容についても、私はガンモに話している。そういう話をしても、嫉妬の対象にはならない。

 だから、妻の書いているブログに男性からのコメントが書き込まれるくらいでハラハラしてしまうご主人さんの気持ちは良くわからないのである。主婦の彼女も、決して後ろめたい内容のブログを書いているわけではないのだから、ご主人さんにブログを公開してもいいのではと思ってしまう。いろいろなことをオープンにしないから、返って、相手が不安になるような要因を作ってしまっているのではないか。そう思えるのは、やはり私がどうしようもなく自開症(じかいしょう)だからなのだろうか。とにかく、いろいろなご夫婦がいるということである。

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2005.11.03

金箔入りのテレフォンカード

 今日は、駅のホームに誰かが落として行った金色のしおりを見つけて思い出したことがあったので、ここに書き留めておきたい。

 結婚して間もない頃、私たちは、参加しているクラシックカメラサークルの撮影旅行で淡路島に出掛けた。そのとき、道の駅のようなところで昼食を取った。そこにはお土産売場もあり、また、外の景色を眺められるような展望台もあった。その道の駅で、私たち夫婦が仲良く手を繋いで歩いていると、見知らぬ女性観光客が私たちのところにやって来て、
「あなたたち、とっても仲がいいから、これをあげる」
と言って、何やら差し出したのだ。私たちは、一瞬、「え?」と思ったのだが、その女性は、
「気にしなくていいのよ。二人の仲がいいから。はい、これ、あげる」
と言って、引き下がらなかった。その女性は、私たちに、とにかくそれをあげたくてたまらないといった感じに見受けられた。私たちは、狐につままれたような感じを受けながらも、
「ありがとうございます」
と言いながら、女性観光客からそれを受け取った。良く見てみると、それは、金箔入りのテレフォンカードだった。五十度数だったが、観光地で売られている金箔入りのテレフォンカードなので、千円はしたのではないだろうか。それを、見知らぬ私たちに対し、仲がいいからあげると言ってくださったのだ。

 そんなことがあったことを、金色のしおりを見て、久しぶりに思い出したのだが、見知らぬ女性からいただいたあの金箔入りのテレフォンカードは、一体どこへ行ってしまったのだろうか。確か、大切に使わせていただいて、ちゃんと使い切った記憶がある。

 今の私たちが、同じ場所で同じ女性に会ったとしても、彼女から再び金箔入りのテレフォンカードをいたけるかどうかはわからない。しかし、あのとき、あの時間に、確かに私たちは、一人の観光客女性の心を動かし、誰かのためにお土産に買っていたであろう金箔入りのテレフォンカードの一枚を私たちにプレゼントしていただいたことは事実なのだ。

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2005.11.02

職場で見た涙

 仕事中に、オフィスのすぐ外で、同じプロジェクトの派遣仲間の女性が、携帯電話で誰かと話をしながら泣いていた。電話を終えてオフィスに戻って来たときも、彼女は泣き続けていた。彼女は、私のすぐ前の席に座って仕事をしている。私は、一体何があったのかと、彼女に、
「大丈夫?」
と尋ねてみた。すると彼女は、泣きながら、
「きのう、友達が、交通事故で亡くなった」
と言った。その瞬間、私は言葉を失った。こんなとき、彼女にどんな言葉をかけてあげたらいいのか。彼女の感情と、自分の感情に、あまりにも大きなギャップがあり過ぎて、言葉にならなかった。私も、彼女と一緒に泣くことができれば、言葉を失わずに済んだだろう。しかも、ここは、人間としての感情を徹底的に押し潰すオフィスという場所だ。私は、戸惑いながらも、心を鬼にして自分の仕事に戻った。たった今、友人の死を知ってしまった彼女に、「元気を出してね」とも言えないし、ましてや、「死は誰にでも訪れるものだからね。やがて、私たちにも・・・・・・」などとは言えない。それに、彼女自身はご遺族ではないのだから、「謹んでお悔やみ申し上げます」と言うのも変だった。私は、もやもやした気持ちを抱えながら仕事を続けた。

 そのとき、私たちのグループのトップ責任者が、今後の作業の意識合わせをしておきたいので、これから打ち合わせをしたいと彼女に声を掛けた。彼女は、事情を説明し、今日は早退したいと言ったようだが、トップ責任者は、打ち合わせは十分程度で終わるからと言って、彼女を引き止めた。ああ、何という展開だ、と私は思った。こうして言葉を失っている私のほうが、まだましだと思った。

 実際、その打ち合わせは、十分程度で終了した。やがて彼女は、頼まれていた仕事を切りのいいところまでで終わらせて、早退して行った。

 彼女の涙を見て私が思ったこと。それは、彼女はとても素直ないい子だということだ。人間、歳を重ねれば、人前で泣くということがどんどんできなくなってしまう。彼女の場合、なりふりかまわず涙したというわけではなく、ただただ自然に出て来る涙を止めることも隠すこともできなかったといった感じに見受けられた。仕事中だから涙を止めなくてはとか、職場だから涙を隠そうとか、彼女は、頭の中でそういう計算をしなかったのだ。そこが、何とも彼女を人間らしく輝かせていた。

 彼女が早退してから、彼女に涙の理由を直接聞けなかった人たちが、私に彼女が泣いていた理由を尋ねて来た。それだけ、彼女の涙はオフィスで目立っていたようだ。しかし、友人同士の関係ならまだしも、オフィスでは、泣いている人に向かって、「どうしたの?」とは言えない雰囲気がある。泣いている人は、感情の防御装置が解除されているのに、普通に仕事をしている人たちは、感情の防御装置が解除されていないからだ。そして、泣いている人に対し、その理由を直接聞かないのは、泣いている人の抱えている状況に対して自分が責任が持てないことへの逃避であるようにも思う。

 今回、実際に、このような状況を目の当たりにして、私は言葉を失った。しかし、この次に同じようなことが起こったときも、やはり言葉を失うのだろうか。そのときまでに、言葉を失うこと以外の何かを見つけておきたいと思う。

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2005.11.01

全身全霊

 もしも今、何かのアンケートで、「あなたの一番好きな言葉は何ですか?」と聞かれたなら、私は迷わず、「全身全霊」と答えるだろう。

 ガンモと私が交際するようになる少し前、ガンモと私のじゃれあいを見ていた私の友人が、
「ガンモちゃんは、まるみちゃんのことを全身全霊で受け止めようとしてる」
と言ってくれた。私も、彼女と同じ感覚でガンモを見ていた。ガンモとは、お互いに、自分がこれまで知らなかったパワーを引き出せるような気がしていたのだ。そして、私たちは実際に、全身全霊で関わって来た。全身全霊とは、自分の持っているものを出し惜しみせずに、何から何まで注ぎ込むことだろうと思う。または、全速力で駆け抜けるようなイメージだ。言い換えると、手抜きのない、ごまかしの効かない関係でもある。

 全身全霊と言うと、もう一つ、思い出すことがある。それは、前世におけるツインソウルと私の関わりだ。一日中、飽きもせず、裸で抱き合い続けていたあの時代。いつも私の目の前にあった、ツインソウルの熱い潤んだ瞳。ツインソウルから注がれるものはすべて私に流れ込んでいた。私も、自分の持っているものすべてをツインソウルに注ぎ込んでいた。二人の間には、マグマのように溢れ出す熱いエネルギーが流れていた。

 その熱いエネルギーを思い出すと、今、私がガンモと一緒に過ごしていることや、ツインソウルが別の人と一緒に過ごしていることが、私の魂からの喜びになっているのがわかる。ああ、どなたか、この素晴らしい感覚を理解してくださる方はいらっしゃるだろうか。あの熱いエネルギーを、ツインソウルや私が、他の人たちにも注いでいるという喜びを。他の人にも愛を分けているという喜びを。

 掲示板に、ようこちゃんが、こんなことを書いてくださった。

ソウルメイトは、外の介入を許せるのに、
ツインソウルは、外の介入を許せないのね。

ソウルメイトの友人はソウルメイトになれるのに
ツインソウルは中途半端な愛情として、許せないのよね。
ツインソウルは、いつも、いつも、100パーセントの愛でなくては、
不安になっちゃうのかなあ・・・。絶対愛だからね。

 おそらくだが、全身全霊の関係なら許容できるのではないだろうか。いや、全身全霊の関係ならば、許容どころか、それが大きな喜びになる。自分と全身全霊で関わった魂が、別の人を全身全霊で愛していることの喜び。ああ、これ以上の表現が見つからないことがもどかしい。

 しかし、全身全霊の関係でなく、中途半端な関係ならば、きっと許容は起こらない。かくいう私も、ツインソウルのファンだと言っていた複数の女性たちとうまく行かなかった経験がある。彼女たちが、ツインソウルのことを全身全霊で愛してくれているとは思えなかったからだ。しかし、ツインソウルが奥さんと一緒に過ごしていることは、うれしくてたまらない。これは、ツインソウルが奥さんのことを、全身全霊で愛していることが伝わって来るからだと思うのだ。つまり、私は、ツインソウルが、全身全霊を注ぎ込んでいる姿が好きでたまらないのだ。きっと、全身全霊という言葉に反応してくださる方ならば、私がここに書いた想いをわかってくださることだろう。

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