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2005.10.01

映画の感想に見る陰と陽

 ここのところ、感情のリハビリのために、DVDや映画をしきりに鑑賞している。感情のリハビリとは、大殺界特有の、地の底を這うような感覚から脱出するために、DVDや映画を通して、様々な感情を擬似体験しようと試みるものである。

 鑑賞し終わったあと、「何故、こんな結末になってしまうの?」という残念な感情だけが取り残されてしまうような作品がある。いわゆる、芸術作品と言われる類のものである。芸術作品を理解する人は、映画を観ているときの自分の感情と、映画の展開を切り離しながら、冷静に観ている。だから、例え悲劇的な結末を迎えることになったとしても、それを美しいと言ってしまえるのだ。こうした解釈ができる人は、陰の人たちに多いような気がする。

 例えば、私はきのう、スタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情/または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』を観た。しかし、「あれれ? こんな結末?」と思ったのだ。世界の破壊と、エンディングで流れる穏やかな音楽のミスマッチを強く感じたのだ。それで、この映画を観た人たちの書いたレビューに目を通してみた。すると、エンディングの音楽が美しいので、世界の崩壊も美しく思えたなどといった感想が書かれている。

 先日観たパトリス・ルコントの『髪結いの亭主』にしても、幸せの絶頂の中、妻が飛び込み自殺してしまうのに、陰の人たちは、そうした悲劇を美しいものとして受け入れるばかりでなく、亭主は、妻が亡くなった余韻を楽しんでいるとまで言い切ってしまえる。陰の人たちにとっては、自分の感情と、映画も含めての他の人たちの成す行為は、まったく別物のようである。だから、彼らからは、「人は人、自分は自分」という言葉を耳にすることが多いのだろうか。反対に、陽は、そうした切り離しができないために、第三者を自分の価値観に導く傾向がある。

 陽の人たちがこうした映画を観ると、「幸せの絶頂にあるのに飛び込み自殺するなんて理解できない」となる。それは、陽の人たちが、それだけ、映画の中にのめり込み、主観的に映画を観ようとするからだと思う。しかし、陰の人たちは、映画でさえも客観的に観ようとする。そして、客観的な立場から、その監督の表現したかったことを理解しようとし、そうした展開もあり得るとなるのだ。おそらく、陽の人たちは、主人公の気持ちで映画を観るが、陰の人たちは、監督の気持ちで映画を観るのではないだろうか。

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