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2005.10.23

続・芸術と一人の時間

 これは、SHANAくんの( ゚Д゚)ヒョエー †dreamer・dreamer†術の中の陰陽・続への陰陽へのトラックバックである。

 SHANAくん、どうもありがとう。記事への返信を、またまたトラックバックさせてもらうことにしよう。SHANAくんの言葉を太字で引用させていただく。

どうやら、私はまるみさんに「参った!」と言わせてしまったようだ。

 そう! その通り! 芸術を瞬間と永遠に分類されるとは思ってもみなかった。うわあ、やられたあ! という感じだった。

実は、芸術の中の陰陽を書いた時、我ながらいいじゃないか〜とひそかにシメシメと思っていたのだ(笑)

 私も、SHANAくんの記事が気になって、気になって、仕方がなかった。しかし、コメントを書かせてもらうには長くなりそうだと思って、トラックバックさせていただいた。私のブログは、コメント機能もトラックバック機能もOFFにしててゴメン。でも、記事を取り上げてくれてうれしかった。ありがとう。

私自身も不良ファンだと思っていたりする。

 ああ、SHANAくんも、やっぱり、そうなんだね。私は、SHANAくんの書いている、他の人の熱さに圧倒されるという気持ちも、過ぎ去った過去にとらわれていないという気持ちも良くわかる。他の人たちの応援の仕方を見ていると、どうも、何かの媒体に保存しておきたい欲求が強いように思える。だから、他の人たちは、テレビやラジオの出演スケジュールをマメにチェックしたり、彼らの出演した番組を、保存媒体に保存する傾向が強いようだ。

 実は、私は、テレビやラジオの出演に関しても、ほとんどノーチェックである。先日、ガンモと出掛けたラジオの公開録音も、友人から教えてもらったくらいだ。そんな私を見かねて、ときどき友人が、私に、テレビで放送された番組をビデオにダビングして送ってくれたりする。しかし、私は、それでさえもなかなか観られなかったりする。友人にはとても申し訳ないのだが、そうしたご厚意を断り切れない部分もあり、二重に申し訳なく思っている。保存された媒体に対し、執着がないことを、彼女たちにどのように説明したらいいのかわからないのだ。

 彼らと交われる瞬間が大切。この一言で説明はつくのだろうが、そういう感覚がない人には理解し難い行動だと思う。だから、不良ファンの一言で済ませたくなる。

その主張は、脳を越えて、直接心を揺さぶるもの。

 そう。言葉と違って、表現方法はとても間接的だが、言葉よりも直接的に響いて来ることがある。

大学の頃、私は周りの私語が気になって仕方なくて、よく音楽を聞いていた。でも、盛り上がった話し声はイヤホンを抜けて耳に入ってくる。

 集中するために、音楽を聴いて、周りの音をシャットアウトしたくなる気持ちは良くわかる。私も、仕事中に音楽を聴きたいくらいだ。

 話がちょっと横道に反れるかもしれないが、SHANAくんのブログの別の記事のコメントに、音楽を聴いているときに話し掛けて来る人がいることを指摘ださている方がいらっしゃった。私は、そのコメントを拝見して、そう! そう! そう! と三回頷いた。以前にもここに書いたことがあるのだが、実は、そうした行為は、関西の人に強い傾向なのかと思っていた。

 というのは、私が東京に住んでいたときは、通勤の途中に音楽を聴いていると、誰も声を掛けては来なかったからだ。東京人の場合、誰かの音楽を聴きたい意志を尊重しているというよりは、通勤の途中に知っている人がいても知らんプリする傾向が強いだけかもしれない。東京人は、それほど親しくない人とは、距離を保ちたがるのだ。

 一方、知っている人はみんな友達だと思っている関西の人たちは、相手が音楽を聴いていようが、何をしていようが、知っている人を見掛ければ、トントンと肩を叩いて来る。そして、特に話すことがなくても、目的地までの道を一緒に歩き始めるのだ。私も、しぶしぶヘッドフォンを耳から外して歩き始める。無言のまま一緒に歩くのなら、音楽を聴いていたいなどと思いながら。

 もっと驚くのは、仕事中の昼休み。私は、休み時間に自分のノートパソコン(正確にはPDA)を使って、「ガンまる日記」を書いたり、メールや掲示板への返信を書いたりしている。文章を書くためには、集中することが必要なので、ザワザワしている昼休み中は音楽の力を借りて集中している。しかし、音楽を聴いていても、肩をトントンと叩かれ、仕事の話を振られることがある。やはり、恐るべし関西人! と思ってしまうわけである。

 しかし、SHANAくんの記事のコメントに記入された方は、どうやら関西在住の方のよう。ということは、関西に住んでいる人は、音楽を聴いている最中に話し掛けられることを嫌がっていないということではなさそうだ。

陰の芸術家に心から愛する人ができた時…。
きっと、うまく切り替えたりするんじゃないだろうか。
ただ、少し相手を振り回してしまいそうな気がするが、もし集中したい時がくれば、「今は絵を描きたい!集中させて!」とハッキリ線引きをしそうだな、と感じる。
それまでに、私ならそういう人間であることを相手に言い聞かせていそうだと思った。

 なるほど。絵に没頭している時間があっても、心から愛する人を寂しくさせない方法が、きっとあるのだだろう。少し前に、てんちゃんが掲示板で、私が多対多の愛で取り上げた谷川俊太郎さんの詩を引用してくださったが、まさしくこのような関係なのだろうと思う。つまり、創作に励んでいるその瞬間でさえも、愛する人のことを決して忘れてはいないという関わり方である。創作に励むことが、あなたを愛することに繋がるという関わり方である。

 そうした関わり方は、創作に打ち込まない人の理解が必要だと思う。そして、創作に打ち込むことが、中途半端なものではなく、その人にとってのライフワークであることも必要だと思う。

 私も、パソコンに向かって文章を書いているときは、ガンモに黙っててねと頼んでいる。私がパソコンに向かうことで、ガンモを寂しくさせてはいない。それと同じことなのかもしれない。周期やリズム、そして、信頼といったものが、二人の相対的な関係の中で生まれて行くのだろうと思う。

別の方法として、時に陰の芸術家は自分の愛する人をモチーフにしたりする。その時は相手との関わりと、芸術とのかかわりを同時にやってしまうのではないだろうか。

 肌に触れ合ったり、キスをしたり、抱き合ったりという直接的な交流と、愛する人のことを考えながら、愛する人のことを芸術で表現するという間接的な交流。相手が直接的な交流を求めているときに、間接的な交流で対処できるかどうか。これには、相性が関係するのかもしれない。相性が良ければ、直接的と間接的のリズムさえも一致するのかもしれない。相手が創作に打ち込む人の場合は、お互いに、「相手のことを理解する」ということが、他の関係よりも必要な関係になることは間違いない。

あの有名なモネという人は、自分の妻が亡くなった時も絵を描いていたそうだ。それも妻の死に顔を。涙を流しながら、「妻が死んで悲しくて仕方ないのに、自分は絵を描く手をとめることができない。」と言ったそうだ。(記憶があやふやだが、こういう内容です)

 これは驚きだ。とにかく徹底している。おそらく、モネは、描かされていた人だったのだろう。だから、人生のもっとも大切なときでさえ、描くことをやめられなかった。きっと、奥さんの魂にも、それが届いていたのではないだろうか。それが、もっともモネらしい姿だと。

私は愛する人が足を引っ張るとは感じない。
陰の芸術家は、描いている部屋の隣に愛する人がいてくれるだけで満足するだろうし、同じ部屋にいても自分を見守っていてくれるのなら満足だろう。

 これを聞いて安心した。何故なら、周りの音をシャットアウトしたくて、音楽を聴きたくなるのと同じように、愛する人の存在であっても、シャットアウトしてしまう時間があるのかと思っていたからだ。私自身、芸術家タイプの人と男女の関係になったことがないので、想像で書いてしまっているところがある。いずれにしても、芸術家タイプの人と信頼関係を築いて行くには、間接的な愛情表現が理解できる人でなければつとまらないような気がしている。私は、間接的愛情表現よりも直接的愛情表現に転びがちなので、芸術家の妻はつとまらないだろうと思った次第である。

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