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2005.10.16

感覚と言葉

 最近、私のサイトの掲示板で、言葉とは何かという問いかけが多い。魂の想いに正直になりつつある人たちは、感覚のすべてを的確な言葉に変換してしまうことができないと嘆く。感覚とは、魂が感じている世界であり、言葉とは、頭という肉体を使って表現される世界かもしれない。だからだろうか。ネットの世界で醜い対立が起こると、言葉だけのやりとりになってしまう。感覚を使わずに、相手の言葉を頭で捉え、言葉尻だけを追うようになるのだ。

 たいていの場合、相手の言葉尻だけを追うことにより、醜い対立に発展するときは、お互いに、相手の魂を感じ取ってはいない。醜い対立は、相手の魂がどこを向いているかがわからないままに交流を深めようとすることで、暗中模索のやりとりになった末に起こる。または、ほんの少ない材料で相手を判断しようとするときにも醜い対立は起こる。

 またまたネット仲間のブログの話で恐縮だが、私がいつも拝見しているブログに、検索エンジンからたどり着いたという人が初めての書き込みをしていた。そして、彼のブログの特定の記事だけにスポットを当てて、彼の使う言葉が汚いというコメントを残して行った。それを読んだ私は、普段、私と同じくらい言葉に対するこだわりを持ち続けているはずの彼の使う言葉の一体どこが汚いのだろうかと驚いてしまった。そして、そういう観点で彼の書いた記事を改めて読み返してみると、ある言葉にひっかかったのだ。その言葉は、一見、ネガティヴな表現なのだが、彼自身がむしろ親しみを込めたいときに使う言葉だということが、私にはわかっていた。だから私は、その記事を読んだときに、言葉が汚いだなんて、まったく気にも留めなかったのだが、彼を良く知らない人が見れば、汚い言葉に映ってしまったようだ。

 上記の例は、検索エンジンから彼のブログにたどり着いた人が、彼を判断する材料が少な過ぎたために起こったことである。検索エンジンからたどり着いた人は、コメントを書き込むときに、魂の感覚を使わなかっただろうし、彼が一体何者であるかも、積極的に知ろうとはしなかった。そして、彼の記事から何かを吸収しようとはせずに、検索エンジンに引っかかった記事と、既に自分の中にある材料だけで彼を判断しようとした。

 しかし、どんなに頑張ってみても、人と人のコミュニケーションは、ある特定の区間を区切って行うしかない。その人がその言葉を使うに至った過去の経験まではさかのぼれないものである。しかし、交流が深まれば、最初に区切られたはずの区間はどんどん広がって行く。区切られた区間を広げている間に、相手に対する知識と理解を蓄積して行くのだ。

 その反面、まだ知り合ったばかりなのに、相手のことが良く見えることがある。そういう相手については、最初から相手の魂を感じている場合が多い。相手の魂を感じられるのは、お互いに開かれているからだろうか。魂を感じられることで、本来、言葉で必要なはずの説明が省かれ、効率の良いコミュニケーションが行われるようだ。

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