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2005.10.21

芸術と一人の時間

 これは、掲示板で交流させていただいているSHANAくんの( ゚Д゚)ヒョエー †dreamer・dreamer†芸術の中の陰陽へのトラックバックである。

 読ませていただいたときから、とても気になる記事だった。少し長くなるが、SHANAくんの記事を忠実に引用させていただくことにする。

音楽や演劇は、陽の芸術
美術や工芸は、陰の芸術

ひとそれぞれ考えはあるだろうから気になさらず☆

音楽とかって、一瞬のきらめき。
何度も何度も練習を重ねて、自分を高めて、
本番で全てを出し切る。
きらきら光っているのは、本番の一瞬。

今はCDやDVDで何度も見れるけど、いつもそこにあるわけじゃない。
CDやDVDを見るという行為がなかったら、光らない。
そういうものがない時代は、劇場やコンサートホールでしか見れなかった一瞬の芸術。

その輝きはまぶしくって、見るものの目を支配する強さがある。

だから、その表現に私は光を感じる。陽の芸術。

 うわあ、やられた! という感じだった。SHANAくんは、瞬間的に輝く芸術と、あとに残るものを陰陽で表現している。これは面白い。

 確かに、音楽や演劇は、練習に練習を重ね、本番という瞬間を最も輝かせようとする。実は、私は、コンサートにも良く足を運ぶし、宝塚を観劇したりもするが、コンサートの模様が収録されたDVDを観たり、宝塚のビデオを鑑賞したりすることはほとんどない。どういうわけか、昔からそうだったのだ。しかも、好きなアーチストのCDをじっくり聴き込んだりもしない。だから、私は、不良ファンなんだと思っていた。しかし、こうして考えてみると、私は、コンサートという瞬間、舞台という瞬間を楽しんで来たのだということに気づかされた。こうした楽しみ方は、過ぎ去ってしまった瞬間に、いつまでも縛られていないことになるのかもしれない。

 またまた、SHANAくんの記事を引用させていただく。

絵や工芸は、音楽とかのような練習をしない。しないわけじゃないけど、そんなにたくさんしない。

偉大な画家などになると、練習ですら芸術になる。
私は、描きながら自分を高める。描きながら試行錯誤してる。
描いてるものは練習でなくて、本番。
美術は本番が長く長く続く。

そして、いつまでもぼんやり輝いている。
いつもそこにあって、動かない。見てもらえるのを輝きながら待っている。

画集にもなるけど、どこかに絵を飾れば、それは四六時中そこにい続ける。
まるで影のように。

見るものを支配しない。
相手の自由意志に任せて、見たいときに見てもらう。

音楽のように、キラっと光るわけでもなくて、ぼんやり光続ける。相手に任せて、そこにいるだけ。

この表現に私は影を感じる。陰の芸術。

 なるほど! これは参った!

 去年、神戸市立博物館で開催されていた「栄光のオランダ・フランドル絵画展」に足を運んだ。フェルメール「画家のアトリエ」のほか、十六・十七世紀のフランドル・オランダ絵画たちの作品をじっくりと鑑賞した。そのとき、私の目を釘付けにした作品があった。アブラハム・テニールスの「猿の床屋に猫の客」という作品だった。それは、猿の床屋に猫が客としてやって来ている風景を描いたものだった。しかも、椅子に座っている猫は、いかにもお金持ち風の猫で、手に鏡を持ち、自分の両脇に立つ床屋の猿が自分の毛をカットする様子をじっと伺っていた。その猫の表情は、床屋の猿がちょっとでもミスを犯そうものなら、すぐにでも言いがかりをつけてやるぞといった表情だった。

 絵でそれだけのものが表現できてしまうということに、私は強い衝撃を覚えた。もともと、その絵画展に足を運んだのは、その絵画展に足を運んだ派遣仲間が、その絵のクリアファイルをお土産にプレゼントしてくれたからだった。私は、クリアファイルに描かれているその絵に釘付けになってしまい、是非とも自分の目でその絵の実物を確認したいと思ったのだ。

 実際にその絵を鑑賞した私は、その存在感に圧倒された。たった一枚の絵なのに、その絵の中には、言葉では語られることのないストーリーが展開されていた。いや、むしろ、言葉を超えているとさえ思った。もしかすると絵は、言葉では表現し切れないものを表現して行くための手段なのだろうか。音楽であっても、絵であっても、言葉以外の表現方法であることは間違いない。表現方法は間接的だが、素晴らしい芸術を鑑賞すると、言葉よりも直接的に響いて来る。

 ところで、音楽を創ったり、舞台の稽古を重ねたりするには、たくさんの仲間やスタッフがいる。みんなで協力し合って、一つのものを産み出すという作業は、それほど孤独な作業ではないかもしれない。しかし、絵を描いたり、工芸品を創作したりする作業は、ほとんど一人だけで行う。音楽や演劇がグループ活動なら、絵や工芸品の創作は、ソロ活動である。一人で行う作業は、むしろ、自分との戦いになるのではないだろうか。だからこそ、絵や工芸品を創作することが好きな人たちは、一人の時間を大切にしたいと思うのではないだろうか。

 独身の頃の私は、一人で行動することがとても好きだった。買い物に行くのも、友達と一緒に行くことは考えられなかった。むしろ、友達と一緒に居ると、買い物すらできなかったのだ。好きなアーチストのライブのために遠征しても、ライブ仲間たちである程度集まったあとは、自由時間を作り、一人で好き勝手に行動していた。また、自宅に居るときは、電話に出ることさえ煩わしくて、いつも留守番電話にしていた。大学の頃も、サークルの飲み会や合宿で、一人になりたくて仕方がなかった。同じサークルの仲間から、「いつもつまんなそうにしている」と言われていたくらいだ。

 そんな私が、ガンモと出会って一変した。一人で行動することが好きで好きでたまらなかったのに、何から何までガンモと一緒にすることが好きになった。そして、独身の頃、何故、一人で行動することが好きだったのかと考えてみると、人に合わせることが苦手だったということに気がついた。私は、何でも一緒にできる親友に出会ったのだ。

 私が一人になりたいと思っていた理由は、明らかに、陰の芸術家が一人になりたいと思う理由とは異なっていると思う。陰の芸術家は、作品を産み出すために集中する時間が必要なのだ。それは多分、私が仕事中に耳栓を愛用しているようなものだ。

 しかし、陰の芸術家に心から愛する人ができたとき、その人との直接的な関わりを後回しにして、創作に打ち込むのことができるのだろうか。それとも、陰の芸術家と関わる人たちは、そのへんをわきまえた上で、陰の芸術家が大切にしている一人の時間を尊重して行くことを暗黙の了解とするのだろうか。私なら、愛する人との直接的な関わりを望むことだろう。あまりにも一人の時間を大切にする傾向が強いと、「もっとかまって!」というアプローチになってしまうかもしれない。そうなると、私が陰の芸術家を好きになった場合、陰の芸術家の足を引っ張ってしまうことになるのだろうか。

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