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2005.09.10

愛の源から離れた人たち

 相変わらず、私のホームページの掲示板には、愛の源から離れ、苦しみを抱えた人たちの書き込みが絶えない。私は、そうした書き込みを拝見する度に、溜息しか出て来ない。彼女たちとの間に埋めようのないギャップを感じるとともに、「それで、どうかしましたか?」という感想しか持つことができず、対話をする気が起こらないのだ。

 かつて、非公開掲示板で交流していた人が、こんなことを言っていた。火は、寒さを感じているときには私たちを暖めてくれるけれど、使い方を間違えば、火傷してしまうこともあると。私は、なるほどと思ったものだ。愛の源が火だとすれば、その火によって火傷をしたり、また、せっかくの火を失ってしまう人たちがいかに多いか。そうした現実を突き付けられる度に、愛の尊さと厳しさについて再考せずにはいられない。そして、私自身の発信の仕方に問題があったのかどうかについても考えさせられている。

 何故、愛の源から遠ざかってしまったのか。それは、愛に曇りがあったことの証なのではないか。それならば、できる限り愛を曇らせないように、愛の経験を積んで行くことが、愛の源に再び近づくための近道なのではないか。そのために、わざわざ遠ざかることを、自ら選択したのではないか。

 マザー・テレサが修道院に残ることを選択しなかったのと同じように、私は、そうした書き込みを快く思わない方法を選択し続けて行きたい。だから、これからも、自分の愛の判断に基づいて、「それは愛に向かうためのプロセスであって、愛そのものではない!」と叫び続けることだろう。愛の源から遠ざかった人たちにとっては、私のそうした行為が厳しく映ったとしても、私は、自分が愛だと思えないものに対して、にこやかに受け入れることはできない。

 しかし、このようなことを、私がここで綴ることもまた、自己愛なのだろうか。マザー・テレサが修道院に残らない選択をしたことも、自己愛だったのだろうか。また、私は、掲示板で、このような書き込みを受け入れて行くことを自ら選択しているのだろうか。人に対して向けた言葉を自分に対しても向けようとすると、自分というものがわからなくなってしまう。人は、自分を映し出す鏡だと言うが、愛の源から離れた人たちもまた、私の鏡なのだろうか。とにかく、わからない。

※私は「ガンまる日記」でも、掲示板でも、ツインソウルのことを「愛の源」と表現して来ました。ですから、今回の記事でも、「愛の源」というのは、ツインソウルのことです。何故、ツインソウルを愛の源を呼んでいるかと言うと、私自身が、ツインソウルから分けてもらった愛を、ソウルメイトたちに伝えていると思っているからです。

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