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2005.09.12

極に向かう

 これは、りえちゃんの月見想愛のある場所へのトラックバックである。

 りえちゃん、いつも掲示板の流れを気にかけてくれてありがとう。それから、お付き合い一周年、ありがとう。これからも末永くよろしくね。

 りえちゃんとは、一年経ってようやく、感情をぶつけられる関係になれたと思う。彼女の魂は、今、まばゆいほどの輝きを放っている。しかし、その輝きが見えて来るまでに、一年もかかってしまった。

 何故、一年もかかってしまったのか。それは、これまでの彼女との交流の中で、極に向かうような現象が発生しなかったからだ。極に向かうとは、例えば、その人が今、抱えているものが、これ以上はもう進めないというところまで来ていることを意味する。彼女は、一つの極に立ち向かい、自分にとって何が一番大切であるかを見極めながら、後戻りすることなく、自分の環境を再構築しようとしている。そのプロセスにおいて、私は彼女の爆発しそうなほどのエネルギーを感じることができた。これまでの殻を破り、新たな自分を受け入れて行こうとする躍動感さえ感じるのだ。そして、掲示板で交流しながら、私は彼女の魂を抱きしめたくなるような感覚に陥ってしまう。

 彼女は自己再発見の旅の中で、自分らしさを取り戻し、古い皮を脱ぎ捨てた。極に立ち向かった彼女は、自分自身で拡大を行ったのだ。私から見ると、極に向かい始めるまでの彼女は、焦点がぼやけていて良く見えなかった。しかし、彼女が極に向かい始めたとき、彼女の魂は、くっきりとその輪郭を表したのだ。そんな彼女が、ブログにこんなことを書いてくれた。

 ネットの交流で、まるみんの掲示板ほど親密に交流できた場所は無い。
 自分のHPでは、サイトの趣旨が違うこともあるが、とてもとても交流するというには程遠い。
 自開症と自分から言うように、まるみんはとてもオープンで愛情が深い。それは言葉を交わしていて、かなり気持ちが良い。不思議なことに、新しい返信がなくても、以前に書いてある言葉を読んだり、別の人に書いてある返信を読んで、まるみんの愛情に浸れるのだ。書き込んである言葉から愛情を感じることは、書いている人が本当に愛情深くないと出来ないと思う。
 だから、それを感じたくてずっと掲示板に張り付いていたことを、今日久々に同じ行動を取ったことで不意に思い出した。
 まるみんが愛情を感じて涙したり、愛情を感じなくて怒ったりすることを文章から知ると、感情が同調して同じような気持ちになり、また、まるみんが生きていることを感じることで不思議と幸せな気分になった。この頃はまるみんのことを吸収しようとしていた気がする。それは、アイドルとファンのような関係に近かったんだろうな。
 今も相変わらず、愛の伝道師として(笑)尊敬はしているけれど、ファンではなくなった。ファンであることより、同じ道をくっついて歩いていきたいと思うようになれたからだ。願えば適うのなら、ずっとこの先もくっついて行きたいと思う。
 こんなラブメッセージを書くと、まるみんが照れて困ったように反応するだろうなと、夜中ににやにやと笑いながら考えているのも、また楽しかったりする(笑)。

 りえちゃん、ありがとう。私が覚えているりえちゃんとの感情のシンクロは、私が子宮にたくさんの筋腫を持っていることをこの「ガンまる日記」で告白したときの、りえちゃんの動揺だった。彼女は、私のためにたくさんの涙を流してくれた。ネットで知り合って、まだそれほど日数もたっていなかったはずなのに、そこまでの感情を示してくれる人が、これまで居ただろうか。私はそのとき、何と愛情深い人に出会ったのだろうと思った。

 引用させてもらったりえちゃんの表現は、確かに恥ずかしくなるような内容だが、そうした感情のシンクロからも、ファン(?)という表現では済まされないものを感じていた。この人はただモノではないぞという気がしていたのだ。しかし、その一方で、確かにあの頃は、何となくこそばゆいものを感じていたのも事実だ。でも、今は違う。ようやく激しい感情をぶつけ合うことができそうな、わくわくする予感。ここのところのりえちゃんの変化が、私にはものすごくうれしい。今の彼女に起こっているのは爆発だ。怒りや悲しみや喜びといった喜怒哀楽の感情を中途半端にしてしまわずに、ある極までとことん向かって脱皮して初めて、その人の魂というものが頭角を表して来るのかもしれない。人間関係とは、そうした激しい感情に触れて初めて、はっきりとした手応えを感じられるようになるものだと思った。

 りえちゃんも書いてくれている通り、私は、掲示板でのやりとりが大好きだ。リアルの友人たちに、ネット依存症と思われても仕方がないくらいに大好きだ。通勤のお供にはPDAを持参しているし、旅行に出掛けるときも必ずノートパソコンを持って行く。ご覧のように、自分から発信して行くことも大好きなのだが、掲示板でのやりとりに命を掛けていると言っても過言ではない。だからこそ、掲示板に対して、私なりのこだわりを示してしまうのかもしれない。

 私が掲示板の交流で最も実りがあると感じるのは、こうした極を体験し、拡大に向かって行くときである。そして、拡大ということにスポットを当てて考えてみると、極を体験せずして行われる拡大は、無責任に感じられる。しかし、極を体験したあとに起こる拡大は、一種のエクスタシーのように感じられる。

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