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2005.09.11

無意識のうちの選択

 今日は、ガンモの道楽に付き合った(笑)。宝塚歌劇団の宙組(そらぐみ)公演の観劇である。以前にも書いたことがあるのだが、私は、ガンモと結婚して兵庫に移り住むようになってから、宝塚歌劇団とご縁のある方たちと交流を持つようになった。彼女たちから宝塚観劇のお誘いをいただいているうちに、いつの間にかガンモがすっかり宝塚にハマってしまったのだ。

 私はもともとお芝居などを観劇することが好きだったのだが、女性だけで世界で成り立っている宝塚には、ちょっと違和感があり、敬遠していた。しかし、彼女たちから宝塚歌劇団の裏話などを聞いているうちに、舞台という短い瞬間に、最も輝いている自分を演出しようとしているタカラジェンヌたちに魅力を感じるようになっていった。初めてのときは、誰が誰なのか区別のつかなかったタカラジェンヌたちも、回を重ねるごとに、次第に識別できるようになって行った。今回の宙組公演のテーマは、ジプシーへの人種差別だった。感想は、そのうち、映画と演劇のはなしに書く予定である。

 さて、その後の掲示板の流れであるが、掲示板についての私の運営指針については、掲示板の蒼衣さん宛のコメントに書かせていただいた。私は、それを書きながら、何故、私はこれほどまでに、自分の掲示板にこだわりを持ち続けているのかということについて考えていた。もしかすると、自分を正当化するためのチャンスとして利用しているのだろうかとも考えた。そして、ようやく「選択」というキーワードに辿り着いたのだ。

 私たちは、多かれ少なかれ、自分がどのような行動を取るかの判断を下すとき、何らかの「選択」をしている。その「選択」は、好みであったり、過去に痛手を受けた事象から避ける方法であったりもする。そして、ホームページや掲示板、ブログといったものに関しては、読み手も好んで「選択」してくれているのだと思う。つまり、私のページに毎日のように訪問してくださっている方たちは、私の書いているものを「選択」してくださっているのである。そして、掲示板にコメントを書いてくださっている方たちも、どの発言にコメントを書きたいかを常に「選択」している。逆に、「選択していない状態」とは、世の中のありとあらゆるホームページや掲示板、ブログに目を通し、掲示板の、ありとあらゆる発言にコメントを書き込むことだと思うのだ。

 私たちは、無意識のうちに、何かを「選択」し続けている。読みたいホームページを選択すること、コメントを書き込みたい掲示板の発言を選択するということは、通常、読み手によって行われる。しかし、書き手は、読み手を選ぶことはできない。だから、書き手の私は、「このサイトでは、こういう読み手を対象にしています」という宣言を掲げているのだと思う。そして、そうした宣言に納得してくださった上で、書き込んでくださった発言にはすべてコメントを書かせていただくという方針を取って行きたいのだ。

 通常、家庭には法律がない。それは、少人数の関わりが、相対的な関係を築き易く、秩序によって守られるからだと思う。少人数の関わりには、自由意思の尊重が見られる。しかし、家庭を拡大させたものであるはずの国家には、法律がある。それは、大多数の自由意思を受け切れないからだと思うのだ。

 私の掲示板も、少人数の関わりであれば、「選択」も必要なかったと思う。しかし、サイトは管理人の予想以上に大きくなってしまった。だから、「選択」という手段を取らせていただくしかないのではないか。そうしなければ、既に関わりを持ち始めた人との関係までも、私は責任を持って守れない。

 てんてんさんが、私の気持ちを代弁してくださるように、掲示板に書き込んでくださっていたので、私はとてもありがたいことだと感じていた。てんてんさんの書き込みはとても厳しいけれど、私の持っている厳しさと、とても良く似ている。白いものを黒いと言えない性格も、私とそっくりだ。私は、受容することだけが愛ではないと思う。厳しい言葉の中にも愛はキラキラ光っている。闇の中にいる人たちの光がわかりにくいのと同じように、闇の中にいる人たちには、その光が見えないだけなのではないだろうか。私は、そういう厳しさがとても心地よい。激しくぶつかり合う関係の中に、お互いの学びがあるのならば。激しくぶつかり合いながらも、一つの方向に向かい始めるのならば。でも、そうでないなら、激しくぶつかり合うことは、お互いにとってのエネルギーの消耗に過ぎないと思うのだ。

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