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2005.09.21

英語圏に行きたい

 出勤してみると、月に一度の定時退社日だったということがわかり、仕事中も心が踊っていた。水曜日でレディスデーだし、映画を観に行きたいと思ったのだ。

 仕事を終えてガンモに電話を掛けてみると、まだしばらくかかりそうだと言う。それなら、ガンモの仕事が終わるまで、映画を観ようと決めたのだった。

 観ようと思っていた映画は、『シンデレラマン』だ。三宮の映画館に着き、切符売り場で切符を買うと、割引なしの千八百円だった。あれ? 今日はレディースディじゃなかったのだろうか。それとも、私が女性に見えなかったのだろうか。兵庫県に移り住むようになってから、既に九年以上も経っているというのに、私はまだ、そのあたりの事情を把握し切れていない。何故なら、レディースディが水曜日のところもあれば、火曜日のところもあるからだ。このようなことは、手帳にでも詳細にメモしておかなければ、どんどんこぼれ落ちて行ってしまう。

 『シンデレラマン』を観て感じたことは、映画と演劇のはなしに書いた。今日、私がここで取り上げたいのは、欧米の夫婦の愛し合い方である。仕事から帰った夫を妻が迎え入れ、熱い抱擁とキスを交わす。それらの愛の行為を、子供にも胸を張って見せられる。更に、子供たちとの度重なるスキンシップ。自開症(じかいしょう)の私にとって、理想的な愛の形がそこに映し出されているのだ。だから、きのうとは別の意味で「英語圏に行きたい!」と思ってしまった私である。こうした映画には、夫婦愛と親子愛の共存が映し出されている。愛する妻と子供のいる生活が、これほどまでも支えになり、また、守りにもなって行くのだということを、とことん感じさせてくれた映画だった。

 日本は、「隠す」文化を持っているのだろうか。私の知る限り、『シンデレラマン』に表現されているような強い絆で結ばれている家族をほとんど見掛けることがない。毎日の愛情表現は控えめで、過去に表現した愛情を繰り返し表現することはあまりない。しかし、これは、劣化に向けて確実に動いていると思う。それでも、愛情を隠してしまうのは、日本の国民性なのだろうか。

 ところで、きのうの思い込み連鎖に関して、miaさんとてんてんさんからコメントをいただいた。お二人のコメントを引用させていただきますが、ご了承ください。

まず、miaさんからいただいたコメントから。

うーん、うなってしまいました・・・・

「設定ファイルに書き出す内容の英単語の綴りが間違っていた」のは、今後も間違いの元ですから、正しい綴りに直すのが、当然のやり方ですが、どういう風に解決したのでしょうか。

間違った綴りでも仕様書どおりって、日本であっても納得しませんよ!! ええ!!そんなことってあるの???

リスク管理の面からも、正しい綴りに直すべきです。

  そうなんですよ、miaさん。私も、今度の間違いの元だから、これを機会に、すべて正しい綴りに直したほうがいいと主張しました。ずっと同じ人が開発し続けるわけではないし、今後、新しい開発者が担当するときに、きっとまた同じ間違いをする可能性が高いでしょうから。

 でも、彼らは私よりもずっと古くからこの製品の開発に携わって来ている人たちで、それらの製品も、何万本単位で多くの企業さんに使っていただいているようです。新しい製品を開発しながらも、過去にリリースした製品に対するメンテナンスも同時に行っているため、古いものに手を加えるということは、彼らにとって大きなリスクを背負ってしまうことになるようです。そのような状況下においては、新たな傷害(バグ)を生み出しかねない状態です。その気持ちは、開発者である私にも良くわかります。そのため、どうしても「守り」の体制を取りたがり、「これまでの流れとは違うものを排除する」という方法を採用しているようです。

 また、アプリケーションが使用している設定ファイルは、ユーザがファイルを開いて参照するようなものではないので、よしとしている部分もあるようです。どうも、この問題は、「守り」が多過ぎるということが、根本原因のようです。

 続いて、てんてんさんからいただいたコメントから。

ガンまる日記 の「思い込み連鎖」によせて

お互いの思い込みが分かって、よかった。よかった。
と思ってしまいました。
これで、原因がはっきりしたから、根本解決も早いだろうなあ。

なんて、私は思ってしまいました。(笑)

「英語圏に行きたい」と叫んでいるまるみさんを想像して
ちょっと、笑ったかなあ。

納得いかない感情を味わうのも、人間らしくてよい気がしたのは
私だけ??

 あはは。いやいや、おっしゃる通りだと思います。「納得行かない!」と思いながらも、心の中では、「良かった良かった」と思っている自分がいます。私の立場でものを考えると、「納得行かない!」になるのですが、彼らの立場でものを考えると、彼らの主張もわかります。現に、miaさんに、彼らの立場でコメントさせていただきました。(^^;

 それよりも、「ある結果」というのは、様々な要因が重なり、ある(途中の)段階を表現したものに過ぎないということを、改めて思い知らされました。複雑に絡み合った要因を考慮しなければ、私たちは、ある特定の段階でものごとを判断したに過ぎません。もしかすると、Y氏が最初に綴りを間違ったのだって、もっとさかのぼってみれば、綴り間違いに至るような要因があったのかもしれません。

 そう考えると、世の中で起こっている、本当に目を瞑りたくなるような事件に対しても、実は、自分も間接的に関わっている可能性だって、ゼロとは言い切れなくなって来ると思うのです。そういう意味からも、人と人はいろいろな繋がりを持っているのだなあと感じました。

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