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2005.09.26

映画『パッション』に見る絶対愛

 身体がどうしても言うことを聞かなかったので、仕事を休んだ。「ガンまる日記」を書き上げ、ベッドに横になって一眠りすると、次第に回復して来た。どうやら、私に足りていなかったものは、休息だったようだ。

 更に、掲示板の流れに目を向けてみると、もっと元気になった。ようこさんが、私の今の感覚を敏感に感じ取ってくださっている。ようこさん、ありがとう! それに加え、掲示板の中に対立があり、それがお互いの壁を打ち破るきっかけになっている。ああ、何て心地いいんだ! 今の掲示板の流れはとても素晴らしい! と私は思った。

 元気になって来たので、レンタルしている最後のDVDを観た。メル・ギブソン監督の『パッション』だ。非公開掲示板で交流させていただいているちーちゃんが、春頃に、りえちゃん宛のコメントに『パッション』という映画を観たと書き込んだ。そのことを、りえちゃんはずっと気にかけていて、先月、その映画をレンタルして観たと言う。掲示板で対話を始めた相手の言葉を決して素通りしようとしない交流に、私は感動したのだ。だから、私も、その映画を観たいと思った。

 感想の詳細については、映画と演劇のはなしに書いたのだが、一言で言って、とにかく凄い映画だ。何が凄いかと言うと、愛に対して無知であることへの残酷さがありありと描かれているところだ。何故、自分と同じ人間に対し、そこまで残酷になれるのだろうか。イエス・キリストを何度も何度も鞭で殴り、イエスの苦しんでいる様子に笑みさえ漏らす冷酷さ。この映画に登場する人たちのほとんどは、自己愛に満ちている。イエス・キリストの僕(しもべ)であった人たちでさえ、まさしく処刑されようとしているイエス・キリストを目の前にして、自分とは関係のない人物だと言い張ってしまう。

 そんな中にあって、イエス・キリストだけが慈愛の精神に満ちていて、処刑しようとしている人たちに対して、彼らの罪を赦したまえと神に祈っている。彼らによって死に至らしめられようとしているのに、彼らのために祈りを捧げているのだ。ああ、イエス・キリストの愛は一体何だ! と思ってしまう。

 意外に思われる方もいらっしゃるかもしれないが、マリアがイエスの子供頃のことを思い出すシーンは、特に涙を誘った。幼いイエスが道端で転び、マリアが抱きかかえるシーンがよみがえるのだが、大人になったイエスが、磔にされるために自ら十字架を背負い、処刑場に向かう途中で何度も転ぶ。そのイエスに対し、何も手を差し伸べることができないでいるマリア。私はそこに、母から子に注がれる絶対愛を見たのだった。

 私は、キリスト教信者でないので確信はできないが、もしかすると、イエス・キリストが説こうとした愛も、絶対愛だったのではないだろうか。何しろ、自分が磔にされようとしているのに、磔にしようとしている人たちに対し、愛を示し続けたのだから。

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