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2005.09.09

映画『マザー・テレサ』

 何となく、仕事を早く上がれる雰囲気があったので、定時過ぎに職場を出た。金曜日だったし、たまには自分にご褒美を与えたいと思っていた。ガンモに電話を掛けると、まだしばらく仕事を片付けられそうにないと言う。

 せっかく仕事を早く上がれたのだから、私は、久しぶりに映画館で映画を見ようと思っていた。手持ちのPDAで、劇場の公開情報を調べ、『マザー・テレサ』を観ることに決めた私は、三宮へと向かった。十九時からの上映にはギリギリだったし、三宮周辺の地理をあまり良く把握していない上に、初めて足を運ぶ映画館だったのだが、地下鉄の改札を出て、『マザー・テレサ』が私を引き寄せてくれるなら、きっと上映時間に間に合うはずだと思っていた。

 すると、不思議なことに、いつも利用していない改札口を出たにもかかわらず、何となく映画館のあるほうへと足が向いていた。そして、交差点で信号待ちをしているときに、目の前のビルに目をやると、そこが目的の映画館だということがわかった。私は吸い寄せられるように映画館に辿り着いたことになる。映画館に着いたときは、十九時をほんの少し回っていたが、まだ予告編を上映している最中だった。予告編で目にしたいくつかのラブシーンが、私のハートを熱くさせる。そして、三島の『春の雪』が十月の終わりに封切されることを知った。あの小説は、若い頃に読んで、心を深くえぐられた思い出があるので楽しみだ。

 さて、慈愛というテーマのもとにこの世を生き抜いたマザー・テレサは、修道女でありながら、修道院に留まろうとせず、貧困街に身を置いて、貧しい子供たちや人々に見放された病に苦しむ人たちの世話をした。神に対する絶対的な信頼を持ち、同じ意志を持った人たちに助けられながら、マザー・テレサは少しずつ活動の範囲を広げて行く。しかし、中には彼女の行動に反対したり、妨害する人たちもいた。それでも彼女は、周りの人たちを少しずつ味方につけて行き、決定的なピンチのときには、過去に手を差し伸べた人たちに助けられたりもした。

 たくさんの人たちとの関わりを持ちながらも、一つ一つの愛を決しておろそかにしなかったマザー・テレサは、とにかく慈愛の精神に満ちていた。しかし彼女は何でも受け入れて行くのではなく、受け入れて行くものに対して徹底的に頑固だった。修道院に残ることへの抵抗、自分の活動を組織化することに対する抵抗など、彼女がこだわりを見せたものに対する頑固な姿勢は、何が愛であるのかを人々に突きつけた。

 彼女の示した愛とは、高いところから手を差し伸べようとするものではなく、奉仕という形で貧しい子供たちや病人たちと接し、目の前の現実から決して目をそらさないでいることだった。そして、長いものにも巻かれようとしない頑固な精神。しかし、男女の愛は、テーマとして出て来なかった。ブッダもそうだったが、慈愛というテーマを選んだ人は、男女の愛という個々の愛からを体験する必要はなくなってしまうのだろうか。

 マザー・テレサを演じたオリビア・ハッセーは、布施明さんの元奥さんである。彼女は、マザー・テレサのような慈悲深い女性の表情をうまく出せていたと思う。あの慈悲深さは、既に自分の中に持っていなければ、演技などでは絶対に引き出せないものだと思う。

 この映画は、実に賛否両論が激しい。映画を観る前に参考にした他の人たちのレビューは、ほとんど参考にならなかった。同じ映画を観ても、その人が何をテーマにしながら生きているかによって、目の中に飛び込んで来る光景や、心を揺さぶられるシーンが異なって来る。ある人が、「観ているだけで、自然に涙が出て来る映画だ」と書かれていたが、私にとってもその通りの印象の映画だった。

 映画を鑑賞し終えてガンモに電話を掛けると、ちょうど仕事を終えて引き上げるところだと言う。そして私は、『マザー・テレサ』の深い感動に包まれながら、ガンモが作業している最寄駅まで移動し、ガンモと待ち合わせて一緒に帰宅した。とにかく、何もかもが実にタイミング良く運んだ一日だった。

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