« 2005年8月 | トップページ | 2005年10月 »

2005年9月

2005.09.30

鳩のその後

 愛シチュー博に出掛けている間に、我が家に鳩の巣が作られてから早くも三ヶ月余り。卵から孵ったモリゾーは、元気に巣立って行った。さて、その後は? と気がかりな方もいらっしゃることだろう。

 実は、その後も毎日のように、親鳩たちが、巣のあったベランダに餌を食べにやって来ている。早朝からバサバサバサと音がして、餌箱に餌が入っていないかどうかを確認している。餌箱に、餌が入っていなければ、何度も何度も繰り返しやって来ては、餌箱の様子を確かめている。私たちは、ペットショップで鳩の餌をたくさん買い込んで、備えている。そして、朝、お弁当を作るときに、鳩に餌を与えているのだ。私たちが餌箱に餌を入れると、親鳩たちは、餌箱に向かって一目散に突進する。

 私たちは、親鳩たちのことを、父ちゃん、母ちゃんと呼んでいる。
「あっ、母ちゃんが来た」
とか、
「父ちゃんが餌くれって、ホーホー、言ってる」
などと言いながら、鳩の様子を観察している。ガンモは休みの日に、父ちゃんが、クローバーを口にくわえているのを見掛けたそうだ。
「まるでスナフキンみたいだった?」
と私が尋ねると、
「そうそう。あれは絶対四葉のクローバーだよ」
とガンモは言った。私も、父ちゃんがクローバーを口にくわえている勇姿を見てみたかった。

 鳩には、縄張りがあるのだろうか。他の鳩たちも、ときどき餌を食べにやって来るようだが、父ちゃん、母ちゃんが、他の鳩たちを追い払ってしまうのだ。ここから巣立って行ったモリゾーも、ごくたまに、父ちゃん、母ちゃんと一緒にやって来る。若いモリゾーは、まだ目が黒い。ここから巣立って行ったモリゾーでさえ、まるでお客さんみたいに遠慮しながら、父ちゃん、母ちゃんにくっついて、餌を食べている。

 旅行に出掛けるときには、私は彼らに話し掛ける。
「旅行で二、三日、留守にするから、その間は餌をあげられないからね」
と。彼らがその言葉を理解してくれているかどうかはわからないが、私たちの不在が続いても、彼らは変わらずに、私たちのところにやって来る。父ちゃんだけが来ることもあれば、母ちゃんだけがやって来ることもある。こんなふうに、父ちゃんも母ちゃんも、ずっと同じパートナーと一緒にいる。鳩夫婦は、仲がいいのだろうか。

 モリゾーが孵化したときの感動をまた味わいたくて、私たち夫婦は、また密かに、私たちのベランダで卵を産んでくれないかしらと心の中で思っている。ガンモが、巣になりそうな箱を用意して、ベランダに置いてはいるのだが、どうも気に入ってはくれないらしい。それとも、既に、どこか別の場所で、巣を作って雛を育てているのかもしれないが。

|

2005.09.29

守り抜くべき熱きもの

 ガンモの仕事が休みだったので、私は早く家に帰りたいと思っていた。しかし、仕事が少々遅れ気味だったので、残業をするために、社員食堂で夕御飯を食べた。残業をすることを伝えるためにガンモに電話を掛けると、ガンモは私が残業することに対し、少しがっかりした様子を見せた。ガンモの声を聞いて、早く家に帰りたい気持ちが一層強まった私だったが、気を取り直してオフィスに戻った。すると、いつも一緒に仕事をしている人たちの姿が見えないのだ。休憩時間だったので、休憩室で煙草でも吸っているのだろうと、そのときは思った。しかし、行き先掲示板に目をやってみて初めて、彼らが既に帰宅したということがわかった。

 遅いときは、いつも二十三時過ぎまで残業している彼らが、定時退社日でもないのに、揃ってもう帰宅してしまっている。一体、何があるのだろうと思っていたら、別のプロジェクトのメンバーが、
「今日は、阪神ファンにとっては大事な日だから、阪神ファンはみんな、甲子園球場に行きたいだろうなあ」
と話しているのが聞こえて来た。阪神ファン? そう言えば、彼らもプロ野球好きだったはず。普段、スポーツとは無縁の生活を送っている私は、プロ野球選手の名前も、球団の種類(セ・リーグ、パ・リーグの球団の分類)も、相撲の白星と黒星の違いにも疎い。だから、阪神タイガースがそのような局面を迎えていることなどまったく知らなかった。しかし、もしかするとこれは、私も帰っていいということ? と勝手に判断し、さっさと帰宅準備を整えて、帰路に就いた。

 オフィスを出てすぐに、ガンモに電話を掛けた。
「今日は、阪神タイガースが決勝戦をやってるの?」
とガンモに尋ねると、
「そうそう、巨人とね。今、阪神がリードしてるよ」
とテレビをつけているガンモが答えた。ガンモは私よりもほんの少しプロ野球には詳しいが、私と同じように、テレビ中継などはまったくと言っていいほど観ない。テレビのニュース番組を見ていても、スポーツ情報になると、お互いチャンネルを変えてしまう。当然、スポーツ紙も読まない。本当に、似たもの夫婦だなあと思う。でも、普段、無関心でいるプロ野球に、今夜は救われたのだ。残業することなく帰宅して、早くガンモに会えたのだから。

 人は誰でも、何かしら、熱いものを持っている。その熱いものを、普段の環境で出せるか出せないかは、その人が何を選択しながら生きているかによるのかもしれない。例えば、私は、職場では、それほど熱くはいられない。しかし、ガンモといるときや、ホームページやブログを運営しているときは、とことん熱くいられる。残業をせずに帰宅して行った彼らもきっと、職場では熱くいられない。でも、阪神タイガースに関しては、熱くいられるのだろう。おそらく、彼らにとっての阪神タイガースは、私にとってのガンモやホームページ、ブログの運営と同じで、とことん守り抜きたい対象なのだろう。人は、そんな熱い想いを燃やしながら、それらを糧にして、日々の苦しい仕事をこなしているのかもしれない。だからこそ私は、それら苦しい試練の対比として存在している自分の城であるホームページを守り抜きたい気持ちが強くなるのだと思う。彼らから、阪神タイガースへの想いを取り上げてしまうのと同じで、ホームページの運営までも苦しくなってしまったら、苦しい仕事との対比ではなくなってしまうからだ。おそらく、熱いものを持っている人たちは、そういう形でバランスを取っているのだろうと思う。そして、今回、私が早く帰宅できたように、守り抜きたい熱きものとは、その熱さを選択していない、別の誰かをも幸せにすることがある。

|

2005.09.28

言葉で表現したほうがいこと

 わかり切ったことであっても、言葉で表現したほうがコミュニケーションが円滑に進む場合がある。例えば、オフィスで使われる、「おはようございます」、「お先に失礼します」、「お疲れ様でした」などの類だ。

 驚かれる方も多いかもしれないが、私の職場では、これらのあいさつが徹底されていない。フレックスタイム制が導入されているせいだろうか。出勤時間はバラバラで、出勤して自分の席に着くときも、「おはようございます」のあいさつをしないし、帰るときも黙って帰る。私は最初、あいさつをしない職場というのに驚き、どうしても慣れなかったのだが、さすがに三年半もいると、郷に入れば郷に従えとなってしまう。何と言ったらいいのだろう。あいさつをすると、逆に浮いてしまうのだ。あいさつをすると、静かな人たちの中に、一人だけにぎやかな人が混じっているかのような、孤独感に襲われてしまう。今ではこれは、社風の一つかもしれないと思い始めている。派遣先の社風に馴染んで行くのは、派遣のつとめでもある。(^^;

 そんな職場だから、コミュニケーションが円滑に進まない場合が多い。あいさつに慣れていないと、言葉にすべきことまでも一緒に心の中に押し込めてしまうようだ。例えば、出張に出掛けた人がお土産を買って来てくれて、机の上にそのお土産をそっと置いてくれたとする。ほとんどの人は、そのお土産を誰が買って来てくれたのか、確認もせずに食べてしまう。私は、さすがにそれはイヤなので、周りの人に、
「これは、誰が買って来てくれたお土産?」
と尋ねる。そして、お土産を買って来てくれた人の名前を聞き出し、その人にお礼を言ってからいただくようにしている。

 掲示板の交流においても、言葉にしたほうがうまくことが運ぶことがある。例えば、非公開掲示板での交流において、全員が何となく気にかけながら存続させていることがある。それは、掲示板に参加している人たちのお誕生日を、みんなでお祝いするということだ。非公開掲示板は、非公開プロフィールと連携しているため、参加してくださっている人たちの誕生日がわかるようになっているのだ。密なやりとりを重ねて行くのだから、お誕生日をお祝いし合うのは当然、という考えである。お互いのプロフィールを公開し合うということは、非公開掲示板だからこそ実現できているのかもしれない。

 これ以外にも、返信を書くときでも、対話している以外の人へのちょっとした配慮をコメントの中に埋め込んだりしている。そうすると、例え時間的な余裕がないために、誰かと一対一の交流になってしまったとしても、他の人とも繋がっていられるのだ。そのため、今、関わりを持っていない人のことも、同時に考慮に入れながら交流を深めて行ける掲示板になっている。

 このように、言葉で表現したほうがいいことを積極的に表現して行くことによって、相対的な関係が成り立って行く。そして、相対的な関係を築き始めると、何となく、お互いの動作が似て来る。他の人が実践してうまく行っていることを、自分の中にも取り込もうとするからだ。

 私は、こうした交流方法がとても面白いと思い始めている。だから、mikiさんが、SHANAさんの楽しみにしているライブにカウントダウンがかかったことを気にかけていたことを見逃したくなかった。そうしたことを言葉にして行くことによって、コミュニケーションはどんどん円滑に進んで行く。しかし、残念なことに、実際は、それらのことが頭の片隅に残ってはいても、コミュニケーションの段階では、省略されてしまうことが非常に多いのだ。そうした現象は、当たり前のことを繰り返し言わない日本人という国民性を創り出している。だから、海外の映画を観ると、豊かな愛情表現が、新鮮に映ってしまうのかもしれない。

|

2005.09.27

対立について

 掲示板で対立のことを取り上げたら、いろいろなご意見をいただいた。それらを拝見して思ったのは、対立反対派の人たちは、対立した結果、関係が悪化してしまうことを最初から懸念していることがわかった。つまり、ネガティヴな対立に転んでしまうことへの恐れがあるのである。これに対し、対立肯定派の私は、対立したことによって壁が打ち破られ、以前よりも仲良くなれるというポジティヴな対立があることを主張したかった。

 何かを選択するときに、私たちはいつも、その結果がポジティヴに転ぶか、ネガティヴのままで終わってしまうかを、無意識のうちに判断している。その判断に基づいているのは、その人の過去の経験である。経験の中から、ネガティヴな対立を引き出す人は、自分の感情を押し殺すことによって、周りとの関係を成り立たせている場合が多い。反対に、経験の中から、ポジティヴな対立を引き出す人は、もっと根本的な部分から人と関わろうとする。そういう関わり方で成功して来たために、ネガティヴなことを心の中に押し込めてしまう関係が、どうも嘘っぽく映ってしまうのである。

 この件に関して、ななこさんとmikiさんが、掲示板で以下のようなやりとりをされていたので、少し引用させていただく。引用記号付きの部分はななこさんの発言、引用記号なしの部分は、mikiさんの発言である。

> 相手が気づくのが何年先でも良いんですよ。
> 対立起こしてバラバラになるより、お互い笑顔の方が良いもの。
そうだけど その笑顔がぎこちない場合だってあるんだよ。片方だけがね。
以前にまるみさんに書いたんだけど こちらでつきあっている友達でいい関係できた分その心地よい関係をこわしたくなくて 言えないことがあるの。
例えば 彼女は仕事してるから おむつはずしは他人にしてもらった方が楽って自慢してて私はそうは思わない。でも 反論できない。こわしたくないから。
彼女 うちに来ると長時間居座るの。一度 7時間もいたことあります。
それもこちらの引っ越ししたての時。
2−3時間で帰ってって言えなくて 結局 呼ぶこと自体が面倒になって もう半年以上会ってない。
そもそも 対立を起こすのを恐れたから 今も恐れているから そういう悪循環が切れないの。
彼女のこと 大好きだから 失いたくないから 言いたいこと言えない。
でも 彼女は私の本心を知らないから 笑顔だけど 私の笑顔はひきつっている。
そういう場合もあるから あえて起こさなくてもいいけれど 起きてしまったらとことんやりあったらいいかなって思ってます。
それが 短期間で終わらないと嫌だけどね。

 まず、お二人がここで取り上げられているのは、ネガティヴのまま終わってしまう対立の例だ。

 私は、mikiさんの書かれている、

以前にまるみさんに書いたんだけど こちらでつきあっている友達でいい関係できた分 その心地よい関係をこわしたくなくて 言えないことがあるの。

の部分が気になっている。mikiさん、本当にそう? 心地よい関係を壊したくないのではなくて、本当は心地良くないと思っていることを、相手に知られるのが怖いんじゃないのかな? 私には、上記の関係が、mikiさんにとって、心地いい関係とは思えないんだけどな。

mikiさんは、私に対しては、厳しいこともはっきり言ってくれるのに、このお友達には何故、言えないのだろう? 彼女のことが大好きとmikiさんは書いているけれど、私にはそうは思えない。大好きだからこそ、言えるんじゃないのかな? じゃあ、いつも私に言ってくれていることは何? 私のことが、大嫌いだから言えてる?

 いや、実は、mikiさんの書かれていることも良くわかるのだ。それは、私にも、対立が成り立たないと思う関係があるからだ。そういう対象を観察してみると、もともと対等でなかったり、相手に受け入れようとする体制がなかったり、何が何でもポジティヴで解決しようとしている対象であることが多い。

 心配なのは、mikiさんとお友達の関係の先には、一体何があるのあるのかということ。もしかすると、mikiさんが我慢の限界に来てしまったら、プツンと切れてしまう可能性が大なのではないだろうか。そうなる前に、小さな爆発を起こしつつ、二人の基盤を拡大しながら、お互いの距離を縮めて行くことも必要だと思う。しかし、それができない相手だからこそ、わざわざこのような選択肢を取らなければならないこともわかる。

 掲示板での交流で言うと、対立が成り立たない人に対し、掲示板のコメントを返そうとすると、固まってしまい、言葉が出て来なくなってしまう。しかし、私がその人にコメントを書かなければ、掲示板は流れない。そこでしばらく考えて、パワーがみなぎって来るのを待ってみたり、今はこのコメントを吸収することができないから、順番を無視させてもらうという展開になってしまうのだ。

 対立が成り立つか成り立たないか。それは、一言で言って、相性と言ってしまえるのかもしれない。以前にも書いたことがあるが、普段の関係が良好であるほど、良好な対立が成り立つ。普段の関係が醜いほど、対立も醜くなる。そう言えば、ちーちゃんが、私たち夫婦の喧嘩のことを、とても好きだと言ってくれたことがある。私たち夫婦は、喧嘩の最中でさえ、抱き合ったり、キスしたり、愛していると口にする。そういう対立ならば、乗り越えたあとは楽しくて仕方がないものなのだが、すべての人とそういうわけにはいかないのもわかっている。要は、対立の背景にも、常に、愛と信頼があるかないかということなのだろうか。

|

2005.09.26

映画『パッション』に見る絶対愛

 身体がどうしても言うことを聞かなかったので、仕事を休んだ。「ガンまる日記」を書き上げ、ベッドに横になって一眠りすると、次第に回復して来た。どうやら、私に足りていなかったものは、休息だったようだ。

 更に、掲示板の流れに目を向けてみると、もっと元気になった。ようこさんが、私の今の感覚を敏感に感じ取ってくださっている。ようこさん、ありがとう! それに加え、掲示板の中に対立があり、それがお互いの壁を打ち破るきっかけになっている。ああ、何て心地いいんだ! 今の掲示板の流れはとても素晴らしい! と私は思った。

 元気になって来たので、レンタルしている最後のDVDを観た。メル・ギブソン監督の『パッション』だ。非公開掲示板で交流させていただいているちーちゃんが、春頃に、りえちゃん宛のコメントに『パッション』という映画を観たと書き込んだ。そのことを、りえちゃんはずっと気にかけていて、先月、その映画をレンタルして観たと言う。掲示板で対話を始めた相手の言葉を決して素通りしようとしない交流に、私は感動したのだ。だから、私も、その映画を観たいと思った。

 感想の詳細については、映画と演劇のはなしに書いたのだが、一言で言って、とにかく凄い映画だ。何が凄いかと言うと、愛に対して無知であることへの残酷さがありありと描かれているところだ。何故、自分と同じ人間に対し、そこまで残酷になれるのだろうか。イエス・キリストを何度も何度も鞭で殴り、イエスの苦しんでいる様子に笑みさえ漏らす冷酷さ。この映画に登場する人たちのほとんどは、自己愛に満ちている。イエス・キリストの僕(しもべ)であった人たちでさえ、まさしく処刑されようとしているイエス・キリストを目の前にして、自分とは関係のない人物だと言い張ってしまう。

 そんな中にあって、イエス・キリストだけが慈愛の精神に満ちていて、処刑しようとしている人たちに対して、彼らの罪を赦したまえと神に祈っている。彼らによって死に至らしめられようとしているのに、彼らのために祈りを捧げているのだ。ああ、イエス・キリストの愛は一体何だ! と思ってしまう。

 意外に思われる方もいらっしゃるかもしれないが、マリアがイエスの子供頃のことを思い出すシーンは、特に涙を誘った。幼いイエスが道端で転び、マリアが抱きかかえるシーンがよみがえるのだが、大人になったイエスが、磔にされるために自ら十字架を背負い、処刑場に向かう途中で何度も転ぶ。そのイエスに対し、何も手を差し伸べることができないでいるマリア。私はそこに、母から子に注がれる絶対愛を見たのだった。

 私は、キリスト教信者でないので確信はできないが、もしかすると、イエス・キリストが説こうとした愛も、絶対愛だったのではないだろうか。何しろ、自分が磔にされようとしているのに、磔にしようとしている人たちに対し、愛を示し続けたのだから。

|

2005.09.25

相対性と絶対性

 疲れが出たのか、体調が優れず、家の中で大きな息をしていた。何となく、春頃に感じていた、地を張っているようなあの感覚が蘇ったかのようでもあった。前に進みたくても、プールの中を歩いているような抵抗を感じてしまい、思うように前に進めないのである。力が湧いて来ず、まるで閉じてしまったかのような感覚だ。まさしく、低迷期である。お待たせしてしまっている皆さんに、コメントを返さなければと思うのだが、なかなか身動きが取れない。

 ガンモは休日出勤の日だったので、朝から仕事に出掛けて行った。一人になった私は、映画を観ようと思った。借りて来ているDVDと、先日買った五百円DVDを観た。タイトルは、パトリス・ルコントの『髪結いの亭主』とオリジナル版の『ジェーン・エア』だ。前者は、芸術映画と言われる類のもので、鑑賞するには、自分自身の感情と、視界に飛び込んで来る映像との切り離しが必要である。後者は、完全にストーリーにのめり込むことのできる恋愛映画だ。私は、リメイク版のほうを先に観ていたのだが、今回観たオリジナルのモノクロ版でも、雰囲気が十分伝わって来た。前者の『髪結いの亭主』はソウルメイトの映画で、後者の『ジェーン・エア』はツインソウルの映画だと感じる。もしも、ツインソウルの愛を感じてみたいという方がいらっしゃったら、シャルロット・ゲンズブール主演のリメイク版の『ジェイン・エア』(何故か、タイトルのカタカナが違う)を強くお勧めする。

 夕方、ガンモは仕事から帰って来るなり、私に抱きついて来た。そして、固く固く私を抱きしめた。私は、これは夕べの余韻だと思った。私がゆうべ、ベッドで感じてガンモに伝えた至福の感覚が、半日以上も経って、ガンモから返って来たのだ。もしかすると、こうした愛し合い方こそが、相対的な愛情の典型なのかもしれない。これに対し、絶対的な愛情とは、相手の態度や意志に関係なく、無条件で愛し続けることを言うのだろう。

 相対性のある愛情と、相対性のない愛情。前者がソウルメイトの愛情で、後者がツインソウルの愛情だ。だから、相対的な関係を結ぶソウルメイトは相手にだんだん似て来るが、相対的な関係を結ばないツインソウルは似て来ない。更に、絶対的な愛情とは、その真っ只中にいるときは気付かずに、誰かを敵に回し、愛から離れそうになって初めて、あのとき、あんなふうに愛してくれた人がいたと気付いて行くものだ。私も、いろいろな人たちとの様々な摩擦を通して思う。だとすると、絶対的な愛情とは、思い出すために、あとから取り出すものなのだろうか。

 相対性と絶対性について、書き加えておきたいことがもう一つある。ツインソウルと対立が生まれてしまうのは、ソウルメイトと同じだと思って、ツインソウルと相対的な関係を結ぼうとするからではないだろうか。

|

2005.09.24

自我

 ガンモの義母を見舞うため、ガンモの故郷である香川県に日帰りで出掛けた。泊まりにしなかったのは次の日、ガンモの仕事が入っていたからだ。日帰りで香川県まで帰るとなると、自家用車か鉄道かバスかフェリーという選択肢があるのだが、自家用車の運転はガンモしかできないため、日帰り旅行となると、とても疲れるということで、今回はフェリーを利用した。電車での移動も合わせると、片道およそ五時間の旅である。

 ガンモが嫌がるので、あまり詳しいことは書かないが、深刻な病気というわけではない。ただ、発病する度に手術が必要で、ここ一年半ほどの間に、義母の手術はこれで三回目になる。手術の度に、近くに住んでいる親戚の方たちやガンモの弟にお世話になっている。親元を離れて生活するということは、いざというときにいろいろな人たちの力をお借りすることになってしまう。かと言って、まだそれほど深刻な状況にはなっていないために、ガンモが香川県に転勤を希望するという展開にもなっていない。離れていると、離れていることが当たり前になっているだけに、距離の保ち方が難しくなる。そして、病気が再発する度に、それぞれの立場の人たちの自我が明るみになって行く。

 例えば、私たちは、一回目の手術のときよりも、今回のほうが安心感が大きい。過去の二回の手術で、良好に回復して来たことを知っているからだ。そのせいか、義母は、私たちが毎回見舞いに帰る度に、
「遠いんだから、わざわざ帰って来なくてもいいのに」
などと言う。これは、本心なのだろうか? 私の母も、田舎育ちで、義母とは考え方や取り得る行動が良く似ている。田舎には、謙遜の文化が強く根付いていて、我が子を褒めず、むしろへりくだった育て方をする。そういう文化があるために、本心を言わず、決して喜びをあらわにしない。そういう状況で育った子供たちは、親から褒めてもらうことがないために、へそ曲がりになる。素直さを失ってしまうのだ。だから、ガンモも私も、いまだに親に対して素直な行動を取ることができない。親に対して、ストレートな愛情を示すことができないのだ。そして、親たちとの距離を考えるときに、相手の本心がどこにあるのか読み取れずに、試行錯誤する。

 義母は、病室で一日を過ごすことが退屈だと言っていた。きのうまでは、義母の妹が泊まり込みでついていてくれたらしい。そうなると、私たちが見舞いに来たということは、退屈しのぎになっていいのではないかと考える。しかし、もしかすると、普段、あまりコミュニケーションが取れていないために、返って義母に気疲れさせてしまうのではないかと思い、早めに退散したほうがいいのではないかと考えたりもする。素直じゃないと、相手が見えなくなり、相手が見えていないと、相手の感情を読み取りにくくなってしまう。しかし、もしも病室での会話が楽しければ、私たちが長居したとしても、義母は気疲れすることなく、退屈しのぎになったのではないかと思う。

 再びフェリーに乗り、夜中に帰宅した。私たちは、移動だけでヘトヘトに疲れていた。行きも帰りも、フェリーの中でパソコンを開いてみたものの、行きはモバイル機器の電波が良く通じたのに、帰りはほとんど電波が通じなかった。行きと帰りでは航路が違うせいだろうか。私は何だかイライラしていた。電波がほとんど通じなかったために、フェリーに乗っている四時間近くの間に書けると思っていた掲示板のコメントの返信もろくにできなかった。長時間の移動で疲れた身体。三連休の中日。連休明けにはまた忙しくなる仕事。病室に入ったときの義母の顔。いろいろなことが頭の中で渦巻いて、私の苛立ちは爆発し、ガンモにぶちまけた。

「ねえ、ガンモ。お義母さんは、私たちが帰ったことを喜んでくれたのかな?」
病室に入ったときの義母の表情が気になっていたのだ。私たちの顔を見ても無表情で、
「遠いんだから、わざわざ帰って来なくていいのに」
と言った。私はきっと、移動で疲れている自分の身体に、お疲れさんを言って欲しかったのだと思う。
「私が子供を産まないでいるから、義母さんは私のことが嫌いなんじゃないのかな。私の両親は、ガンモのことを嫌ってなんかないのに」
と言いながら、私はうわーっと泣いた。ガンモは、
「まるみのことを嫌ってなんかないよ。きっと、手術後で身体が大変で、余裕がなかったんだよ」
とガンモは言った。確かにそうだ。病室での出来事を回想すると、義母はずっとむっつしりていたわけではなく、笑顔だって見せてくれた。病気が再発し、それを繰り返して、義母は気難しくなっているのかもしれない。そして、私たちに迷惑を掛けたくないという気持ちでいっぱいなのだろう。しかし、そうだとしても、素直じゃないことは、コミュニケーションを困難にする。そして、自我とは、周囲から当然得られると期待していたはずの愛情が得られなかったときに、自分自身でその埋め合わせをしようと、自分自身に向ける愛情だと思った。

 家に帰り、ベッドの上で、ガンモと仲直りをした。こんなにもぐちゃぐちゃの家に一緒に住み、家事よりも大切なことばかり抱え続けている、世間から見れば悪妻の私をこよなく愛してくれているガンモ。そんなガンモが、私の選んだ最高のパートナーであると実感し、誇りに思えて泣けて来た。ガンモの顔を見ていると、ついさっきまで感じていた苛立ちは、どこかへ行ってしまったのだ。
「こんなウジウジの家に一緒に住んで、ツインソウルとの交流を認めてくれて、ガンモ、愛シチュー」
と言って、ガンモにキスをした。ガンモに、
「ツインソウルのことで、私はガンモを傷つけている?」
と尋ねると、
「ううん、傷ついてなんかないよ」
と言ってくれた。私はガンモを強く抱きしめ、そして、ベッドの明かりを消した。

 目を閉じると、ツインソウルのことが浮かんで来て、様々な状況が一つに繋がった。もしかすると、ツインソウルは・・・・・・。

|

2005.09.23

愛の振動

 ガンモが仕事待機の日(何かあったら、コールセンタから呼び出される日)だったため、どこへも出掛けられず、映画三昧の日となった。ガンモと二人でパソコンの画面に向かいながら、借りて来たDVDに見入った。

 愛の感覚を映画に委ねようとするとき、ああ、これこそが私の感じている愛だ! と思えるような映画に巡り合うこともあれば、これは私の感じている愛じゃない! と強く主張したくなるような愛もある。最近、「愛に関する掲示板」で、愛の振動にや波動ついての話が持ち上がっているが、まさしく、映画においても同じことが言える。

 私が「これはいい映画だ」と思えるときは、登場人物の心理描写が細かく、感情の取りこぼしがない。しかし、これはいまひとつだと思うとき、扱われているテーマが大雑把で、登場人物の感情の取りこぼしが多いのだ。

 おそらく、日常生活で私たちが愛を感じるときも、これと同じことが起こっているのではないだろうか。振動や波動を別の言葉に置き換えるとするならば、何かをすくい上げるときの網目の細かさに値すると思う。振動が大きければ、網目は細かくなり、取りこぼしが少なくなるが、振動が小さければ、網目は粗くなり、大切なものをポロポロとこぼれ落としてしまう。見逃してしまうということは、素通りしてしまうことに等しい。そして、素通りしてしまうということは、心を入れないことに等しく、心を入れないということは、閉じていることに等しい。だから、網目が粗い場合は、すくい上げるために、何度も何度も同じことを繰り返すことになるのだろう。

 では、愛の振動回数を上げるにはどうすればいいのだろう。パソコンであれば、CPUのクロック数を上げれば、パソコンの性能がアップする。メモリを増設すれば、処理スピードも上がる。でも、愛の振動回数を上げるには、どうすればいいのだろう? それにはやはり、既に関わり始めた人との関係を守るということにおいて、その人の許容可能な範囲内で、責任のある拡大を起こして行くことが必要なのではないだろうか。責任の持てない範囲において拡大を行ってしまうと、編み目の粗い愛の状態を作り出してしまうような気がする。

※ちーちゃんへ
お勧め映画ありがとう。お勧めいただいた、どの映画もまだ観ていなかったよ。まずは、『パッション』を借りて来ているんだ。それから、前にフニさんにお勧めしていただいた『ワイルド・アット・ハート』もリストに加わっているんだけど、こちらはレンタルビデオショップで見つからず。今回、ちーちゃんに紹介してもらった映画も、リストに加えておくよ。時間がかかったとしても、絶対、観るからね。今ね、映画でむせび泣きたいモードなんだよ。

|

2005.09.22

心を入れる

 ようやく、待ちに待った三連休だ。先週の三連休はお出掛けだっため、ゆっくりできなかったのだが、今週はゆっくり過ごせそうだ。

 私は、仕事を終えて、職場近くのレンタルビデオショップに直行した。しかし、これと言った作品を見つけることができなかったので、自宅近くのレンタルビデオショップに出直した。連休前で、考えることはみんな同じだったらしく、入口付近にはたくさんの自転車が並んでいた。中に入ってみると、お客さんの数も多く、観たいと思っている作品で、貸し出し中になっている作品も多かった。私は一時間近く物色したあと、DVDを五枚借りて店を出た。

 五枚のうち、最初に手をつけたのは、『恋愛適齢期』だった。ジャック・ニコルソンとダイアン・キートンの恋愛映画である。

 この映画の中で、ジャク・ニコルソンがダイアン・キートンに、
「君は僕の心の友(ソウルメイト)だ」
と言う。しかし、二人で最高の時間を過ごしたにもかかわらず、恋愛に関する二人の価値観は異なっていて、二人は別れの苦しみを味わうことになる。それぞれの苦しみ方は、コメディとも言える部分もあるのだが、人はこんなふうにして、本当に大切な関係を失って来たのかもしれないとも思う。

 まず、相手の価値観の違いを認められず、自分自身を被害者に仕立て上げ、相手から離れるということ。この手の苦しみを自分自身で乗り越えて来た人は、こうした切り離しを自己愛だという表現する。結局のところ、相手のことよりも、自分のことがかわいいために、相手を自分から切り離すことによって、楽になろうとするわけである。しかし、もともと、こうした苦しみが生まれるるのは、相手側の自己愛にも原因がある。何故なら、人と人は、相対的な関係を結ぶからだ。だから、決して、一人だけの問題ではない。そういう意味で、私は、相手の自由意思を一方的に尊重し続けることが、どんなときでも解決に結び付くとは思えない。しかし、自分が許容されていることに相手が気付いたとき、それはそれは大きな学びに繋がって行く。そこまで辿り着くには、想像を絶するほどの忍耐が必要だ。

 この映画の中で、ジャック・ニコルソンは、恋の痛みを知らない人として登場する。心を入れない恋愛を重ねて来ただけに、心臓発作の経験者の彼は、恋の痛みを心臓発作と勘違いして、病院に駆け込む。何ともおかしなストーリー展開なのだが、逆に言えば、心を入れることをしなければ、数をいくつもこなせるというふうにも取れる。そして、私は、それができない性質だ。だから、進み方も亀になる。

 心を入れるということは、掲示板の交流においても大切なことだ。だから、誰かの書き込みがずしんと心に響き、それが仕事中でもずっと胸の奥にあるということが、良くある。先日も、会議中に、掲示板の書き込みのことを思い出して、泣いていた。それは、てんてんさんの「私は、死のうと思ったことがあります」という書き込みだった。私は、こうした書き込みを素通りせずに、じっと感じ取り、味わう。そして、てんてんさんの置かれた立場を想像する。ずっと一緒に生きて来た人が、別の女性と関わりを持つということ。私はただ想像することしかできない。そういう苦しみを乗り越えて来たてんてんさんが、ご主人さんを愛していると曇りなく言えること。この愛の深さに、私は会議どころではなく、涙していた。

 心を入れるということは、時として、立ち止まる必要があるということだと思う。そして、心を入れなければ、人を斬りながら、ずんずん進むことになる。

※ちーちゃん、てんてんさんへ
お二人の絡み合いへの欲望は、実は、私にもあったのです。だから、願望実現のスピードは、双方向どころか、三方向かも?

※掲示板にコメントをくださっている皆さんへ
亀ペースで申し訳ありません。今週は仕事が忙しくて、またまたパワーダウン気味でした。映画を観て、パワーアップしてからコメントを書かせてください。

※いつもたくさんの投票をありがとうございます。皆さまの応援クリックに感謝しています。m(__)m

|

2005.09.21

英語圏に行きたい

 出勤してみると、月に一度の定時退社日だったということがわかり、仕事中も心が踊っていた。水曜日でレディスデーだし、映画を観に行きたいと思ったのだ。

 仕事を終えてガンモに電話を掛けてみると、まだしばらくかかりそうだと言う。それなら、ガンモの仕事が終わるまで、映画を観ようと決めたのだった。

 観ようと思っていた映画は、『シンデレラマン』だ。三宮の映画館に着き、切符売り場で切符を買うと、割引なしの千八百円だった。あれ? 今日はレディースディじゃなかったのだろうか。それとも、私が女性に見えなかったのだろうか。兵庫県に移り住むようになってから、既に九年以上も経っているというのに、私はまだ、そのあたりの事情を把握し切れていない。何故なら、レディースディが水曜日のところもあれば、火曜日のところもあるからだ。このようなことは、手帳にでも詳細にメモしておかなければ、どんどんこぼれ落ちて行ってしまう。

 『シンデレラマン』を観て感じたことは、映画と演劇のはなしに書いた。今日、私がここで取り上げたいのは、欧米の夫婦の愛し合い方である。仕事から帰った夫を妻が迎え入れ、熱い抱擁とキスを交わす。それらの愛の行為を、子供にも胸を張って見せられる。更に、子供たちとの度重なるスキンシップ。自開症(じかいしょう)の私にとって、理想的な愛の形がそこに映し出されているのだ。だから、きのうとは別の意味で「英語圏に行きたい!」と思ってしまった私である。こうした映画には、夫婦愛と親子愛の共存が映し出されている。愛する妻と子供のいる生活が、これほどまでも支えになり、また、守りにもなって行くのだということを、とことん感じさせてくれた映画だった。

 日本は、「隠す」文化を持っているのだろうか。私の知る限り、『シンデレラマン』に表現されているような強い絆で結ばれている家族をほとんど見掛けることがない。毎日の愛情表現は控えめで、過去に表現した愛情を繰り返し表現することはあまりない。しかし、これは、劣化に向けて確実に動いていると思う。それでも、愛情を隠してしまうのは、日本の国民性なのだろうか。

 ところで、きのうの思い込み連鎖に関して、miaさんとてんてんさんからコメントをいただいた。お二人のコメントを引用させていただきますが、ご了承ください。

まず、miaさんからいただいたコメントから。

うーん、うなってしまいました・・・・

「設定ファイルに書き出す内容の英単語の綴りが間違っていた」のは、今後も間違いの元ですから、正しい綴りに直すのが、当然のやり方ですが、どういう風に解決したのでしょうか。

間違った綴りでも仕様書どおりって、日本であっても納得しませんよ!! ええ!!そんなことってあるの???

リスク管理の面からも、正しい綴りに直すべきです。

  そうなんですよ、miaさん。私も、今度の間違いの元だから、これを機会に、すべて正しい綴りに直したほうがいいと主張しました。ずっと同じ人が開発し続けるわけではないし、今後、新しい開発者が担当するときに、きっとまた同じ間違いをする可能性が高いでしょうから。

 でも、彼らは私よりもずっと古くからこの製品の開発に携わって来ている人たちで、それらの製品も、何万本単位で多くの企業さんに使っていただいているようです。新しい製品を開発しながらも、過去にリリースした製品に対するメンテナンスも同時に行っているため、古いものに手を加えるということは、彼らにとって大きなリスクを背負ってしまうことになるようです。そのような状況下においては、新たな傷害(バグ)を生み出しかねない状態です。その気持ちは、開発者である私にも良くわかります。そのため、どうしても「守り」の体制を取りたがり、「これまでの流れとは違うものを排除する」という方法を採用しているようです。

 また、アプリケーションが使用している設定ファイルは、ユーザがファイルを開いて参照するようなものではないので、よしとしている部分もあるようです。どうも、この問題は、「守り」が多過ぎるということが、根本原因のようです。

 続いて、てんてんさんからいただいたコメントから。

ガンまる日記 の「思い込み連鎖」によせて

お互いの思い込みが分かって、よかった。よかった。
と思ってしまいました。
これで、原因がはっきりしたから、根本解決も早いだろうなあ。

なんて、私は思ってしまいました。(笑)

「英語圏に行きたい」と叫んでいるまるみさんを想像して
ちょっと、笑ったかなあ。

納得いかない感情を味わうのも、人間らしくてよい気がしたのは
私だけ??

 あはは。いやいや、おっしゃる通りだと思います。「納得行かない!」と思いながらも、心の中では、「良かった良かった」と思っている自分がいます。私の立場でものを考えると、「納得行かない!」になるのですが、彼らの立場でものを考えると、彼らの主張もわかります。現に、miaさんに、彼らの立場でコメントさせていただきました。(^^;

 それよりも、「ある結果」というのは、様々な要因が重なり、ある(途中の)段階を表現したものに過ぎないということを、改めて思い知らされました。複雑に絡み合った要因を考慮しなければ、私たちは、ある特定の段階でものごとを判断したに過ぎません。もしかすると、Y氏が最初に綴りを間違ったのだって、もっとさかのぼってみれば、綴り間違いに至るような要因があったのかもしれません。

 そう考えると、世の中で起こっている、本当に目を瞑りたくなるような事件に対しても、実は、自分も間接的に関わっている可能性だって、ゼロとは言い切れなくなって来ると思うのです。そういう意味からも、人と人はいろいろな繋がりを持っているのだなあと感じました。

|

2005.09.20

思い込み連鎖

 とんでもないプログラムの障害(バグ)を出してしまった。ちょっと、自分でも納得が行かないので、皆さんにも聞いていただきたい。

 ご存知のように、私は、派遣社員としてプログラムの開発業務を行っている。現在の職場に勤務しておよそ三年半。多くの企業が派遣社員を使い捨てて行く中で、長く仕事をさせてもらっていると思う。業務内容は、特定のアプリケーション開発だ。アプリケーションというのは、売れてなんぼの世界であり、ソフトウェアの単価としては数千円から数十万円程度と安い。ソフトウェア業界では、アプリケーション開発以外には、受注開発がある。こちらは、特定の対象向けに開発されるソフトウェアで、時には億単位のお金が動くこともある。

 前者の場合、過去にリリースした製品のメンテナンスも同時に行って行くため、同じ人が開発業務を担当し続けることが望ましい。そのため、派遣採用期間も長くなるのだと思う。

 ところで、私が開発している製品も、ずっと古くから開発が行われ、メンテナンスされ続けている製品である。Y氏という人がプログラムの設計を手がけ、I氏という人がその仕様を引き継いだ。そのプロジェクトに私が加わり、I氏と一緒に開発を始めたわけである。

 私たちが開発しているアプリケーションには、設定ファイルというものがある。アプリケーション間で複数のプログラムが動くとき、その動作内容をファイルに書き出すことがある。例えば、ユーザが画面で操作した内容をファイルに保存しておき、別のプログラムがその内容を参照するといった作りになることがある。今回、私は、画面のプログラムを担当した。I氏は、画面以外のプログラムを担当した。そして、私は、自分の作ったプログラムの中で、ユーザが画面で操作した内容を設定ファイルに書き出した。I氏の作ったプログラムは、私が設定ファイルに書き出した内容を読み出して動作するというものだった。

 もともと、このプログラムを設計したのはY氏だったのだが、Y氏が設計した段階から、設定ファイルに書き出す内容の英単語の綴りが間違っていた。その英単語は、コンピュータ用語であるが、普段の生活でも良く使われているものである。わかりやすくするために、その英単語を仮にTelevisionとしておこう。Y氏がこの仕様を決めたとき、このTelevisionの綴りが間違っていた。そして、間違った綴りのままI氏に作業が引き継がれ、I氏は間違った綴りのTelevisionを読み出すためのプログラムを作った。

 ところが、私は、Televisionという単語の綴りを良く知っていたので、仕様書に目を通して、自分の知っている正しい綴りでプログラムを作成した。仕様書に書かれているTelevisionの綴りが間違っているとは、よもや思っていなかったので、自分の知っているTelevisionの正しい綴りで設定ファイルに書き出したのだ。しかし、設定ファイルを読み出す側のI氏のプログラムは、間違った綴りのTelevisionを読み出そうとして、私が書き出した内容を拾い出せなかった。そのために、プログラムが正しく動作しないという現象が発生し、ユーザから問い合わせがあったのだ。

 調査の結果、Televisionの綴り間違いに原因があったことがわかったのだが、I氏を始めとする社員の方たちが言うには、仕様書に間違った綴りが記載されているのなら、その仕様書通り、すなわち、間違った綴り通りにプログラムを作るべきだと言う。私は、Televisionが自分の知っている単語だったので、仕様書に書かれている間違った綴りのTelevisionではなく、正しい綴りのTelevisionで設定ファイルに書き出してしまった。要するに、仕様書に記載されている間違った綴りのTelevisionをコピー&ペーストしなかった。これが、障害(バグ)の原因だということになってしまったのだ。

 ちなみに、I氏は、Televisionの綴り間違いに気づかずに、Y氏の作成した仕様書通りにプログラムを作って来たという。今回のような障害(バグ)が発生して初めて、Televisionの綴り間違いに気づいたということらしい。

 この障害(バグ)で私自身が責められているわけではないのだが、Y氏にも、I氏にも、そして私にも、それぞれの思い込みがあった。そして、それぞれの思い込みが連鎖して、正常に動作するはずのプログラムが動かなくなってしまったのだ。大問題に発展しているわけではないが、こんなこと、納得が行かないと、私はオフィスで叫んでいた。社員の人たちも、事情が事情なので苦笑いしていた。

 設定ファイルは、そのアプリケーションが独自に書き出すものなので、単語の綴りが間違っていることが問題になるわけではない。例えば、ユーザがその設定ファイルに目を通したとしても、綴りが間違っていることの指摘は受けないが、アプリケーションが正しく動作しないことに関しての問い合わせは来る。そんなわけで、何だかなあの障害(バグ)なのである。

 この件について、同じコンピュータ業界のガンモに相談してみると、
「仕様書通りに作れと言われたら、何も言い返せないよね。でも、英語圏なら認められたかもね」
と言った。私は思わず、
「英語圏に行きたい!」
と叫んだ。

|

2005.09.19

立山黒部アルペンルート

 旅行の最終日は、これまでにないほどの厳しいスケジュールだった。午前八時過ぎに出発する富山地鉄に乗り、代行バスを乗り継ぎながら立山へ。そこから立山ケーブルカー、高原バス、立山トンネルトロリーバス、立山ロープウェイ、黒部ケーブルカー、関電トンネルトロリーバスと路線バスを乗り継いで午後二時過ぎに信濃大町まで出た。立山黒部アルペンルートと言われる観光地である。美しい大自然にため息をつきながら、連携されたいくつもの交通手段で険しい山々を越えた。江戸時代は歩いて八日もかかっていたこのルートが、これらの交通手段の発達により、わずか半日足らずで越えられるようになったと言う。それにしても、三連休の最終日。さすが観光地というだけあって、どの乗り物も満員だった。

 何故だろう。普段、愛だとかワンネスだとかについて、熱心に語りたがるくせに、観光地の人ごみはとても苦手だ。それぞれの自由意思に対応し切れない自分がいる。観光地の人ごみを見ても、ワンネスを感じられない。観光客が一つの方向に動いていると感じられないからだろうか。ワンネスではなく、混沌としていると感じてしまう。

 展望台から美しい景色を見た。ガンモは険しい山々を見て、
「地図帳に載ってる山みたいだ」
と言った。四国で育った私たちは、これほどまでの険しい山々を目にすることはなかった。空に近いためか、気温も低い。薄着でやって来た私たちは、寒さのためにブルブル震えた。

 こうした厳しい自然の中に、数多くの犠牲者を出しながら、いくつもの黒部ダムが建設された。普段は静かに流れているはずの水も、量と高さが加われば大きなエネルギーとなる。ダムに溜め込まれた水が、やがてエネルギーに変わり、人々の生活を支えている。

 高原バスで険しい山を越えるとき、くねくねした山道を何度も何度も蛇行した。このような方法を取りながら少しずつ登って行かなければ、山の傾斜をまっすぐ登って行くには険しすぎる。蛇行しているうちに、自分が一体どちらを向いているのかさえもわからなくなってしまう。人生も、これと同じようなものかもしれない。険しい道を歩いて行くためには、何度も何度も蛇行しながら、ようやく目的地にたどり着く。そして、自分の歩いて来た道が険しければ、その道を歩こうとしている人に対して、「この道は険しいよ」と声を掛ける。険しい道を歩いていない人ほど、他の人が険しい道を歩くことに対し、無頓着だ。

 信濃大町まで出た私たちは、大糸線に乗り、糸魚川まで出た。糸魚川を十九時過ぎに出る特急はくたかに乗り、金沢へ。そして、金沢を二十時半過ぎに出る特急サンダーバードに乗って大阪まで帰って来た。自宅に辿り着いたのは、午前零時前。とにかく、へろへろに疲れた。

 旅の最終日にはいつも、哀愁にも似た、旅が終わってしまうことへの抵抗を強く感じる。しかし、今回は、そんな哀愁を感じる余裕もなく、大急ぎで駆け抜けたという感じだった。十年後に、今度は今回と逆ルートを辿ってみたい。そのときは、もっと便利な乗り物が登場しているのだろうか。

 また三日間働けば、三連休だ。旅の思い出を胸に、次の三連休を目指して頑張ろう。

|

2005.09.18

選択の責任

 きのう購入した富山地鉄二日間有効の乗り降り自由切符を使って、私たちは宇奈月(うなづき)温泉へと向かった。

 宇奈月温泉からは、黒部峡谷鉄道に乗り換え、トロッコ列車の魅力を満喫した。黒部峡谷にはいくつもの黒部ダムがあり、たくさんの観光客で賑わっている。団体客が多いためか、どのトロッコ列車も満員だった。大の大人がトロッコ列車に乗り、はにかんだ様子をしているのを見ると、迷わず性善説を支持したくなってしまう。

 観光地に来るといつも思うのだが、私たち観光客は、黒部峡谷の厳しい自然を体験せずに、黒部峡谷の美しい自然だけを目にしている。しかし、地元の人たちにとっては、ここは決して美しいばかりの場所ではないと言いたくなってしまうのではないだろうか。実際、黒部峡谷鉄道は、冬の厳しい自然から守るために、冬場は鉄道のレールをすべて取り外してしまうのだそうだ。それほどまでの厳しい自然と、目の前に広がる美しい景色は、愛と憎しみの共存を想像してしまう。

 トロッコ列車を満喫した私たちは、宇奈月温泉に戻り、温泉街にあって、わずか二百五十円で宇奈月温泉を体験できると言う公衆浴場へと向かった。当然、男湯と女湯に分かれて入ったのだが、中に入ってみて、大変なことに気がついてしまった。脱衣場に用意されているのは、着替えを入れるための籠だけで、鍵の掛かるロッカーがなかったのである。

 旅行中の私たちは、財布の中に、たくさんのお金が入っている。クレジットカードも持っている。カメラもパソコンも持っている。そして、私は、ガンモのことを考えた。ガンモは私よりも用心深い。きっと、脱衣場に鍵の掛かるロッカーがないことに苛立ちを感じているに違いない。

 しかし私は、思い切って、公衆浴場の利用客を信頼することにした。これはきっと、信頼するということを学ぶために、私自身が引き寄せた出来事だと思ったからだ。私は脱衣場の籠の中にリュックと着替えを残し、お風呂に入った。公衆浴場の温度はとても熱かったが、利用客も少なく、私は二百五十円で宇奈月温泉を満喫した。

 脱衣場に戻って見ると、私の荷物は特に荒らされた様子もなく、無事だった。やはり、信頼して良かったと思った。そして私は、公衆浴場をあとにした。

 私が外に出てみると、先にお風呂から上がって近くをウロウロしていたであろうガンモが私の隣にさっと寄り添った。そして、
「脱衣場にロッカーがないのは禁止!」
と言う。見ると、ガンモはさっぱりと汗を流した様子がなかった。私が、
「何? 結局、お風呂には入らなかったの?」
と尋ねると、
「当たり前だよ。鍵の掛かるロッカーがないのに入れるわけない」
と言った。ガンモは、公衆浴場に鍵の掛かるロッカーがなかったことに怒りを感じていた。そして、お金を払って公衆浴場に入ったのに、お風呂にも入らずにそのまま出て来てしまったらしい。
「番台のおばさんには何か言ったの?」
と私が尋ねると、
「いや。タオルか石鹸を忘れたと思ったんじゃないの」
とガンモは言った。

 確かに私たちは、旅行中にたくさんのお金を持ち歩いているし、カメラもパソコンも持っているので、鍵の掛かるロッカーがないと、安心して湯船につかれない気持ちもわかる。脱衣場に鍵の掛かるロッカーがあるかどうかで、ガンモと私の選択は異なってしまったのだ。

 ガンモはとてもイライラしていて、お風呂に入ってさっぱりしている私をうらやましがった。私はガンモに、
「誰に対して怒ってるの? 自分に対して怒ってるんでしょ?」
と言った。すると、イライラしているガンモは、
「知らん!」
と言いながら、そっぽを向いた。私が、
「私が荷物見ててあげるから、もう一回お風呂に入って来なよ。気持ちいいよ」
と言っても、
「禁止!」
と言って公衆浴場に戻ろうとはしなかった。そして、熱い湯船につかって温まった私をうらやましいと思いながらも、自分がお風呂に入れなかったことに対して、しばらく腹を立てていた。

 そのときの選択で、結果が明暗を分けることがある。私の場合は、脱衣場を信頼したことで、二百五十円で温泉に入れるという喜びを体験できた。しかし、もしかしたら、ガンモの懸念したように、盗難に遭っていたかもしれない。そうなれば、二百五十円で温泉に入ったという私の喜びは、一瞬のうちにかき消されてしまう。選択とは難しいものだ。吉と出るか、凶と出るかは、選択してみなければわからない。しかし、その責任は、他の人ではなく、いつも自分自身に降りかかって来るのではないかという気がしている。もしも盗難に遭ったとしても、鍵の掛からない脱衣場に盗まれるようなものを置いたのは自分だという選択に対する責任を感じることも必要なのではないだろうか。また、ガンモのように、鍵の掛からない脱衣場に貴重品を置かない選択をしたということは、実際に盗難に遭ったときに責任を負い切れるかどうかを判断してのことなのだろう。それは、ガンモなりの責任ある選択だったに違いない。

 選択の結果は常に自分に降りかかり、また、責任を負い切れないときは予め防御するという選択もあっていいのだと改めて感じた出来事だった。

|

2005.09.17

新・持続と変化

 富山の皆さん、こんにちは。朝、大阪から特急サンダーバードに乗り、富山までやって来た。JRの富山港線が廃止になってしまうことに加え、富山地鉄も一緒に乗り潰すためにやって来たのだが、富山地鉄の一部の路線は、先日の大型台風のため、不通となっている。一ヶ月以上も鉄道が不通になるほど、台風が残した爪あとは大きいのだろうか。

 ここ三年ほどの間に、私たちは、三回ほど富山を訪れている。私たちから見ると、富山はとても地味な都市に見える。名古屋に近い岐阜のように、富山も、県庁所在地でありながら、金沢という大きな都市に近い県庁所在地である。金沢が陽なら、富山は陰、名古屋が陽なら、岐阜は陰といった感じだろうか。

 まずは富山港線を乗り潰し、富山地鉄の二日間乗り放題切符を買って、路面電車と一部の富山地鉄を乗り潰した。地方の私鉄というのは、東京や大阪の私鉄のような活気はない。駅舎も古く、細々と運営しているという雰囲気が伝わって来る。驚いたことに、自転車を転がしながら乗り込んで来る乗客もいる。そのせいだろうか。車両の一部に、座席のない広い空間がある。鉄道会社が、自転車と一緒に乗車することを容認しているのだ。

 こうした地方色豊かな光景を目にするのは大変面白い。私たちは、これまで自分の目で見て来たものと照らし合わせながら、様々な比較を行う。目の前に映るものが、まだ自分の中に存在しなければそれは驚きとなり、既に見た光景であれば、過去の事象との関連付けを行う。

 ところで、台風が来れば思い出すの記事にも書いたように、今日は、ガンモと私が初めて顔を合わせてからちょうど十周年の日だった。あれから十年。体型はずいぶん変わってしまったが、「持続」がテーマの私たちは、関係性がほとんど変化することなくここまで来た。おそらく、これからも大きく変わることはないだろう。もちろん、「変化」がないわけではないのだが、「持続」というテーマにスポットが当たっている。私たち夫婦にとっては、「持続」していることが誇りなのである。そうでなければ、あちこちの地方に出掛けて、それぞれの違いを見つけては面白いとは言えなくなってしまう。

 ツインソウルと一緒に過ごしている人たちは、皆、口を揃えて「変化」が楽しいと言う。彼女たちが言うように、ツインソウルの変化は目まぐるしい。私自身のツインソウルとの関わりからもそう思う。きのう交わした言葉がすぐに過去のものになってしまう。それでも、過去の言葉に縛られない。しかし、私は、ソウルメイト的な「持続」というテーマで生きているので、そうしためまぐるしい変化になかなか対応できないでいた。かつて、ツインソウルに、
「勝手にどんどん変わるのは無責任だ」
と言ったことがある。更に、ツインソウルには、「変化」というテーマの他に、「自由」というテーマもある。今、思えば、私は「退化」が怖かったのだと思う。「持続」というテーマのもとに生きている私にとっては、「変化」はすぐに「退化」と結びついてしまうのだ。しかし、「変化」が「退化」ではなく、「進化」であることを確認できれば、「変化」は喜びに変わる。

 おそらく、私たち夫婦が「変化」をテーマに生きて行くのが難しいように、常に変化し続けているツインソウルと一緒に過ごしている人たちに、「持続」というテーマを突きつけても難しいと思う。何故なら、ツインソウルは常に進化し続ける関係だが、ソウルメイトは同じものに共感し、相手を吸い込むように同化し、持続する関係だからだ。このように、ソウルメイトとツインソウルの学びはまったく違う。それでも何故か、男女の愛に関して、たどり着くところが同じかとても近いところにあるのが面白い。そして、マンネリを生んでしまっている、持続でも変化でもない関係は、退化の関係と言えるのだろう。

|

2005.09.16

新・凸凹理論

 最近のツインソウルとの交流を通じて思ったことを書き留めておきたい。

 凸と凹は、何の努力もなしにぴったりと合わさるかのように思っていた私だが、凸と凹の漢字を良く見てみると、それぞれが個として既に確立している漢字だということがわかる。

 凸と凹がぴったりと合わさるには、凸か凹が百八十度回転するか、凸と凹がそれぞれ相手に向かって四十五度回転しなければ、起こり得ない。

 人との交流もそれと同じで、個として存在しているそれぞれの対象に向かって、自分をどのくらい回転させられるかということにかかっている。回転度数が少なくて済む相手もいれば、百八十度を超える回転度数で回転しなければならない相手もいる。それを面白いと思えるかどうかは、回転したことによって得られるものの大きさに比例しているのかもしれない。

※てんてんさんへ いつもスピリチュアルなパワーを分けてくださって、ありがとうございます。掲示板の編集パスワードですが、サーバ側に保存されているわけではないので、投稿ごとに毎回指定してくださいませ。投稿ごとに指定がなければ、その発言については、あとから編集および削除はできないようであります。

※夏綺さんへ お帰りなさいまし。(^^) お待ちしておりましたよん。以前よりもパワーアップした夏綺さんのコメントを拝見して、ああ、頼もしいなあと思いました。魂は、どんどん成長して行くものだなあと。パワーアップして戻って来てくださって、本当にありがとうございます。

※mikiさんへ そうです。ちょっと甲羅干しに出掛けて来ますので、留守の間、よろしくお願いしますよ。

※りえちゃんへ コメント読ませてもらったよ。なるほど、そういう観点なら理解できると思った。旅行に出掛けるので、ちょろちょろコメントになるけれど、亀モードでよろしく。

|

2005.09.15

魂の片割れ

 魂の融合について考え始めたとき、私の中に、ソウルメイトやツインソウルに関する新たな解釈が加わった。今日は、そのことを書き留めておきたい。

 掲示板での交流や、私自身の経験からも、ツインソウルに関する解釈は、多岐に渡らないことがわかっている。ツインソウルとの関わりが深い人たちとは、かちっと音がするくらいの感覚の一致が起こる。ツインソウルを語り始めると、必ずと言っていいほど、激しい対立や陰陽、理解し合えないけれども、強烈に引き合うといった感覚を共有することになる。

 その共通の感覚は、もしもそれぞれのツインソウルの陰と陽の魂が融合して一つの存在になったとしたら、融合が行われた魂は、ソウルメイトになるのではないかというくらいの共感が得られる。わかりにくいので、計算式で書いておこう。

 つまり、(ツインソウルA(陰)+ツインソウルA(陽))の融合した魂と、(ツインソウルB(陰)+ツインソウルB(陽))の融合した魂は、ソウルメイトになるということだ。

 ところで、最近気がかりなのは、魂の片割れという言葉である。魂の片割れというのは、同じ魂から分かれた相手のことを差すのではないだろうか。だとすると、ツインソウルが魂の片割れであるかどうかということについては、少し疑問に思うところがある。

 シャーリー・マクレーンの『カミーノ』によれば、ツインソウルは、もともと両性具有の肉体が、男性と女性という二つの性に分離したものらしい。そのときに、肉体の片割れの中には、別の魂が入って来たことがシャーリーの体験したレムリアの時代の記憶として記載されている。もしもこの考えを採用するならば、ツインソウルは魂の片割れではなく、肉体の片割れということになる。だからだろうか、ツインソウルには、肉体的なシンクロ現象が多い。

 私は、魂の片割れという言葉通りの存在は、ツインフレームなのではないかと最近思い始めている。掲示板にも書いたが、ツインフレームに関しては、「左右対称」というインスピレーションが入って来た。ツインフレームこそが、一つの魂を分け合った存在なのではないだろうか。そして、世の中には、ツインソウルの解釈と、ツインフレームの解釈がごちゃ混ぜになって存在しているように思う。

 ソウルメイトのキーワードは、同化現象。対立がなく、愛する人の好きなものをどんどん吸収しながら、相手と同じものを体験しようとする魂だ。だから、境界線のない関係となって行く。

|

2005.09.14

魂の年齢

ようこさんから、「ガンまる日記」で取り上げて欲しいとリクエストをいただいたので、今日は魂の年齢について書いてみたいと思う。

 ニュートン博士の『死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」』によれば、スピリットの世界では、魂は、同じくらいの学びの段階にいる魂たちと一緒に同じ建物の中で学んでいるようだ。そこは、魂の学校のようになっていて、そのグループに属する魂よりも、少し進化した魂が先生となって、若い魂の成長を助けているらしい。

 更に、魂には段階によって色が異なっているのだそうだ。経験を積んだ魂ほど、紫色に近いと言う。実際、ニュートン博士の本の中にも、「段階」や「レベル」といった表現があちこちで登場する。しかし、ある被験者との間に行われたセッションでは、以下のように記述されている。(※ネンサムとは、被験者の名前であり、イディスとは、ネンサムよりも進化した魂のことである)

ニュートン ネンサム、すべての魂が進歩の階梯を登っていくとしたら、スピリットの世界には頂上に最高権力者が君臨する、巨大なピラミッド構造を成していると考えざるをえないのですが。
被験者 (ため息をついて)いいえ、それは間違っていますよ。それはピラミッドではありません。私たちはみんな巨大な織物の糸の一本だと言えます。みんなそれに織り込まれているんです。
ニュートン 魂の能力のレベルにこれほどの差があるのに、平坦な織物を思い描くことは難しいですね。
被験者 大きな高低差がある階梯のステップではなく、動いている連続体として考えてみることですね。
ニュートン 私は、魂はこの存在のなかを上の登って行くのだと思っていました。
被験者 それはわかりますが、水平に動いていると考えてみたら・・・・・・。
ニュートン なにか具体的なイメージはありませんか。
被験者 私たちはみんな、存在界を水平に延びる線路の上を走る宇宙的な列車の一部だと考えてみたらどうですか。地球のほとんどの魂は線路の上を走る同じ客車に乗っているというわけです。
ニュートン ほかのすべての魂も別の車両に乗っているということですか。
被験者 ええ、でも、みんな同じ線路の上にいるんですよ。
ニュートン イディスのような車掌はどこにいるのですか。
被験者 彼らは連結された車両から車両を行ったり来たりしていますが、自分自身の居場所は機関車の近くにあるんです。
ニュートン 機関車はどこにあるのですか。
被験者 創造主ですか? もちろん、いちばん前ですよ。

 スピリットの世界にピラミッド構造のような段階があると考えるのは、縦の解釈だ。しかし、実際はそうではなく、全員が横に広がる同じ列車の別々の車両に乗っていると、退行催眠の被験者は語っている。段階を表すものは、機関車から遠いか近いかということらしい。考えてみると、これは、横の解釈だ。

 いろいろな方たちと密な対話をさせていただくと、その方の魂が持っているカラーのようなものが浮き上がって来る。その魂が、何を経験して来たのか。また、何を経験していないのか。それは、深い感情を含んだコミュニケーションを行って初めて伝わって来る。

 私は、現世とは、肉体を使って、感情を体験する場所なのではないかと思っている。だから、ポジティヴでもネガティヴでも、感情というものをとことん体験し尽くせば、魂は年齢を重ねて行くことができるのではないだろうか。むしろ、怖いのは、感情の蓋を閉じて生きること。笑わない、怒らない、泣かないといった、喜怒哀楽の感情のない生き方を選択してしまったら、目の前でどんな凄まじい出来事が起ころうとも、素通りしてしまいそうな気がする。

 それから、魂の融合について。以前、私は、掲示板に、以下のようなことを書いた。

最近、霊界に関する本に目を通しているうちに、私たちは、既に他の魂を吸収している可能性もあるということがわかって来ました。
もしかすると、ようこさんの魂も、既に誰かの魂と融合している可能性があるんですよ。もちろん、私の魂も。
でも、もしも仮にそうだとして、私は既に他の魂と融合した状態にあることを実感しながら生きているのだろうかと考えると、決してそうじゃないんですよね。
ということは、一体化するということは、いつもいつも相手を側で感じているわけではないということなのかなあなんて思ったりもするわけなんです。
それなら、いろいろな摩擦や、対立や、激しい感情のぶつけ合いのある今のほうが、ずっと楽しいような気がしてしまうんです。
一つになってはまた離れ、また、一つになっては離れ・・・・・・。
そうした繰り返しが、魂として、もっとも効率良く向上できる形なのではないかなと思ったりもします。

 私たちの魂がいくつもの肉体に宿るのは、細分化したほうが学びやすいから、ということらしい。しかし、特定の学びが終わってしまえば、魂は、それぞれの経験をスピリットの世界に持ち帰り、別の魂との間に融合が起こるという説もある。融合が行われた魂は、複合魂などと呼ばれることもある。だから、魂が融合した分の人口が減るということは、ちっとも悲劇的なことではなく、細分化の必要がないほどに魂が経験を積んだと考えられるのではないかと思う。

 ところが、仮に融合が起こったとしても、それぞれの魂が、融合そのものを知覚しているとは限らないのではないだろうか。むしろ、融合した状態にあるときは、融合しているという意識さえ失っているのかもしれない。それならば、融合していない状態で、融合に向けて動いているエネルギーを感じ続けているほうが、魂としての躍動感を感じていられるのではないかと私は思うのだ。

|

2005.09.13

掲示板に関する考察

 掲示板の流れに関する私の考察は、まだまだ続く。

 先日観劇した宝塚歌劇団宙組公演には、ジプシーがキリスト教徒によって火あぶりにされたり、捕らえられて一人ずつ射殺されるという痛ましいシーンがあった。私は、宗教の違いだけで何故殺さなければならないのだろうと思ったのだが、やがて、自分が支配されることを恐れているために、先手を打つ行為だと気がついた。そして私は、殺すという、相手の自由意思を完全に奪う行為を、掲示板の立入禁止願いに置き換えて考えてみた。もしかすると、私の中にも恐れがあるのだろうかと。

 どうやら私の中には恐れがあるようだ。その恐れとは、見方によっては、自分が支配してしまいたいことへの裏返しに当たる行為かもしれないと思う。更には、自分のリアルな友人たちに普段見せていない部分をさらけ出してしまっていることへの恐れでもあるようだ。はっきりとした確信はないのだが、精神世界的な考察をすれば、私自身の中にこのような恐れがあるために、それらの恐れを帳消しにしてくれるような出来事を自ら望んでいることになる。もしもすべての出来事、出会いに意味があるとするならば、そういうことなのだろう。

 はづきさんのはづき虹映のスピリチュアル・コーチを拝見していたら、lesson74:「過去世の活かし方」という記事の中に、私の掲示板に書き込まれている内容と同じような記事があった。

 その記事によれば、ある既婚女性が、会社の上司のことが気にかかって仕方がないのだという。相談者の女性は、その上司との前世における関わりを記憶しているらしい。そして、結婚していながら、どうしてもその上司に惹かれてしまうという相談だった。はづきさんは、この質問に対して、以下のように答えられている。

○○さんには、既にご主人がいらっしゃるのですから
(そういう状況の中で「過去世の記憶」が蘇ったという
事実を無視しないで…)、まずはその目の前のご主人との
関係から逃げないことが大切な視点ではないでしょうか?

 +++++   +++++   +++++

人を好きになることは、とても素晴らしいことで、
それは「大いなるもの」からのギフトだと、はづきは想います。

その気持ちに罪悪感を持つ必要はありませんが、
それが真実の愛ならば、目の前のご主人に対しても、
同じように愛を注ぐことは出来るのではないでしょうか?

 ああ、はづきさんの言葉に共感。それにしても、何故、精神世界を探求している人たちは、この件に関して、同じような見解を示すのだろう。みんな別々に旅をしているはずなのに、てんてんさんも、私も、はづきさんも、答えは同じだ。だからだろうか。はづきさんの言葉が、胸にしみわたる。読み返して、じわじわと感動の涙が出て来る。それは、学びが同じだからなのだろうか。

 ところで、まったく別方面からのアプローチになるのだが、はづきさんの見解を読ませていただいて、私なりに思ったことがある。それは、はづきさんの記事にとても共感した私だが、もしもはづきさんと対話をさせていただくなら、共感以上のものが必要だと思った。単なる共感だけでは、対話はすぐに終わりを告げてしまう。だから、小学校の家庭科で習った半返し縫いのように、共感と少しずつの違いがあるほうが、対話は続きやすいのだろう。その違いが、お互いの学びに繋がって行くような対話をしたいと思う。

 おそらく、これに関する考察は、まだまだ続くことだろう。中には、掲示板を守ってくださる方たちもいらっしゃるので、その方たちに掲示板を託してみるというのも一つの手かもしれない。しかし、そんな夢のようなことが実現できたら、私はうれし涙がちょちょ切れてしまうことだろう。

|

2005.09.12

極に向かう

 これは、りえちゃんの月見想愛のある場所へのトラックバックである。

 りえちゃん、いつも掲示板の流れを気にかけてくれてありがとう。それから、お付き合い一周年、ありがとう。これからも末永くよろしくね。

 りえちゃんとは、一年経ってようやく、感情をぶつけられる関係になれたと思う。彼女の魂は、今、まばゆいほどの輝きを放っている。しかし、その輝きが見えて来るまでに、一年もかかってしまった。

 何故、一年もかかってしまったのか。それは、これまでの彼女との交流の中で、極に向かうような現象が発生しなかったからだ。極に向かうとは、例えば、その人が今、抱えているものが、これ以上はもう進めないというところまで来ていることを意味する。彼女は、一つの極に立ち向かい、自分にとって何が一番大切であるかを見極めながら、後戻りすることなく、自分の環境を再構築しようとしている。そのプロセスにおいて、私は彼女の爆発しそうなほどのエネルギーを感じることができた。これまでの殻を破り、新たな自分を受け入れて行こうとする躍動感さえ感じるのだ。そして、掲示板で交流しながら、私は彼女の魂を抱きしめたくなるような感覚に陥ってしまう。

 彼女は自己再発見の旅の中で、自分らしさを取り戻し、古い皮を脱ぎ捨てた。極に立ち向かった彼女は、自分自身で拡大を行ったのだ。私から見ると、極に向かい始めるまでの彼女は、焦点がぼやけていて良く見えなかった。しかし、彼女が極に向かい始めたとき、彼女の魂は、くっきりとその輪郭を表したのだ。そんな彼女が、ブログにこんなことを書いてくれた。

 ネットの交流で、まるみんの掲示板ほど親密に交流できた場所は無い。
 自分のHPでは、サイトの趣旨が違うこともあるが、とてもとても交流するというには程遠い。
 自開症と自分から言うように、まるみんはとてもオープンで愛情が深い。それは言葉を交わしていて、かなり気持ちが良い。不思議なことに、新しい返信がなくても、以前に書いてある言葉を読んだり、別の人に書いてある返信を読んで、まるみんの愛情に浸れるのだ。書き込んである言葉から愛情を感じることは、書いている人が本当に愛情深くないと出来ないと思う。
 だから、それを感じたくてずっと掲示板に張り付いていたことを、今日久々に同じ行動を取ったことで不意に思い出した。
 まるみんが愛情を感じて涙したり、愛情を感じなくて怒ったりすることを文章から知ると、感情が同調して同じような気持ちになり、また、まるみんが生きていることを感じることで不思議と幸せな気分になった。この頃はまるみんのことを吸収しようとしていた気がする。それは、アイドルとファンのような関係に近かったんだろうな。
 今も相変わらず、愛の伝道師として(笑)尊敬はしているけれど、ファンではなくなった。ファンであることより、同じ道をくっついて歩いていきたいと思うようになれたからだ。願えば適うのなら、ずっとこの先もくっついて行きたいと思う。
 こんなラブメッセージを書くと、まるみんが照れて困ったように反応するだろうなと、夜中ににやにやと笑いながら考えているのも、また楽しかったりする(笑)。

 りえちゃん、ありがとう。私が覚えているりえちゃんとの感情のシンクロは、私が子宮にたくさんの筋腫を持っていることをこの「ガンまる日記」で告白したときの、りえちゃんの動揺だった。彼女は、私のためにたくさんの涙を流してくれた。ネットで知り合って、まだそれほど日数もたっていなかったはずなのに、そこまでの感情を示してくれる人が、これまで居ただろうか。私はそのとき、何と愛情深い人に出会ったのだろうと思った。

 引用させてもらったりえちゃんの表現は、確かに恥ずかしくなるような内容だが、そうした感情のシンクロからも、ファン(?)という表現では済まされないものを感じていた。この人はただモノではないぞという気がしていたのだ。しかし、その一方で、確かにあの頃は、何となくこそばゆいものを感じていたのも事実だ。でも、今は違う。ようやく激しい感情をぶつけ合うことができそうな、わくわくする予感。ここのところのりえちゃんの変化が、私にはものすごくうれしい。今の彼女に起こっているのは爆発だ。怒りや悲しみや喜びといった喜怒哀楽の感情を中途半端にしてしまわずに、ある極までとことん向かって脱皮して初めて、その人の魂というものが頭角を表して来るのかもしれない。人間関係とは、そうした激しい感情に触れて初めて、はっきりとした手応えを感じられるようになるものだと思った。

 りえちゃんも書いてくれている通り、私は、掲示板でのやりとりが大好きだ。リアルの友人たちに、ネット依存症と思われても仕方がないくらいに大好きだ。通勤のお供にはPDAを持参しているし、旅行に出掛けるときも必ずノートパソコンを持って行く。ご覧のように、自分から発信して行くことも大好きなのだが、掲示板でのやりとりに命を掛けていると言っても過言ではない。だからこそ、掲示板に対して、私なりのこだわりを示してしまうのかもしれない。

 私が掲示板の交流で最も実りがあると感じるのは、こうした極を体験し、拡大に向かって行くときである。そして、拡大ということにスポットを当てて考えてみると、極を体験せずして行われる拡大は、無責任に感じられる。しかし、極を体験したあとに起こる拡大は、一種のエクスタシーのように感じられる。

|

2005.09.11

無意識のうちの選択

 今日は、ガンモの道楽に付き合った(笑)。宝塚歌劇団の宙組(そらぐみ)公演の観劇である。以前にも書いたことがあるのだが、私は、ガンモと結婚して兵庫に移り住むようになってから、宝塚歌劇団とご縁のある方たちと交流を持つようになった。彼女たちから宝塚観劇のお誘いをいただいているうちに、いつの間にかガンモがすっかり宝塚にハマってしまったのだ。

 私はもともとお芝居などを観劇することが好きだったのだが、女性だけで世界で成り立っている宝塚には、ちょっと違和感があり、敬遠していた。しかし、彼女たちから宝塚歌劇団の裏話などを聞いているうちに、舞台という短い瞬間に、最も輝いている自分を演出しようとしているタカラジェンヌたちに魅力を感じるようになっていった。初めてのときは、誰が誰なのか区別のつかなかったタカラジェンヌたちも、回を重ねるごとに、次第に識別できるようになって行った。今回の宙組公演のテーマは、ジプシーへの人種差別だった。感想は、そのうち、映画と演劇のはなしに書く予定である。

 さて、その後の掲示板の流れであるが、掲示板についての私の運営指針については、掲示板の蒼衣さん宛のコメントに書かせていただいた。私は、それを書きながら、何故、私はこれほどまでに、自分の掲示板にこだわりを持ち続けているのかということについて考えていた。もしかすると、自分を正当化するためのチャンスとして利用しているのだろうかとも考えた。そして、ようやく「選択」というキーワードに辿り着いたのだ。

 私たちは、多かれ少なかれ、自分がどのような行動を取るかの判断を下すとき、何らかの「選択」をしている。その「選択」は、好みであったり、過去に痛手を受けた事象から避ける方法であったりもする。そして、ホームページや掲示板、ブログといったものに関しては、読み手も好んで「選択」してくれているのだと思う。つまり、私のページに毎日のように訪問してくださっている方たちは、私の書いているものを「選択」してくださっているのである。そして、掲示板にコメントを書いてくださっている方たちも、どの発言にコメントを書きたいかを常に「選択」している。逆に、「選択していない状態」とは、世の中のありとあらゆるホームページや掲示板、ブログに目を通し、掲示板の、ありとあらゆる発言にコメントを書き込むことだと思うのだ。

 私たちは、無意識のうちに、何かを「選択」し続けている。読みたいホームページを選択すること、コメントを書き込みたい掲示板の発言を選択するということは、通常、読み手によって行われる。しかし、書き手は、読み手を選ぶことはできない。だから、書き手の私は、「このサイトでは、こういう読み手を対象にしています」という宣言を掲げているのだと思う。そして、そうした宣言に納得してくださった上で、書き込んでくださった発言にはすべてコメントを書かせていただくという方針を取って行きたいのだ。

 通常、家庭には法律がない。それは、少人数の関わりが、相対的な関係を築き易く、秩序によって守られるからだと思う。少人数の関わりには、自由意思の尊重が見られる。しかし、家庭を拡大させたものであるはずの国家には、法律がある。それは、大多数の自由意思を受け切れないからだと思うのだ。

 私の掲示板も、少人数の関わりであれば、「選択」も必要なかったと思う。しかし、サイトは管理人の予想以上に大きくなってしまった。だから、「選択」という手段を取らせていただくしかないのではないか。そうしなければ、既に関わりを持ち始めた人との関係までも、私は責任を持って守れない。

 てんてんさんが、私の気持ちを代弁してくださるように、掲示板に書き込んでくださっていたので、私はとてもありがたいことだと感じていた。てんてんさんの書き込みはとても厳しいけれど、私の持っている厳しさと、とても良く似ている。白いものを黒いと言えない性格も、私とそっくりだ。私は、受容することだけが愛ではないと思う。厳しい言葉の中にも愛はキラキラ光っている。闇の中にいる人たちの光がわかりにくいのと同じように、闇の中にいる人たちには、その光が見えないだけなのではないだろうか。私は、そういう厳しさがとても心地よい。激しくぶつかり合う関係の中に、お互いの学びがあるのならば。激しくぶつかり合いながらも、一つの方向に向かい始めるのならば。でも、そうでないなら、激しくぶつかり合うことは、お互いにとってのエネルギーの消耗に過ぎないと思うのだ。

|

2005.09.10

愛の源から離れた人たち

 相変わらず、私のホームページの掲示板には、愛の源から離れ、苦しみを抱えた人たちの書き込みが絶えない。私は、そうした書き込みを拝見する度に、溜息しか出て来ない。彼女たちとの間に埋めようのないギャップを感じるとともに、「それで、どうかしましたか?」という感想しか持つことができず、対話をする気が起こらないのだ。

 かつて、非公開掲示板で交流していた人が、こんなことを言っていた。火は、寒さを感じているときには私たちを暖めてくれるけれど、使い方を間違えば、火傷してしまうこともあると。私は、なるほどと思ったものだ。愛の源が火だとすれば、その火によって火傷をしたり、また、せっかくの火を失ってしまう人たちがいかに多いか。そうした現実を突き付けられる度に、愛の尊さと厳しさについて再考せずにはいられない。そして、私自身の発信の仕方に問題があったのかどうかについても考えさせられている。

 何故、愛の源から遠ざかってしまったのか。それは、愛に曇りがあったことの証なのではないか。それならば、できる限り愛を曇らせないように、愛の経験を積んで行くことが、愛の源に再び近づくための近道なのではないか。そのために、わざわざ遠ざかることを、自ら選択したのではないか。

 マザー・テレサが修道院に残ることを選択しなかったのと同じように、私は、そうした書き込みを快く思わない方法を選択し続けて行きたい。だから、これからも、自分の愛の判断に基づいて、「それは愛に向かうためのプロセスであって、愛そのものではない!」と叫び続けることだろう。愛の源から遠ざかった人たちにとっては、私のそうした行為が厳しく映ったとしても、私は、自分が愛だと思えないものに対して、にこやかに受け入れることはできない。

 しかし、このようなことを、私がここで綴ることもまた、自己愛なのだろうか。マザー・テレサが修道院に残らない選択をしたことも、自己愛だったのだろうか。また、私は、掲示板で、このような書き込みを受け入れて行くことを自ら選択しているのだろうか。人に対して向けた言葉を自分に対しても向けようとすると、自分というものがわからなくなってしまう。人は、自分を映し出す鏡だと言うが、愛の源から離れた人たちもまた、私の鏡なのだろうか。とにかく、わからない。

※私は「ガンまる日記」でも、掲示板でも、ツインソウルのことを「愛の源」と表現して来ました。ですから、今回の記事でも、「愛の源」というのは、ツインソウルのことです。何故、ツインソウルを愛の源を呼んでいるかと言うと、私自身が、ツインソウルから分けてもらった愛を、ソウルメイトたちに伝えていると思っているからです。

|

2005.09.09

映画『マザー・テレサ』

 何となく、仕事を早く上がれる雰囲気があったので、定時過ぎに職場を出た。金曜日だったし、たまには自分にご褒美を与えたいと思っていた。ガンモに電話を掛けると、まだしばらく仕事を片付けられそうにないと言う。

 せっかく仕事を早く上がれたのだから、私は、久しぶりに映画館で映画を見ようと思っていた。手持ちのPDAで、劇場の公開情報を調べ、『マザー・テレサ』を観ることに決めた私は、三宮へと向かった。十九時からの上映にはギリギリだったし、三宮周辺の地理をあまり良く把握していない上に、初めて足を運ぶ映画館だったのだが、地下鉄の改札を出て、『マザー・テレサ』が私を引き寄せてくれるなら、きっと上映時間に間に合うはずだと思っていた。

 すると、不思議なことに、いつも利用していない改札口を出たにもかかわらず、何となく映画館のあるほうへと足が向いていた。そして、交差点で信号待ちをしているときに、目の前のビルに目をやると、そこが目的の映画館だということがわかった。私は吸い寄せられるように映画館に辿り着いたことになる。映画館に着いたときは、十九時をほんの少し回っていたが、まだ予告編を上映している最中だった。予告編で目にしたいくつかのラブシーンが、私のハートを熱くさせる。そして、三島の『春の雪』が十月の終わりに封切されることを知った。あの小説は、若い頃に読んで、心を深くえぐられた思い出があるので楽しみだ。

 さて、慈愛というテーマのもとにこの世を生き抜いたマザー・テレサは、修道女でありながら、修道院に留まろうとせず、貧困街に身を置いて、貧しい子供たちや人々に見放された病に苦しむ人たちの世話をした。神に対する絶対的な信頼を持ち、同じ意志を持った人たちに助けられながら、マザー・テレサは少しずつ活動の範囲を広げて行く。しかし、中には彼女の行動に反対したり、妨害する人たちもいた。それでも彼女は、周りの人たちを少しずつ味方につけて行き、決定的なピンチのときには、過去に手を差し伸べた人たちに助けられたりもした。

 たくさんの人たちとの関わりを持ちながらも、一つ一つの愛を決しておろそかにしなかったマザー・テレサは、とにかく慈愛の精神に満ちていた。しかし彼女は何でも受け入れて行くのではなく、受け入れて行くものに対して徹底的に頑固だった。修道院に残ることへの抵抗、自分の活動を組織化することに対する抵抗など、彼女がこだわりを見せたものに対する頑固な姿勢は、何が愛であるのかを人々に突きつけた。

 彼女の示した愛とは、高いところから手を差し伸べようとするものではなく、奉仕という形で貧しい子供たちや病人たちと接し、目の前の現実から決して目をそらさないでいることだった。そして、長いものにも巻かれようとしない頑固な精神。しかし、男女の愛は、テーマとして出て来なかった。ブッダもそうだったが、慈愛というテーマを選んだ人は、男女の愛という個々の愛からを体験する必要はなくなってしまうのだろうか。

 マザー・テレサを演じたオリビア・ハッセーは、布施明さんの元奥さんである。彼女は、マザー・テレサのような慈悲深い女性の表情をうまく出せていたと思う。あの慈悲深さは、既に自分の中に持っていなければ、演技などでは絶対に引き出せないものだと思う。

 この映画は、実に賛否両論が激しい。映画を観る前に参考にした他の人たちのレビューは、ほとんど参考にならなかった。同じ映画を観ても、その人が何をテーマにしながら生きているかによって、目の中に飛び込んで来る光景や、心を揺さぶられるシーンが異なって来る。ある人が、「観ているだけで、自然に涙が出て来る映画だ」と書かれていたが、私にとってもその通りの印象の映画だった。

 映画を鑑賞し終えてガンモに電話を掛けると、ちょうど仕事を終えて引き上げるところだと言う。そして私は、『マザー・テレサ』の深い感動に包まれながら、ガンモが作業している最寄駅まで移動し、ガンモと待ち合わせて一緒に帰宅した。とにかく、何もかもが実にタイミング良く運んだ一日だった。

|

2005.09.08

甘え

 私の職場では、プログラムに障害が発生すると、ある特殊なツールを使って、修正したプログラムをユーザに再配布する仕組みになっている。その特殊なツールの使い方が、ツールの画面操作からは直感的にわかりにくいため、そのツールの操作に慣れた私か、もう一人の男性社員が、主にその作業を担当していた。

 先月も、プログラムに傷害が発生して、そのツールを使用して修正したプログラムをユーザに再配布することになった。毎回、私かもう一人の男性社員しかその作業を行えないのは大変非効率だと思い、そのツールの使い方の手順書を作成し、ツールのビットマップ画像まで貼り付けて、この画面のここでこのような指定をすれば実現できるといったようなことをわかりやすく書き込んだ。そして、そのような手順書を作成し、共有フォルダに置いたことをプロジェクトメンバーに一斉通知しておいた。

 そして、再び新たな傷害が発生し、そのツールを使わなければならなくなった。すると、先月、私にそのツールを使って作業をしてくださいと頼んで来た男性社員(ツールの使い方を知っている人とは別の男性社員)が、私に、
「あのツールを使って、修正したプログラムを再配布できるようにしてくれませんか?」
と小声で頼んで来た。私は、
「毎回、毎回、私が作成していたのでは、練習にならないでしょう。せっかく手順書まで作ってあるんですから、それを見て自分でやってくださいよ」
と言い返した。しかし、彼は、
「ツールを使う練習はしておくので、今回に限り、お願いします」
と言うのだ。

 結局、私は、その作業を行ったのだが、何となく腑に落ちないものがあった。考え方によっては、私は派遣で、相手は社員なのだから、社員が自分の作業の負担を軽くするために、派遣に作業を委託することは何らおかしくない。むしろ、そのために派遣は雇われていると言ってもいい。しかし、今回のことは、私には、彼の甘えであるように思えたのだ。だから、彼は小声になったのではないかという気がしている。そして、小声になってしまったというところに、彼の良心が隠されているのだと思う。

|

2005.09.07

はっとしてGood!

 仕事に疲れ果て、駅から自宅までの道のりを自転車で走っていたとき、一台のタクシーが私の前で停まった。そこでお客さんを降ろしたわけではなく、中から降りてきたのはタクシーの運転手さんだった。どうやらその付近にある自動販売機で飲み物を買いたかったようだ。

 すれ違い様に、タクシーの運転手さんと目が合った。驚いたことに、タクシーの運転手さんは、私に対して微笑み掛けてくれているように思えた。私は驚いた。何故、見知らぬタクシーの運転手さんが、私に微笑み掛けてくれるのだろうと、一瞬、不思議に思った。

 しかし、すぐに私は理解したのだ。タクシーの運転手さんは、私に微笑み掛けてくれていたわけではなく、思わず笑みがこぼれてしまうほど楽しい気持ちでタクシーに乗っていたのだと。その笑顔は、運転手さんが車から降りる直前の状態のまま保たれていたものであり、わざわざ私に対して向けれらた笑顔ではないのだということを。

 そして私は、はっと我に返った。今の私は、一体どんな顔をしているのだろうと。仕事疲れのヘロヘロモードで、人生なんてまるで面白くないといったような顔をしているのではないか。こんな顔をしていたら、気分が重くなって行く一方ではないか。笑顔が幸運を呼び寄せてくれるかもしれないのに。

 確かに仕事は忙しい。少なくともたっぷり一ヶ月はかかる仕事を、わずか二週間で仕上げようとしている。しかし、誰かとすれ違ったときに、はっとした気づきがあるような笑顔でいたいものだ。タクシーの運転手さんから、そんなことを教えてもらった。

 帰宅してみると、マンションの駐輪場にガンモの自転車があった。私たちは、立体駐輪場の上下段に自転車を止めている。下段のほうが自転車を止め易く出し易いため、早く帰宅した人や翌日が休みの人は、下段を譲って、上段に自転車を収納することにしている。仕事のある日はいつも、ガンモのほうが少し早く家を出るため、ガンモと一緒に家に帰ったときは、私が上段に止め、ガンモが下段に止めることになっている。しかし、私が帰宅したとき、ガンモの自転車だけがぽつんと上段にあった。私はその自転車を見て、ガンモが一人で家に帰って来たことを実感した。しばらくこのような状況が続いてしまうことだろう。この光景を毎日目にするのは、何と寂しいことだろう。

※皆さん、たくさんの投票ありがとうございます。特に、今はパワーが落ちて来ているときなので、とても励みになっています。本当にありがとうございます。どんなにパワーが落ちても、「愛とは何であるか」について、いつも考えて行きたいと思います。

|

2005.09.06

想いが叶う

 残業のため、社員職業で夕ご飯を食べることを伝えるためにガンモに電話を掛けた。電話の奥から、ガンモのがっかりした様子が伝わって来る。ガンモとはいつも、途中の駅で待ち合わせて一緒に帰っているからだ。共働きでいつも帰りの遅い私たちは、二人で待ち合わせて外食することが多い。

 残業を終えて職場を出る頃、もう一度ガンモに電話を掛けてみると、ガンモは会社の後輩とお好み焼きを食べに行ったところだった。
「独身二人組でお好み焼きを食べてる」
とガンモが言う。ガンモの会社の後輩は確かに独身だったが、ガンモが自分自身をも独身の仲間に加えたのは、家に帰っても、夕ご飯の用意がないことを意味している。しかし、私たち夫婦は、そんなことをまったく気にかけてはいない。家事は女性がするものだとか、家に帰ったらあたたかいご飯が待っていなければならないといったような亭主関白的な価値観にはとらわれていないのだ。家事は二人で分担し、ガンモは主に洗濯と掃除担当、私は主に食事とコミュニケーション担当だ。自分のスーツのズボンの裾上げも、ガンモは自分で行っている。

 私の職場から、ガンモのいる三宮までは一時間近くかかるので、
「じゃあ、帰りは別々になっちゃうね」
と言いながら、電話を切った。

 しかし、三宮駅について再びガンモの携帯に電話を掛けてみると、受話器の向こう側からも、私がリアルタイムに耳にしている三宮駅のアナウンスが聞こえて来るではないか。
「あれ? もしかして、三宮駅のホームにいる?」
と私が言うと、
「そうだから」
とガンモは言った。特に時間を指定して待ち合わせたわけでもないのに、同じ時間に同じ駅のホームに居たのだ。

 そして私たちは、涙の再会を果たし(少々大袈裟?)、同じ電車に乗り、同じ家に帰った。一緒に帰りたいという二人の想いが叶ったのだ。

|

2005.09.05

個の付き合い

 先日の公開録音のチケットを融通してくれた友人から、「ガンまる日記」を読んだとのメールが届いた。彼女は、同じアーチストを応援し続けている古い友人である。「ガンまる日記」やホームページにもときどき目を通してくれていて、感想をメールで送ってくれる。彼女は、私が好きなメンバーとは違うメンバーのことをずっと大切に想っている。

 彼女のメールに、こんなことが書かれてあった。

HPを見せてもらったの。
○ちゃん(※私の好きなアーチストの愛称)のこと、“そんな風”に見てあげることが出来るのね。
なんか、“超えてる”よね。。。
私にくれたメールにもあったね。
「みんなに愛されている○ちゃんを見るのはうれしいもんだね。」って。
まるみちゃんご夫婦に見てもらって良かったぁ。


感動したの。
「お揃いの服を着て、お揃いのリュックを背負って、おそろいの 体型で」
ってところ。

 おおお! ありがとう。チケットを都合してくれて、本当に感謝感謝。でもね、超えてなんかないよ。以前よりも、客観的に見られるようになっただけだと思う。それは、以前よりも盲目的でなくなったからなのかもしれないけど。もっと広い観点から、彼らを観察できるようになったんだよ。

 不思議なことだが、彼女と私は、年を重ねるごとに、どんどん距離が近くなって行くような気がする。彼らに対してバリバリの全盛期の頃は、彼女と一対一で話をすることがあまりなかった。若い頃は、何となく存在していたファン同士のグループのようなものに属していた私たちは、特定の対象と密な関係を結ぶことはなかったように思う。それが、お互いにだんだんと年を重ねて来て、個と個の付き合いに発展し、特に携帯電話を持ったり、インターネットに接続するようになってからは、次第にそれが顕著になって行った。彼女が初めてインターネットに接続して、私のサイトに目を通してくれたとき、こんなうれしいことを言ってくれた。
「彼らのファンサイトをいろいろ見て回って、ああ、インターネットってこんなものかなと思い始めていたけど、まるみちゃんのサイトを見たとき、もっともっと読みたい気持ちになれたよ」
うれしかった。彼女には、これまで私が見せていなかった部分を出してもいいのだと感じた。グループから離れて、個の付き合いが実現し、何年もかかってようやくここまでたどり着いたような気がする。おそらく、私とウマが合う人というのは、目の前の愛から目を反らさずに、ちゃんと愛のはなしができる人なのだと思う。

まるみちゃんにも思う。。。○○○さん(※彼女の好きなメンバーの名前)にも思う。。。
そんなに、倒れる一歩手前ではないのかと心配する程に
エネルギッシュに生きるパワーはなに?
譲れないものに対する愛なのですか。


おバカな私は、こんなところまで来てやっと、
彼の○○○(※バンド名)への深い愛に気付きました。

 彼(友人の好きなメンバー)は、私と同じように熱い人だ。だから、私には、彼の熱さが良くわかる。私は彼女に、彼と一度、お酒を飲んでみたいと頼んでいるのだが、なかなか実現しない。当たり前か。(苦笑)

 どうしてそんなにエネルギッシュでいられるか。最近、いろいろな人に尋ねられるのだが、自分ではあまりエネルギッシュだという自覚がない。しかし、自分のエネルギーが落ちているときは、とことん落ち込んでしまう。言葉が出て来なくなってしまうし、スピリチュアルな感覚からも遠ざかってしまう。いつもいつもいつも高いエネルギーを保つ続けているわけではなく、上がったり落ちたりの繰り返しだ。

 ただ、世の中にこれを伝えて行きたいという強い欲求はある。私にとってはそれが、男女の愛というテーマである。その要素に対し、能動的な性格と、文章を書くことが好きということと、人との対話が好きという要素が加わっているのだと思う。

 掲示板などで、バラバラの魂が一つに向かって行くプロセスも一体感があって素晴らしいが、集団から離れ、個としての魂と向き合って行くプロセスもまた楽しい。自分がどのような集団に属した上で、個を見つめて行くにもよるのかもしれないが。

 先日、私の派遣先の部長が、私の体調を気遣って、声をかけてくれた。そのときに、私は思ったものだ。職場などでは、女子トイレで二人きりにでもならない限り、個と個の付き合いには発展しないものだと。部長は男性なので、女子トイレで話し込むわけにはいかない。また、女子トイレで話をするチャンスに恵まれたとしても、個と個の関係に発展しない場合も多い。個と個の付き合いに発展するときは、お互いに場の雰囲気を読みながら、相手が発する次の言葉を楽しみに待っている。そうしたやりとりが心地よければ、個と個の付き合いは、全体像にごまかされることなく、あっという間に発展する。

|

2005.09.04

異なるルートでも

 予想通り、ガンモは私に、
「CD貸して」
と言って来た。私がCDを探し出してガンモに渡すと、ガンモは一日中、そのCDをパソコンで再生しては、聴き入っていた。そのCDは、私の好きなアーチストが三年ほど前に別のグループに参加したときにリリースされたものだった。それ以来、そのアーチストは、ラジオの公開録音の度に、アコースティックギターでそのグループの曲を弾き語りをするのだった。

 ガンモは曲を聴くだけには留まらず、そのCDに納められているそれぞれの曲の背景をインターネットで調べていた。そして、歌詞が掲載されているサイトを見つけ、歌詞をプリントアウトしては、それを見ながら私の前で歌って見せた。

 実は、このような歩み寄りは、私のほうにもある。私は、ガンモの鉄道好きがいつの間にか私にも感染してしまい、列車のはなしなどというブログを楽しみながら書いている。相手と同じ方向を向くことで、お互いに愛情を示し合う関係。それがソウルメイトだ。お互いに秘密を持たず、二人の間に境界線のない関係である。

 私は、普段、このような愛情関係の中にいるために、人付き合いについても、共感をベースにした付き合いを好む傾向にある。共感をスタート地点にして、そこから更に発展して行く関係が、とても心地いい。だから、ツインソウルのように、関わっても関わっても相手に似て来ないのに交流が続いて行くような関係は、私にとって、驚異でもある。しかし、ツインソウルという存在は、振り返ってみると、いつの間にか、いくつもの山場を乗り越えている関係である。もしかすると、ツインソウルという存在は、歩いて来た道のりを振り返ることで、お互いの大切さを実感する関係なのかもしれない。

 ところで、ツインソウルのご主人さんと一緒に過ごしていらっしゃる(であろう)てんてんさんが、「ガンまる日記」を読んでくださる度に、自分たち夫婦とは違うなあと実感されるそうだ。そう、私にもその違いが明確にわかるのだ。だから、ソウルメイトとツインソウルを混同させることはできないと、私は思う。

 実は、非公開掲示板で交流させていただいている女性が、自分はツインソウルには出会っていないので、皆さんの書き込みを読ませてもらっても、経験がないためにコメントできなくて申し訳ないというようなことを書かれていた。確かに、私のサイトには、ツインソウルとの関わりを持っていらっしゃる方がとても多い。しかし、私は彼女に言った。ソウルメイトでも、ツインソウルでも、それぞれの関係性が違うだけで、愛を経験しているという点では変わりないのだと。

 現に、ツインソウルのご主人さんと一緒に過ごしている(であろう)てんてんさんと、ソウルメイトのガンモと一緒に過ごしている私の間には、男女の愛について、数多くの共感が見られる。こういう愛が心地いい、心地良くない、といった観点が似ている。これは、例え異なるルートを通ったとしても、男女の愛を大切に生きている人たちが、同じ目的地に向かっていることの証なのではないかと思う。だから、男女の愛のはなしをするときに、一緒に過ごしている相手がソウルメイトだろうと、ツインソウルだろうと、気にすることはないと私は思うのだ。今、自分の体験している愛を、思い切り語ればいいのだと思う。

 そうは言っても、時として、考え方が異なって来るのは、何を光とし、何を闇としながら生きて行くかの観点の違いに原因があるような気がする。光と闇は相対的なものなので、同じ要素が、ある人にとっては光であっても、ある人にとっては闇であったりする。具体的には、私にとっては、今あるパートナーを素通りして、他の人に向かうのは闇だが、他の人にとっては、それが光のこともあるということである。こうした関係は、お互いの良さをうまく引き出せない関係に発展してしまいがちである。

|

2005.09.03

公開録音への長旅

 徳島で行われるラジオの公開録音に出掛けるため、三宮から徳島行きのバスに乗り、途中の高速鳴門で降りた。公開録音の会場に行くためには、終点の徳島で降りたほうが便利だったのだが、鉄道乗り潰しポイントを稼ぐため、鳴門駅から鳴門線・徳島線を経由して会場まで向かった。

 もう九月だと言うのに、特に残暑の厳しい一日だった。持っていたハンドタオルはすぐに汗まみれになり、喉が渇いて、何度も何度も水分を補給した。

 会場に着いて、入場の順番を決める抽選を行い、係の人の指示に従って入場待ちをした。私はかなり遅い番号を引いてしまったので、しばらく日陰で待っていたのだが、早い番号を引いた人は、強い日差しの中で三〇分以上、列に並んだまま待たされていた。

 小さな会場だったのだが、およそ四百人ほどの観客が集まったようだ。ようやく入場の順番が回って来たので入場してみると、何と私たちは立見席だった。私たちの少し前に入場した人たちまでは、パイプ椅子が用意されていたのだった。しかも、会場内は、クーラーがあまり効いていない上に、観客の熱気も加わって、かなり暑かった。ラジオ局のアナウンサーが、
「これから公開録音を始めますが、途中で気分が悪くなられた方は、周りのスタッフに一声掛けてください」
と言っている。しかし、そのような悪条件は、ラジオののパーソナリティであるアーチストの登場で、いっぺんに吹き飛んでしまった。

 公開録音の始まりたてのぎこちない雰囲気を、アーチストが笑いの渦に変えてしまう。ばらばらのものが一つにまとまり、場の空気が一瞬にして変わる。やがて、番組進行の主導権が、地元のアナウンサーからアーチストへと移って行く。更に、ゲストに対しても、観客の意識が行き渡るように、アーチストがゲストを気遣っている。それらの作業は、まさに熟練と言っていいほどの素晴らしいものだった。

 今回、アーチストの仕事ぶりを見ながら、改めて感じたことがある。それは、彼は、私にとっては、間違いなく陽の存在だということだ。他の人に対しては、ほとんど陽であるはずの私が、彼を前にすると、たちまち陰になってしまう。陰と陽は、絶対的なものではなく、関係を結んで行く人によって、相対的に形成されて行くものなのだ。

 およそ一時間半に渡って行われた公開録音は、予定通りの時間に幕を閉じた。ガンモと私は、青春18きっぷを使い、阿波池田と琴平を経由して坂出まで出て、そこから更に岡山・姫路を経由して、深夜にようやく自宅まで辿り着いた。帰り道、ガンモは、公開録音でアーチストが歌ってくれた歌を何度も何度も口ずさんでいた。明日になれば、きっとCDを貸してくれと言って来るに違いない。

 それにしても、この時期、長い間、列車に乗り続けるのは肉体的にかなり厳しいものがある。というのは、夜はすっかり涼しくなっているのに、真夏の名残で列車内の冷房が効き過ぎているからだ。公開録音のときに暑い想いをした私たちは、帰りの列車の中で風邪を引きかけた。このように、暑いと寒いはいっぺんにはやって来ずに、変わりばんこにやって来るものだ。

 帰宅した私たちは、汗まみれになった身体をシャワーで洗い流し、さっさと布団にもぐり込んだ。とにかく疲れ果てていた。それでも、ガンモがずっと一緒に居てくれた。お揃いの服を着て、お揃いのリュックを背負って、おそろいの体型で、ガンモがずっと私の隣に一緒に居てくれた。

|

2005.09.02

相反するものの同居

 仕事が忙しくなってしまった。そのため、「ガンまる日記」の更新も遅れがちになっている。仕事が忙しくなると、パワーも低迷気味になってしまう。困ったものだ。

 先日からずっと考えていたことがある。それは、相反するものは、一体どのように同居して行くのかということだ。

 例えば私は、オフィスの空調の温度設定が低すぎるため、上の人に頼んで、二十八度に設定を変えさせてもらっている。それをお願いするまでは、十八度の設定になって、私は凍えながら仕事をしていた。私には、二十八度の温度設定がちょうどいい。しかし、一部の男性たちにとっては、ひどく暑いのだろう。仕事中にうちわでパタパタ扇いでいる人もいる。暑い環境で仕事を続けるのも、なかなか苦しいものだ。だから、私が仕事を休むと、温度設定が二十二度に変わっていたりする。快適なオフィスを目指して行くためには、職場の空調の温度設定は、寒い人に合わせることになるのか、それとも、暑い人に合わせることになるのか、どちらなのだろう。しかし、どちらを選択するにしても、完全ではない。だから、お互いの限界値まで詰め寄るのだろうか。

 これと同じように、ある方面に詳しい人と、そうでない人は、どのように同居して行くのだろう。熱い人と冷めた人は、どのように同居して行くのだろう。

 相反するものは、同時に存在することはできない。だから、双方が理解し合うためには、片方ずつの主張を受け入れる方法しかないのだろうか。真の意味で、二元性から脱却するとは? 最近、そんなことを考えている私であった。

|

2005.09.01

国のカルマを背負った人たち

 今、アメリカでは、ハリケーンによる大きな被害に見舞われている。そのせいで、町は無政府状態となり、ガソリンの値段はつり上がり、暴動までも多発しているという。ハリケーンの被害に遭われた方々や、その被害を目の当たりしていらっしゃる人たちに、心からお見舞い申し上げたい。

 ただ、アメリカという国の持つカルマを考えたとき、彼らが攻撃しているイラクの人たちも、同じ尊い命であったことに変わりがないことに気づいて欲しいと思う。住み慣れた家や家族、愛する者同志を引き離す戦争。もっと古い歴史があったにしても、ニューヨークの同時多発テロのときは間違いなく被害者だったはずのアメリカは、今ではすっかり加害者になり変わってしまった。だから、今回のことが、アメリカがイラクから撤退するきっかけになってくれればいいと切に願う。何故なら、ハリケーンの被害に遭われた方たちは、アメリカという国の持つカルマを背負ってくれた人たちだと思うからだ。彼らが犠牲になることで、アメリカがイラクから撤退するように動いて行くのではないだろうか。イラクで攻めている人たちは、よその国を攻めるよりも、自国の救助に回るべきだ。

 ちょうどベトナム戦争の頃、フォークの神様、岡林信康さんが、『アメリカちゃん』という歌を歌っていた。その歌には、「頼まれへんのに平和を作ると爆弾落とし、地獄を作る」などといった、アメリカに対するかなり辛口の表現が随所随所に盛り込まれている。その歌詞に目を通してみると、アメリカという国は、何度も何度も同じこと繰り返しながらも、決して懲りることのない国なのだと感じる。

 神はうまく考えたものだ。もしも相手がハリケーンという自然現象でなく、よその国だったなら、アメリカは間違いなくその国を攻撃し、新たなカルマを作ってしまうことだろう。だから、ハリケーンは、そろそろ攻撃をやめて、自分の国を建て直すことを考えなさいという警告なのだと思う。命を張ってくれた人たちがいるのだから、アメリカの大統領を支持する人たちに、そろそろ命の尊さに気づいて欲しい。そのことは、命を張ってくれた人たちが、思い残すことなくこの世を旅立って行くための近道になると思う。それが、戦争がなくなるということと、国のカルマを背負ってくれた魂たちへの、双方の祈りだと思う。

|

« 2005年8月 | トップページ | 2005年10月 »