« 愛の判断 | トップページ | 火傷は必要か? »

2005.08.27

凸凹理論

 これは、りえちゃんの月見想対立〜その向こう側へのトラックバックである。

 りえちゃん、今は新しい関係を育んで行くことに忙しい時期なのに、今の掲示板の流れを気にかけてくれてどうもありがとう。しかし、りえちゃんが対立好きだったとは、私も意外だった。(苦笑)そう言えば、非公開掲示板には対立がないねとりえちゃんのブログにコメントを書かせてもらったところ、彼女は、実は対立したいネタがあるんだよと妙に喜んでいた。何だ、何だ、その喜び方は? でも、ちょっとビクビク?(笑)

 人間関係の築き方を見ていると、大まかに分ければ押すか引くかという方法に分かれる。私はもちろん本質は押すタイプで、最近は押し過ぎて失敗する事が多いが、それは自分の押し加減を試さないと加減が分からないからということもある。
 引くタイプの人は、相手のことを配慮する、相手の気持ちを汲み取るということに思考や行動のポイントがあって、こちらが思っていないことまで考えて身を引いてしまう。

 これは、私にも良くわかる。おそらく、私も本質的には押すタイプ(つまり凸型)だ。私自身がこれまで押して来た体験から思うのは、相手に完全な受身の態勢を取られてしまうと、面食らってしまうということだった。実は、現在の非公開掲示板の前身の掲示板で、心地良い対立を実践するためのグループワークに取り組んだことがある。そのとき、徹底的に受身(つまり凹型)の人がいて、よし、これから対立を始めるぞ、というときに、
「まるみん、私に言いたいことがあったら何でも言ってよね」
と言って来た。しかし私は、それを読んで、よろよろとよろめいた。すると、それを見守っていた別の人が、彼女にこう言ったのだ。
「相手がファイティングポーズを取っているときに、何でも言ってよという姿勢を取ると、相手がずっこけるんだよ。それだと、自分だけいい子になって、相手を悪者にしちゃうでしょ?」
うわあ、これは参ったと思った。彼女の洞察力は鋭い。確かにその通りだ。だから、相手がファイティングポーズを取っているときは、自分もファイティングポーズを取るほうが、心地良い対立を実現できるということになった。

 しかし、私の経験から言えば、本当に心地良い対立というのは、双方が凸型と凹型の両方を体験できる対立だ。つまり、もともと凸型の人も、相手の発言を吸収するときには凹型になり、もともと凹型の人も、相手に主張するときには凸型になるという対立である。そして、この凸凹理論を駆使した上で、手加減なく対立できるのが、私にとってはツインソウルである。ソウルメイトの場合は凸凹ではなく、対立のない□□、すなわち、共感による結び付きとなる。

 誰に対しても、ツインソウルとの対立のように、信頼を持って対立にのぞむことができたらいいのにと思う。しかし、実際には、その人が持っている陰のエネルギーも、陽のエネルギーも、実に様々である。だから、相手に対して言いたいことが言えなかったり、また、相手に受け入れてもらえなかったりもする。原子と原子が結合するときのように、人と人の結合にも、マイナスイオンとプラスイオンの働きが関係するのだとすれば、陰と陽のエネルギー値によって、強く結び付く魂もあれば、結び付きがもろい魂もある。

 私は、それらのエネルギーをできるだけ調整するために、引用形式の掲示板を好んで使っているのだと思う。新たに書き込まれる発言は、凸。それを受ける人が、相手の発言を引用しながら、凹の発言を書き込む。その中には、凸として、自分なりの意見や経験も盛り込む。その発言を受ける人が、再び相手の発言を引用しながら、凹の発言を書き込む。その中には、凸として、自分なりの意見や経験も盛り込む。そして、これを延々繰り返す。一言で言うと、コミュニケーションが心地悪くなってしまうときは、凹の部分が少なくなってしまっている。それは、言い換えれば、共感やお互いの学びが異っているということになる。

 私が、掲示板の流れをもっとスローに! と気にかけるのは、凹になる人がおなかいっぱいになってしまうからだ。おなかがいっぱいになってしまうと、吸収率も落ちて来る。そのあたりのバランスを、一対多、あるいは多対多の関係の中でも意識しながら実現させて行く必要があると思う。

 子どもの頃は、私はいつも相手を気遣って引いている時期であった。その頃は、人間関係が苦手で仕方が無かった。ある意味、引いている方が気が楽だった。私はエネルギーが高いと言われるが、それでも相手に近付こうとするときにはかなりエネルギーを使う。
 だから、掲示板で多くの人を相手にやり取りを行うまるみんを、私はとてもエネルギーがあると思っているのである。そのエネルギーのもとは、安定した愛情を交わしている相手がいることなのではないかと思っている。何しろ、相互交流の出来ない人間関係ほど、エネルギーが空回りしてそれが自分の身に返ってきたときに、酷く疲れてしまうのだから。その逆に、交流できた時のエネルギーは戻ってきた時に優しく癒してくれたり、新しい活力に変わると思う。

 私のエネルギーの源は、何なのだろう。もちろん、ガンモの安定した愛情には十分支えられている。しかし私は、ブログや掲示板のコメントを書くとき、ガンモに、
「ちょっと書くことに集中したいから話し掛けないでね」
と頼んでいる。私はときどき思うのだ。ガンモとの密な関係を差し置いてまで、私は男女の愛について発信して行きたいのだろうかと。しかも、今ではこの「ガンまる日記」も、ガンモとの愛の生活のことだけには留まっていない。私をここまで掻き立てるものは一体何なのか。

 おそらく、これが私のライフワークだということに気づいているからだ。私は、昔から、男女の愛のはなしが好きで好きでたまらなかった。でも、いくら男女の愛のはなしといえども、結婚前に凄まじいカルマの経験をしてからは、人を傷つけてまで成り立たせる愛には感動できなくなってしまっていた。ガンモと出会う前には、あれだけ感動でむせび泣いたはずの『マディソン郡の橋』にも、ガンモと出会ってからは、もう感動できなくなってしまった。

 人はそれぞれ、テーマを持って生きているのだと思う。そのテーマが交差しないときは、当り障りのない付き合いになって行くのだろう。あるとき私が、現在の非公開掲示板の前身の掲示板に、
「美容院って苦手なんだよね。当り障りのない話ができないから。それでも、美容師さんって、いろいろ話し掛けて来るよね。どこかに精神世界専門の話題を扱う美容師さん、いないかなあ」
と書いたところ、それを読んだ人が大爆笑していた。私はそういう人間なのである。

 精神世界の交流で、行間を埋めて行くものは、共通の経験や考え方だと思う。それらが揃っている場合、掲示板での交流は、文字ではなく、感覚だけになる。そして、そうした交流は、文字を使った交流よりも、効率的なコミュニケーションが実現される。私はそうしたコミュニケーションを重ねて来たので、そこに向かって行きたいのだと思う。

 交流する人たちの中には、自分よりも先を行く人がいてもいいし、自分の通って来た道を歩いて来る人がいてもいいと思う。ただ、同じ掲示板で関わって行くなら、同じ方向を向いて行きたい。そうでなければ、行間は決して埋まらず、文字だけのコミュニケーションになってしまうからだ。

 世間一般では引き際のきれいなことは格好が良いとされている。私も以前はそう思っていたが、相手の本当の心も知らず勝手に相手の気持ちを考えて、分かった気になって引かれてしまえば、もうそこに二人の未来はないのである。

 今回の場合は、私に受け入れる体制がないために、涙をのんで引いてくださったのだと思う。何故なら、さきほどの凸凹理論からすれば、私が凹になれないからだ。きっと、このまま交流を続けて行けば、私はこのはなさんに対して凸になり、このはなさんも、私に対して凸になる。凸対凸の交流は、吸収が行われないために心地悪い対立に発展してしまう。

 それでも、このはなさんはまだ、掲示板や「ガンまる日記」の流れをじっと見守ってくださっているし、夏綺さんも、プライベートすれすれのところまでご自分の貴重な体験談を掲示板に書き込んでくださった。次回の記事では、夏綺さんのコメントに返信させていただくつもりだ。

 実は、先日、このはなさん宛のコメントを書かせていただきながら、私の中にはもう一つの考えがあった。それは、火傷をして、魂に刻み付けるということだ。私は、前世で当時の夫を深く傷つけた上でソウルメイトと一緒になった。そのときの後悔があるために、人を傷つけてまで一緒になるということを、これからの転生では絶対に選択しないことに決めた。それは、ある意味、火傷をして火の熱さを覚えたことになる。もしかすると、私は、火傷をして熱い想いをしたからこそ、もう火傷をしたくないと思っているのかもしれない。だとすると、まだ火傷をして熱い想いを体験していない魂は、火傷の経験が必要になるということなのだろうか。

 更に、これは本当に究極的な例なのだが、私たちは、人を殺してはいけないということを潜在的に知っている。ところが、何故、人を殺してはいけないかを明確に説明できる人はいないと言われている。しかし、もしかすると、もしかすると、人を殺してはいけないことを既に知っている魂は、過去世において、殺人を犯してしまい、ひどく後悔した魂なのかもしれない。しかし、もはやそのときの記憶がないために、それを明確に説明することができないのではないか。

 だとすると、すべての学びは否定的な手段でしか有り得ないのだろうか。肯定的な手段で、自分の進むべき道を魂に刻み付けることはできないのだろうか。そのあたりが、まだまだ私の疑問とするところなのである。

|

« 愛の判断 | トップページ | 火傷は必要か? »