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2005.08.22

ないものねだり

 東京から青春18きっぷを使って帰って来た。途中、鉄道乗り潰しのために、御殿場線や岳南鉄道の寄り道をした。それにしても、青春18きっぷを使った普通列車の旅は、新幹線や飛行機で高速移動するよりも実に味わい深いものがある。地元の人たちの方言が聞けるからだ。特に、東海道線は長いので、乗り換える度に、乗客の方言が変化して面白い。「あのさー」の地域からスタートして、「だら」の地域を経て、「だもんで」の地域へと入って行く。

 「だもんで」の地域で夕食を取った。私たちは、「いやあ、暑いもんで」などと言いながら、お店のカウンターで汗をふいた。「だもんで」という言葉を、「だもんで」の地域で使用することで、「だもんで」の地域に馴染もうとしているのだ。夕食を取ったあと、「だもんで」の地域を十九時二十五分に出る新快速電車に乗り、ようやく米原まで戻って来た。そこまで帰って来ると、いつも聞き慣れた関西弁がちらほらと耳に入って来る。そして、米原から新快速に乗り、新大阪で普通列車に乗り換え、午後十一時に帰宅した。午前九時過ぎにホテルを出てから実に十三時間の長旅となったわけである。

 私は、帰りの電車の中で、ずっと 掲示板の運営のことを考えていた。ホームページや掲示板というものは、一つの列車と似ているかもしれないと思った。列車なのだから、それに乗車する人たちは、それぞれ行き先が違っていて、自分の決めた目的地に向かうために途中下車する人がいてもいいわけだ。もちろん、途中の駅から乗り込んで来る人がいてもいい。しかし、最後まで乗車してくれるのは、同じ目的地に向かう人たちだけだ。そして、列車なのだから、定員があってもいいのではないかとも思った。

 私は、掲示板の運営に関して、いっそのこと、落ちるところまでとことん落ちてしまって、また這い上がって行きたいような衝動に駆られてもいた。私が書いたことに関して、たくさんの励ましの言葉もいただいた。皆さん、どうもありがとう。そして、びっくりさせてしまってごめんなさい。しかし、私はできる限りいつも正直でいたいし、正直であることが、皆さんと信頼関係を結ぶ最短距離だと思っているので、敢えて書かせていただいた。このことに関してはやはり、私が自分自身で結論を出したいと思っている。

 別の日記で取り上げたことがあるのだが、愛とセックスをテーマにしたホームページを開設されている女性がいる。その方は、女性の観点から見たセックスに関する本を出版されていて、私も二冊持っている。その方のホームページには、女性だけが参加できる会員制の掲示板がある。私は、その方の書かれていることが大変素晴らしいと感じたので、会員制の掲示板に登録してみた。しかし、そこで語られていたのは、愛やセックスの素晴らしさなどではなく、不倫やセックスレスの悩みがほとんどだった。私は、登録して初めてその会員制の掲示板にアクセスしたときに、それらの書き込みにとてもがっかりしてしまった。だから、そのホームページにはもうアクセスしていない。そのホームページを運営されている女性は、愛やセックスの素晴らしさを伝えたかったはずなのに、そこに集う人たちは、愛やセックスの問題を抱えている人たちがほとんどだった。私のサイトにも、「ツインソウルに出会ってから、主人をもう愛せなくなりました」という書き込みがあり、そうした発言を受け入れて行くことが何よりも難しい状態にある。しかし、一体、どうしてこのような現象が起こってしまうのだろう。

 私は、書き手と読み手のギャップのことを思い出した。書き手は、その分野に関して「世の中に伝えて行きたい」と強く思うほどのこだわりを持っている。しかし、読み手は、その分野に関して、「知りたい」という姿勢でやって来られる。最初から、そこに大きなギャップがあるのではないだろうか。現在の私は、ソウルメイトやツインソウルやカルマに関して、他のサイトを参照するようなことはほとんどない。何故なら、既にそれらの経験が私の中にあるからだ。しかし、仕事で調べものなどをするときは、その分野に詳しい人のサイトを、検索エンジンなどを駆使してしきりに参照する。そして、新たな知識を得ようとするのだ。つまり、書き手は、既に自分の中にあるものをそこで表現しているが、読み手は、自分の経験が、書き手の経験と同じであるかどうかを確認しようとしたり、また、新たな知識を得ようという姿勢でやって来られるのだ。更に、通常、書き手は一人で、読み手は複数だ。だから、両者の間には、最初から様々なギャップがある。それらのギャップが一気に埋まるのは、読み手と書き手が同じ感動を共有したときだったり、意見の違いによる対立や停滞を乗り越えたときだ。

 さきほど、読み手は「知りたい」という姿勢でやって来られると書いたが、どういうわけか、「精神世界に関しては初心者なので」と書き込みされる方が、最近、特に多い。しかし、実際に魂と魂を付き合わせて交流させていただいてみると、本当に初心者なのだろうかと思ってしまうほどプログレッシヴな方もいらっしゃる。このように、掲示板というものは、熱い、ぬるい、古い、新しいなど、様々な人たちを同時に受け入れて行くコミュニティである。そして、私自身の経験からも、掲示板をグループワークのような形にしたほうが、魂の成長が速まることを知っている。

 以前、現在の掲示板の前身である非公開掲示板で、「陰と陽の対立」というのを試みたことがある。陰の人は、陽の人の態度の中で理解できないことを、陽の人は、陰の人の態度の中で理解できないことを、掲示板でお互いにぶちまけたのだ。これは、なかなか面白い展開だった。あのような議論をまたどこかでやれたらとも思う。しかし、発言する人がたくさんいたとしても、それらの発言を吸収する人がいなければ、双方向のコミュニケーションは成り立たない。だとすると、グリーン車や指定券みたいに、会員制にしたほうがいいのだろうか。しかし、そんなことをしてしまったら、誰でも書き込める掲示板はどこにあるのですかと、新しく訪問してくださった方たちに尋ねられるに決まっている。例え、ホームページや掲示板が列車だとしても、そのときばかりは、「あいにく、グリーン車も指定券も既に満席なんです」と答えるわけにはいかない。

 私は、学生時代に所属していた写真研究会というサークルでの出来事を思い出した。学園祭のときに行われる写真展で、BGMを流すか流さないかについて討論していたとき、会長がこう言ったのだ。
BGMってさあ、流したら流したで、BGMなんかないほうがいいって言う意見が出て来るし、流さなかったら流さないで、BGMがあったほうがいいっていう意見が出て来るんだよなあ
その言葉は、今でも私の心の中に残っている。今の私には、この会長の言葉の中に、私の抱えている問題を解く鍵があるような気がしてならない。

 つまり、人は常に、ないものを求めようとする存在だということだ。いや、足ることを知らないと言ったほうがいいのかもしれない。掲示板がないという状態が続くと、掲示板があるという状態を渇望する。しかし、いざ、掲示板を設置してみると、いろいろな問題が起こり、今度は掲示板がないほうがいいのかなどと思いはじめる。また、オープンな掲示板ばかりだと、非公開の掲示板があったほうがいいとなる。非公開掲示板ばかりだと、私は一体どこに書き込めばいいのとなる。それらが向上心になっている場合はいいのだが、他者を傷つけてまでも渇望するのは怖い。そういう私も、「荒波」という、これまでの掲示板になかったものを求めようとしているかもしれない。

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