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2005.07.02

裁判官

 私が解釈する限り、中間世はおそらく、私たちが「あの世」と呼んでいるものだ。

 私たちの思想では、「あの世」には閻魔大王がいて、嘘をついた人は舌を引っこ抜かれ、悪いことをした人は針の山を歩かされるなどの苦行を強いられることになっている。こうした思想が浸透しているのは、日本だけではないらしい。多くの宗教、哲学、神秘主義に、死後に裁判が行われる信仰が見られると言う。

 大変興味深いことなのだが、ホイットン博士の『輪廻転生──驚くべき現代の神話』では、被験者の多くが、中間世で裁判官の存在を裏付けていると言う。再び本の表現を借りることになるが、その部分を引用してみたい。

 ホイットン博士の被験者の証言はみな裁判官の存在を裏付けており、太古から世界各地で語りつがれてきた話をより詳しく述べている。超意識に入っていった人たちほぼ全員が、年老いた賢人たちの集団の前にでて裁きをうけたという。この老賢人たちはたいてい三人、ときには四人、ごくまれに七人のこともあり、その姿はさまざまである。彼らは正体不明のこともあるし、神話にでてくる神々や宗教上の大師(マスター)の姿をしている場合もある。ある被験者はこう語る。

 「案内役(ガイド)は私の腕をとって、長方形のテーブルを前に裁判官たちが着席している部屋へと連れていきました。裁判官たちはゆったりした白い衣装を着ており、みな歳をとっていて賢そうでした。この人たちといっしょにいると、わが身の未熟さを痛感しました。」

 この非物質界の法廷の裁判官は高度に霊的発達をとげており、この世の転生のサイクルをすでに卒業してしまったかのように思われる。その人たちは目の前の人物に関して知るべきことは何でも直感的に知り、その人が今しがた終えてきたばかりの人生を評価するのを助けてくれる。場合によっては、つぎの転生についてこうしなさいと教えてくれることもある。
 生と生のはざまに各人にとっての地獄があるとすれば、それは魂が反省のために自分自身を顧みる瞬間のことであろう。前世での失敗に対する後悔や罪悪感、自責の念が心の底から吐露され、そのため見るも無残なほど苦悶し、悲痛の涙にくれる。生きているときには、マイナスの行動も理由をつけて心のかたすみに追いやってしまうことができるし、言い訳だっていくらでもできる。ところが中間世では、このような行いをしたために生じた感情は生々しく、妥協を許さない。他人に与えた苦しみは、あたかも自分がその苦しみを受けるかのように身にしみる。しかし多分いちばん苦痛なのは、悔いあらためて過ちを正すにはもう遅いと悟るときだろう。前世へと通じるドアはかたく閉じられ、いままでの自分の行為や怠慢の結果が白日のもとにさらされる。ポーカーゲームの大詰めで持ち札全部を開けて見せるときのように、自分がだれで何なのか、説明を求められるのだ。他人の意見は役に立たず、問題にされるのは、私たち一人一人の誠実さ、私たちのうちなる道徳性だけなのである。

 私なりの解釈だが、ここで述べられているような裁判が、それぞれの宗教や哲学、神秘主義によって受け取られ、加工されたのではないだろうか。しかし、中間世における裁判の存在を知ると、この世で行われる裁判や処罰といったものが、本当に意味のあるものなのかどうか疑問を抱くようになってしまう。例え、この世で誰かを深く傷つけてしまったとしても(究極的には、誰かの命を意図的に奪ってしまったとしても)、その魂は必ず中間世に帰り、裁判官の前で自らの行いを裁くことになる。そして、次の転生では、深く傷つけてしまった人をフォローするような計画を立てたり、また、今度は自分自身が相手に深く傷つけられるような計画を立てることになる。つまり、裁くのは法ではなく、自分自身ということである。

 だから私たちは、懐疑的にならず、もっともっと他の魂を信頼してもいいのかもしれない。何故なら、自分自身で作った罪は、必ず自分自身で背負うことになるからだ。中間世の裁判官の前では、逃げることも隠れることもできない。だから、法による裁きは必要ないのではないだろうか。もしも法による裁きが意味のあるものだとすれば、それは、罪を犯した人が刑務所の中で本当に後悔したときだけだ。心からの後悔は、中間世で自分の行いを振り返ったときの自責の念を軽くするだろう。しかし、おそらく、死刑などの法による究極的な裁きは、新たなカルマを作り出すだけだ。法で裁かれなくとも、誰かを深く傷つけた魂は、自分自身を裁くのだから。

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