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2005.07.01

続・中間世

 先日から、ニュートン博士の『死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」』という本を読み始めた。この本は、以前こちらでもご紹介させていただいたホイットン博士の『輪廻転生──驚くべき現代の神話』と同じように、中間世をテーマに扱った珍しい本である。

 ワイス博士を始め、前世療法を扱った本は多く見かけるのだが、この本の中でも述べられているように、転生と転生の間の中間世をテーマに扱った本は非常に少ない。私の知る限り、ホイットン博士のそれと、この二冊だけである。中間世に退行した人は超意識の状態に導かれるため、魂が震えるようなスピリチュアリズムを聞かせてくれる。私の魂は、それらの描写をとても喜んでいる。

 ただ、やはり、多くの魂は、愛する人たちをこの世に残して肉体を離れて行くことに対し、かなり躊躇するらしい。私自身、以前の転生で、ガンモを残して肉体を去って行くことが、とてつもなく悲しかったことを覚えている。肉体を離れてしまったあと、かつての自分の肉体を上から眺めながら、亡骸を前にして嘆き悲しんでいる遺族たちに、自分は大丈夫であること、これが終わりではなく、またいつか再会できることを必死で語りかけようとするのだが、彼らが気づいてくれないことをとてももどかしく思ってしまうようだ。

 ホイットン博士の『輪廻転生──驚くべき現代の神話』の中でも、また、ニュートン博士の『死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」』の中でも、魂が肉体を離れたあとは、光の世界に導かれるという描写が多い。特に、『死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」』では、死後の世界を「スピリットの世界」と描写しているが、この「スピリットの世界」では、肉体の持つ苦痛から解放され、他の魂たちと言葉を介することなくコミュニケーションを行い、ソウルメイトたちとの再会を果たすと言う。スピリットの世界では、すべてがひとつなのだそうだ。

 私はあまり、本からの引用は好きではないのだが(それは、本を書いた人の言葉であり、私の言葉ではないからだ)、ニュートン博士が書かれたスピリットの世界の描写部分を引用してみようと思う。

 この被験者は、死の体験後にトンネルを経て、どんどんスピリットの世界に引っ張られて行きながら、肉体のない穏やかな精神状態にさらに適応していきました。初期のはっきりとしない状態が終わって、最初になされた報告には穏やかに招かれているような感覚が表現されていました。これは私の被験者に一般的に見られる感情です。
 トンネルを通り抜けたときに、魂はスピリットの世界への旅の最初の関門を通り抜けたことになります。大部分の人はここで自分はほんとうに死んだのではなくて、死んで足手まといになった地上の肉体をあとにしたにすぎないことを完全に理解します。この理解によって、それぞれの魂によって程度の差はあるものの、受容が訪れるのです。自分がいる場所を驚きの目で見つめている被験者もいれば、もっと具体的に自分が見たものを私に伝えてくれる人たちもいます。多くは彼らの受容性の成熟度と投じの人生の体験によって決まって来るのです。もっともよく見られるタイプの反応は、「ああ、すばらしい、この美しい場所にまた再び戻って来たんだ」といった声とともに聴かれる安堵のため息です。

 魂が肉体を離れることは苦痛ではなく至福であり、また、死は闇ではなく、光に包まれるのだということを、これらの描写は教えてくれている。

 ニュートン博士の『死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」』を読みながら、今、私が求めようとしているのは、まさしく中間世そのものなのではないかという気がして来た。退行催眠CDで、私が中間世にまで導かれることはないが、それでも、私の魂は、中間世での心地良い体験を記憶していて、その心地良さを、肉体を持っている現世でも再現しようとしているのではないかと思う。

 だから、ソウルメイトに特別な興味を示しているのであり、言葉を介さないコミュニケーション(つまり、テレパシー)を実践しようと試みたり、また、ワンネスに向かうことを目的としているのではないだろうか。そして、精神世界を探求し続けている多くの人が、 私と同じように、中間世を再現しようとしているのではないかと思う。

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