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2005年7月

2005.07.31

忘れられない世代

 今日は、ガンモと一緒に大阪で行なわれたイルカさんのコンサートに出掛けた。「イルカ with friends」というコンサートタイトルの通り、出演者はイルカさんの他、「戦争を知らない子供たち」の杉田二郎さん、「『いちご白書』をもう一度」のばんばひろふみさん、「遠い世界に」の五つの赤い風船、「神田川」の南こうせつさん、「なごり雪」の産みの親の伊勢正三さんらの'70年代フォークを盛り上げて来た豪華メンバーが勢ぞろいし、およそ三時間半の熱演となった。前から五列目の席を確保していた私たちは、そのメンバーと内容の濃さに酔いしれていた。

 '70年代フォークというと、ガンモも私も、決してリアルタイム世代ではないのだが、私たちは、付き合う前から、パソコン通信の電子会議室で、'70年代フォークのはなしを良く交わしていた。それは、私たちが生きて来た中で、お互いに何となく身についていたものだった。私は、イルカさんのアルバムも、高校時代に交際していた男性の影響で良く聴いていたのだが、ガンモもイルカさんの古いアルバムをたくさん持っていた。私が初めてのバレンタインデーにガンモにチョコレートをあげたとき、ガンモからのお返しの品は、イルカさんではないのだが、休みの国のCDだった。

 開演前にガンモは、
「イルカさんはオーバーオールを着て登場するんだろうね」
とか、
「(イルカさんの息子さんの)冬馬(とうま)くんは元気なのかな」
などと気にかけていたのだが、何と、イルカさんはオーバーオールに衣装替えして登場するわ、冬馬(とうま)くんの飛び入り参加もあるわで、ガンモが気にかけていたことをすべて叶えてくれた。

 ガンモも私も、洋楽というものをほとんど聴かずに大人になっている。私は、ここ数年の間に、海外のプログレに浮気したりもしたのだが、やはり原点は、日本のフォークソング、それもURCやエレックレコードが全盛期だった'70年代前半までのフォークジャンボリー世代だと痛感している。'70年代後半からは、私たちのリアルタイム世代であるニューミュージック世代に入るのだが、'70年代フォークとは、ニューミュージック世代よりも少し前までの世代で、歌で時代を変えようと、みんなが一つになろうとしていた時代、そして何よりも、アコースティックギターの響きがもっとも美しかった時代だった。だから、今日のコンサートは、私たちにとって、本当に鼻血が出てしまいそうなくらいの内容だったのだ。「なごり雪」の産みの親である伊勢正三さんと、育ての親であるイルカさん、それから南こうせつさんとのジョイントも聴けた。

 イルカさんは、「地球」や「いのち」という大きなテーマを持って生きている人だと実感した。だから、「いつか冷たい雨が」、「まあるいいのち」などの歌詞にもそれらへの大切な想いが込められている。「石ころでさえも、他人とは思えないの」とイルカさんはおっしゃっていた。今回、「いつか冷たい雨が」を生で聴けたのは、大きな喜びだった。しかも、他の男性アーチストが、オリジナルキー(オリジナルキーとは、曲をリリースしたときのキー。通常は、年齢を重ねるごとに、声が出なくなって来るので、年を重ねてからのコンサートでは、半音下げたりする)から半音下げて歌っているのに対し、イルカさんはオリジナルキーで歌っていた。その声は、昔から聴き込んだアルバムの声とほとんど代わりがなかった。

 私は、別の観点から、音楽性の違いやメンバー同士の不仲が原因で解散してしまったバンドでも、何年か経つと、何ごともなかったかのように集い、再結成することの不思議さを実感していた。同じ解散するにしても、男女の仲はなかなかそういうわけにはいかないものだ。五つの赤い風船にしても、かぐや姫にしても、例え、活動が一時的であるにしろ、一度解散して再び結びついたグループである。そう言えば、あのフォーク・クルセダースだってそうだった。五つの赤い風船も、フォーク・クルセダースも、厳密に言えばオリジナルメンバーではなかったが、それでも、再び一緒に音楽をやりたいと思い、昔のメンバーが寄り合うのだ。一体何が彼らを再び結びつけるのだろう。果たして、私が今の仕事を辞めたとして、何十年後かに、再び今の仕事のメンバーと一緒に仕事をしたいと思うだろうか。多分、思わないだろうと思う。

 おそらく、私たちにとってもそうであるように、音楽を演奏する人たちにとっても、「忘れられない世代」というのがあるのではないだろうか。何らかの事情でそこから離れることになったとしても、再び元に戻って行くような強い絆を持った仲間たち。かつてのように、緊密な関係を結ぶことができなくても、再び関わり合えることが、お互いの喜びになるような関係。

 このように、忘れられない世代をともに過ごした仲間というのは、特別強い絆を持つのではないだろうか。若い頃にやったむちゃくちゃな出来事や対立が、むしろ、歳を取ってからの彼らを強く結び付けているのだ。単に喜びに満ちていた時代としてではなく、一緒に苦難を乗り越えて来た仲間意識がそうさせるのだろう。ステージに立っている人たちもみんな笑顔だった。とにかく、こうして再び集えることがうれしくてたまらないといった感じだった。

 今日のコンサートで初めて知ったことがある。それは、「自衛隊に入ろう」の高田渡さんが亡くなっていたことだ。確かに、お酒の量が多い人で心配ではあったのだが、今年の春に亡くなっていたことを、私は知らなかった。今日のコンサートのエンディングで、五つの赤い風船の「遠い世界に」を歌ったあと、高田渡さんの「自転車に乗って」をみんなで合唱した。あのつぶやきのような歌声を、もう聴けないなんて。改めて、高田渡さんのご冥福をお祈りしたい。

 今日のコンサートの充実感から、しばらく通勤のお供が五つの赤い風船になってしまいそうな私である。

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2005.07.30

四十にして惑わず

 もうすぐ始まる夏休みに北海道に出掛ける予定になっている私たちだが、北海道に上陸する前に、ほんの少し青森にも立ち寄ることになっている。今日は二人とも仕事が休みだったので、のんびりとした休日を自宅で過ごし、夏休みの旅行の話で盛り上がっていた。そのとき、ふとしたことから、青森の県庁所在地はどこかという話になった。

まるみ:「青森の県庁所在地って、確か弘前だったよね」
ガンモ:「えっ? 何言ってんの? 青森は青森だよ」
まるみ:「ええっ? うそお?」

 自信に満ちたガンモの表情に驚き、慌ててネットで調べてみると、何と、ガンモの言う通り、青森の県庁所在地は青森だということがわかってしまった。私は、生まれてからこのかた(というのは、ちょっと大袈裟だが)、青森の県庁所在地は弘前だと信じて疑わなかったのだ。

ガンモ:「確かに弘前だったこともあるみたいだけど、それは、明治時代の話だから」
まるみ:「もしかすると、前世の記憶かなあ。ほら、横井庄一さんだって、戦争が終わったことを知らなかったでしょ? 私も明治時代の前世の記憶が塗り替えられないまま、ここまで来てしまったんじゃないかなあ」
ガンモ:「・・・・・・」

 良くもまあ、こんな言い訳を思いついたものだ。私は四国で生まれ育ったが、学生時代と社会人になってからの数年間を東京で過ごした。東京の人たちに、
「四国四県、ちゃんと言えますか?」
と尋ねると、ほとんどの人たちがちゃんと言えない。更に、四県を間違えずに答えてくれた人でも、県庁所在地となると、必ずと言っていいほどつまづいてしまう。私はその度にがっかりしていたものだったが、私だってこうして、東北地方のことを良く知らないのだ。

 何はともあれ、青森の県庁所在地が青森だったということが、四十歳にしてようやくわかった私であった。「四十にして惑わず」というのは、このことだったのか。いや、私は決して戸惑っていたわけではなく、弘前が県庁所在地だと信じて疑わなかったのだが。まあ、細かいことは、よしとしてしまおう。

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2005.07.29

ペシッ

 鳩の巣続・鳩の巣にも書いて来たように、我が家のベランダに鳩が巣を作り、そこで卵を二つ産み、そのうちの一つだけが孵化し、やがて雛が生まれた。その雛にモリゾーと名付けた私たちだったが、今やその雛は立派に成長し、親鳩とほとんど変わらないくらいの姿になっている。

 少し前までは、モリゾーにはまだ雛であることを表す黄色い産毛が頭のてっぺんに残っていた。そして、ときどきペンギンのように立っては、ピーピー言いながら、自分の羽をばたつかせる行為を繰り返していた。それを見たガンモが、
「あんなに急に大きくなったら、身体が痒いんじゃないのかなあ」
と言った。良くわからない理屈だったが、その発想はなかなか面白かった。ほんの数週間前まで、手の平に乗っても余るくらいの小さな雛だったのに(実際には乗せていないが)、今は立派に動き回っているからだ。もう、親鳩と一緒に私たちの与える餌も食べている。ガンモは良く、モリゾーがピーピー言いながら、ペンギンのように羽をばたつかせる行為を真似ている。

 ベランダが鳩の糞ですっかり汚くなってしまったので、ガンモは仕事が休みの日に、モリゾーのいる周辺をホースで水をまいて掃除したらしい。その日は平日で、私は仕事に出掛けていた。

 まず、巣の周辺を掃除し、やがてモリゾーのいるすぐ側をきれいにしようと手を伸ばしたとき、モリゾーは、例のペンギンポーズを取りながら、ガンモの手を片方の羽でペシッと叩いたと言う。私が仕事を終えてガンモに電話を掛けると、
「モリゾーに叩かれた」
とガンモが言った。一体どういうことだと思って聞いてみると、自分の領域を侵害されそうになったモリゾーからの反撃をくらったということだった。
「モリゾーもいっちょまえにやるねえ」
と私たちは笑い合った。

 モリゾーはまだ、私たちを信頼してくれてはいないのだろう。だから、ペシッと攻撃して来る。これは、人間にも当てはまることなのではないだろうか。要するに、自分の恐怖心を、攻撃という形に変えているだけなのだ。

 今、モリゾーは、ピーピーと子供の声をあげながらも、産毛も取れて、身体はすっかり大人である。そろそろ飛ぶ練習をしたいらしく、私たちが見ていない間は巣の外に出て歩き回っているようなのだが、私たちの姿を見つけると、一目散に巣に戻って行く。その様子が何ともおかしいのだ。しかし、私たちの部屋はマンションの五階だ。モリゾーが初めての飛行に失敗したら、一体どうなるのだろう。なかなか飛び立とうとしないのは、私に似て、高所恐怖症なのだろうか。

 もうすぐ私たちも夏休みだ。私たちが旅行から帰って来る頃には、モリゾーは立派に巣立っているかもしれない。

※9万ヒット、ありがとうございます。m(__)m

※いつも投票してくださって、ありがとうございます。m(__)m おかげ様で、とても励みになっています。ああ、書きたい! という気持ちがムクムク沸いて来るのです。書きたいと思うことを、書かせてもらっていると感じるこの頃です。皆さん、本当にありがとう!

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2005.07.28

ツインフレーム

 ツインソウルとの苦悩でご紹介させていただいたNさんから、再びメールをいただいた。Nさんは、セッションをしてくださった方から、彼との関係はツインソウルというよりも、ツインフレームだと言われたのだと言う。その方がおっしゃるには、ツインフレームはツインソウルよりももっと身近で結び付きの強い存在なのだそうだ。

 ツインフレームという存在については、私も他のサイトで目にしたことはあるが、ツインソウルの別名だとばかり思っていた。しかし、今回のNさんのメールを拝見してようやく、これまで欠けていたピースが繋がったのだ。

 まず、ツインソウルとの苦悩に書かせていただいたNさん宛のメールと、実際のNさんのツインフレームの彼との関係は、ギャップがあった。私は、ツインソウルを正反対で対立の多い関係だと思っているが、Nさんたちは決してそうではなかったのだ。Nさんにとっての彼はおそらく、月の満ち欠けのようなツインソウルに対する想いの増減のある対象ではなく、強い想いがいつまでも持続する関係のようだ。そして、これまで、私のホームページを訪れてくださった方たちと掲示板やメールなどで対話をさせていただく中で、ソウルメイトともツインソウルともつかない強烈な関係が存在していたことを思い出した。

 おそらくだが、ツインフレームという存在は、ソウルメイトの持つ共感と親しさと、ツインソウルの強烈な絆を足し合わせた関係なのではないだろうか。参考までに、Googleでツインフレームを検索すると、楽天やYahoo!ショッピングでも取り扱っているらしい。そんなメジャーなものを、これまで知らなかったのが残念だというのは冗談で、とにかく、ツインソウルに比べて、ヒットするページが極端に少ないのが特徴である。ツインソウルというカテゴリにひっくるめて扱われているのかもしれない。私としては、ツインフレームを、さきほど書いたような位置付けとして受け入れることにより、これまで網羅し切れていなかったソウルメイトの種類がカバーできるような気がしている。そして、私が出会っているのは、ツインフレームではなく、明らかにツインソウルだと確信した。果たして、皆さんがツインソウルだと思っている人は、ツインフレームだろうか。それとも、ツインソウルだろうか。

 参考までに、私がこれまで、掲示板などで紹介して来たソウルメイトの区別について書かれた本をご紹介しておこうと思う。たま出版から出ているグロリア・チャドウィック氏の『前世発見法』という本である。ここに書かれている表現が、私がこれまで出会ったソウルメイトやツインソウルに、もっとも当てはまっていたのだ。以下、その部分を抜粋させていただく。

<霊友、特別の人達>

 過去の生をともにした友人や恋人達は、霊友である。
 霊友に出会うと、その人達と直接関係とかつながりがあるように感じる。しかも親近感を伴う。その人達と一緒にいて気楽だし、その人達との関係はプラス・レベルのものである。いくらかの摩擦や、問題が起こるかもしれないが、否定性は簡単に解決され、一度理解できたら二人ども同一の経験をしてそれが役立つことになる。霊友には異なる三つの種類がある。それぞれが独特の特徴を持ち、あなたの人生で他の人々と間違うことはない。
 仲間霊友はあなたが目標を達成したり、ある特別の目的を成就する手助けをする人たちである。彼らの手助けとは、一般的会話の中で述べられたことが、あなたを正しい道に向けさせることだったり、物理的にあなたをゴールへ導くこともあるだろう。彼らは、あなたが最も必要とする時、様々な形で助けを差しのべる。学んだり、分け与えたり、助けたりという相互の贈り物を提供する。つまり過去世生であなたは彼らを助け、今彼らが恩を返しているというわけである。
 いろいろな状況や事情の中で、あなたは毎日、仲間霊友に出会っている。ある問題に関してはっきりと助言を与えてくれる友人として、あなたの車が故障した時、自分の車に乗せてあげようと言ってくれる知り合いとして、あるいはあなたを励まして学ばせてくれる教師として、あなたは彼らを認識する。彼(彼女)はあなたと共通の関心や興味を持っていて、同じ知識を持つ人かも知れない。あるいは、あなたがやりたいと思っていることを、やってみるように励ましてくれる人、またはあなたの仕事を評価してくれる上司かも知れない。
 仲間霊友は、あなたが好意を感ずる人達である。その人達は過去生で一般的な形で、短い時を共に過ごした人達である。普通、あなたとの間に深いつながりはなく、彼らとの現在の関係はどちらかというと短い。もし、あなたとのつながりが、現在における、プラスの長続きする相互関係のためにより強いものとなったら、彼らは、未来においては双子霊友となることもある。
 双子霊友は多くの人生の中で、特別な友情を分かち合った人達である。その人達とは、完全に自然でいられるし、心も開く。双子霊友に出会うのは、親友に何年ぶりかで出会うようなものである。その人と、たちまち意気投合し、二人の間に時が過ぎていないかのように、過去生で終わっていた人間関係がとり戻せるのである。双子霊友は、仲間霊友が持っているすべての性質をそなえ、しかも、あなたとのつながりがずっと強い人として認識される。
 双子霊友は普通、身近な家族の一人か特別の友人である。あなたのことを完全に理解してくれる本当に仲の良い友達を見てみなさい。その人が双子の霊友である。その人達とは、魂がテレパシーのレベルで調和し合っているので意志を伝えるのに言葉のいらないことが多い。あなたには、彼らの考えや気持ちが直感的にわかる。また現在生での多くの経験が、双子霊友達のそれに類似していることもあるだろう。様々な形で、あなた方は互いに助け合って成長し、学び、友情はますます深まってゆく。現在のあなた方の関係は普通数年から一生涯の間続く。もし別れることがあっても、それはプラスの別れ方である。そしてその人達との友情をあなたは大切にする。
 炎の双子霊友は、あなたにとって唯一無二の真の霊友である。何度も人生を共に過ごし、互いに愛し合い、関わり合い、深い精神的なつながりを持つ。再びこの人生で彼(彼女)に出会うと、たちまちひきつけられ、二人の間の特別な関係を感じる。二人の間にエネルギーの電流を感じ、その人を永遠に知っていたような気がする。あなたの魂は、すぐにその炎の双子霊友をその人とわかり、思い出す。そしてこれを、あなた自身の中の奥深いところで感じるのである。
 あなたの完全なる生き写しである真の霊友は唯一人であり、二人の間では、現人生の他の誰とも経験することのない、特別な魔法を創り出すのである。炎の双子霊友は、仲間霊友双子霊友のすべての性質を合わせ持っており、あなたはその人に対し、非常に特別な感じを抱く。この感情はいつも互いに同じくらいのものである。あなたの炎の双子霊友は、あなたの魂の片方の半分であると言われる。炎の双子霊友を見つけた時、あなたの魂の鏡に映ったイメージを見つけたことになるあなたの魂は、二人が分かち合った精神愛の美と喜びを覚えており、今の肉体がある間に、それを経験し表現しようと追求するのである。
 炎の双子霊友はほとんどの場合、自分とは反対の性である。兄弟や姉妹(普通、双子の)であることもあるが。あなたがその霊友に似ていることもある。顔のつくり、とくに目のまわりがそっくりのことがある。炎の双子霊友の間には、興味深い現象が起こる。あなた達の精神エネルギーは互いに、非常に調和し合っているので、あなた方のオーラの間には、からみ合ったエネルギーの弧がある。それは、あなた方の魂の仲間となった虹のように見える。
 一度自分の炎の双子霊友を見つけたら、結婚して幸せに暮らせるだろうと信ずる人が多い。時にその通りであるが、過去生で陥ったマイナスのカーマのためにトラブルが起きることもある。炎の双子霊友にあっては、二人の間には、いかなる否定性をも越える愛が潜行して流れているのである。
 いつの人生にも、炎の双子霊友と共になるというわけではない。それぞれが別の経験をするように選択することもあるし、別々のやり方で魂を進化させることを選ぶこともあるからである。彼らと人生を共にしない時も、なお似たような精神的方法で、魂を進化させることによって、一緒になることに向けて働いているのである。どの人生でも、ほんの短い間しか一緒でないこともあるだろう。それは、そういう特別なやり方で互いに助け合うことに同意したからである。その人生の間中、一緒にいることもあるかも知れない。それは全く、誕生前に二人の間に交わされた約束によるのである。

※最後になりましたが、記事を書くきっかけを与えてくださったNさん、どうもありがとうございました。m(__)m

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2005.07.27

ツインソウルは、遠きにありて想うもの?

 ここのところ、若い頃にツインソウルに出会い、別れてしまったという方たちの発言がとても気になっている。彼女たちの話を聞いていると、ツインソウルという存在は、例え離れ離れになってしまったとしても、お互いにとっていつまでも特別な存在であり続けるようだ。そして、他の人では絶対に駄目なのだと言う。

 対象がツインソウルではないが、私が最初のソウルメイトに出会ったのは十代の頃だった。確かにそれ以降、ガンモに出会う三〇歳までの間、誰を好きになっても最初に出会ったソウルメイトに対する想いを超えることはなかった。その強烈さ、親しさを他の誰に対しても感じることができなかったのだ。そういう意味で、他の人では絶対に駄目という気持ちは良くわかる。

 では、もしもツインソウルと私が若い頃に出会っていたらどうなのだろうと、ふと考えてみた。おそらく、若い頃に出会っていたとしても、ツインソウルと私は、男女の関係に発展することはなかっただろうと思う。ただ、お互いに気になる存在として、強烈に胸に焼き付く存在ではあると思う。

 もしもツインソウルがクラスメイトだったとしたら、授業中に先生に注意されたとしても、決しておしゃべりをやめなかったことだろう。そして、お互いに良きライバルとして張り合いながら、勉強やそれぞれの趣味の世界においても強烈な刺激を与え合っていたのではないかと思う。

 しかし、もしも仮に、ツインソウルと私が高校生まで同じ学校に通っていたとしても、お互いに別々の人と付き合っていたのではないかと思う。ただ、その奇妙な交友関係から、お互いの恋人には常に嫉妬される存在だったかもしれない。そして、お互いが別々の大学に進学して初めて、その存在の大きさに気づくのではないだろうか。

 ツインソウルと離れたことによる痛みを抱えている人たちに、私は言いたい。これから先、若い頃に出会って離れてしまったツインソウルのことを無理に忘れる必要はないと思う。無理に忘れようとするよりも、ツインソウルの想い出と共存して行くことのできる対象こそが、真のパートナーになるのだと思う。ツインソウルと離れてしまった人が、その後ソウルメイトと出会い、めでたく結ばれたという話は、しばしば私の耳にも入って来る。私自身の経験からも、ソウルメイトとツインソウル共存可能な存在であることが証明されている。ソウルメイトは、ツインソウルと一緒に過ごせないということがもはや決定的になってしまっている人たちにとって、溶け合うことのできる貴重な存在である。ツインソウルと離れたのは、ソウルメイトと出会うためだった! と、いつか断言できるような、素晴らしい出会いが待っているかもしれない。どうか、希望を持って生きて欲しいと思う。

※解像度が800×600以下のノートパソコンでご覧になっている皆さん、ごめんなさい。m(__)m ブログをお借りしているココログに新しいテンプレートが追加されていたので、花火のテンプレートを早速拝借してみたところ、解像度が800×600以下のノートパソコンでは、記事が下のほうに表示されてしまうことがわかりました。さきほど、解像度が800×600以下のノートパソコンでもちゃんと表示されるようなテンプレートに修正させていただきました。ご不便をおかけして申し訳ありませんでした。m(__)m

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2005.07.26

コミュニケーションの限界に挑戦

 これは、えいりえさんの月見想会えて良かったへのトラックバックである。ありがたいことに、えいりえさんはいつも、私のホームページや「ガンまる日記」を気にかけてくれている。いつも本当にありがとう。

 私は今、いろいろな想いで胸がいっぱいである。ホームページを持っていて良かった。「ガンまる日記」を書いていて良かったという熱い想いが込み上げているのだ。何故なら、ホームページや「ガンまる日記」を通じて知り合った人たちとの関係が、あまりにも素晴らしすぎるからだ。もう、コンピュータ系の仕事なんかしている場合じゃない。

 まず、きのうの記事でご紹介させていただいたHさんから、再びメールをいただいた。まだお返事は書けていないのだが、ご紹介させていただいた内容の続編が少し書かれてあり、またまた感動に打ちのめされた。一人の人をここまで愛し通せるものなのか。Hさんには、無償の愛が確実に存在することを証明してもらったような気がする。同じ学びを選択していなくても、愛の感動は起こる。ああ、だから神は、愛をいろいろな形に分散させたのだろうか。一つの魂では愛のすべてを到底学び切れないために、他の魂が別の学びを作業分担してくれているのだろうか。

 Hさんの生き方に感動したというご感想もいくつかいただいている。Hさんの生き方をここでご紹介させていただいた私は、それらの純粋な感動をHさんにお伝えする役割を持っている。(Hさん、掲載の許可をありがとうございました。もうしばらく、私にメールのお返事を書く時間をください)

 また、先日、私の誕生日のことを記事に書いたとき、わざわざお誕生日おめでとうメッセージを送ってくださった方たちがいた。その方たちにも、まだお返事できていないのだが、本当に感謝している。(メールをくださった皆さん、本当にありがとうございますm(__)m)

 更に、ここのところ、しばしば感動させられている出来事がある。それは、掲示板で交流させていただいている方たちが、本名や写真をメールに添付して送ってくださることだ。ホームページでプロフィールを公開している者にとって、これほど感動的なことはない。ネットの世界では、住んでいるところも本名も明かさないままに交流が深まって行くことが多い。そんな中にあって、わざわざご自分の情報を提示してくださるのは、とてもありがたい。私は、写真を開く度に感動する。何故なら、写真はその人の魂そのものだからだ。そして、情報を提示してくださると、対等に付き合えるという安心感がある。

 ところで、きのうの台風の日、私の掲示板で出会ったえいりえさんとフニさんが日本で顔を合わせたという。「日本で」と書いたのは、フニさんは、アメリカ在住だからだ。現在、一時帰国中なのだ。台風の影響が心配だったが、二人はちゃんと会えて、会話もはずんだようで何よりだ。やはり、根本的なところで繋がっていると、実際に会ってもギャップがないし、会話もはずむものだ。私は、二人は同性のソウルメイトではないかと思っている。えいりえさんの元記事から引用させていただく。

そして、11時から19時過ぎまで話しを続け、別れる時には名残惜しくて、涙が出そうになりながら手をつなぎ、ハグをしてから別れた。会ってしまったことがとても嬉しかったからこそ、簡単に会えないことが寂しく感じられたのだと思う。

 何と素晴らしい出会いだろう。ネットで知り合って、実際には初めて会ったのに、11時から19時過ぎまで話が続く関係など、めったやたらと出会えるものではない。私は、えいりえさんとフニさんにはまだお会いしたことがなくて、写真でしか知らないのだが、二人が離れがたくてハグしている様子が難なく目に浮かぶ。きっと、ごく自然な流れでハグすることになったのだろう。フニさんは、もうすぐアメリカに帰る。今回は会うことができなかったが、次回帰国されるときには是非ともお会いしたいものだ。フニさん、どうかお気をつけて。

 海外在住と言えば、掲示板に参加してくださっている人の中には、イギリスでツインソウルのお子さんを産んで育てている女性もいる。彼女はときどき、お子さんの写真をメールに添付して送ってくれる。それらの写真は私に、魂としての親子の関わりが存在していることを教えてくれる。そのような親子の関わりは、私がこれまで知らなかったものだ。また、彼女は以前、武豊線三昧の記事で私に素晴らしい整体院を紹介してくださった方でもある。インターネットに接続できない状況が続いたとき、彼女は、日本語の使えないイギリスのネットカフェから、一生懸命英語でメッセージを書き込んでくれた。英語だと読みにくい人もいるだろうと、日本語で紙に書いたコメントをスキャンして、それをアップロードしようと頑張ってくれたこともある。そのような歩み寄りを、私は決して忘れることができない。

 このように、私のホームページや「ガンまる日記」を訪れてくださる方たちは、大変素晴らしい。その交流方法は、もはや、ネットにおけるコミュニケーションの常識や限界を超えている。そして、これらの限界を超えようと、いつも私を励ましてくれたのが、愛とは何か?に書いた彼女だった。

 彼女たちに出会えたことを、私は心から感謝している。もしかすると、人は、特定の対象を決めて、密に関わり合うようにできているのかもしれない。そして、そこから生まれる相対的な関係の中で、自分自身を見いだそうとしているのかもしれない。どんどん疎遠になって行く人も多いネットの世界で、距離がどんどん近づき、末長く交流できる人もいる。疎遠になるかならないかは、最初からどのモードで関わろうとしているかではないだろうか。

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2005.07.25

続・愛とは何か?

 一ヶ月以上も前の話になるのだが、Hさんという方からメールをいただいた。Hさんは、人生の辛い時期に、「ガンまる日記」を見つけて読んでくださっていたらしい。私の綴る文章が、Hさんの励みになっていたことを知り、本当に喜ばしい限りである。しかし、何よりも、Hさんの力強い生き方に、私は感動せずにはいられなかった。

 Hさんのような生き方があることを、皆さんにも伝えておきたくて、今日は、Hさんに無理を言って、Hさんからのメールをご紹介させていただくことにする。(地名や年月など、個人を特定する情報はすべて○に変換させていただいている)

まるみさんにお礼を申し上げたくてメールしています。
少し私の事をお話させてください。
昨年○月、○○回目の結婚記念日前日の夜、主人よ
り「離婚したい」と告げられました。彼は2年前から単
身で○○の仕事に就いており、半年前からある女性を愛
してしまったようです。彼は浮気のできる人ではありま
せん。また、淋しさ・孤独感からの行動とは思えず、彼
女への真剣な深い愛情を知り、結果この○月に離婚いた
しました。彼を失う事に直面し、改めて彼への愛を再認
識したから・・・彼を自由にしてあげたかったのです。
身を裂くような辛さ苦しみや葛藤、彼に充分な愛を与
えられなかった罪悪感、自分への自己嫌悪などで「生き
る」ことさえも失いかけました。でも、今の私があるの
は彼の深い感情と支えがあったお陰です。当時○○・○
○と離れておりましたが、毎晩連絡をくれ傷ついた私の
心を癒してくれました。未来への希望を与えてくれたの
です。その後、私は知人のいる○○に移転。日常感覚や
過去感覚から自分を解放し、環境を変えることで一歩踏
み出したかったのです。今は、彼の中の彼女の存在も受
け入れ、怒りや嫉妬などありません。彼が彼女を選んだ
のではなく、私との思いにしっかりと区切りをしてから
彼女を愛したのです。二人によって私は多くの「気づ
き」を学ぶ事ができ、彼と彼女に感謝しています。
彼は自分の気持ちに正直で嘘がつけず言った事は必ず
成し遂げる、自分の事以上に相手を思いやる心、そんな
人格と誠実さに心から尊敬しています。彼は私にとって
永遠のパートナーです。二度とこんなに人を愛する事は
ないでしょう。出合ったこと、結婚したこと、そして
別々の人生を生きることも必然的です。お陰様で今は親
友のようなお付き合い(電話だけですが)をさせていた
だいています。今後は彼の幸福と成功を願い祈り、世界
で一番の応援団でいようと思っています。
離婚を申しだされた頃から、精神世界を学ぶようにな
り、それまで神様の存在など信じていなかった私が、今
は毎日感謝のお祈りをしています。ネットでまるみさん
のブログを知り、それから毎日読ませて頂いています。
まるみさんには私の命を救っていただいたと思っていま
す。ブログを読む度に涙が溢れてきます。度々、その温
かい言葉と愛情の波動に励まされています
本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
今は大きな存在に護られていることを感じます。彼よ
りもっともっと素敵な出会いがあるよう、私も自分を磨
き輝かせる人生を過ごしたいと思っています。
まるみさん、ありがとうございました。
本当に、本当に・・・ 感謝を込めてのありがとうを。

 メールをいただいてから一ヶ月以上経った今でも、こうしてHさんからのメールを読み返してみると、感動で胸がいっぱいになる。頭では、嫉妬は愛ではない、また、手放す愛は素晴らしいとわかっていても、いざ実践するとなると難しい。このような愛が実際に存在していることを、私はこれまで知らなかった。何故なら、これまで私が体験して来た愛の延長線上には存在していなかったからだ。私の知らない愛を、Hさんは教えてくれたのだ。

 何が素晴らしいかと言うと、まず、Hさん自身が被害者になっていないことだ。通常、このような展開になれば、ご主人さんを悪者にして、自分が被害者になるパターンが多いのではないだろうか。しかし、Hさんは被害者にはならず、むしろ、ご主人さんがカルマを作らないような道を作り、ご主人さんの自由意思を尊重したのだ。

 また、別々に生きることを決めてからの、Hさんに対するご主人さんのケアも大変素晴らしい。決して現実から逃げようとせず、毎晩Hさんに連絡をくれたという。このような愛があることを知ると、人生を一緒に過ごしていることが、未熟にさえ感じてしまうのは、私の思い過ごしだろうか。

 Hさんとご主人さんの間には、これまでの夫婦関係の中で、絶対的な信頼関係が築かれていたのだと思う。ご主人さんが浮気のできる人ではないことを知っていたからこそ、Hさんは、ご主人さんの自由意思を尊重し、手放すことができたのではないだろうか。

 このことをきっかけに精神世界を探求し始めたというHさん。こうした出来事が、私たちの魂を成長させてくれることは間違いないようだ。特に、ご主人さんがカルマを作らないようにご主人さんの自由意思を尊重し、手放したことは、Hさんの魂のステップアップに繋がったのではないかと思う。このような素晴らしい愛を体験されたHさんが、どうか、これから先、素晴らしい人に出会え、再び愛の日々を送ることができますように。

※Hさん、本当に素晴らしいお話をありがとうございました。m(__)m
 これからの人生、どうかHさんらしく、生き抜いてくださいね。私も応援させていただきます。

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2005.07.24

愛とは何か?

 ある人が、私に言った。彼女はかつて、自分のどんな言葉も使っていいと私に言ってくれたので、今回の記事では彼女の言葉を引用させていただこうと思う。

まるみん(まるみの愛称)、愛とは何だろねぇ?
あたしはさぁ、果ての果てまで見てみたい気がするんだよなぁ。
恋もした。愛してるつもりにもなった。が、それはどれも欲望だった。
本当の愛を知ってみたいんだよなぁ。

 最初に断っておくが、彼女は、私が化け物だと絶賛するほど精神世界を深く探求している人である。ツインソウルのご主人さんと人生を一緒に過ごし、自分を高めるために精神世界の本を読むことを常に欠かさず、歯の痛みさえも瞑想で治してしまうほどの人である。

 彼女はこれまで体験して来たどの恋も、そして愛でさえも、欲望だったと言っている。そして、欲望ではない本当の男女の愛を知りたいと言っているのだ。欲望とは、自分自身に向かう愛、つまり、自己愛とイコールなのだと思う。果たして、そうではない男女の愛とは、どのような愛なのだろうか。

 今、私の中に、彼女が見たがっているであろう、果ての果ての男女の愛の問に対する答えがあると確信している。それは、愛し合う男女が一緒に過ごさなくても、一緒に過ごしている人たちと同じ学びを経験することではないだろうか。物理的にはそこに存在しなくても、あたかもそこに存在しているかのような愛のエネルギーを放ちながら、お互いのことをいつも大切に想い、一緒に過ごさないでいることを苦しいとも思わず、ピンチのときは惜しみなく手を差し伸べ合い、突き放すべきときは決して甘やかさず、時にはお互いの魂のエネルギーを交差させることのできるような魂の愛。更には、例え相手が別の人と一緒に過ごしていようとも、その愛の学びを決して邪魔することなく、むしろ心から応援できるような愛。このような愛を、一緒に過ごしている人たちと変わりなく経験することができるなら、その愛は欲望ではないだろう。何しろ、一緒に過ごしたいという欲望を最初から放棄しているのだから。

 私は、ツインソウルという存在は、どうしようもなく極に向かいたがる組み合わせだと思っている。彼女は既に、ツインソウルのご主人さんと一緒に過ごすことにおいて、一つの極を体験してしまったのではないだろうか。だから、一緒に過ごさないというもう一つの極を経験したいと思うようになったのではないだろうか。一つの極を経験した魂は、例え離れ離れになっても、決して愛が終わらないことを、どうしようもなく証明したくなってしまうのではないだろうか。

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2005.07.23

素晴らしい誕生日

 とうとう四〇歳になった。生まれてこのかた、自分が四〇歳を迎えるなんて、考えてもいなかったことだ。しかし、現実に四〇歳になったのだ。

 ここ数年、私の誕生日は、ツインソウルからのハッピーバースデーカードをメールで受け取ることから始まっている。送信予約をしておくと、当日の午前〇時過ぎにメールを配信してくれるらしい。私はそれを開封して、ああ、また一つ年を取ったと実感するのである。

 私はニヤニヤしながら、ガンモの側に寄って行く。もう午前〇時を過ぎているので、ガンモが気づいてお誕生日おめでとうを言ってくれるのを期待しているのだ。しかし、ガンモは、私がニヤニヤしているのを見ても、なかなか気づいてくれない。
「どうした? ニヤニヤして、何かあったの?」
などと言う。挙句の果てには、夏休みに出掛ける北海道の帰りの飛行機のチケットを取り出して、
「羽根の見える窓際の席を確保しといたから」
などと言う。

 つい先日、その飛行機のチケットを取るときに、
「まるみの席は、三十九歳で予約しといたから」
とガンモは言ったのだ。実際に飛行機に乗るのは四〇歳になっているのだが、予約の時点では三十九歳だったからだ。その飛行機のチケットを見ながら、ようやくガンモは思い出したらしい。
「あっ!」
とガンモは言った。私は、「やっと来た!」と思った。
「お誕生日おめでとう」
とガンモが笑いながら言ってくれた。
「ありがとう」
と私は言った。

 朝になって掲示板を開いてみると、掲示板で交流させてもらっている仲間たちの暖かいメッセージが書き込まれていた。あまりにうれしかったので、転載の許可をもらっていないが、抜粋または一部まとめて引用させていただくことにする。

「これからも、ガンモさんとの愛の素晴らしさを伝えて欲しい」
「ここに来てから、友人の誕生日が自分のことのように嬉しく思えるようになれて、同じ時を過ごす喜びが胸に溢れるようになった。そういう気付きを貰えた事も感謝です」
「私が言葉にできない部分を、まるみん(まるみの愛称)はいとも簡単に言葉にうまくまとめてくれるから。そして、私の気持ちがうまく整理できて、私から別の人にその愛の気持ちを発信できるの。本当にありがとう。」
「まるみんの掲示板の返信が遅れても、全然気にならないし、安心できている」

 うれしかった。ホームページを持って、男女の愛の素晴らしさについて発信して、それをしっかりと受け止めてくれる仲間たちができて、本当に良かったと心から思った。これこそが、私が実現させたかったことなのではないかと実感した。

 仲間たちで誕生日をお祝いし合うことは、特に私がこだわっていることの一つである。掲示板に参加してくださっている人たちのプロフィールを作り、その中に誕生日を迎える人がいると、みんなでお祝いするのだ。もちろん、誰かの誕生日の当日にアクセスできない人もいる。しかし、そんなことは大した問題ではない。少々遅れたって、みんなでお祝いすることが大切なのだ。その大切さを仲間たちが理解してくれていることが、何よりもうれしかったのである。

 さて、夕方から私たち夫婦は大阪に出掛け、去年と同じYodobashi-Umedaのレストラン街にあるカプリチョーザで去年と同じように食事をし、店員さんたちやお店の人たちにお祝いしてもらった。スパゲティのコースを食べておなかいっぱい。愛もいっぱいの素晴らしい誕生日だった。午前〇時過ぎにすぐにおめでとうを言ってくれなかったガンモは、私の顔を見る度に、「お誕生日おめでとう」を連発した。

 ガンモからの誕生日プレゼントは、旅行に持って行くノートパソコンの長時間対応のバッテリだった。旅行中でも、私が快適にネットに接続できるように、ガンモはいつも配慮してくれているのである。ガンモ、ありがとう。それから、皆さん、いつも本当にどうもありがとう。

※関東地方で大きな地震があったようですが、皆さん、大丈夫でしょうか。

※最近、どうも夏バテ気味なのか、パソコンの前に座るのが厳しく、掲示板やメールの返信も遅れがちになっています。申し訳ありません。暑さのために冷たい飲み物を飲むと、腰が冷えてしまうようなのです。

※いつも応援クリックをありがとうございます。m(__)m 感謝しています。

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2005.07.22

失敗は成功のもと

 ここしばらく性交について書いて来たので、今日は成功について書いてみようと思う。

 成功とは何かと考えて行くと、成功の背景には、必ず失敗や挫折があることに気づくことになる。それは、私たちが、対比の中で魂を磨いて行く存在だからだと思う。逆に、失敗や挫折を知らない人は、例え成功したとしても長続きしない。

 既に死語になりつつあるが、かつて、「一発屋」などという言葉があった。その言葉にも象徴されている通り、一曲のヒット曲だけで、あっという間に芸能界から消え去って行った歌手も少なくない。「一発屋」と呼ばれる人たちに足りなかったものは、失敗や挫折の経験だったのではないだろうか。おそらく、失敗の経験を生かさなければ、成功の状態は長続きしないのだ。

 『こころのチキンスープ13 ほんとうに起こったラブストーリー』という本の中に、離婚経験のある女性が新たな結婚に躊躇し、カウンセラーのような立場の男性に相談する話がある。その部分を、少し引用してみよう。

「あのう・・・・・・」とわたしは口ごもりながら言った。「離婚した者って、中古品のような気がしませんか? 欠陥品みたいな?」
 彼はまた椅子の背にもたれてぐっと身体を伸ばし、天井を見上げた。顎からもみ上げまで伸びたもじゃもじゃの髭をなでている。それからもう一度、デスクのこちらにいるわたしに向かって身を乗り出した。
「たとえば、あなたが手術を受けなければならないとします。二人の医師のどちらかを選ばなければならぬ。あなたは、どちらを選びますかな? 医学部を出たての医師と、経験ある医師とでは?」
「もちろん、経験のあるお医者さまです」
 彼は顔をくしゃくしゃにして笑った。「わたしもそうですよ」。それから、彼はわたしの目をじっと見つめた。
「今度の結婚では、あなたが経験者です。それも悪いことではない。そうは思いませんかな。結婚生活には、ともすれば波風がたちます。危険な海流に流されもする。コースを外れて、隠れた砂州に乗り上げかかることもある。気づいたときは手遅れだ。
 あなたのお顔を見ていると、その苦しみを味わったことがわかります。今度は、結婚生活がコースをそれかけたら、あなたが気づくでしょう。岩を見つけたら、警告を発するでしょう。気をつけて、と叫ぶでしょう。あなたは経験者だからです」彼は吐息をついた。

 彼のこの言葉によって、彼女は新しい結婚を受け入れ、彼の忠告通り、新しい結婚生活で危険を感じる度に、警告の叫び上げたと言う。そして、今ではとても幸せな結婚生活を送っているそうだ。彼女にとって、今の結婚生活が成功だとすると、結婚生活で危険を感じたときに警告の叫びを上げるという行為が、失敗を生かす行為に繋がっているのだと思う。

 残念ながら、彼女に忠告を与えた彼は、彼女たちの結婚式の二年後に亡くなったと言う。そして、この物語は、以下のような彼女の言葉で結ばれている。

 彼がくれたくれた大切な贈り物をわたしは一生忘れない。人生の経験はすべて、わたしたちを劣ったものにするのではなく高める。愛する力は失われるどころか強くなる。その知恵を、ラビ(彼)は教えてくれたのだ。

 彼女が言っているのは、過去の結婚でさえも、今の結婚を最高のものにするためのステップだったという意味だろう。過去の失敗を自分から切り離すのではなく、過去の失敗をも含有し、彼女のような結論を導き出せる状態こそが、本当の意味での成功と言えるのではないだろうか。

 私自身も、結婚前のカルマの凄まじい関係があったからこそ、ガンモとの関係が本当に素晴らしいと思える。更には、男女の関係には決して転ばない、ツインソウルとの明るくオープンな交友関係を本当に貴重だと思える。そのような過去の失敗があるからこそ守られている秩序があることを私は知っている。あの凄まじいカルマのような泥沼関係は、もう二度と経験したくない。人生で一度切りでいい。しかし、あの泥沼関係も、今の素晴らしい関係を築くためのステップだったことは間違いない。だから、私はあの泥沼の経験を自分から切り離しはしないが、もしも私と同じように泥沼に転ぼうとする人がいれば、そこは危険区域だと警告を発することだろう。

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2005.07.21

潜在意識の驚異的なパワー

 皆さんの多大なご協力により、哲学・思想ランキングで、ジョイ石井さんにだんだん近づくことができたので(皆さん、投票、ありがとうございます。とても励みになっています)、今日は、ジョイ石井さんをちょっと意識して、潜在意識について書いてみようと思う。

 実は、私が精神世界に足を踏み入れたのも、潜在意識に興味を持ったことがきっかけだった。今から二十年以上も前のことである。そういうわけで、実は、ジョイ石井さんの『聴くだけでやせるCDブック』も持っていたりする。ただ、潜在意識の驚異的なパワーを知っているだけに、いつでも痩せられるという安心感があるためか、まだ本格的な実践には至ってはいない。

 私が潜在意識に興味を持ったのは、最初に出会ったミュージシャンのソウルメイトとお近づきになりたいなどという、世間一般の人たちからすれば、まるで突拍子もない発想からだった。当時、来宮法山という人の書いた『21日間願望達成法』という怪しげな本を買い込み、その本の中で紹介されている願望を叶えてくれるお地蔵さんを作り、お地蔵さんのポケットに願望を書いた紙を入れて、毎日、そのお地蔵さんと一緒に寝ていた。友達が遊びに来たときは、さすがに恥ずかしいので、そのお地蔵さんを押し入れの中にそっと隠していた。

 そのお地蔵さんの効力があったのかどうかはわからないが、その年の夏に野外ライブで東京に出掛けたときに、そのアーチストとたまたま街でばったり会って、一緒に写真を撮ってもらった。更に、当時、浪人中だった私は(一度、広島の大学に入学したのだが、東京に行きたいばっかりに、すぐさま休学届けを出して、広島で予備校に通い始めた)、神奈川県川崎市にある大学に合格し、東京に移り住むようになったのだ。

 東京に住むようになってからは、駅や空港やレコーディングスタジオなどに足繁く通い、そのアーチストに会う度に手紙を渡していた。すると、いつの間にか名前と顔を覚えてくれるようになっていた。また、私が住んでいた場所とアーチストが住んでいた場所も比較的近かったので、それ以外でも街でばったり会うことが多かった。

 しかし、以前もここに書いたと思うが、私の気まぐれや行き詰まりから、四年以上もの間、そのアーチストと会わずに過ごした時期があった。それでも、あるときふとアーチストに会いたくなって、コンサートのために長野に向かおうとしているアーチストのお見送りをしようと上野駅まで出掛けたところ、アーチストにひどく驚かれてしまった。四年間もブランクがあっというのに、そのアーチストは私のことを忘れないでくれていたのだ。そのことがうれしくて、私は再びアーチストに会うために足を運ぶようになるのだが、やがて、アーチストと共通の趣味の世界でアーチストと交流を持てるようになった。その趣味の世界に足を踏み入れたことで、アーチストと共通の知り合いや友達ができた。今ではガンモもその仲間に加わり、アーチストとガンモは同じ趣味のサークルに在籍している。これがお地蔵さんのおかげなのかどうかはわからないが、そのアーチストとご縁があったことだけは確かだと思う。

 また、何を隠そう、私は、潜在意識を活用したダイエットにも成功したことがある。ジョイ石井さんのCDではないのだが、今から十三年ほど前に、潜在意識に強く働きかけるCDを聴きながら、およそ半年ほどの間に、十七キロの減量に成功したのだ。ダイエットの最中は、ぐんぐん痩せて行くことがうれしくて、体重計に乗るのがとても楽しみだったのを覚えている。潜在意識に強く働きかけるため、苦しい食事制限や運動などもまったく必要なく、知らないうちに体重が落ちていたという感じだった。今、振り返ってみれば、あの頃の私が一番痩せていたと思う。あまりにも楽に痩せられたので、職場の同僚にも勧めてみたのだが、「怪しい」の一言で済まされてしまった。

 このように、潜在意識を活用すると、恐るべきパワーを発揮することができることを、私は身をもって知っている。自分が成功したイメージを思い描くだけで、なりたい自分になれるというわけである。

 ただ、それらの経験を通して私が思うことは、なりたい自分を思い描いて潜在意識に焼き付けるというよりも、本当は、既に自分が知っているはずの未来を引き出すだけなのではないかということだ。おそらくだが、時間というものは、私たちが思い描いているように、過去から未来に向かって順番に流れているわけではなく、あらゆる現象が同時に起こっているのではないかと思う。しかし、まだまだ霊的に未熟な私たちは、あらゆる可能性の中から、たった一つしか選べないようになっている。つまり、今、私たちが見ているのは、無限の可能性の中のただ一つの事象だけというわけである。

 そういう観点から見てみると、潜在意識は、直感に似ていると思うのだ。「当たるかな?」程度のあやふやな直感はまったく当たらないが、「必ず当たる」という確信のある直感は必ず当たる。すなわち、潜在意識を活用した願望達成というものは、自分の思い描く可能性と、その瞬間に自分が選択した未来が一致したときに起こるのではないかと思うのだ。

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2005.07.20

愛のエネルギー

 男女の愛についてもそうだが、とりわけ、セックスについて誰かと真剣に語り合おうとすると、必ず何らかのギャップを感じることになる。男女の愛のあり方やセックスについて確認し合うことで、その人が、人生で何を選択しているのかがわかるのだが、その選択は本当に人それぞれであると気づかされる。セックスはまるで、その人が抱える様々な愛の問題を映し出しているかのようだ。

 例えば、セックスの最終目的が何であるかについて、とことん語り合ってみても、様々な意見が飛び交うことになる。セックスの最終目的を、生殖とする人もいれば、欲望のはけ口としてしまう人もいる。私のように、愛し合う男女のエネルギーの交感と断言する人は数少ない。私は、セックスによって子供が生まれるのは、目的ではなく、結果だと思っている。これまた理想論だが、わざわざバースコントロールなどしなくても、その男女の仲の良さに比例して、セックスの回数が多ければ多いほど、子供は生まれにくいように出来ているのではないかと思う。

 私は以前、ある人から、「神を信頼し、バースコントロールを神に託してみたら?」と言われたことがある。それが出来たら本当に素晴らしいと思えるのだが、私はまだまだ神を完全には信頼できていないようだ。だから、決して偉そうなことは言えないのだが、魂の感覚では、その人の言う通りだと感じている。しかし、自分が実践できていないのだから、まったくもって説得力がない。

 話は変わるが、セックスレスの悩みを抱える男性の書かれたブログを拝見して、かなり切実なものを感じたことがある。その男性は、数年間に渡って奥さんからセックスを拒否され続け、マスターベーションだけでは性的欲求を処理し切れずに、風俗や出会い系で知り合った女性たちと性的交渉を持ったことがあるという。そのため、そのブログに書き込まれているコメントは、なかなか辛辣なものが多かった。

 そのご夫婦にはお子さんが三人いらっしゃるのだが、その方の奥さんは、もうこれ以上妊娠したくないという理由から、セックスを拒むようになったという。子育てという現実が、奥さんをセックスから遠ざけてしまったのだろう。きのう書いたような「年長者に子育てを任せる」という社会が確立していれば、このような理由からのセックスレスも存在しないのではないだろうか。

 少なくとも、今のこの男性にとって、セックスは、欲望のはけ口なのだろう。性生活が抑圧されているからこそ、このような展開になってしまうのだと思う。もしも性生活が抑圧されていなければ、風俗や出会い系で知り合った女性たちと肉体的な関係を結ぶといったようなことにはならなかったはずだ。人は、既に足りているものは求めようとせず、足りないものを求め続ける傾向にある。すなわち、性欲が強いことは、セックスが抑圧されていることとイコールなのではないだろうか。

 ところで、ツインソウルと私は、セックスについても良く語り合う。馴れ合いが嫌だと言うツインソウルに、私が、
「馴れ合いの中にも親しい愛がある。私は、すっぽんぽんで家の中も歩けるし、ガンモの前でおならもできる」
と言うと、ツインソウルは、
「あはははは、まいった! 脱帽」
と言った。脱帽の理由を尋ねてみると、もしも自分の目の前で奥さんがすっぽんぽんで歩いたら、彼は恥かしくて目を蔽う(おおう)のだそうだ。すっぽんぽんに目が慣れると奥さんとセックスができなくなるし、自分だってすっぽんぽんで家を歩きたくないと言う。おそらくこれは、世間一般の考え方だろう。しかし、セックスは視覚でするわけではないと私は考える。もしも本当に奥さんのすっぽんぽんに目が慣れてしまい、いざというときにセックスが成り立たないのだとすると、その人は、セックスのときに愛のエネルギーを使っていないことになる。そして、おそらくだが、愛のエネルギーを使わなければ、セックスのときに泣くようなこともないのではないだろうか。

 私は、ガンモとセックスをすると、愛のエネルギーをビンビン感じて、どうしても泣かずにはいられない。目をしっかりと見開き、ガンモの表情を少しでも見漏らすまいと、ガンモの顔をじっと見ている。すっぽんぽんで家の中を歩き回っていても、愛のエネルギーを使えば、セックスは大いに成り立つことを、私たち夫婦は証明している。

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2005.07.19

理想的な子育て

 もう少し、子供のはなしをしよう。

 私が思い描く、子供との理想的な関係と、世間一般の子供との関係では、かなりのギャップがある。これから書くことは、あまりにも現実離れしているので、もしかしたら、嫌悪感を示す方もいらっしゃるかもしれない。しかし、あくまで私の描く想像上の理想と思って読んでくだされば幸いである。

 まず、子供を産んで育てるのは、夫婦関係が比較的落ち着いて来た、四〇代以降にしたい。その頃になれば、人間的な智恵もついて来て、子供にたくさんのことを教えてあげられるのではないかと思う。もしも肉体的に子供を産むことが難しい状況にあるなら、施設などに預けられている、親の愛情から切り離されてしまった子供たちに愛情を注ぎ込みたい。私には、育てるのが、絶対に自分がお腹を痛めてこの世に送り出した子供でなければならないという信念のようなものはない。

 子供は何のために存在するか、と考えていたのだが、根本的な目的として、妊娠・出産は、かつて肉体を去って行った魂が再生する手助けをしていると思う。となると、妊婦さんは、新しい肉体を持った魂に現世への入口を提供するという、重要な役割を果たしていることになる。

 私は、子供というものはやはり、私たち大人が愛の素晴らしさを伝えて行く対象として存在するのではないかと想像する。そのためには、子供の前でキスをし、夫婦の愛の営みであるセックスも子供に見せたい。これは、セックスが、愛の行為であることを子供に示すためである。だから、子供には決して見せられないような、後ろめたいセックスはしたくない。後ろめたいセックスとは、精神の喜びからかけ離れた、肉体的な喜びをメインとするセックスだ。子供には、愛のエネルギーに満ちあふれたセックスを見せたい。こうしたことを、かつて私のホームページの「セックスに関するアンケート」に書き綴っていたのだが、肉体的なセックスを支持する人たちから、とても理解できないという声があがっていた。

 私は、愛のエネルギーに満ちあふれるセックスを見て育った子供が、隠れてコソコソ鑑賞しなければならないような媒体に手を出すように育って行くとは思えない。セックスが純粋な愛の営みであることを知っていれば、セックスに関してゆがんだ知識を身につける必要もないと思うのだ。

 また、子供にセックスを見せるのは、夫婦の間に秘密は存在していないのに、子供だけを仲間外れにするわけにはいかないというところからも来ている。隠しごとのない夫婦関係を保っている場合、子供にセックスを見せないでいることは、子供に対して、どこか後ろめたい気持ちになってしまうのではないかと想像するのだ。

 あたかも、私の考えを裏付けてくれるかのような書物がある。かの有名な、 神との対話(3)宇宙になる自分になるだ。この本の中に、セックスを抑圧することと子育てについて、以下のような神の言葉がある。

この抑圧された怒りのほとんどは、誤ったゆがんだ倫理的価値観の形成に向かう。あなたがたはそういう社会で暮らしている。その社会では記念碑や銅像をつくり、記念切手を発行し、映画や絵画やテレビ番組を制作して、世界で最もみにくい暴力行動をたたえたり、崇めたりするのに、世界で最も美しい愛の行為のほうは隠すどころか貶(おとし)めている。
それもこれもみんな、みんなだよ、たったひとつの考えから生じている。「子供をつくったら、育てる責任もひとりで負わなければならない」という考え方だ。

 これは非常に深い。神はセックスを、「世界で最も美しい愛の行為」としている。本当にその通りだと思う。セックスは、男女のエネルギーの交感なのだ。それを、隠さなければならない今の世の中は、おかしい。素晴らしいものは、積極的に世の中に伝えて行きたいと思うだろう。世の中で最も美しい愛の行為であるセックスを子供に伝えたくなるのは当然のことではないだろうか。

 このあと、神は、「子供をつくった者に育てる責任がないのなら、誰にあるのですか?」という筆者の質問に、以下のように答えている。

 コミュニティ社会全体だ。とくに年長者だ。
進んだ種族の社会では、年長者が子供たちを育て、慈しみ、訓練し、智恵や教えや自分たちの伝統を伝える。──(中略)──
どんな社会でも、若いうちに子供をつくるのが「間違っている」とはみなされない。部族の年長者たちが子供を育てるから、押しつぶされそうな責任や負担を感じない。性の抑圧などという話も聞かないし、レイプも異常性愛も社会的な性的機能不全もない。

 また、神は、子育てについて、以下のようにも述べている。

 それは、子供を産む若者たちが子供を育てるようにはできていないからだ。あなたのいる社会でいうと、もう育児期間が終わっているころに、子育ては始まるべきだ。
生理学的に見て、人間は自分が子供のうちに子供をつくることができる。驚くかもしれないが、生まれて四〇年、五〇年はまだ子供なのだよ。

 私は、夫婦関係が比較的落ち着いて来た四〇代以降なら、子供を産んで育てても良いと書いた。しかし神は、四〇代、五〇代でもまだ子供だと言う。要するに、若い親が子供を育てるべきではなく、子育ては、経験を積んだ年長者に任せるべきだというのである。これは、まったくもって新しい考えだった。

 しかも、神は、年長者が自分の子供ではない子供を育てるというアイディアまでも提示している。私は、このような行為は「社会への奉仕」に相当するのではないかと思う。「奉仕」は、他の人の喜びが自分の喜びにならなければ成り立たない。そういう世の中であれば、若い人たちが子供を産んで育てるという大変な作業も、みんなで力を合わせて乗り越えて行けるのではないだろうか。

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2005.07.18

愛の拡大

 ガンモの実家でも、私たちは一緒にお風呂に入る。これまでもずっと、当たり前のようにそうして来た。私の実家に帰るときもそうである。そう言えば、以前、我が家に友人が遊びに来たときに、特に意識することもなくガンモと一緒にお風呂に入り、当時独身だった彼を、無意識のうちに刺激してしまったことがある。本人たちが当たり前に思っていることは、他の人から指摘されない限り、なかなか気がつかないものである。彼がそのことを別の友人の前で話をすると、
「おい、お前ら、人が遊びに来ているときは、ちょっとは遠慮しろ」
などと、別の友人から半ば冗談っぽく言われたのを覚えている。果たして本当に、遠慮しなければいけないものなのだろうか? 私は、そうは思わない。こういうことはむしろ、刺激したほうが良いのだ。

 私の実家に帰ると、ダブルの布団を用意してくれているのだが、ガンモの実家では、シングルの布団を二組用意してくれている。しかし、私たちはいつも、一組の布団しか使わない。寒いときも暑いときも、仲良く寄り添って、一つの布団で眠っている。

 ガンモは義母に、私たちの子供のことを聞かれたらしい。結婚して九年。それほど健全な子宮ではないものの、私はまだ、肉体的には子供を産める状態にあると思っている。しかし私は、結婚する以前から、自分が子供を産んで育てるというヴィジョンを持ってはいなかった。私たちの間に親子の愛を新たに追加して行くことよりも、夫婦としての密な関わりに集中したいと思っていたのだ。しかし、この感覚は、あまり多くの人には理解されなかった。

 新婚当時、何故、仕事に出掛けるときには離れ離れにならなければならないのかと私たちは嘆いていた。とにかく、一日中でも一緒にいたかった。ガンモが出張に出掛けるのを見送ると、しばらく離れるのが辛くて二人で泣いていた。仕事をしていても、早く家に帰りたくて帰りたくて仕方がない。そんな私たちのことを、「まるで子供みたいだ」と表現した人もいる。しかし、私はそういう人たちに問いかけてみたかった。そんなふうに思えるほど、誰かを愛したことがありますかと。

 こうした状態の中で、子供を産んで育てることは、夫婦の関係の密度を抑制しなければうまく行かないのではないかと思っていた。新婚当時の私は、子供を産んで育てるということは、夫婦がキスをすることを我慢したり、抱き合うことを我慢することに等しいと思っていたのだ。ガンモも私と同じ考えだった。

 結婚して九年経ち、私たちの愛情にも、少しずつ余裕が出て来た。別々の部屋でそれなりに別行動することもできるようになって来たし、ガンモが出張に出掛けることがわかっても、もう泣かなくなって来た。それでも、数日間の不在のあとは、やはり、激しく泣いてしまうのだが。

 しかも、私は、どういう理由かわからないのだが、妊娠や出産に対する心理的な恐怖も抱えていた。この恐怖もまた、あまり人には理解してもらえないものだった。妊娠や出産を経験した人は、
「妊娠してみればどうにかなるものよ」
などと私に言った。しかし、私はそういうわけにはいかなかったのだ。

 去年の健康診断をきっかけに、私の子宮の中にいくつもの筋腫が見つかり、子宮全摘手術をするように、医師から勧められた。子宮を残して、筋腫を一つずつ摘出する方法も残されてはいるが、筋腫の数が多い場合、手術に時間が掛かる上、取り残しもあり得るということで、子宮ごと摘出するのが一番良いという医師の判断だった。

 しかし私は、悩んだ末に、手術をしないで東洋医学の力を借りて治療して行く方法を選択をした。そして、そこまでの決断を下して行くプロセスにおいて、私が抱えていた妊娠・出産への恐怖は、次第に緩和されたように思う。掲示板で交流させていただいている女性が、第二チャクラの瞑想方法を教えてくれて、第二チャクラの活性化を勧めてくれたことも大きい。それに加え、何故、自分がそのような恐怖を抱えていたのか、何となくだが、わかって来たのだ。

 以前にもここでご紹介したことがあるが、私と同じように、子宮にいくつもの筋腫を持っている横森理香さんという作家さんが、愛しの筋腫ちゃんもっと健康、もっと幸せ!―愛しの筋腫ちゃん Part2という本を書かれている。私の状況と違っているのは、彼女の場合、最初から子供を強く望んでいたことだ。しかし彼女は、筋腫がたくさんあると妊娠しにくいと医師に診断されながらも、無事に女の子のお子さんを出産されている。

 私は、横森さんのもっと健康、もっと幸せ!―愛しの筋腫ちゃん Part2を読んだときに、これは私自身にも当てはまっているのではないかと思えるような描写を見つけて涙した。その部分を引用してみたい。

 村山さんは、オーラの中についているネガティブなものや、いらないものを取るイメージワークもしてくれる。以前、私は、第二チャクラ(子宮のところ)にひっかかっていた、お数珠のような赤い石のネックレスも取ってもらった。それは前世で、私が小さい子供を亡くしたとき、お守りのように持っていたものだ。

 村山さんというのは、横森さんがお世話になっているヒプノセラピストだ。これを読んだときに、私は、魂の奥のほうから何かが込み上げて来るような熱い感覚にとらわれ、涙が出て来た。もしかすると、私も前世で子供を亡くしているのではないだろうか。だから、子供が産まれて来ないように、再び悲しい思いをしなくても済むように、子宮にたくさんの筋腫を作って妊娠しにくいように、自分を守っているのではないかと思ったのだ。このあたりのことも、いずれ、退行催眠を重ねて行く上で思い出して行けたらいいと思っている。

 今、思うことは、私自身のこれまでの流れが、子供を産まない方向に流れて来ているということだった。もしも私たち夫婦に子供が必要なら、例えどんな逆境に追い込まれようとも、私は妊娠したはずではないだろうか。しかし、そうではなかった。

 妊娠・出産への恐怖は和らいで来たものの、私にはまだ、自分が子供を産んで育てることのヴィジョンが持てないでいる。それは、私自身が、男女の愛の素晴らしさを世の中に伝えて行きたいという意欲に燃えているからなのだ。例えば、仕事をしているときでさえ、掲示板のコメントを書きたいなどと思ってしまう。とにかく、男女の愛のはなしをしたくてたまらない。男女の愛のはなしを書きたくてたまらない。それは、私なりの、子供を産んで育てることよりも、私にとって、もっとも身近で、使命感さえも感じてしまうほどの愛の拡大なのである。

 そういう私の思いを、田舎に住む義母や義父に理解してもらうことは難しいのではないかという気がし始めている。どうやら、それが、今後の私の大きな課題となりそうなのだ。

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2005.07.17

ガンモの原産地へ

 高知のホテルをチェックアウトした私たちは、三十度を超える暑さの中、高知の日曜市へと向かった。日曜市の会場は、JR高知駅から歩いて行ける蓮池町通電停付近にある。農産物や高知の特産物を中心に、およそ六百もの露店が立ち並び、それらの露店に沿って歩いて行くと、やがて高知城に辿り着くという、観光客にとっては大変ありがたい日曜市である。

 ホテルで朝食を取ったばかりの私たちは、たくさんの郷土色豊かな食べ物を前にし、食べ歩きができないことを少し残念に思った。

 外はうだるような暑さだった。外で活動していると、身体の中の水分がどんどん失われてしまうため、水分補給のために冷たい飲み物を次々に流し込むのだが、私にとって冷たい飲み物を飲むことは、身体を冷やしてしまうことになるため、どうも調子が良くないのだ。おまけに、睡眠不足という悪条件も重なって、すぐにヘトヘトになってしまった。

 そのため、高知城に続く石段を昇る気力がなく、私たちは高知城の観光を諦め、JR高知駅へと向かった。そこで昼食を取ったあと、JR土讃線に乗り、ガンモの原産地、香川へと向かったのだ。

 JR土讃線の車両は、長いすシートだったのだが、クッションも効いている上に、一人一人の座席に窪みがあり、とても乗り心地が良かった。しかも、細切れに乗り換えるのではなく、三時間近くも同じ車両に乗り続けたため、睡眠不足の解消にも繋がった。同じ所要時間でも、連続して同じ列車に乗り続けるのと、何度も乗り換えるのとでは、心理的にもまったく違う。私は、人生においても、変化の多い出来事はとことん苦手で、一つのことを継続させたがる傾向にある。仕事においてもそうだ。仕事をいくつもこなして行くよりは、一つのことを成し遂げて、達成感を味わいたいのである。

 例え旅行中でも、考えたいことはたくさんある。例えば、掲示板に書き込みをしてくださる方たちの貴重な経験に対する考察だ。私は、自分の生き方を示すことはできる。更に、過去に、このような体験をされた方がいらっしゃるといった情報を示すこともできる。しかし、「助言」する立場にはない。ただ、「率直な感想」を述べることはできる。何故なら、魂の計画は、人それぞれだと思うからだ。一見、同じようなテーマに見えていても、それぞれの魂の計画に従って、現世でどこまで進むことになっているのかは、異なって来ると思う。

 私は、ツインソウルの魂を深く愛してはいるが、あくまでも友情ベースの関係だ。そのことを、ここ最近の掲示板の書き込みを拝見しながら、強く思った。だからこそ、ツインソウルとの継続的な交流が成り立っているのだろう。私の魂は、ツインソウルと私が男女の関係に転んでしまうことを決して許さない。ツインソウルの態度にも、私と同じ意志が感じられる。それが、ツインソウルと私との交流を継続させているバランスだと思っている。

 さて、ガンモの原産地に着いた私たちは、お腹が空いていたので、駅前でセルフのうどんを食べた。以前、実家に帰るとガンモが電話を掛けたときに、晩御飯の準備は不要だと言っておいたのだ。うどんの国で食べる本格派うどんは、ボリューム満点の上、とてもおいしかった。

 うどんを食べ終わったあと、私がガンモの実家に電話を掛けてみると、義母は、
「夕食を用意してたのに」
と残念そうに言った。あああ、本当に申し訳ない。義母は、夕食の準備を整えて、私たちの帰りを待ってくれていたのだ。帰る前にもう一度、早めに実家に電話をしておけば、このようなことにはならなかったのだが、ついつい連絡を怠ってしまったことが、このような結果を招いてしまった。かなり反省。

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2005.07.16

愛シチューの故郷へ

 三連休を利用して、私たちは、愛シチューの故郷、高知にやって来た。先月の愛シチュー博以来のガタンゴトンツアーなので、ガンモの顔も生き生きしている。お揃いの服を着て、お揃いの体型で、お揃いのパソコンを持って、お揃いの気持ちで、私たちは旅に出た。

 今朝は早く起きなければならないというのに、どういうわけか、ゆうべはかなり寝苦しくて、私たちは夜中に何度も何度も目を覚ました。クーラーの設定温度と体温が、仲良くしてくれなかったのだ。クーラーの設定温度を一度下げると寒くなり、一度上げると暑さを感じた。そんなわけで、私たちは寝不足のままエイヤーッと起き上がり、私たちの与える餌を当てにしている鳩たちにしばしの別れを告げて、三宮を朝八時十分に出る徳島行きのバスに乗った。

 予定では、徳島行きのバスの中で十分寝不足を解消できるはずだったのだが、私たちの後ろの席に座った人たちのおしゃべりが耳に響き、私たちはほとんど睡眠を取ることができなかった。これは一体どのような学びを必要としているのかと思いながら、心当たりを探ってみると、どうやら、ここ最近の瞑想と関係がありそうだった。つまり、物音に左右されることなく、瞑想できるようなエクササイズを、私が必要としていたようだ。

 徳島からJR牟岐(むぎ)線と阿佐海岸鉄道を乗り継いだあと、土佐くろしお鉄道の奈半利(なはり)駅まで高知東部交通バスに乗った。およそ二時間もバスに揺られたのだが、このバスは、冷房がキンキンに効いていた上、背もたれが低くて、睡眠を取るには適していなかった。果たしてこれは何のためのエクササイズだったのだろう。オフィスの空調にも慣れろということだったのだろうか。良くわからない。

 更に、土佐くろしお鉄道とJR土讃線を乗り継いで、私たちはようやく、愛シチューの故郷、高知にやって来たのだ。

 ガンモも私も四国の出身だが、私たちから見ると、同じ四国でも、高知はかなり毛色が違う。高知は、四国の中でもぶっ飛んだ価値観を持っている人が多いのだ。ガンモが生まれ育った香川も、私が生まれ育った愛媛も、とても保守的である。香川出身の有名人や愛媛出身の有名人がほとんどいないのも、保守的なカラーのせいだろう。高知は、一人一人が自由な価値観を持っている上に、どこか熱いものを感じる。

 ところで、高知の人たちは本当に、「愛している」を「愛しちゅう」と言うのだろうか。明日、私たちの目の前で、地元の人たちが愛を語り合ってくれることを切に願う。

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2005.07.15

言霊

 私は、言葉にとことんこだわるほうだ。実は、「ガンまる日記」をアップしたあとも、何度も何度も自分で読み返し、推敲を重ねている。表面的な部分では、読点の位置や、漢字表記よりもひらがな表記が望ましいとされているところ、助詞の使い方、文章の流れ方などに気をつけている。

 ちょっと話は横道にそれてしまうのだが、先日の七夕の日、私が通勤で利用している神戸市営地下鉄では、車内に小さいお子さんたちの書いた短冊が飾られた。これを見ていたとき、例えば、「大きくなったら、お嫁さんがなれますように」などと言った、おかしな助詞の使い方をしているお子さんが何人かいることが気になってしまった。大人たちは、こうしたおかしな日本語を直してあげようとはしないのだろうか。しかし、大人たちでさえ、メルマガに、「新しい商品が入荷しました」などと書いてしまう時代である。日本語にこだわる私としては、こりゃあいかん! と危機感を感じてしまうのだ。

 いろいろな方の書かれたブログやホームページを拝見していると、この人とは相性が良さそうだと思うことがある。そういう人は、私と文章の書き方が似ている人だったりする。おそらく、思考がついて行きやすいのだろう。思考以外にも、私の場合、国語的な表記にこだわっていて、「?」や「!」のあとには、必ずスペースを入れることにしている。これは、日本語にそういう決まりがあるからなのだが、その決まりを知っている人を見つけると、まるで同志を見つけたみたいにうれしくなるのだ。そういう人たちは、プロの作家が書いた文章を正確に分析している人たちのようだ。

 表面的なことはさておき、そろそろ内面の話をしよう。自分の書いた文章を読み返しているうちに、この部分には魂を吹き込みたいなどと思うことがある。魂を吹き込む作業は、言葉の中に、自分の分身を残すことに等しい。読んでくださった方が、私を感じ取ってくださるように、言葉に魔法をかけるのだ。

 このようにして、魂を吹き込む作業を行った文章は、それなりに、読んでくださった方が反応してくださるから不思議なものである。反対に、魂を吹き込む作業を怠ると、反応はいまいちだったりする。私には、読んでくださる方たちの中にも、魂を感じ取るような力が備わっているとしか思えないのである。

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2005.07.14

甘やかさない関係

 ツインソウルと私が、普段、どのようなやりとりをしているのか、興味を持たれている方もいらっしゃることだろう。ツインソウルとは、おバカな話や、共通の趣味の分野の話をすることもあるが、人としてどのように生きて行くかについて、とことん語り合うことが多い。根本的な部分から関わろうとしているのか、私が普段、職場の人たちと交わしているような表面的な日常会話にはならず、もっともっと深い、お互いの精神世界を探求して行くかのような対話になる。しかし、互いに正反対の主張を繰り返すため、話がどんどん違う方向へと流れて行く。そのため、最初の話題は一体何だったのか、途中でわからなくなってしまうことも多い。正反対の主張を繰り返すツインソウルと私は、一言で言うと、お互いの生き方を示し合う関係と言えるのかもしれない。

 あるとき、ネットで、私たち夫婦のことを、表面的な部分だけを材料にして、ネガティヴに分析した書き込みを見つけてしまった。それは、それを書いた人自身の防御のために書き込まれたものだとすぐにわかったのだが、それを書いた人と私は、わずかながらも交流があっただけに、私はかなりショックを受けた。私のことだけならまだいい。しかし、ネガティヴな解析の中にはガンモも含まれていることに、激しい憤りを感じた。私は悔し涙を流しながら、ガンモを守るかのように強く抱きしめ、ガンモにはもちろんのこと、ツインソウルにもその悔しさをぶちまけた。心の広いガンモは、そうした書き込みにはまったく動じなかった。一方、それを知ったツインソウルは、私にこう言った。

愛の形なんか、人の数だけあって、どれが素晴らしくて、どれが劣っているなんてないって。
誰かが、自分の愛は素晴らしくて人が劣っていると言えば、
どこかで、誰かが、いいや、そなたの愛ほど下らなくて、
私の愛が一番素晴らしい、そう言いたくなるに決まっている。
そんなことで争ってたら、肝心の人の数だけある愛も、
はい、争いに巻き込まれて頂戴、愛のための戦だから仕方ないでしょ、
どこかの誰かの正義の言葉になってしまう。

 ツインソウルのこの反応に、私はうなったものだ。何故なら、私を全面的に支持するようなコメントではなかったからだ。しかし、今回のことに限らず、ツインソウルはいつも、中立的な立場から、冷静に物事を判断しようとする。その態度はまるで、私自身が失ってしまっている何かを気づかせてくれるかのようだ。ツインソウルは、決して誰かを批判するわけでもなく、また、私を全面的に支持するように、手を差し伸べたりはしない。そう、私を甘やかそうとはしないのだ。しかも、私が、世の中に愛はたった一つしかないと叫んでいるのを知っていながら、世の中には愛がいくつもあるなどと平気で言う。

 私はやがて、笑いがこみ上げて来た。そして、私自身がいつも、世界を狭くしてしまっていることに気づかされたのだ。私がこうだ! と断言すれば、あちら側にそうじゃない! と叫ぶ人たちの影ができてしまう。あちら側にできた影にいる人たちは、決して私の発言を快くは思わないことだろう。

 ツインソウルは、私のように、はっきりとした主張をしない。そのために、私から見ると、あまりにも多くのものを背負い込んでいるように見えてしまう。ツインソウルと私は、足して二で割ればちょうどいい関係なのだ。だから、このときのように、私の激しい主張から出た錆は、ツインソウルの生き方を吸収することによって中和されるのだった。

 もしもツインソウルが私を甘やかし、これに関して私と徒党を組み、共感ベースの感想を述べたなら、私は自分自身の手で世界を狭くしてしまっていることに気づかなかったことだろう。ツインソウルは中立的な立場を取りながら、私自身が物事を客観的に判断できるように導いてくれたのだ。

 ツインソウルはいつも言う。人間対人間は、相対的な関係を築いて行くものだから、何かトラブルがあったときは、自分もその原因の半分を背負っているのだと。相手が全面的に悪いということはあり得ないのだと。はいはい、わかりました、ツインソウル様、なのである。

※皆さん、いつも投票、ありがとうございます。m(__)m
 おかげ様で、とっても励みになっています。(^^)

※掲示板やメールの返信が遅れてごめんなさい。少しずつ返信させていただきます。

※Nさんへ:メール拝見しました。私が思い描いているツインソウルと、
 Nさんのツインソウルの体験は、決してかけ離れてなどいませんでしたよ。
 お返事は、メールで書かせていただきますので、待っていてくださいね。

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2005.07.13

愛を蓄積する関係

 愛を思い出す関係と来たら、やはり、愛を蓄積する関係だろう。愛を蓄積する関係とは、もちろん、ソウルメイトのことだ。

 ソウルメイトにしてもらったことというのは、私たちの記憶の中にどんどん蓄積されて行く。過去を振り返ってみると、あのときソウルメイトにこうしてもらった、ああしてもらったということを、私たちは実に鮮明に覚えている。

 愛の密度をパーセンテージで表すとするならば、ツインソウルは、もともと一つだった両性具有の時代が百パーセントになる。だから、ツインソウルは、百パーセントだった両性具有の時代を思い出して行く関係になるが、ソウルメイトの場合、魂としての関わりを持ち始めたときから百パーセントに向かおうとしているのだろう。

 ソウルメイトは、ツインソウルと違って、とても素直な関係を築いて行く。何ごともオープンに話し合い、お互いに隠しごとを持たない。隠しごとを持たないでいることがとても心地良いのだ。そのため、自分と相手の間に境界線がなく、共感ベースの一体感を感じることができる。

 今はとても素直な私たち夫婦だが、付き合い始める前までは、お互いに全然素直じゃない時期があった。ずっと、パソコン通信の電子会議室(今で言うところの掲示板)でやりとりをしていたのだが、お互いをけなすようなことばかり書いていた。そのようにして、相手の気を引こうとしていたのかもしれない。周りの人たちは、私たちのそのようなじゃれ合いを見て、既に付き合っていると思っていたらしい。

 私たちが実際に付き合うきっかけとなった神戸のオフ会のあと、二日間を一緒に過ごして離れ離れになった寂しさが、私たちを驚くほど素直にさせた。ガンモも私も、オフ会のあとにメールを書きながら、わーわー泣いたのだ。当時、ガンモも、何でこんなに泣けて来るのかわからないと不思議がっていた。

 私たちは、ひねくれた状態から素直な状態に移行するとき、たくさんの涙を流すようにできているのだ。

 ツインソウルが素直な関係を築けないのは、片方だけが素直であり続けるわけには行かないからだと思う。となると、ツインソウルと人生を一緒に過ごしていない人たちは、ソウルメイトと一緒に過ごすことで、素直さを思い出そうとしているのかもしれない。ツインソウルが愛の源なら、ソウルメイトは愛の矯正師といったところだろうか。

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2005.07.12

ツインソウルとの苦悩

 愛を思い出す関係を読んでくださったNさんという女性から、またまた感動的なメールをいただいた。Nさんから、「ガンまる日記」の中でNさんからのメールを引用させていただいても良いという承諾をいただいたので、今回は、Nさんからのメールに返信する形で記事を書かせていただこうと思う。

Nさんへ

メールどうもありがとうございました。

> いつもガンまる日記や精神世界のはなしのサイトを拝
> 見しています。
> 愛に溢れていて涙がとまらないことが多々あります。
> こんな素敵なサイトを管理しているまるみさん、本当
> にありがとうございますっ!

あああ、Nさん。こちらこそ、ありがとうございます。m(__)m
私は、掲示板やメールで一緒に泣いてくださる人たちのために
文章を書き続けていると言っても過言ではありません。

愛の感動に涙を出すことに対してガードのない人たちは、
私の大切な大切な同志です。(^^)
Nさんには、私がもっとも伝えて行きたいことがストレートに伝わっているから、
泣けて来るのだと思います。
ハートが開き切っている人に私の文章を読んでいただいて、
私は本当に幸せ者です。(^^)

> 何度も掲示板に書き込みをしようと思い、文章を書く
> のですが送信するのをためらう・・・という
> 日々を過ごしていました。
> 今一歩、勇気がありませんでした。
>
> でも今回の日記を読んで、どうしてもまるみさんに感
> 謝の言葉を言いたくて。
> 胸の苦しみが解放され、どんなに苦しくてもツインソ
> ウルとのかかわりをやめないでいようと
> 思うことができました。
>
>
> まるみさんのお陰です。

いえいえ、Nさん! 決して、私のお陰などではなく、
私のサイトの掲示板に、
愛の感動や苦しみを書き込んでくださった皆さんのおかげです。
その方たちの発言が、
ツインソウルの夫を持ち、
苦悩を抱えてらっしゃった女性に、
かつてそこにあったはずの深い愛を思い出させ、
更に、そうした状況から勇気を与えてもらったNさんが、
ツインソウルとの関わりを絶たないでおこうと心に決めることができた、
そういう愛の連鎖反応が起こったのだと思います。

> ツインソウルに出会える確率はすごく稀で、神様がご
> 褒美に私に与えてくれた人物だと
> 聞いたことがあります。

その通りですね。
世の中にたった一人しかいない存在ですもの。
ツインソウルは、かつての自分自身から失われた半分です。
その失われた半分に再び出会えることは、
神からのプレゼント以外に何があるでしょう。

> リーディングをしてもらって、私はツインソウルが近
> くにいることを知りました。
> 以前から、精神世界に興味あり、彼はきっと私のツイ
> ンだろうな・・・と思うことが度々あったので、
> そうだと言われた時には納得しました。
>
> けれど、私とツインソウルの彼とは決して簡単な恋愛
> では終わっていません。
> 彼と知り合って、13年間が過ぎようとしています。
>
> それなのに、今だ、私は苦悩しています。
> 彼と関わると、幸せになる反面、振り回されて苦しく
> なる。
>
> 距離を置いていた方が楽だと感じてしまうのです。
> でも、心は・・・魂は彼の元に帰りたがっている。

ツインソウルとの関わりは、ずいぶん長いのですね。
Nさんのほうが、私よりもずっと先輩ですよ。(^^)

私には、Nさんが書かれていることが、
わかり過ぎるくらいわかります。
私の場合、ツインソウルとは、男女の関係ではなく、
異性の友人として関わっているのですが、
その関わりの中で、
例えようのない大きな喜びと苦悩を繰り返しています。
あるときは、何て素晴らしいの! と感動し、
またあるときは、どうしてこうも最低なの! と叫んでいます。
素晴らしいときと、最低のときの激しい感情の落差に、
一体どこまで持ち堪えられるか、自分でもわかりません。
しかも、素晴らしいときには最低だったときのことを忘れ、
最低のときには、
素晴らしかったときのことを忘れてしまっているのです。

でも、最近になって思うのです。
世界にたった一人しか存在しないツインソウル。
もしも本当に離れてしまったとしたら、今度は、
離れたことによる苦しみと
向き合って行かなければならないのではないかと。
だから、同じ苦しみなら、
離れないでいることを選択してみようかと思うのです。

> 私の彼への愛情は、
> 愛が深すぎて、愛しすぎて、近くにいて相手を少しで
> も傷つけることが恐くて、
> それだったら遠くから見つめて、彼だけの幸せを祈り
> 続けたい。
> 自分自身よりも幸せになってほしいと願うものです。
> 彼がこの地球上に生きていてくれるだけで、私が幸せ
> になれる。そんな存在なのです。

Nさんは、自分が傷つことよりも、
彼を傷つけてしまうことがのほう怖いんですね。
この部分に関しては、私のケースとはかなり異なっていますが、
Nさんは、本当に愛情深い方なのだと思いました。
でも、彼が、本当にNさんを失ってしまったら、
彼をもっともっと傷つけてしまうのではないでしょうか。
何故なら、おそらくですが、彼にとってNさんは、
太陽のような存在なのではないかと思うからです。

> 近くにいると、互いに反発しあい素直になれない。

これ、ものすごく良くわかります。
相手の魂の想いと、肉体の行動が一致していないことが、
まるで手に取るようにわかりますよね。
ツインソウルは、いつもそのギャップに苦しみます。

> ツインソウルと出会ってもそれからが苦悩の連続。
> でも、最後には・・・。究極の愛が待っていると信じ
> たいのですが、
> それまで私達が繋がっているのかは・・・正直わから
> ないのです。

自信をなくしてしまいそうなときは、Nさんが、
ツインソウルとの関わりを通じて乗り越えて来た、
これまでの苦悩を一つ一つ振り返ってみるんです。
お二人はもう、長いお付き合いなのですから、
その間に、本当にたくさんの苦悩を乗り越え、
強固な絆が出来上がっていることを実感できるかと思います。
これほどまでの苦悩を乗り越えて来られたのは、
お二人がともに、関係を絶ちたくないと思っていたからこそでしょう。
決して、一人の想いだけでは乗り越えられなかったはずです。

> 彼のことをあきらめたくないと思うのですが、ツイン
> ソウルへの激しい心の感情に私は苦しくなってしまい
> ます。
> 無償の愛を彼に捧げなくてはいけないとわかっている
> のですが、相手の気持ちも試したくなる。
> 知りたくなってしまうんです。
> (私のツインは、私に対して『愛』を表現しようとし
> ません。ひたすら『無』なんです。
>  けれど、その中に私とは違う愛の形をみることがで
> きるような気もするのですが・・・。
>  いろんなことがあって、私のツインは『無』になっ
> てしまいました。
>  それが、私に対する愛なのだそうです。(リーディ
> ングして下さった方が言ってました)
>
> ・・・私の魂の成長には欠かせない試練なのだと。
>
> けれど、涙がでるほど悲しくて。
> ツインソウルと出会えたけれど、この世にいてくれて
> 嬉しいけれど・・・。
> いろんなカルマや試練が私達を簡単には終わらせてく
> れません。

ああ、Nさんが書かれていることが、私にはとても良くわかります。
おそらく、Nさんが陽で、彼が陰なのでしょうね。
陰は感情を表現することがとても苦手なので、
陽にはそれが心苦しいんです。

私のツインソウルも、陽の私から見て陰なのですが、
感情というものを、
ほとんど直接的には表現しません。
ツインソウルは、創作などの間接的な方法で、
感情を表現して行くことに決めているようです。
私が、すべての感情をむき出しにして、
泣いたり叫んだりわめいたりすると、
「感情に対して不自由だ」とツインソウルは言います。
でも、私は、感情を素直に表現できないことのほうが
不自由だと思っているんです。だから、たまに、
ツインソウルが私に対して怒りの感情をむき出しにしてくれると、
感情を見せてくれたと思って、うれしくなるんです。

私は、ツインソウルと出会うまで、世の中に、
これほどまで感情を表現することが苦手な人がいるとは
思ってもいませんでした。
でも、考えてみたら、世の中には、
そういう人たちの手で守られている秩序があるんですよね。
そして、そういう秩序に頼っているのは、
紛れもなく陽である私たちなんです。

Nさんの場合、彼とのお付き合いがずっと成り立っているのですから、
Nさんには『無』に見えても、
彼にとっては『無』ではないのだと思います。
何故なら、一人だけでは、
陰陽のバランスは保てないからです。

私は、ある人とものすごい対立をしたときに、
ツインソウルと私の間に存在していた陰陽のバランスに気づかされました。
私はその人に対して、
ツインソウルに対してしているのと同じようなことをしたはずなんです。
でも、その人との関係はとことん醜くなり、
交流は断絶しました。
そのときになってようやく気がついたんです。
私が凸ならば、ツインソウルはずっと凹でいてくれたのだと。
私と対立をした人は、私の凹にはなってくれず、
どこまでも凸であり続けたんです。
そのときになって初めて、
ツインソウルが私にしてくれたことが見えて来ました。
ずいぶんと、かっこ悪い方法ですけどね。

陽は、陰に吸収してもらっているから陽であり続けられるのであり、
陰は、陽から光をもらっているから、
道に迷わないでいられるのだと思いました。
そうした、これまで見えていなかった陰陽のバランスが存在していたことを、
他の人との醜い関係から学び取りました。

私は、ツインソウルとの関係を良くして行くには、
お互いのエネルギーを整えて行くことがポイントのような気がしています。
まだ融合を果たしていないツインソウルは、
荒削りで、個々の放つ陰陽のエネルギーが強過ぎます。
陽はあまりにも自分勝手に陽で、
陰はあまりにも自分勝手に陰なんです。
しかも、どんなに交流が深くなっても、
相手の色になかなか染まらないのがツインソウルです。
そこがまた苦しいところなんですよね。

私の場合、ツインソウルとの関わりが苦しくなったときは、
たいてい、相手の立場を誤解していることが多いです。
そういうとき、私は、
相手の立場からものを考える練習をしてみるんです。
本質的なものがまったく異なる二人なので、
なかなか理解し合うことは難しい関係ですが、
自分の目を相手の目に置き換えてモノを見てみるんです。
すると、ツインソウルの考えていることがわかって、
エネルギーが調和して来ます。
ときには、この方法で、涙さえ出て来ます。

あとは、朝起きたときに、
ツインソウルのエネルギーを感じながら、
ほんの少しでも瞑想するんです。
すると、お互いのエネルギーが、
今、どこを漂っているかがわかります。
エネルギーが迷子になっているときは、
なかなか調子が出て来ないですよね。
でも、朝の瞑想をすると、
ああ、今は自分勝手に動き回りたい時期なのかな、とか、
そろそろエネルギーを交差させたがってるなとか、
そういうのがわかるようになって来ます。

それと、ツインソウルは、調和と反発を繰り返す存在なので、
私はむしろ、それを楽しむ方向に持って行くようにしています。
言い換えれば、今が苦しいということは、
必ずあとで喜びの波がやって来るということなんです。
喜びと苦悩の周期を探ろうとすると、何となくですが、
自分で苦悩を創り出して楽しんでいるのではないかという気さえして来ます。
まるで、そろそろ何か起こらないかなと期待しているかのような。
何故なら、苦悩を乗り越えて行くときには、
必ず大きなエネルギーを感じることができるからです。
そして、苦悩を乗り越えて行くことによって、
お互いの結束がより強くなることを望んでいるのだと思うのです。

ツインソウルと関わって行くことは、
本当に苦しいと感じることも多いでしょう。
でも、乗り越えたあとの大きな喜びも、
どうか見逃さないでいてください。
その度に、ああ、あのときに離れなくて良かったと、
必ず実感できることと思います。

どうかどうか、魂の片割れとの尊い愛を、
いつまでも手放さないでくださいね。

                                  まるみ

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2005.07.11

愛を思い出す関係

 最近の私は、掲示板に書き込みをしてくださる皆さんや、メールをくださった方たちに泣かされっぱなしだ。掲示板に書き込みをしてくださっている皆さんも、他の方の書き込みを読まれて、ぐじょぐじょに泣いている。ああ、どうして男女の愛は、こんなにも私たちを激しく揺さぶるのだろう。

 愛する人との別れは、誰にとっても辛いことだ。特にツインソウルの関係の場合、ちょっとした擦れ違いが運命の明暗を大きく分けてしまう。それは、二人に課せられた愛のレッスンなのだろうか。

 愛し合う二人が人生を一緒に過ごせなくなってしまうのは、何らかのカルマが起因している場合があるようだ。そのカルマとは、中途半端に関わってしまった異性との間に生じることが多いように思える。カルマの代償として、中途半端に関わってしまった相手の人生を背負うことになるのだ。そのために、本当に愛し合う男女が一緒に過ごせなくなってしまっている。こうした出来事は、男女が中途半端に関わるべきではないことを示唆しているように思う。

 ソウルメイトやツインソウルに関するサイトを立ち上げてからというもの、私はこのようなケースをいくつも目の当たりにして来た。しかし、どのケースにも、相手のカルマの解消を影で応援しながら静かに待つという、美しくも厳しい姿が見られる。魂の片割れが、自分以外の異性と一緒に過ごしているというのに、嫉妬という感情から解き放たれ、むしろ相手の幸せさえも願っているのだ。このような愛情を捧げられることが理解できない人も、たくさんいらっしゃることだろう。しかし、既に自分への愛と相手への愛がイコールになり、相手との一体化を果たしている究極の愛とは、そういうものなのだ。おそらく、相手への愛よりも、自分への愛が大きい人には、このような愛を理解することは難しいことだろう。

 そうかと思えば、こんな話もある。先日、ある方から、現在の結婚生活がとても辛くてたまらないというメールをいただいた。この結婚生活がカルマなのかどうか、何か感じるところがあればコメントをくださいといったような内容だった。例によって、私がすぐに返信できずにぐずぐずしていると、同じ方から再びメールが届いた。私のサイトの掲示板の過去ログをじっくり読んでいたところ、夫との関係がカルマであることは有り得ず、ツインソウルであることをはっきりと確信したという内容だった。私の魂は、それを読んで大喜びした。そのご夫婦は、出会った頃からとても密な関わり方をされていて、身体をぴったりくっつけ合うことで、言いようのない安心感を覚えていたと言う。それが、あることをきっかけにして、二人の関係が著しく変化してしまい、夫との関係を解消しようかとまで思い詰めていたのだ。しかし、私のサイトの掲示板の過去ログに目を通しているうちに、忘れかけていた夫への愛を思い出し、夫への熱い想いでいっぱいになったのだと言う。そして、夫との関係は、カルマなどではあり得ず、ツインソウルだと確信されたそうだ。二回目にいただいたメールは、最初にいただいたメールとはまったく違う、愛と希望に満ちた力強い文章で綴られていた。他の人の経験が、その方の危機を救ったのだ。私はそれを読んで、泣きながらメールの返信を書かせていただいた。

 とりわけ、ツインソウルは、愛の強さを試したがる傾向にある。それはまるで、ジェットコースターに乗って、絶対に振り落とされないことを確認しているかのようだ。後天的な魂の関係のソウルメイトが、お互いの中に愛をどんどん蓄積して行くのに対し、先天的な魂の関係のツインソウルは、激しい変化の中で、愛を思い出して行く関係となる。今、ツインソウルと別々に過ごしている人たちは、わざわざ中途半端に関わった他の存在の力を借りてまで一生懸命愛を思い出そうとしているのかもしれない。でも、私は強く願っている。一組でも多くのツインソウルが、他の存在の力を借りずに愛を思い出せるようになることを。

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2005.07.10

しるし

 ようやく、ニュートン博士の『死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」』を読み終えた。ここでは特に取り上げなかったが、進化した魂が、大いなる意志である源泉の手助けをするために、自分のエネルギーから物質的な存在を創造する練習をしていることや、地球以外の惑星に転生する魂もあるということ、それから、一つの魂が複数の肉体に宿ることもあるなど、これまで聞いたこともないようなこともたくさん書かれていた。

 ただ、私の生きるテーマである男女の深い愛について、そう、とりわけ、ソウルメイトやツインソウルとの関係を扱うケースが少なかったため、読み進めて行くうちに、私は少し欲求不満になりかけていた。男女の深い愛の描写に飢えてしまっていたのだ。しかし、もうほとんど読み終わろうかという段階になって、ようやくソウルメイトに関する記述を見つけることができた。

 ニュートン博士は、人生において重要な役割を持っているソウルメイトとの出会いは、決して偶然ではなく、中間世の間に出会う計画を立てていると言う。更に、出会ったときにお互いがわかるように、「しるし」を覚えていると言うのだ。以下に、その部分のセッションを引用させていただくことにする。

ニュートン どんなしるしですか。
被験者 目印です──人生の道の標識。
ニュートン もうちょっと具体的に言ってもらえますか。
被験者 なにか重要なことが起こるべきときには、事前にこの道路標識が現れて、私たちを新たな人生の方向へと向かわせるんです・・・・・・お互いを確認するためにもしるしを知っておかなくてはなりません。
ニュートン このクラスは魂が新たな人生をはじめる前には必ず開かれるのですか。
被験者 もちろんです。私たちはちょっとしたことを覚えておかなければならないんです・・・・・・。
ニュートン でも、あなたはすでに人生の選択の場で、次の人生の詳細を下見したのではありませんか。
被験者 確かにそのとおりですが、ほんとうの細部まで見たわけではないんです。それだけでなく、人生でかかわりをもつすべての人たちを知っているわけではありません。このクラスは最後の会見の機会ですから・・・・・・私たち全員が集まるんです。
ニュートン 互いの人生に影響を及ぼす人たちということですか。
被験者 そうです。この世では初対面で相手を確認できないこともありますから、いわば予習クラスのようなものですね。
ニュートン いちばん親しいソウルメイトにもここで出会うことができるのですか。
被験者 (赤くなって)・・・・・・彼女はここにいます・・・・・・ほかにも私がかかわりをもつ人たちが・・・・・・彼らのほうから近づくかもしれませんが・・・・・・ほかの人たちもしるしを必要とされているんです。
─(中略)─
ニュートン 人々がこれらの道路標識、しるしを見逃したらどうなるんですか。というのも、いまあなたも言ったように、後見人が言ったことを忘れてしまうこともあるんではないですか。あるいは、そのヒントをあえて無視して別の道をとったらどうなりますか。
被験者 (間があって)ほかの選択もできます──あまりよいことではないでしょうが──頑固になることもできます、でも・・・・・・(止まる)。
ニュートン でも、なんですか?
被験者 このクラスを受けたら重要なしるしを見逃すことはほとんどありませんよ。
ニュートン どうしてガイドはこの世にいる時点で教えてくれないのですか。わざわざ思い出すためのしるしなど暗記しなくてもいいのに。
被験者 私たちがなにも知らない状態でこの世に向かうのと同じ理由だからですよ。自分自身で発見することで魂のパワーが増すんです。ときにはすぐに問題が解けてしまうこともありますが・・・・・・たいていはそうではありません。人生の道でいちばん面白いのは転機ですから、心のなかの標識に気をつけていなければなりません。

 これを読むまで、私は、前世で親しい関係にあった魂のことを、魂自身が記憶しているのだと思っていた。しかし、そうではなく、生まれる前に設けられるオリエンテーションのようなクラスで、ソウルメイト、あるいは重要な人物たちと出会ったときにわかるように、しるしを覚えておくのだそうだ。そのしるしが標識となり、人生を台本通りに進めてくれるのだという。となると、やはり、カルマ的な関係の間にはしるしが交わされないというのは、明示的にされているわけではないが、暗黙の了解なのかもしれない。あるいは、しるしを見逃すことによって行き着いた、約束のない新たな関係という見方もできる。

 しるしが既知感に相当しているのだとすれば、私は、ガンモを見落とさないでいて本当に良かったと思う。私の場合、すべては最初のしるしであるアーチストに出会ったことから始まったと思っている。そのアーチストに出会ったから、カルマの相手と出会い、そしてガンモとも出会うことができたのだ。

 私がガンモと結婚して初めて顔を合わせたときの、そのアーチストの友好的な視線を私は覚えている。カルマの相手と私が一緒にいるときは、素知らぬ顔をしていたのに、ガンモに対しては、まるで昔からの知り合いのように接してくれた。私は、そのアーチストに見守ってもらっているような気がして、ガンモと手を繋いで彼の前を何度もウロウロしたものだ。今では年に一、ニ回ほどしか顔を合わせることはなくなってしまったが、ガイド的な役割を果たしてくれたという意味で、彼の存在は大きい。

 この日記を読んでくださっている方たちの中には、まだソウルメイトやツインソウルに出会っていない方も多いかもしれない。しるしを覚えていれば、ソウルメイトやツインソウルとの出会いというものは、前世の記憶と同じように、強烈なインパクトを伴うことだろう。

 ソウルメイトやツインソウルと出会う方法について、しばしば問い合わせを受けるのだが、この本を読むと、ソウルメイトに出会える人は、ソウルメイトに出会う計画を立てて生まれて来ていることになる。しかし、ソウルメイトに興味を持っていること自体、一つのしるしと言っていいのではないかと私は思うのだ。誰も、自分の目的とまったく異なるものを目指そうとしたりしないのではないだろうか。

※皆さん、たくさんの投票、ありがとうございます。m(__)m 感謝、感謝であります。

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2005.07.09

自由意思

 先日からご紹介しているニュートン博士の『死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」』には、以下のような記述がある。

 魂は未来の生の自分の死について私たちとは違った見方をしています。魂が若死にする人生を選ぶとき、彼らはたいていそれを人生の選択の場ですでに見ています。魂は突然の病気で急死したり、だれかに殺されたり、災害や事故でほかの多くの人たちとともに不慮の死を遂げる肉体を、基本的には、あらかじめ自分の意思で選んでいるということがわかりました。
 こういった悲劇に巻き込まれる魂は、神の怠慢のせいで折悪しく不運に見舞われたのではないのです。魂はちゃんとした動機があってそれらの出来事にかかわっています。

 輪廻転生を受け入れ、精神世界を探求している人たちが上記の文章を読むと、なるほど、と思うかもしれない。ただし、わざわざそれを言葉で表現したりはしないだろう。例えばお葬式の席で、「故人の魂は、自ら肉体を離れることに同意したのです」などと口に出して言う人はいない。

 しかし、輪廻転生を受け入れている人たちでさえ、実際に、不慮の事故や災害で親しい人を亡くされた方が読むと、反論したい気持ちが大きくふくらんでしまうかもしれない。身近な例では、阪神大震災で亡くなられたたくさんの人たちや、先日の尼崎の脱線事故で亡くなられた方たちにも、これが当てはまっているのかどうか、疑問に思ってしまうだろう。

 この本は、実際にそうした凄まじい死の経験を持つ人たちの記憶に基づいて書かれている。彼らはニュートン博士の行う退行催眠で、自分が過去世において、どのような形で死に直面したかを鮮明に思い出し、やがてその死を受け入れている。そして、現世で抱えている何らかの問題が、過去世での出来事に起因していることを理解している。更に、中間世まで導かれた人たちは、肉体を持たないスピリットの世界の素晴らしさをも説いている。

 ニュートン博士は言う。肉体を持たない世界よりもむしろ、肉体を持っている現世のほうが地獄だと。退行催眠で中間世に戻った人たちの証言によれば、スピリットの世界があまりにも心地良いために、この世に肉体を持って生まれて来ることを拒む魂もいるそうだ。

 この本に書かれていることを受け入れて行くうちに、魂の世界は、私たちが今いる肉体世界の感覚とはまったく正反対であることわかって来る。私たちは、親しい人が肉体を去って行くことは大変悲しむべきことだと思い込んでいる。しかし、肉体を離れた魂は、現世に残した人たちとの別れは非常に辛いと感じるものの、親しい人との関係がこれで終わりでないことを知っている。肉体を離れた魂は、やがて光に包まれ、心地良いスピリットの世界へと帰還して行くのだ。そこには親しいソウルメイトたちも待っている。そして、スピリットの世界でしばらく休養したり、魂の学校に通ってステップアップしながら次の転生の準備を整え、来世の計画を立てて再生する。

 何故、このようなことが、多くの人たちに認識されないのだろうか。それは、もしも私たち全員が、輪廻転生が存在することを認識し、いくらでも人生のやり直しができるということを知ってしまったら、中には、自分の選んだ課題に対して投げやりになってしまう魂も出て来てしまうからではないかと思う。自殺者の数も、今よりもっと増えることだろう。だから、そのような意志の弱い魂にとっては、輪廻転生を受け入れずに過ごすことは、それなりの意味を持っていることなのかもしれない。しかし、皮肉なことに、輪廻転生を認識し、魂の自由意思に基づいたレッスンを受け入れている人ほど、目の前に起こっている出来事を自分に与えた課題として受け入れ、人生を全開モードで生きている躍動のようなものを感じてしまうのは私だけだろうか。

 最近、掲示板の書き込みや、メールなどで、苦しい人生を送っていらっしゃる方からのメッセージを受け取ることがある。肉体の死ですら、魂の自由意思に基づくものであるとするならば、それ以外の様々な苦しみを抱えている人たちもまた、それらの苦しみを自らの自由意思で選んでいることにならないだろうか。私自身も、結婚前のあの凄まじいカルマを体験したときに思ったものだ。これは、自分自身の魂が自ら望んだことだと。魂は、自分自身が負い切れないほどの難しい課題を選択するとは思えない。

 カルマを自由意思として受け入れるとき、そこには加害者も被害者も存在せず、ただ合意のみが存在する。魂のステップアップのために、どうか今の課題をクリアして欲しいと思う。それを乗り越えたあとにはきっと、自分自身への素晴らしいご褒美が待っているはずだから。

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2005.07.08

スピリチュアリズム

 ニュートン博士の『死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」』を読み進めて行くうちに、私は昔から、精神世界の中でも、スピリチュアリズムに関する本を特に好んで読んでいたことを思い出した。スピリチュアリズムとは、一言で言えば、高級霊が語る英知と言っていいだろう。今でも、私のプロフィールには、「愛読書:シルバーバーチ」などと書いている。シルバーバーチとは、およそ六〇年間に渡り、イギリスのモーリス・バーバネル氏を霊媒として交霊したインディアンの高級霊だ。シルバーバーチの語る霊訓には、魂の奮えるような英知がつまっていた。

 ニュートン博士の被験者の中にも、魂が特に進化した人たちがいた。そういう人たちがトランス状態に入ると、シルバーバーチなどの高級霊が語る霊訓と同じように、私たちに霊的な気づきを与える言葉が次々に飛び出して来る。例えば、私たちが普段、神と呼んでいるであろう対象に対し、ある進化した魂を持つ被験者は以下のように語った。この被験者は、「神」を「源泉」と表現している。

被験者 存在することは・・・・・・春に初めて花が開くのを見ているときに、自分自身がその花であることに気づくようなものです。そして、花がさらに開きつづけると、光に満ちた野原にはほかにもたくさんの花が咲いていることに気づくようになり・・・・・・野原には限りない喜びが満ちあふれているのがわかります。
ニュートン それがもしも爆発的なものなら、多くの色を帯びたエネルギーの源泉はそれ自体が崩壊して、花々もみんな死んでしまうのではないですか。
被験者 崩壊することはありません・・・・・・源泉は無限なんです。魂である私たちが死ぬことはありません──魂の奥底では、私たちはそれを知っています。私たちが統合していくにつれて、私たちが増やした智恵が源泉をよりパワフルにするからです。
ニュートン 源泉がこの存在を生み出す理由はそれなのでしょうか。
被験者 ええ、生命を与えられた私たちは、完全な形となって戻ってくることができるんです。
ニュートン 源泉そのものがすでに完璧であるのに、自分よりも不完全な知性をさらに生み出す必要があるのですか。
被験者 私たちは創造主の創造を手助けしているんです。このようにして、自己を変容し、より高い完成の領域へと高めることによって、私たちは生命を構成する基本的な要素に、なにがしかのものを付け加えるんです。
ニュートン 魂はなんらかの現在またはスピリットの世界の恩寵からの堕落によって、源泉から切り離されて、地球のような場所にやって来たのでしょうか。
被験者 とんでもない。私たちは被造物の・・・・・・この美しい多様体を増やすために・・・・・・ここにやって来たんです。
ニュートン シース、私の言うことをよく注意して聞いてくださいよ。もしも源泉が自分の聖なるエネルギーを分割して、自分を増やすために、より劣った知性をつくりだし、それによってもっと強力にそして賢くなろうとするなら──源泉そのものにはほんとうの完全さが欠けているということになりませんか。
被験者 (間があって)源泉はそれ自身を成就するために創造するんです。
ニュートン その点が疑問なんですよ。なにかが欠けているのでないかぎり、絶対的なものがさらに絶対的なものになろうとうすることはないでしょう。
被験者 (ためらいながら)私たちが目にするもの・・・・・・源泉が・・・・・・私たちの知りうるすべてであり、創造主は私たちを通じて・・・・・・私たちを誕生させることで自分自身を表現しようとしている、と私たちは考えているんです。
ニュートン あなたは実際に源泉が、私たちが魂として存在することで強くなっていると思いますか。
被験者 (長い間があって)私は創造主の完璧さが・・・・・・その完璧さの可能性を私たちと分かち合うことによって・・・・・・維持され豊かになっているし、それこそ創造主の究極の表現にほかならないと考えています。
ニュートン では、源泉は自分自身を成長させるために、意図的に不完全な魂とその魂が宿る不完全な生命体とをつくりだして、なにが起こるのかを見守っているということですか。
被験者 そうです、だから私たちはこの決定を尊重し、生命が起源に戻って行くプロセスを信頼しなければいけないんです。食べ物のおいしさを知るには飢えなければならないし、暖かさの恵みを理解するには寒さを味わわなければならないし、両親のありがたさがわかるには、子供にならなければいけないんです。変容が私たちに目的を与えるのです。

 この中で引用した被験者の最後の言葉のような内容は、神との対話にも登場する。このことから、入口は異なっていても、スピリチュアリズムはどこかで一つに繋がっていることがわかる。私がシルバーバーチの霊訓や退行催眠に興味を示すのも、こうしたスピリチュアリズムに触れたいという欲求があるからだと思う。そして、こうしたスピリチュアリズムに触れることによって、自分自身の魂が体験して来たことを確認し、自分の気づきを世の中にも伝えて行きたいと思っているのだろう。

 そして、おそらく、世の中への伝え方は、二通りある。一つは、今、ここに愛がない! と叫ぶ方法。そしてもう一つは、今、ここに愛がある! と叫ぶ方法だ。どちらの方法も、愛という大きな流れから見れば、ある段階、ある瞬間を切り取ったものに過ぎないだろう。しかし、私は後者のやり方でやって行く。

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2005.07.07

早く家に帰りたい

 仕事が忙しい上に、生理まで始まってしまった。私の喜びは、仕事を終えて早く家に帰り、ガンモと一緒に夕ご飯を食べることだ。夕方、
「ごめん、今日も残業だから」
とガンモに電話を掛けたときの、ガンモのがっかりした声を聞くと、胸がちくちく痛んで来る。ああ、何故、こんなふうに、いろいろなことを一緒にできる人をさしおいて、私は一体何をしているのだろうと思ってしまう。残業中も、肉体は職場にあるのに、私の魂は、ガンモのいる我が家へとトリップしている。

 ようやく家に帰り、ちょっとベッドで休ませて、とベッドに横になると、ガンモもベッドに転がり込んで来て、私の横に寝そべった。七夕の夜に、ベッドに寝転がって、二人でいろんな話をした。ガンモが言う。
「今夜のうちに会えて良かった」
私は言いようのない幸福感に包まれた。ガンモの待つ我が家は、鳩の巣ならぬ、私たちの愛の巣なのである。

 こんなこと、多くの人は、照れてしまって、話したがらないだろう。でも私は、本当にうれしいのだ。

 ニュートン博士の『死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」』にも、肉体を去った魂が、ソウルメイトたちの待つ「我が家」に帰還するときの喜びが表現されている。やはり私は、現世と中間世のギャップを感じずにいたいらしい。

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2005.07.06

続・鳩の巣

 先日、我が家のベランダに鳩が巣を作ったという話をここに書いたと思う。今日は、その話の続きを書くことにしよう。

 鳩は、最初のうち、私たち夫婦の立てる生活の音に警戒していたらしく、私たちが台所に立ってガサゴソと物音を立てると、たまりかねた様子でバサバサとゴミ箱の巣から飛び立つといったことがしばしば起こっていた。私は鳩に、
「私たち夫婦は、あなたたちに危害を加えるつもりはないんだから、安心していいんだよ」
と一生懸命語りかけていた。

 実際、私たちが多少の音を立てても、危害を加えないでいたことが、彼らとの信頼関係を築くことに繋がったのだろう。鳩は次第に、私たちが台所に立ってもバサバサと飛び立たなくなった。

 私たちはやがて、羽の微妙な模様の違いと、卵を温める時間帯の違いにより、鳩の雄と雌を区別できるようになっていた。夕方から朝にかけては雌が温め、午前中から夕方にかけては雄が卵を温める。彼らは一日のうちほとんどの時間を別々に過ごし、交代の時間がやって来ると、巣に帰って来る。そして、しばらくすると、もう片方は飛び立って行くのだ。

 私は、彼らの力になれるようにと、ダイソーで鳩の餌になりそうなものを買って来た。細かい粒の小鳥の餌と、穀物をすりつぶしたハムスターの餌である。これらを混ぜ合わせて餌箱に入れ、鳩の巣のすぐ側に置いておいた。しかし、彼らはまだ警戒心を解いてくれなかったのか、餌に手をつけようとはしなかった。

 餌を与えてから数日経って、ふと餌箱に目をやると、餌箱の底が見えていることに気がついた。餌箱をのぞくと、ハムスターの餌の中に含まれていたひまわりの種だけが残っている。私は、「やった! ついに餌を食べてくれた!」と思い、すぐにガンモに連絡した。
「ガンモ! 鳩が餌を食べてるよ!」
「ええっ? ほんとに?」
ガンモも驚き、そして私たちは喜んだ。

 彼らが私たちの与えた餌を食べてくれるようになってから、餌箱の中がひまわりの種だけを残して空になっていると、
「餌をあげるから出て来なさいよ」
と言って声を掛けてやると、鳩は巣から出て来るようになった。餌箱は彼らの巣の前に置いているため、彼らが巣の中にいる状態で餌を与えると、彼らに恐怖心を与えてしまうと思ったからだ。そうやって、鳩を一時的に巣から追いやっている間に私たちが餌箱に餌を入れてやると、鳩はすぐに巣に戻って来て、餌を食べるようになった。

 そんなある日、餌箱の中に餌を入れたあと、巣の中をそっとのぞき込んでみると、小さな雛が一羽だけ孵っているのが見えた。手のひらに乗せても余りそうなほど小さくて、じっと動かず、まだ生まれたばかりの様子だった。もともと卵は二つあったが、もう一つの卵はまだ孵っていなかった。私は、興奮しながらガンモに伝えた。
「ガンモ! ヒナが孵ってるよ!」
これにはガンモも興奮した。鳩の卵が二〇日で孵るとなると、おそらく、私たちが愛シチュー博に出掛けて留守にしている間にここに巣を作り、卵を産んだのだろう。もう一羽も孵るといいのにと、私たちは彼らを見守っていた。
「俺らが愛シチュー博に行っている間に卵を産んだなら、生まれて来る子供はモリゾーとキッコロだ」
とガンモは言った。そして、先に卵から孵ったヒナをモリゾーと名付けた。

 しかし、モリゾーが孵ってから数日経っても、キッコロは生まれて来なかった。再び巣の中を見ると、卵を上からつついたような後があった。卵の中は、少し黒くなっている。おそらく、なかなか生まれて来ない卵を、鳩がつついてみたのだろう。

 ゴミ箱の中は、ベランダの傾斜のためか、ほんの少し傾いている。そのために、彼らの卵が巣の中で転がり、温められる条件が異なってしまったものと思われる。かつて、まだ生まれて来ないものかと巣の中をのぞいてみたとき、卵が転がっているのが見えた。そのときに、二つの卵を同じ位置に戻してやることができれば、キッコロは無事に生まれて来ることができたかもしれない。しかし、私たちには、彼らの巣の中に手を突っ込んで、卵の位置を元に戻すことができなかった。彼らに警戒心を抱いて欲しくなかったからだ。

 キッコロは生まれず、悲しい結末を迎えることになってしまったが、鳩はまだ、その卵を温め続けているようだ。野生の動物に対して、私たち人間は、どこまで介入していいものかと迷う。私たちが餌を与えることだって、別の見方をすれば、彼らを甘やかしていることになるかもしれないのだ。しかし、ゴロゴロと転がった卵の位置はどうすれば良かったのだろう。巣の中に手を突っ込み、卵を固定させるべく、タオルか何かを敷いてやるべきだったのだろうか。

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2005.07.05

かりそめの記憶喪失

 先日の日記に、私は以下のように書いた。

 おそらく、誰の中にも、前世の記憶はあるのだと思う。しかし、思い出しやすい人とそうでない人がいるのは、人を愛するときに、魂の全開モードで愛しているか、多少の手抜きモードで愛しているかの違いなのではないだろうか。魂の全開モードで人を愛した人でなければ、あの激情は引き出せないような気がする。

 私がこのように思ったのは、ソウルメイトやツインソウルに対しては既知感があるのに、カルマ的な相手のことはまったく覚えていなかったからだ。しかし、これに関して、ニュートン博士の『死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」』の中で、別方面からアプローチされていたので、その部分を引用させていただくことにする。

ニュートン あなたが、「自分はロス・フェルダン(まるみ注:被験者の過去世の名前)の人生の記憶を意識的に覚えていない」と考える理由はなんでしょうか。
被験者 この世に戻ってくる直前に肉体を選んで予定を立てるときに、私たちは自分のアドバイザーと約束をするんです。
ニュートン なんについての約束ですか。
被験者 私たちは・・・・・・他の生を思い出さないことを・・・・・・約束するんです。
ニュートン なぜですか?
被験者 以前にやったことが原因でこういったことがおこるかもしれないと前もって知っているよりも、なにもない白紙の状態から学んだほうがいいんです。
ニュートン でも、過去世の失敗を知っていたら、それを今生での同じ落とし穴を避けるのに役立てられるんではないでしょうか。
被験者 過去についてすべてを知っていたら、多くの人はそれに気をとられて、同じ問題に別のアプローチを試みようとしなくなるでしょう。新しい人生に・・・・・・真正面から取り組まなければならないんです。
ニュートン そのほかにも理由がありますか。
被験者 (間があって)昔の記憶がなかったら・・・・・・過去の恨みを晴らし・・・・・・自分がこうむった苦しみに仕返しをしようとしないから・・・・・・時間をむだにすることもない・・・・・・とアドバイザーは言っています。

 これはまさしくその通りだ。既に解いたことのある課題の答えを知っていながら、もう一度同じ課題に取り組むのと、初めてその課題に取り組むのとでは、がむしゃらになれる度合いがまったく違って来るからだ。ということは、かりそめの記憶喪失は、根底に深い愛が流れていないカルマの関係に対してのみ発生するという解釈でも良さそうな気もする。ソウルメイトやツインソウルに対して既知感を伴うのは、彼らとの間にやり残しの課題があるにしても、覚えていても差し支えない範囲に収まっているからなのだろう。

 上記の被験者との対話を記載したあと、ニュートン博士は、以下のように書いている。

 私の知る限り、被験者が簡単に催眠状態に入れないとき、あるいは彼らがトランス状態でごくおおざっぱな内容しか思い出せないとき、そのような障害にはなんらかの原因があるようです。そういった人たちには過去の記憶がないというのではなく、彼らはそれらを白日のもとにさらす準備ができていないのです。
 この被験者はなにか自分の成長を阻害しているものがあるとわかっていましたし、それを明らかにすることを望んでいました。魂の超意識的なアイデンティティのなかには、この人生の目標も含めた私たちの連綿と続く記憶が含まれています。人生でしかるべき時機になったら、私たちは人間としての物質的な欲求と、魂のここでの目的とを調和させなければなりません。私は過去と現在の経験を整合させるために常識的なアプローチを取ろうとします。

 これについても、なるほどと納得が行く。私がカルマの相手との関係を思い出したのは、カルマを解消したあとのことだった。もしもカルマを解消する前に思い出していたら、私はカルマの相手との間に残された課題から逃げ出そうとしたことだろう。だから、思い出せないことがあるということは、まだ準備が思い出す整っていない、あるいは、まだ思い出す段階ではないということになる。決して、記憶喪失だからと言って、私たちの魂が再生していないという証にはならない。それは、前世を記憶している人がいるといういくつもの事例を無視している。

 私の魂にも、かりそめの記憶喪失がたくさんある。例えば私は、何故、ツインソウルと離れたのかを明確には知らない。遠い前世で、ツインソウルと交わしたあの熱い熱い炎のような愛は、覚醒したとき、このまま気が狂ってしまうのではないかと思うほど情熱的だった。私の魂は、ツインソウルが私を見つめる情熱的な瞳を記憶している。だから、その人の情熱を確認するには、瞳をのぞき込めばいいということも理解した。

 私が仮定しているのは、ツインソウルの愛は源のようなもので、私たちは、源から分けてもらった愛を、ソウルメイトたちに伝えて行く使命があるのではないかということだ。だから、ツインソウルと別々の人生を過ごしていても、ソウルメイトと一緒に過ごしている人たちは、難なくその使命を遂行している。これらの使命は、男女の愛を世の中に伝えて行くための重要な使命である。しかし、愛の源から分けてもらった愛をカルマの相手に伝えて行くことは、困難を極めるようだ。私も前世でこれに挫折し、カルマ的な相手を捨ててソウルメイトと駆け落ちしてしまった。だから、カルマ的な相手と一緒に過ごすことについては、私はまだまだ多くを語れるほどの持ち合わせがない。今、まさに、前世の私と同じような課題に直面している人たちがいるとして、彼らに対し、具体的にどのようにすればいいのかを助言することができないのだ。

 魂は、その人との間に何らかの課題が残されているとき、何度も何度も同じ課題を自分自身に突きつける。だから、私たちは、一度にクリアしてしまおうと思わずに、その都度その都度、目の前の課題に取り組んで行けばいいのかもしれない。おそらく、課題をクリアするヒントは、能動的であることよりも、受け身に徹することにあるような気がする。今、起こっている出来事が、自分にとって必要な出来事だと受け入れて行くのだ。

 「今」の原因を探る意味で、「過去」を知ることは大切なことではある。しかし、「過去」と「今」、そして「未来」の相関関係がわかれば、「今」がもっとも大切であることに気づいて行くことだろう。ただ、言えるのは、「今」、私たちの目の前に何か大きな課題があるとしたら、それは「過去」にクリアできなかった課題を自分自身に突きつけた可能性が非常に高いということだ。

※皆さん、たくさんの投票をありがとうございます。m(__)m 励みになっています。これからも、よろしくお願いします。

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2005.07.04

カルマ

 皮肉なことに、カルマという言葉を世の中に広めたのは、オウム真理教だったらしい。しかし、カルマとは、オウム真理教以前から存在していたインドの思想である。カルマを一言で表現すると、行いのことである。カルマの法則とは、自分の行いが自分に返って来ることで、因果律などとも言う。

 私にも、凄まじいカルマの経験がある。それは、ガンモと出会う以前のことだ。前世で中途半端に終わらせてしまった関係と、現世で再会してしまったのだ。それは、わずか数ヶ月の間に、駆け抜けるようにして終わった。後にも先にも、あんな苦しい思いをしたのは初めてのことだった。それだけ私が、相手の魂を深く傷つけていたのだと思う。何度もここに書いて来たように、カルマを解消し、退行催眠を通じて自分の前世の行いを知ったとき、私は自分の涙ではない涙を流した。退行催眠で見せられた前世の映像から、相手の悲しみや苦しみをダイレクトに感じ取ったのだ。

 カルマを体験して思うのは、自分の感情幅が大きく広がったということだ。人間の感情は、プラスにもマイナスにも大きく伸びて行くものだと思った。ソウルメイトやツインソウルに出会った人たちの話を聞いてみると、ほとんどの人たちが、私と同じように凄まじいカルマを体験している。だから、カルマを解消したあかつきには、頑張った自分自身へのご褒美として、ソウルメイトやツインソウルとの出会いが待っているのかもしれない。

 ただ、戸惑いやすいのは、感情がポジティヴにもネガティヴにも大きく振れるツインソウルの関係だ。ツインソウルとカルマの関係は、ネガティヴな部分に関しては非常に良く似ているのだが、ポジティヴな部分がまるで似ていない。ツインソウルとの関係においては、例えどんなに醜い関係になろうとも、根底には深い愛が流れている。そして、冷静になって解釈すれば、その問題が、二人の愛をもっと深めて行くために起こっていることに、やがて気づかされるのだ。カルマの場合は、相手にとことん振り回されながら、とにかく自分を守ることで精一杯になってしまい、やがて、自分自身さえも見失ってしまう。カルマの関係は、根底に深い愛がないために、二人でその問題を乗り越えることができず、カルマが解消されたときに二人の関係は終わる。そして、まるで憑き物が取れたかのように楽になるのだ。

 関係がどんなに醜くなろうとも、根底に深い愛が流れているのであれば、ツインソウルだろう。そうでない場合は、カルマの関係と言えるのではないだろうか。また、ツインソウルならば、困難の末に、例え二人が別々に生きる選択をしたとしても、その愛はいつまでもお互いの中に生き続けている。

 ところで、現在自分に起こっている現象が、カルマの解消に相当しているのか、また、相手によって新たに生み出されたカルマに相当しているのか、誰しも気になることだろう。それらを区別する方法を、私は知らない。しかし、どんなときも、「今を精一杯生きる」ことが大切なのではないかと思う。何故なら、「今」を作ったのが「過去」だとすると、「未来」を作って行くのは「今」だからだ。それらは相関関係にあるので、「今」がお粗末なものであれば、必然的に、「未来」もお粗末なものになってしまう。

 これはカルマだと感じたときは、とにかくがむしゃらに取り組んで行くしか方法がない。がむしゃらに取り組まなければ、解消するまでに時間がかかってしまうことだろう。もしも関わる人が新たに生み出したカルマなら、そのカルマは、転生という長い期間を挟む場合もあるが、その魂の成長のために必ずフィードバックが行われる。だから、長い目で見ながら、相手の自由意思に任せることが必要なのかもしれない。私は、自分が解消したカルマしか知らないが、何かの役に立てればと思い、先日整理した掲示板の過去ログの中に、カルマについて答えた私のコメントがあったので引用しておきたい。

Re: カルマの相手と出会いましたか? ( No.2 ) /まるみ 2003/05/31 15:31

匿名希望さんへ

こんにちは。何だかとっても興味深い質問です。

> 皆様が出会ったカルマの相手との関わりについて教えて下さい
> (答えてもよいと思う所のみで結構です)

いや、私は全部答えたいです。

> 1「出逢った途端に惹きつけられた」とよく聞きますが、ソウルメイトやツインソウルに惹かれる時との違いを教えて下さい

厳密に言うと、ソウルメイト/ツインソウルの場合は、出会った途端に惹きつけられるわけではなく、
ある一定の期間を過ぎてから、急速に親しくなるんですね。
でも、カルマの場合は、一気に動き出します。
そして、たまさんも書かれていますが、自分が抵抗したくてもしきれないほど、相手に流されるんです。
まるで、自分が舵を取っているのではないような感覚です。

更に、ソウルメイト/ツインソウルとの出会いには既知感が伴いますが、
カルマ的な相手のことは覚えていません。
これは、忘れておく必要があるからじゃないでしょうか。
強烈に愛し合った相手ならば、魂が記憶してると思うんですよ。

> 2心から好きでもない相手なのに
> 何故、二人はお付き合いをするようになったのでしょうか?
> 最初は気が合うということですか?
> それとも、外見上や肉体的にだけその相手を欲していたからでしょうか?

そうです。最初は気が合ったんです。いろいろな偶然や共通点もあり、
もしかして運命なのかも? なんて思ってしまうんですね。
でも、付き合いを重ねて行くうちに、魂が心地悪くなってしまうんです。
自分を騙したり、本当の自分であることを我慢しなければ、うまく行かない相手になってしまうんです。
ずばり、自分を押し殺さなければならない相手がカルマの相手だと思います。

> 3その相手と一緒にいる時、楽しさや精神的な満足感を感じていましたか?

感じていませんでした。
いくら関わっても関わっても、離れるとすぐに寂しくなるんですね。
そして、相手の自由意思を奪いながら、一緒にいようとして、
相手に疎ましがられるんです。

以前、精神世界のはなし掲示板でも触れましたが、
私にとっては、栓を抜いたままのお風呂の中に、勢い良くお湯を注ぎ込むような感じでした。

> 4どうしてその相手となかなか離れられなかったのですか?

これは、なかなか難しい質問ですね。
自分を押し殺してまで、我慢してまで付き合うことが必要だったかのどうか、わかりません。
そのときは本当にがむしゃらで、例え自分が深く傷つけられても、その関係を失いたくなかったんです。

> 5今、振り返ると、その相手のことは
> 「あくまでもカルマの清算のために関わっただけで、愛していなかった」
> と思っていますか?

私が今体験している「愛」とは、まったく違うと思います。
どちらかと言うと、肉体的ですね。
そのときは一生懸命だったのですが、今体験しているこの愛が本物ならば、
やはり偽物という気がします。

その頃、私には、すごく好きな人がいたんです。
最初に出会ったソウルメイトですね。
(この人とは、付き合ったりはしていません。私が心の中で想っていただけです。)

カルマの相手は、その人とは共存できない存在であることを感じていました。
私の魂のイメージにぴったりした相手がそのソウルメイトだとすると、
カルマの相手は、別の空間に存在させなければならず、
自分が二人もいるような感じで苦しかったです。

> 6離れた今、たとえもう忘れているとしても
> ふとあなたとの恋愛を思い出したとき、相手がどう思うだろうと思いますか?

現世で私を傷つけたのは彼だから、もしかすると心を痛めるかもしれませんね。
でも、私がガンモと幸せにしていることを知っているでしょうから、大丈夫だと思います。

> 7カルマを乗り越えた後、何か変わったことはありますか?

カルマの法則が存在することを知りました。
原因があって、結果があるんですね。
そして、輪廻転生も、確実にあるとわかりました。
前世では、私が加害者だったのですから。

それから、本物の愛は、ソウルメイトと共存できる関係であることを学びました。
存在に矛盾がないのですね。愛を隠す必要などないというのでしょうか。
乗り越えたあとには、ごほうびがあるということもわかりました。

たまさんも書かれていますが、ほんとの愛を知るためのステップだったと思います。
悲しんだ分、苦しんだ分、人の苦しみもわかって来るようになりました。感情の幅が広がりました。
私も、カルマの相手には感謝しています。現世では、自分が悪者になって愛の尊さを教えてくれたのですから。

 ガンモは、カルマの相手とはまったく違う方法で、私を愛してくれた。カルマによって深く傷ついていた私は、ガンモによって、愛の信頼を取り戻すことができたのだ。

 また、先日からご紹介しているニュートン博士の『死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」』にも、カルマに関する情報があったので引用させていただく。

ニュートン 人生で、他人を傷つけるという欠陥がある人間に宿った魂には責任が生じるのですか。
被験者 生じます。人生で他人に残酷な仕打ちをした人たちのことですよね──そういった魂の一人を知っていますよ。
ニュートン その存在についてどんなことを知っていますか。その人生のあとでスピリットの世界に戻ったときに、その魂にはなにが起こったのでしょうか。
被験者 彼は・・・・・・若い女性を傷つけたんです・・・・・・ずいぶん酷い仕打ちを・・・・・・それで私たちのグループには戻りませんでした。彼はその肉体にいるときにひどくお粗末なことをしでかしたので、個人的に一から学び直さなければならなかったんです。
ニュートン 彼はどの程度の罰を受けたのですか。
被験者 罰というのは・・・・・・間違った解釈です・・・・・・更生といったほうがいいでしょう。教師に、より大きな責任がかかることを忘れてはいけません。教師たちは残忍な行為にかかわった者たちにより厳しくなります。
ニュートン スピリットの世界で「より厳しく」するとはどういうことなんですか。
被験者 ええ、その友人は私たちといっしょに・・・・・・友人たちといっしょに戻ってきませんでした・・・・・・少女を傷つけたこの劣悪な人生のあとは。
ニュートン 彼は死んだときにあなたと同じようにスピリットの世界の門を通ったのですか。
被験者 ええ、でも、彼はだれとも会いませんでした・・・・・・まっすぐ教師と二人きりになる場所に行ったんです。
ニュートン そこで彼にはなにが起こりましたか。
被験者 しばらくしてから・・・・・・そんなに長くはかかりませんでしたが・・・・・・彼はこの世に今度は女性として戻って・・・・・・周囲に残酷な人たちがいる環境で・・・・・・肉体的に虐待されて・・・・・・それは意識的な選択だったんです・・・・・・友人はそれを経験する必要があったんです・・・・・・。
ニュートン この魂は、少女を傷つけた人生で、自分が宿った肉体の脳を避難したのですか。その脳に責任があったのだと・・・・・・。
被験者 いいえ、彼はちゃんと自分がやったことを受け止めました・・・・・・自分自身に戻ってからね・・・・・・人間の弱さを克服するだけの修練がたりなかった自分の責任を認めたんです。理解を深めるために次の生では虐待される女性になることを自分自身から求めました・・・・・・自分がその少女に与えたダメージを身をもって体験するために。

 精神世界においても、カルマの法則が存在するという立場を取る人たちもいれば、カルマなど存在しないという立場を取る人たちもいる。私自身も、精神世界への探求がまだまだ浅いうちは、自分の行いがしっぺ返しのように自分に返って来ると思っていた。しかし、自分自身で体験したカルマや、『神との対話』に書かれている内容を受け入れて行くうちに、しっぺ返しのようなカルマが存在するのではなく、相手の立場を理解するために、自分の自由意思でもって、被害者と加害者が入れ替わるのだということがわかって来た。そして、現在の私が取っているのは、すべての魂が一つの存在であるからこそ、他の人の痛みが自分の痛みになるという立場である。

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2005.07.03

愛の記憶

 先日からご紹介しているニュートン博士の『死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」』にも書かれているように、私たちの魂が肉体を離れ、中間世まで導かれると、そこでソウルメイトたちに再会すると言う。中間世では、魂はいくつかのグループに分かれて存在しているそうだ。ということは、グループ・ソウルや類魂(るいこん)などと呼ばれている単位が、中間世を一緒に過ごしている魂たちなのだろう。

 しかし、ツインソウルはどうなのだろう。ニュートン博士が、ソウルメイトとツインソウルを明確に分けて記述しているかどうかは読み取れなかった。ただ、気になったのは、グループ分けされている魂は、どれも同じ学びを必要としている魂たちであり、同じ段階、同じレベルにある魂たちなのだそうだ。段階やレベルといった表現を使うと、差別的に聞こえるかもしれないが、決してそういうわけではないらしい。強いて言えば、転生の回数も多く、ベテランの魂と、若い魂といった感じだろうか。

 ある被験者は、退行催眠で中間世に戻ったとき、次のような反応を示したという。以下、『死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」』より引用させていただく。

ニュートン あなたたち二人はいまなにをしていますか。
被験者 抱き合っています。
ニュートン ほかの人たちが、いま抱き合っているあなたたちを見るとしたら、どんなふうに見えるでしょうか。
被験者 (返事がありません)
ニュートン (被験者は自分のソウルメイトとの再会にすっかり心を奪われていて、目から涙をこぼしていました。私は少し待ってから、またたずねました)あなたとラリーはまわりで見守っている人たちにはどんなふうに見えるんでしょうか。
被験者 彼らにはたぶん・・・・・・二つの明るい光の塊が、お互いのまわりをくるくると回っているように見えるでしょう・・・・・・。(被験者が落ち着いてきたので、私はティッシュで彼女の顔の涙をふいてあげました)
ニュートン それはなにを意味しているのですか。
被験者 私たちは抱き合って・・・・・・愛を表現し・・・・・・結び付いて・・・・・・二人で幸せになって・・・・・・。
ニュートン ソウルメイトと出会ったあと、次になにが起こりますか。
被験者 (安楽椅子の肘掛けをしっかりとつかんで)まあ、みんなここにいるわ──さっきはただ感じるだけだったのに。みんなが私のまわりに集まってきました。
ニュートン それはあなたの夫がそばに来たあとのことですね。
被験者 ええ・・・・・・お母さん! 彼女が私のほうにやって来ます・・・・・・長いこと会っていなかったの・・・・・・まあ、母さん・・・・・・。(被験者はまた泣きはじめました)

 この被験者は、人生を何度も一緒に過ごしたラリーというソウルメイトとの再会を喜んでいるのである。そして、ラリーとの再会を果たしたあと、同じ魂のグループに属しているソウルメイトたちと再会している。こうしたソウルメイトたちとの再会について、ニュートン博士は、次のように述べてもいる。

 スピリットの世界の現象で興味深いのは、人生で重要な位置を占めていた人たちが必ず出迎えに来てくれるということです。たとえ彼らがすでに別の肉体に転生して別の人生を送っていたとしても、それが可能だということです。

 これは、現世で愛し愛される関係を築いている人たちにとって、本当に涙が出て来る表現なのではないだろうか。

 さて、これを読まれている方たちの中には、輪廻転生に関して、懐疑的な考えを持たれている方もいらっしゃることだろう。しかし、そういう方々は、前世を思い出したときの、魂の奥から込み上げて来るようなあの激情を知らないのだろう。もしもそれを知っていれば、これらの記憶が決して作り出されたものでないことを理解しているだろうし、あやふやな前世というものなど有り得ないことも知っているだろう。実際、自分の前世を知りたいと思って退行催眠に挑戦するとき、何かを見たいと思って無理に想像しようとすることはある。しかし、想像の延長線上に、ぼんやりと見えて来るようなものは前世の記憶ではない。前世の記憶とは、激しい感情とともに、どうしても押さえ切れず、突き上げて来るような感情を伴いながら思い出すものだ。そのような感情を人工的に作り出すことは、不可能ではないかと私は思う。何故なら、自分がこれまで経験したことのないほどの、この世のものとはとても思えないほどの激情だからだ。

 『死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」』の著者であるニュートン博士でさえ、輪廻転生に関して、最初は懐疑的な考えを持っていたようだ。しかし、多くの被験者と関わって行くうちに、彼らが同じような反応を示し、催眠中に見えて来る光景を同じように描写することから、輪廻転生の実在を受け入れずにはいられなくなったと言う。ニュートン博士は、以下のように書いている。

 一部の催眠現象を批判する人たちは、トランス状態にある被験者は催眠家が暗示した理論的な枠組みに合わせるために記憶をでっち上げたり反応を偏らせたりすると考えています。私はこの一般論が間違った仮定であることを知りました。私は被験者がもたらす情報を、まるで初めて聴くかのような態度で聞きます。たとえ被験者が催眠家の暗示に逆らってスピリチュアルな世界に関する幻想を抱いたとしても、または日頃の死後の世界のイメージに影響された連想をしたとしても、そういった応答ではたちまち他のケースの報告と矛盾したものになってしまうでしょう。

 おそらく、誰の中にも、前世の記憶はあるのだと思う。しかし、思い出しやすい人とそうでない人がいるのは、人を愛するときに、魂の全開モードで愛しているか、多少の手抜きモードで愛しているかの違いなのではないだろうか。魂の全開モードで人を愛した人でなければ、あの激情は引き出せないような気がする。

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2005.07.02

裁判官

 私が解釈する限り、中間世はおそらく、私たちが「あの世」と呼んでいるものだ。

 私たちの思想では、「あの世」には閻魔大王がいて、嘘をついた人は舌を引っこ抜かれ、悪いことをした人は針の山を歩かされるなどの苦行を強いられることになっている。こうした思想が浸透しているのは、日本だけではないらしい。多くの宗教、哲学、神秘主義に、死後に裁判が行われる信仰が見られると言う。

 大変興味深いことなのだが、ホイットン博士の『輪廻転生──驚くべき現代の神話』では、被験者の多くが、中間世で裁判官の存在を裏付けていると言う。再び本の表現を借りることになるが、その部分を引用してみたい。

 ホイットン博士の被験者の証言はみな裁判官の存在を裏付けており、太古から世界各地で語りつがれてきた話をより詳しく述べている。超意識に入っていった人たちほぼ全員が、年老いた賢人たちの集団の前にでて裁きをうけたという。この老賢人たちはたいてい三人、ときには四人、ごくまれに七人のこともあり、その姿はさまざまである。彼らは正体不明のこともあるし、神話にでてくる神々や宗教上の大師(マスター)の姿をしている場合もある。ある被験者はこう語る。

 「案内役(ガイド)は私の腕をとって、長方形のテーブルを前に裁判官たちが着席している部屋へと連れていきました。裁判官たちはゆったりした白い衣装を着ており、みな歳をとっていて賢そうでした。この人たちといっしょにいると、わが身の未熟さを痛感しました。」

 この非物質界の法廷の裁判官は高度に霊的発達をとげており、この世の転生のサイクルをすでに卒業してしまったかのように思われる。その人たちは目の前の人物に関して知るべきことは何でも直感的に知り、その人が今しがた終えてきたばかりの人生を評価するのを助けてくれる。場合によっては、つぎの転生についてこうしなさいと教えてくれることもある。
 生と生のはざまに各人にとっての地獄があるとすれば、それは魂が反省のために自分自身を顧みる瞬間のことであろう。前世での失敗に対する後悔や罪悪感、自責の念が心の底から吐露され、そのため見るも無残なほど苦悶し、悲痛の涙にくれる。生きているときには、マイナスの行動も理由をつけて心のかたすみに追いやってしまうことができるし、言い訳だっていくらでもできる。ところが中間世では、このような行いをしたために生じた感情は生々しく、妥協を許さない。他人に与えた苦しみは、あたかも自分がその苦しみを受けるかのように身にしみる。しかし多分いちばん苦痛なのは、悔いあらためて過ちを正すにはもう遅いと悟るときだろう。前世へと通じるドアはかたく閉じられ、いままでの自分の行為や怠慢の結果が白日のもとにさらされる。ポーカーゲームの大詰めで持ち札全部を開けて見せるときのように、自分がだれで何なのか、説明を求められるのだ。他人の意見は役に立たず、問題にされるのは、私たち一人一人の誠実さ、私たちのうちなる道徳性だけなのである。

 私なりの解釈だが、ここで述べられているような裁判が、それぞれの宗教や哲学、神秘主義によって受け取られ、加工されたのではないだろうか。しかし、中間世における裁判の存在を知ると、この世で行われる裁判や処罰といったものが、本当に意味のあるものなのかどうか疑問を抱くようになってしまう。例え、この世で誰かを深く傷つけてしまったとしても(究極的には、誰かの命を意図的に奪ってしまったとしても)、その魂は必ず中間世に帰り、裁判官の前で自らの行いを裁くことになる。そして、次の転生では、深く傷つけてしまった人をフォローするような計画を立てたり、また、今度は自分自身が相手に深く傷つけられるような計画を立てることになる。つまり、裁くのは法ではなく、自分自身ということである。

 だから私たちは、懐疑的にならず、もっともっと他の魂を信頼してもいいのかもしれない。何故なら、自分自身で作った罪は、必ず自分自身で背負うことになるからだ。中間世の裁判官の前では、逃げることも隠れることもできない。だから、法による裁きは必要ないのではないだろうか。もしも法による裁きが意味のあるものだとすれば、それは、罪を犯した人が刑務所の中で本当に後悔したときだけだ。心からの後悔は、中間世で自分の行いを振り返ったときの自責の念を軽くするだろう。しかし、おそらく、死刑などの法による究極的な裁きは、新たなカルマを作り出すだけだ。法で裁かれなくとも、誰かを深く傷つけた魂は、自分自身を裁くのだから。

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2005.07.01

続・中間世

 先日から、ニュートン博士の『死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」』という本を読み始めた。この本は、以前こちらでもご紹介させていただいたホイットン博士の『輪廻転生──驚くべき現代の神話』と同じように、中間世をテーマに扱った珍しい本である。

 ワイス博士を始め、前世療法を扱った本は多く見かけるのだが、この本の中でも述べられているように、転生と転生の間の中間世をテーマに扱った本は非常に少ない。私の知る限り、ホイットン博士のそれと、この二冊だけである。中間世に退行した人は超意識の状態に導かれるため、魂が震えるようなスピリチュアリズムを聞かせてくれる。私の魂は、それらの描写をとても喜んでいる。

 ただ、やはり、多くの魂は、愛する人たちをこの世に残して肉体を離れて行くことに対し、かなり躊躇するらしい。私自身、以前の転生で、ガンモを残して肉体を去って行くことが、とてつもなく悲しかったことを覚えている。肉体を離れてしまったあと、かつての自分の肉体を上から眺めながら、亡骸を前にして嘆き悲しんでいる遺族たちに、自分は大丈夫であること、これが終わりではなく、またいつか再会できることを必死で語りかけようとするのだが、彼らが気づいてくれないことをとてももどかしく思ってしまうようだ。

 ホイットン博士の『輪廻転生──驚くべき現代の神話』の中でも、また、ニュートン博士の『死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」』の中でも、魂が肉体を離れたあとは、光の世界に導かれるという描写が多い。特に、『死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」』では、死後の世界を「スピリットの世界」と描写しているが、この「スピリットの世界」では、肉体の持つ苦痛から解放され、他の魂たちと言葉を介することなくコミュニケーションを行い、ソウルメイトたちとの再会を果たすと言う。スピリットの世界では、すべてがひとつなのだそうだ。

 私はあまり、本からの引用は好きではないのだが(それは、本を書いた人の言葉であり、私の言葉ではないからだ)、ニュートン博士が書かれたスピリットの世界の描写部分を引用してみようと思う。

 この被験者は、死の体験後にトンネルを経て、どんどんスピリットの世界に引っ張られて行きながら、肉体のない穏やかな精神状態にさらに適応していきました。初期のはっきりとしない状態が終わって、最初になされた報告には穏やかに招かれているような感覚が表現されていました。これは私の被験者に一般的に見られる感情です。
 トンネルを通り抜けたときに、魂はスピリットの世界への旅の最初の関門を通り抜けたことになります。大部分の人はここで自分はほんとうに死んだのではなくて、死んで足手まといになった地上の肉体をあとにしたにすぎないことを完全に理解します。この理解によって、それぞれの魂によって程度の差はあるものの、受容が訪れるのです。自分がいる場所を驚きの目で見つめている被験者もいれば、もっと具体的に自分が見たものを私に伝えてくれる人たちもいます。多くは彼らの受容性の成熟度と投じの人生の体験によって決まって来るのです。もっともよく見られるタイプの反応は、「ああ、すばらしい、この美しい場所にまた再び戻って来たんだ」といった声とともに聴かれる安堵のため息です。

 魂が肉体を離れることは苦痛ではなく至福であり、また、死は闇ではなく、光に包まれるのだということを、これらの描写は教えてくれている。

 ニュートン博士の『死後の世界が教える「人生はなんのためにあるのか」』を読みながら、今、私が求めようとしているのは、まさしく中間世そのものなのではないかという気がして来た。退行催眠CDで、私が中間世にまで導かれることはないが、それでも、私の魂は、中間世での心地良い体験を記憶していて、その心地良さを、肉体を持っている現世でも再現しようとしているのではないかと思う。

 だから、ソウルメイトに特別な興味を示しているのであり、言葉を介さないコミュニケーション(つまり、テレパシー)を実践しようと試みたり、また、ワンネスに向かうことを目的としているのではないだろうか。そして、精神世界を探求し続けている多くの人が、 私と同じように、中間世を再現しようとしているのではないかと思う。

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